棚卸し
噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。
バイト初日の仕事は、掃除だった。床を拭くのに前髪が邪魔で、毎朝使っているヘアピンで留め直した。
「触っていいのは床と窓だけだ。棚の物には触るな。特に荷札には、絶対に」
「はい。……あの、湊さん。ずっと訊きたかったんですけど」
わたしは雑巾を持ったまま、壁一面の棚を見上げた。ビニール傘。片方だけの手袋。鍵のない南京錠。古い補聴器。どれにも、あの細かい字の荷札が紐で結ばれている。
「この店の物って、全部……そうなんですよね。がらんどう、入り?」
「察しがよくて助かる。掃除が終わったら研修だ。研修の分も時給は出す。ちゃんと聞け」
「復習からだ。噂は、大勢が同じ形で想像すると器になって、がらんどうが流れ込む。器が人に取り付けば名持ち。場所や物なら怪異。――で、だ」
湊さんは棚から、片方だけの古びた革手袋を下ろした。左手用。荷札には、こう書いてある。
『落とし物の手袋は、持ち主の手を覚えている』
「世の中の噂ってのは、怖いやつばかりじゃない。小さくて、行儀がよくて、誰も傷つけない噂もある。こういう可愛いやつを見つけたら、俺は器物に繋ぎ止める。船を港に繋ぐみたいにな。俺は**錨**って呼んでる。錨を下ろすから、**投錨**だ。投錨した物が、この棚の連中――つまり道具だ」
「その手袋は、何ができるんですか」
「文面の通りだ。落とし物の手袋は、持ち主の手を覚えている。――試すか。……ちょうどいい。あんた、前髪のピンはどうした」
額に手をやると、前髪がはらりと落ちてきた。掃除を始めるときに留めたはずのヘアピンが、ない。
「掃除の間に、どこかで落としたんだろ。どこで落としたか、分かるか」
「……分かりません」
「なら、立派な落とし物だ」湊さんは手袋をわたしに放った。「嵌めて、探せ」
嵌めた瞬間、分かった。革の内側が、ほんのり温かい。手袋がわたしの手を、わたしの手だと思い出している感じがした。そのまま導かれるように歩くと、指先が勝手に、傘立ての陰の暗がりを指した。ヘアピンは、そこにあった。
「……すごい。これ、探し物が全部見つかるじゃないですか」
「見つかるのは『落とし物』だけだ。文面が全て――これは道具でも変わらない。持ち主が自分で落として、どこで落としたか分からない物。誰かが隠した物や、自分でしまい込んだ物は辿れない。あと手を覚えてない物、つまりあんたが普段触ってない物も無理だ」
湊さんは手袋を回収して、丁寧に棚へ戻した。扱いが、道具というより生き物に近かった。
「紹介しておく。よく使う順だ」
――ビニール傘。荷札『相合傘の下には、悪いものは入れない』。どこかの学校で三代信じられている由緒正しい傘。この間の夜、わたしを守ったやつだ。
「これには隠れ条項がある。文面をよく読め。相合傘だ。つまり――」
「……一人でさしても、発動しない?」
「正解。二人以上で入って、初めて傘になる。文面ってのはそういう罠の巣だ。荷札を読み飛ばす奴から死ぬ」
――用務員の合鍵。荷札『用務員さんの合鍵は、どの扉でも開けられる』。ただし湊さんいわく、この噂を流した小学生たちの想像には続きがあって、実際の文面はもう一行長い。『開けてほしがっている扉なら』。
「扉が開けてほしがってるかどうかなんて、分かるんですか」
「開かなきゃ、ほしがってなかったってことだ。閉じ込められた人間の前の扉はよく開く。金庫は絶対に開かない。……この鍵は、性格がいいんだよ」
――おまじないの絆創膏。荷札『貼ると、痛いの痛いの、飛んでいく』。貼れば痛みが本当に飛ぶ。骨折だろうと、一時的には。
「便利そうなのに、なんで棚の一番奥なんですか」
「文面を読め。飛んでいく、だ。どこへ、とは書いてない」
「…………」
「痛みは消えるんじゃない。行き先不明のまま、どこかへ飛ぶ。……昔、調子に乗って使いすぎた時期がある。同じ頃、隣町で原因不明の疼痛の報告が続いた。関係があるのかないのか、いまだに分からん。分からんから、奥にしまってある」
