器を巡る
噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。
判決の日の朝、閻魔堂は、昨日より人が多かった。
被告が一人増えた、という話は、もう門前町中に流れていた。傍聴席は、隙間なく埋まっている。みんな、静かだった。この町の静けさは、もう礼儀じゃない。喋れば何が抜かれるか分からない、という恐怖の静けさだ。わたしたちが三日間、薪をくべ続けた結果の。
湊さんは、被告席にいた。昨日と同じ場所に。ただ、昨日と違うのは、その斜め後ろに、律さんが座っていることだった。柄に手はかけていない。かけていないまま、三日ぶんの距離を、半分に詰めていた。
「審理を、続けます」閻のおばあさんが言った。判決を読み上げる声じゃなかった。「昨日、この堂に被告が二名いることが、検めで分かりました。一名は常盤湊。もう一名は——常盤湊の、中にいる」
ざわめきは、起きなかった。起きる代わりに、傍聴席の何人かが、無意識に、湊さんから体を引いた。
「執行の家。律。所見を」
律さんが、立った。
「執行人として、申し上げます」感情の乗らない、必要な音だけの声。「宿主には、名があります。常盤湊。——常盤湊を宣告して抜刀すれば、中の写しごと、断てます」
堂が、凍った。
わたしは、息を呑んだ。斬れる。律さんの妖刀は、名を宣告して振るう刀。ハカセ本人は名無しだから斬れない——でも、湊さんには名がある。湊さんごとなら、中身も一緒に、斬り終えられる。
「待ちなさい」声を上げたのは、詩だった。帳簿の家の当主が、傍聴席から立って、白くなった指を握りしめて。「斬れば、どうなるか。あなた、分かって言ってる? 常盤湊には、三十年分の凍結が積まれてる。それを断てば、三十年が一度に剥離する。本人ごと消える。それだけじゃない——」
「それだけじゃ、ない」おばあさんが、継いだ。「中の写しは、国一つ分の想像でできた鋳型。膝の人。四十万人が、今も想像している。それを器の中で断てば、行き場を失った国一つ分の剥離が、この堂で、暴発します」
律さんは、動かなかった。
「……存じています」
鳴らない。本当に、知っていた。知っていて、それでも「斬れます」と言った。
わたしは、その時、気づいてしまった。律さんの職能は「文面を斬る」こと。この場で、宣告して斬るべき名は——常盤湊。三十年前、家族を杭にされた律さんの先代が、名無しの犯人を斬れずに、自分を斬らせて死んだ。その律さんが今、斬れる名を、目の前に差し出されている。ただしその名は、斬ってはいけない人の名だ。
宣告すべき名が、庇うべき男の名。律さんの刀は、その二つが重なった時、いちばん抜けない。
「執行を、保留します」律さんは、言った。「——理由。斬れば、罪のない器と、無関係な国一つ分を、巻き添えにします。執行人の刀は、斬るべきものだけを斬り終えるための刀です。巻き添えを前提とした抜刀は、作法に、反します」
座り直す、その動きに、ほんの一瞬、迷いが混じったのを、わたしは見た。書いておく。律さんが、初めて、斬れるのに斬らなかった日。
「では、問い直します」おばあさんが、湊さんに向いた。「常盤湊。中の者に、話を、させられますか」
湊さんは、答えなかった。
答えないんじゃなかった。答えようとして、口を開いて——その口が、別の速度で、動いた。
「——ええ。できますよ」
湊さんの声だった。でも、湊さんの喋り方じゃなかった。
乾いた軽口の、間の取り方じゃない。もっと、丁寧で、もっと、嬉しそうで。指を折って要点を数える癖のかわりに、両手を、膝の上で、そっと組んだ。三十年、この仕草を、わたしたちは別の人の映像で見ていた。割れた鏡の、向こうで。
「はじめまして、と言うべきですかね」その口は、微笑んだ。「篠宮さん。あなたのノートは、いつも読みやすい。湊が、褒めていました。——ああ、こういうとき、"湊が"と言うのは、変な感じだ。私は今、湊で、喋っているのに」
堂の全員が、凍りついていた。おばあさんだけが、三つ数えるように、目を閉じていた。
「名を、名乗りなさい」
「名前は」ハカセは——湊さんの顔で、心底、可笑しそうに言った。「捨てました。三十年前に。自分で、解いて。だから私は、名無しです。名無しは、被告になれない。名無しは、斬れない。ご存知でしょう?」
鳴らない。全部、本当だった。
「ですが、告白は、しますよ」ハカセは、傍聴席を、ぐるりと見渡した。優しい目で。「三十年前、私は、死にかけた親友を助けたくて、延命の噂を設計しました。故郷を捨て、名を捨て、自分を装置の部品にして。その後、その技術を——お守り、おもいで箱、おかえりちゃん、と、実験を、重ねました。人を、材料に、しました。全部、私です。全部、私がやりました」
——鳴らない。
一粒も、砂にならなかった。真実の、告白だった。国一つ分の文面の真下で、嘘を許さない堂の中で、犯人が、自分の罪を、全部、認めた。
なのに。
「閻さん」告発側の席から、楢井の老人が、静かに言った。「今の告白は、砂になりませんでした。真実です。ですが——誰の、告白ですか。名無しの告白を、この堂は、被告の陳述として、受理できますか」
おばあさんは、答えなかった。
答えられなかったのだ。堂の法は、名のある者を裁く。真実を語った者に、名がない。真実は、ここにある。真実を語る口も、ここにある。でも、それを受け取る宛先が、制度の側に、無い。
わたしは、ノートに書いた。手が、震えていた。
いちばん正直な告白が、いちばん、届かない。
ハカセは、それを、楽しんでいた。
自分が裁けないことを。真実が宙に浮くことを。制度が、正しさを持て余すことを。膝の上で組んだ手を、ほどいて、また組んで、湊さんの若い顔で、三十年老いた目で、この堂の全員を、観測していた。
「面白いでしょう」ハカセは言った。誰にともなく。「私は、観測されるために、ここに来たんです。湊が"観測を断つ"と言った。だから私は、内側から観測することにした。——今、私は、界隈でいちばん賢い人たちが、私を、どうしても裁けないのを、見ています。これ以上の観測結果が、ありますか」
律さんの手が、柄に、かかった。かかって、止まった。
斬れば、湊さんが死ぬ。斬らなければ、これが、続く。
おばあさんが、湯呑みを、持ち上げた。飲まずに、長いこと、その縁を見ていた。堂が、しんとしていた。傍聴席の誰も、息を、していないみたいだった。
ハカセは、その静けさの真ん中で、湊さんの背筋を、ゆっくりと伸ばした。そして、裁判長に向かって、湊さんの声で、いちばん穏やかに、言った。
「さあ——では、私を、裁いてください」
誰も、動けなかった。
途中から読んでくださった方へ。
以下1話のリンクになります。
https://ncode.syosetu.com/n7029mv/1/




