声が出ない人間は、嘘が下手だ
噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。
水島くんの家は、学校から自転車で十分の建売住宅だった。
「見舞いだ。三分で済む」
玄関先でそう言い切った湊さんを、水島くんのお母さんは塾の先生か何かだと思ったらしい。あっさり通された。二か月ぶりに会う水島くんは、わたしを見て、露骨に目を逸らした。
――違う。わたしと目が合うのが怖いんじゃない。
それくらいは、わたしにも分かった。目を逸らす前の一瞬、彼が見ていたのはわたしの目じゃなくて、わたしの顔色だった。
「喋れないんだってな。なら筆談でいい」
湊さんはメモ帳とペンを机に置き、向かいにどかりと座った。
「先に言っておく。俺はあんたの喉を疑ってない。医者の言う通り、あんたの声は本当に出てないんだろう。仮病を疑いに来たんじゃない」
水島くんの肩が、少しだけ下がった。
「ただな、ひとつだけ教えてやる。人間の声ってのは、心とつながってる。強いストレスで喉が閉じることは、実際にある。医者の診断は正しい。……だがな、世間はそう思わなかった。『篠宮澪と目が合ったから、声を失くした』――あんたの喉は、噂の手柄にされた。あんたが黙ってる間に、な」
ペンを持った手が、動かない。
「もうひとつ教えてやる。声が出ない人間は、嘘が下手になる」
「……どういう意味ですか」と、わたしが代わりに訊いた。
「嘘ってのは、ほとんど声でつくもんだ。訊かれた瞬間に『知らない』『別に』と軽く言えば、それで流れる。迷ってる暇もない。だが筆談だとそうはいかない。ペンを取って、書いて、見せる。その何秒かの間に、迷いが全部、手と顔に出る。しかも紙に書いた『知らない』は、口で言うよりずっと重い。後に残るからな。……だから、声の出ない人間は嘘が下手になる」
湊さんはメモ帳を、とん、と指で叩いた。
「じゃあ訊くぞ。――先輩の家の鍵を盗った奴を、あんたは見たな?」
ペン先が、紙の上で止まったまま、震えた。
書かない。でも、否定もしない。それが答えだった。
「言い直そう。あんたは見た。相手はあんたの知ってる人間で、たぶん篠宮とも近い。バラせば相手が終わる。黙ってれば篠宮が沈む。どっちも選べないまま二か月、板挟みで――喉が、先に閉じた」
長い、長い沈黙のあと。
水島くんはペンを握り直して、たった三文字、書いた。
それは、わたしが一番浮かんでほしくなかった名前だった。
「――柚葉」
放課後、通学路の途中にある小さな公園。名前を呼ぶと、ブランコに腰かけていた親友は、振り向く前に一瞬だけ止まった。
その一瞬で、全部わかってしまった。小学校からずっと一緒だった。止まり方で分かるくらいには、一緒だった。
「消しゴムと、鍵。あなたなんでしょう」
柚葉は笑おうとして、失敗した。
「……証拠、あるの」
「要らない」割り込んだのは湊さんだった。「こっちは警察じゃない。罪を裁きに来たんじゃなくて、噂をほどきに来た。そのために書いた本人の話が要る。――ひとつだけ訊く。あの文面、自分で考えたか?」
「……は?」
「『目が合うと、大事なものをひとつ失くす』。よく出来た文だ。条件があって、範囲がわざと曖昧で、数がきっちり決めてある。広まりやすくて、信じやすくて、避けようがあるから試したくなる。――素人が思いつきで書ける文じゃない」
柚葉の顔から、ゆっくり血の気が引いた。
「……DMが、来たの。知らないアカウントから。『そのまま書き込むだけでいい。最初の二回だけ、本当にしておくと広まる』って。……消しゴムなんて、失くしても誰も盗られたって思わないし。鍵も、先輩が部室に置きっぱなしにしてたのを、ちょっと……。本当になるなんて、思わなかった。ちょっと、澪が困ればいいって、それだけで……」
動機は、聞けば呆れるほど小さかった。小さくて、だからこそ、二か月ぶんの教室の冷たさが、まるごと足元から崩れる音がした。
わたしは何か言おうとして、やめた。今は、無理だった。
「整理するぞ」
時計屋の二階。湊さんは段ボールに新しい線を引いた。
「タネは全部割れた。最初の二件は柚葉の手品。三件目の声は、罪悪感で閉じた本物の喉を、世間が勝手に噂の手柄にした。人の仕業と偶然だけで『的中』が三つ揃い――そこから先は、みんなが本気で信じたせいで、噂が本当に動き出した。これが全体像だ」
「……それで、ここからどうやって、ほどくんですか。噂は消せないんですよね」
「消せない。一度みんなの頭に入った『怖い』は、忘れられるまで居座る。だから消さずに、続きを書く」
湊さんはマジックを握った。
「元の文はこうだ。『篠宮澪と目が合うと、大事なものをひとつ失くす』。――ここに但し書きを接ぐ。
『ただし、篠宮澪に何かをあげた人は、失くさない』」
「……あげた人は、失くさない」
「元の文と喧嘩してないだろ。禁止を増やすんじゃなく、出口を増やす。みんなが二か月かけて信じた『怖い』はそのまま燃料にして、逃げ道の向きだけ変える。避ける代わりに、渡せばいい。そうなれば、あんたは『目を合わせちゃいけない子』から『何かあげておく子』になる」
「でも……但し書きなんて、誰が信じるんですか。ただ書き込んだだけじゃ」
「いい質問だ」
湊さんは、初めて悪い顔で笑った。
「柚葉のやり口を思い出せ。あいつは先に『的中』を仕込んで、みんなに信じさせた。――なら、こっちも同じ手品をやる。向きを逆にして、な」
「逆……」
「サクラを使う。俺が明日、あんたの学校の前で、あんたに飴玉を一個渡す。それから衆人環視のど真ん中で、あんたと正面から目を合わせる。――そして、何も失くさない。それを何人かに見せて、掲示板に但し書きと一緒に書き込ませる。的中の実演つきだ。犯人が噂を育てたのと寸分違わぬ手順で、今度は但し書きを育てる」
毒をもって毒を制す、というより、手品をもって手品を制す、だ。
「柚葉にも書き込ませる。最初に書いた人間の続きなら、なおさら同じ噂の『続き』として馴染む。あいつへの落とし前は、それでいい」
完璧に思えた。実際、計画としては完璧だったのだと思う。
ただ――机の上で、あの古い補聴器が、さっきから小さく、ざり、ざり、と鳴っていた。
「湊さん。それ、さっきから……」
「ああ」
湊さんは補聴器を耳に掛け、数秒黙って、それから、傘立てごと引き寄せた。
「言ったよな。無理に引き剥がせば、二か月分の『怖い』は行き場を失くして、形になって歩き出すって。――但し書きが馴染み始めると、噂は一瞬だけ、宿主から浮く。その一瞬を、向こうは黙って見過ごしちゃくれないらしい」
ビニール傘が三本、机に並んだ。荷札が、風もないのに揺れていた。
「予定変更だ、篠宮。実演は明日じゃない。――今夜やる」
途中から読んでくださった方へ。
以下1話のリンクになります。
https://ncode.syosetu.com/n7029mv/1/




