がらんどう
噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。
夜の校門前に、五人。
わたしと、湊さん。呼び出された柚葉と、筆談ボードを提げた水島くん。それと、面白半分の見物のくせに「進捗確認だよ」と言い張る乾さん。
「始める前に、ひとつ訊いていいですか」
わたしは、ずっと喉に引っかかっていたことを訊いた。
「みんなが怖がると、噂が本当になる。……理屈が、わからないんです。だって、怖いっていうのは、ただの気持ちですよね。気持ちがどれだけ溜まっても、物は消えないはずです」
「いい質問だ。順番が来たから答える」
湊さんは、夜の通りを顎で示した。誰もいない、ただの住宅街の道。
「篠宮。この街の空気には、がらんどうが混ざってる」
「……がらんどう?」
「俺が勝手にそう呼んでるだけだがな。目に見えない、形のない、生き物と呼んでいいのかも怪しい何かだ。湿気みたいに、どこにでも漂ってる。意思もない。善も悪もない。奴らにあるのは、たったひとつの性質だけ――形を欲しがる。中身のない器が、注がれるのを待ってるようなもんだ」
夜気が、急に密度を持った気がした。
「で、だ。がらんどうに形を与えるものが、この世にひとつだけある。人間の想像だ。ただし一人分じゃ足りない。百人が、二百人が、同じものを、同じ形で、繰り返し思い浮かべたとき――その想像は鋳型になる。がらんどうはそこに流れ込んで、鋳型の通りに固まって、鋳型の通りに動く」
「……じゃあ、噂の文面が大事だっていうのは」
「そういうことだ。文面ってのは、全員の想像を同じ形に揃えるための設計図なんだよ。『目が合うと、大事なものをひとつ失くす』――この一行を読んだ人間は、全員が同じ場面を思い浮かべる。目が合う。何かが消える。ひとつだけ。……想像が揃えば揃うほど、鋳型は硬く、鋭くなる。がらんどうは文面の通りにしか動けない。檻であり急所だと言ったのは、そういう意味だ」
「でも、それなら、怖い噂じゃなくてもいいはずです。楽しい噂でも」
「理屈の上ではな。実際、ごく稀に幸せな怪異もいる。……だが篠宮、人間はな、幸せの想像はバラバラなんだ。百人いれば百通りの幸せを思い浮かべる。鋳型にならない。ところが怖いものの想像だけは、揃う。夜道で、後ろで、目が合って。怖さってのは、具体的で、しつこくて、伝染する。だから怖いが溜まると噂が本当になる――正確に言えば、怖いが一番、想像を揃えるのが上手い。それだけの話だ」
気持ちが物を消すんじゃない。揃った想像が器になって、そこに何かが流れ込む。
理屈は、通ってしまった。通ってほしくなかった。
「ちなみに」湊さんは自分の胸を親指で差した。「人の形の鋳型に流れ込むと、名前持ちの人間が出来上がる。俺みたいにな。……俺の場合は、注がれたきり、三十年抜けてくれないんだが」
その先を訊く前に、乾さんが手を叩いた。
「はい、講義終了。月が出てるうちにやろうか。僕は忙しい」
段取りは、三分で終わった。
まず、湊さんがわたしに飴玉をひとつ、手渡す。――『あげた』が先だ。
「一話……じゃない、最初に事務所で会ったとき、湊さんはライターを失くしましたよね。今夜は」
「今のは但し書きを踏んでる。渡してから、目を合わせる。順番が全てだ」
そして湊さんは、柚葉と水島くんの見ている前で、わたしと正面から目を合わせた。
十秒。二十秒。
――何も、消えなかった。
「見たな。書け」
柚葉が震える指で、匿名掲示板に書き込む。最初の噂を書いたのと、同じアカウントで。
『篠宮澪と目が合うと、大事なものをひとつ失くす。ただし、篠宮澪に何かをあげた人は、失くさない。(さっき飴あげた人が目合わせて無事だったのこの目で見た)』
水島くんが筆談ボードを掲げた。【俺も見た。撮った】
投稿ボタンが、押された。
その瞬間――世界から、音が抜けた。
補聴器が、ざりざりざり、と悲鳴みたいに鳴った。街灯が一斉に、瞬きをひとつ。そして校門の影から、それは歩き出てきた。