棚の最奥、布を掛けられた鏡には、荷札の代わりに札が貼ってあった。赤い字で一言、触るな。合わせ鏡の、割れていない方。それが何なのかは、教えてもらえなかった。「あんたが給料三年分積んでも教えない」とだけ言われた。
「最後に、一番大事な話をする。維持費だ」
湊さんは事務所の隅の、やかんを火にかけた。
「噂は忘れられたら死ぬ。道具も同じだ。投錨したからって永久機関じゃない。生かしておくには、費用がいる。――ふたつだ。ひとつ、元の噂が、元の土地で生きてること」
「生きてる、って」
「相合傘の噂は、今もどこかの学校で囁かれてるから傘でいられる。だから俺は月に何度か、方々を回る。噂の火が消えかけてたら、薪をくべる」
「薪って、具体的には」
「……小学生に混ざって、怪談を語る」
「四十七歳が」
「言うな。仕事だ」
やかんが鳴った。湊さんは茶を淹れながら、ふたつめ、と指を立てた。
「ふたつ、文面の条件を、俺自身が破らないこと。錨の持ち主が噂を信じてない道具は、すぐ錆びる。信じるってのは頭の中の話じゃない、行動だ。――だから俺は、傘を一人でささない」
「……え。じゃあ、一人のときに雨が降ったら」
「濡れて歩く」
思い出した。事件の報告に寄ったあの日、外は夕立だった。傘立てには傘が何本も刺さっているのに、湊さんはずぶ濡れで帰ってきて、居合わせた乾さんが「風邪は自己管理の敗北だよ」と嫌味を言っていたのを。あれは、ずぼらでも意地でもなくて――傘への、掛け金だったのだ。
「手袋の片割れも、探さない。見つかったら『落とし物』じゃなくなるからな。合鍵じゃ自分の家の扉すら開けない。……この店の妙な決まりごとは、全部そういうことだ。道具ってのは、タダで棚に並んでるんじゃない。俺の生活を少しずつ質に入れて、生かしてある」
湯呑みがふたつ、机に置かれた。片方がわたしの前に来るのに、一瞬、間があった。この人はたぶん、二つ目の湯呑みを長いこと使っていなかった。
「……なんとなく、分かってきました。制約って、噂に払う家賃みたいなものなんですね」
「家賃、か」湊さんは湯呑みに口をつけた。「だったら、払い終わる日は来ないな。滞納すれば、棚から一つ減る。それだけだ」
帰り支度をしながら、わたしはふと、思い出した。
「そういえば湊さん。最近うちの学校で、フリマアプリの『縁結びのお守り』が流行ってるんですけど。買った子、本当に彼氏できたって……あれも、噂の親戚ですか?」
湯呑みを洗う手が、止まった。
「……そのお守り、レビューはついてるか」
「え? あ、はい。確か、すごい数の。『本当に恋人ができました!』みたいなのが、何百件も」
湊さんはスマホを寄越せと言い、わたしが見せた商品ページを、長いこと黙って眺めていた。星4.8。レビュー六百二十三件。今も一件、また増えた。
商品説明の一行目には、丸っこい字でこう書いてあった。
『持っているだけで、あなたのいちばん大切なご縁が、恋のご縁に結び直されます。』
「篠宮。レビュー欄ってのはな、同じ文面を、何百人が読んで、信じて、書き込む場所だ。……こいつはもう、学校ひとつ分を超えてる」
顔を上げた湊さんの目は、研修のときの目じゃなかった。
「買った子の名前、分かるか。――彼氏ができたあと、その子が誰かと縁が切れてないか、調べてほしい。親友でも、家族でも」
「……なんで、そう思うんですか」
「文面の設計が、良すぎる」
湊さんは、商品説明の一行を指でなぞった。
「『結ぶ』じゃなくて『結び直す』。新しい縁を作るんじゃない、今ある縁を付け替える文だ。しかも『いちばん大切な』で、どの縁を使うかを一本に絞ってる。読んだ子はみんな恋の話だと思って、そこを読み飛ばす。……条件と、範囲と、数。あんたの噂と、同じ作りだ」
湊さんはスマホを返しながら、低く言った。
「良すぎる文面には、書いた奴がいる。……前にも一度、見た筆跡だ」
途中から読んでくださった方へ。
以下1話のリンクになります。
https://ncode.syosetu.com/n7029mv/1/




