おかえりなさい
噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。
翌朝、旅籠の朝餉の席で、女将さんがお椀を置いた。
「熱いですよ。ゆっくり、どうぞ」
わたしは、箸を持ったまま、女将さんの口元を見てしまった。女将さんも、言ってから、自分の口元に手をやった。
砂は、落ちなかった。
女将さんは、少しだけ笑って、もう一度言った。「……ゆっくり、どうぞ」。それから、逃げるように台所へ戻っていった。廊下の向こうで、誰かと話す声がした。三日ぶりに聞く、意味のない、立ち話の声だった。
帰りのバスを待つあいだ、わたしたちは参道を歩いた。
土産物屋のおじさんが、店先で、通りがかりの家族連れに声をかけていた。
「この饅頭はね、町の名物ですよ」
砂は、落ちなかった。おじさんは、自分でも驚いた顔をして、それから、やけに大きな声で、もう一度言った。「名物ですよ!」。子どもが笑った。母親が、一箱買った。
「……あれ、名物なの?」結が、小声で聞いた。
「去年から売り始めたやつだよ」乾さんが言った。「名物になってほしい、って顔で売ってる。だから、聞かなかったことにされたんだろうね」
診療所の前を通った。窓の向こうで、白衣の医者が、年配の患者さんの肩に手を置いて、何か言っていた。声は聞こえなかった。でも、患者さんが、ほっとしたように頷くのが見えた。
わたしは、ノートを開いて、一行だけ書いた。
町が、また、喋り始めた。
詩は、一足先に帰ることになっていた。
預けた台帳は、まだ返ってこない。保管の家の話は、別の日に、別の裁きとして——閻のおばあさんは、そう言った。
「平気よ」詩は、風呂敷の結び目を、きゅっと締めた。「帳簿は、嘘をつかないもの。困るのは、嘘をつけないことの方」
指が、白くなっていた。わたしは、それを、見なかったことにした。
バス停には、律さんもいた。湊さんの斜め後ろ。一歩半の距離。昨日から、ずっとその距離だった。
「……あんた、本当に、ずっと付いてくるのか」湊さんが、振り向かずに言った。
「判決です」
「風呂もか」
「判決です」
「……阿呆か」
律さんは、表情を変えずに、半歩だけ下がった。半歩だけだった。
結が、こらえきれずに噴き出した。両手で口を押さえて、肩を震わせて、涙まで滲ませて笑っていた。三日間、あの堂の中で、一度も笑えなかった子が。
わたしは、気づいたら、スマホを構えていた。
シャッターの音に、結が顔を上げた。「……え、今撮った?」
「撮った」
「消して! 変な顔してた!」
「後で送るね」
画面の中の結は、変な顔なんて、していなかった。夕方の参道の光の中で、ちょっとびっくりするくらい、きれいに笑っていた。
時計屋に帰り着いたのは、夜の九時過ぎだった。
結は、帰るなり、湯呑みを四つ並べて、そのまま座布団の上で眠ってしまった。律さんは、階段の下の椅子に座って、目を閉じていた。眠っているのか、いないのか、分からなかった。
わたしは、帰り際に、忘れ物を取りに戻った。
二階の明かりは、消えていた。暗い店の奥で、湊さんが一人、窓辺に座っていた。棚に並んだ道具たちの、荷札の白さだけが、ぼんやりと浮いていた。
声をかけようとして、やめた。
湊さんが、窓の外を見たまま、ぽつりと言ったからだ。
「……聞いてるんだろ」
返事は、ないと思った。
少しの間があって、湊さんの唇が、湊さんの速さじゃない速さで、動いた。
「ええ」
丁寧で、嬉しそうな、あの声だった。
「——おやすみなさい、湊」
湊さんは、何も言い返さなかった。窓を少しだけ開けて、夜の風を入れた。それから、膝の上で、指を一本、二本と折った。三本目で、止まった。
わたしは、足音を立てずに、階段を降りた。
ポケットの中で、スマホが重かった。参道で撮った、笑っている結の写真。後で送るね、と言ったまま、まだ送っていなかった。
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