人の形をしていた。制服を着ていた。顔のあるべき場所に、顔はなくて――代わりに、目を逸らす直前の目が、何十個も、表面をびっしり覆っていた。全部が全部、こちらを見ないようにしながら、全部でこちらを見ていた。制服の裾から、消しゴムが、鍵が、飴の包み紙が、ぼろぼろと零れては消える。
わたしだ。
みんなが二か月間、想像し続けた「篠宮澪」。目を合わせてはいけない子。近づくと大事なものを失くす子。誰も本人を見ないまま、五百人が揃えて思い浮かべた、わたしの鋳型。
「言った通りだな。但し書きが馴染む一瞬、噂は宿主から浮く。――注がれてた中身が、鋳型ごと零れた」
湊さんは、持ってきた三本のうち一番古びた一本を、ばさりと開いた。荷札に、細かい字。
「こいつの荷札は『相合傘の下には、悪いものは入れない』。どこかの学校で三代信じられ続けた、由緒正しい鋳型だ。篠宮、入れ」
傘の下に引き込まれた瞬間、それが動いた。音もなく、滑るように。伸ばされた手が傘の縁に触れて――入れなかった。文面の通りに。見えない硝子に阻まれたみたいに、何十の目が、傘のすぐ外で行き場をなくす。
「攻めてきてるわけじゃない。奴には悪意なんてない。中身のないものに、意思はない」湊さんの声は、戦いの最中とは思えないほど静かだった。「奴が出来ることは、鋳型に書かれたことだけだ。つまり――人から、大事なものを取ることだけ。それしか、してもらえなかったからな」
それしか、してもらえなかった。
その言い方が、胸のどこかに刺さって抜けなかった。
「湊さん。……あれ、但し書きの続きに、入ってますよね」
「あ?」
「文面が全てなんですよね。だったら――あれにも、出口をあげられるはず」
傘の外へ、一歩出た。湊さんが舌打ちして、でも、止めなかった。
目を逸らす目の群れと、向かい合う。二か月、教室でわたしがされてきたのと同じ顔。誰もわたしを見ないで、全員がわたしを見ていた、あの毎日と同じ顔。
――知ってる。あんたのことは、わたしが一番知ってる。
「はい」
わたしは、さっき貰った飴玉を、差し出した。
「あげる」
何十個の目が、生まれて初めて、一斉にこちらを見た。
目が、合った。
……何も、失くならなかった。当たり前だ。あげた人は、失くさない。文面の、通りに。
それは飴玉を受け取るように両手を出して――手のひらが触れる寸前、輪郭から順に、夜気にほどけていった。零れ続けていた消しゴムも、鍵も、包み紙も、最後は目も。器の形が、要らなくなったみたいに。
最後に残った一個の目は、消える直前まで、ちゃんとわたしを見ていた。
翌週には、教室のわたしの半径一メートルは埋まった。
みんな、何かをくれるのだ。飴。ガム。シャーペンの芯。「おまじないだから」と笑いながら。現金なものだと思う。でも、目が合うようになった。それだけで、教室の空気は吸えるものになった。
水島くんの声は、少しずつ戻り始めているらしい。柚葉とは、まだ話せていない。たぶん、当分は無理だ。それでいいと、湊さんは言った。噂はほどけても、人間の方は文面通りにはいかない、と。
放課後、報告に寄った時計屋の二階で、湊さんはひとつだけ、嫌な報せを寄越した。
「但し書きの投稿にな、一件だけ返信がついてた。捨てアカウントだ。もう消えてる」
差し出されたスマホの画面には、たった二文字。
『合格』
「……どういう、意味ですか」
「さあな。だが柚葉に文面を送った奴と同一人物なら――今回の一件は最初から、誰かの答案用紙だったことになる。何の試験かは知らんが」
湊さんは補聴器を外して、古い目で窓の外を見た。夕方のチャイムが鳴る、なんでもない街を。
「……篠宮。あんた、放課後は暇か」
「え?」
「バイト代は出す。どうせあんたはもう、こっち側を見ちまった。――見えてる奴が素人のままでいるのが、この街じゃ一番危ない」
それが、わたしと、四十七歳の青年との、二人目の契約だった。
途中から読んでくださった方へ。
以下1話のリンクになります。
https://ncode.syosetu.com/n7029mv/1/




