発覚
噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。
判決を明日に控えた朝、門前町は、昨日より静かになっていた。
旅籠の朝餉の席で、女将さんは味噌汁のお椀を置くとき、何も言わなかった。「熱いですよ」も「ゆっくりどうぞ」も、抜きで。廊下ですれ違った猫は、誰もいない廊下の角に、すっと道を譲った。毎朝おなじ時間に、おなじ角で。宿の人は誰も気に留めていない。この町では、それくらいのことは、もとから起こる。
閻魔堂に着くと、係のおじいさんが、堂の砂を掃いていた。
三日分の審理で床に落ちた、嘘の砂。それが夜のあいだに、少しずつ動くのだという。「掃いても掃いてもね。朝になると、おんなじ隅に、寄ってるんですよ」おじいさんは、別に不思議がるでもなく、竹箒でそれを集めていた。砂が寄るという隅は、被告席の、足元だった。
わたしはそれを、ノートの隅に書いた。理由は、なかった。ただ、書いておかないといけない気がした。
最終日の審理は、事務的な確認から始まるはずだった。
「判決を前に、残る争点はひとつ」閻のおばあさんは、老眼鏡を押し上げた。「被告『常盤湊を書いた者』の、現在の所在。執行と監視の手配に関わりますからね。——常盤湊。証人として、答えなさい。被告は今、どこにいますか」
簡単な質問のはずだった。答えは、この三日で何度も出ていた。釘付けの文面。膝の上の人形。毎朝の「おかえり」。あの人は、あの家から、出られない。
「あいつは、あの家にいる」
湊さんは、そう言った。
声が、砂になった。
さらさらと、乾いた音を立てて、言葉の後半が畳にこぼれた。「あの家に」までは声で、「いる」が、砂だった。
堂が、静まり返った。
誰よりも先に、湊さん自身が、自分の口元を見ていた。嘘をついた人間の顔じゃなかった。本当のことを言ったつもりの人間が、砂を吐いた顔だった。
「……もう一度」おばあさんの声は、変わらなかった。「どうぞ」
「あの家で、会った」——鳴らない。過去は、本当。
「あの家から、出られない文面を打った」——鳴らない。それも、本当。
「だから、あの家にいるはずだ」——鳴らない。はずだ、は本心。
「あの家に、いる」
砂。
同じ場所で、同じように、言葉が崩れた。二回目は、もう、聞き間違いようがなかった。
「……消えた、ってこと?」乾さんが、傍聴席で小さく言った。「像が薄れて、消滅した? だったらめでたい話だけど——」
「消えていれば」律さんが、初めて口を開いた。感情のない、必要な音だけの声で。「執行対象の消滅。裁きは終わる。だが」
「だが、それなら『あの家にいる』は——いないんだから砂で正しくて」詩が帳簿をめくる手を止めた。「『消えた』かどうかを、確かめる方法が要るわね」
おばあさんは、しばらく黙っていた。湯呑みに手を伸ばして、飲まずに、戻した。それから、誰にともなく、堂全体に向かって、口を開いた。
「検めます。——この堂に、被告は一人」
裁判長の声が、砂になった。
どよめきすら、起きなかった。起きる前に、みんな息を呑んだからだ。この三日間、たったの一粒も砂を鳴らさなかった人の言葉が、いちばん深く、崩れた。
おばあさんは、自分の膝の上の砂を、じっと見た。三つ数える間、目を閉じた。この人の作法。口を開く前に、三つ——本当か。本当か。本当か。
「……二人、いる」
今度は、鳴らなかった。
休廷は、挟まれなかった。おばあさんが、許さなかった。
「被告が堂内にいるなら、検めは簡単です。順に、名乗りなさい。『わたしは被告ではない』——それだけ言えば、済む話」
済む話では、なかった。
傍聴の二十人が、順に立って、言った。わたしは被告ではありません。鳴らない。鳴らない。鳴らない。乾さんも、詩も、結も、わたしも言った。鳴らない。律さんも言った。鳴らない。そして湊さんが言った。
「俺は、被告じゃない」
——鳴らなかった。
堂の全員が、鳴らなかった。被告は二人いるのに、被告は一人もいなかった。
背中が、冷えた。ノートを持つ手が、汗で滑った。わたしは書く。書くことしかできないから、書く。「全員が本心」と書いて、その横に、朝のメモが目に入った。
——砂が、寄る。被告席の、足元に。
砂は嘘から生まれる。生まれた砂が、夜のあいだに、寄っていく先。掃いても掃いても、戻る場所。文面は、書かれた通りにしか働かない。だったら、砂にも、あるんじゃないのか。帰る場所が。
被告席には今、湊さんが、座っている。三日間、ずっと。
「……あの」
声が掠れた。それでも、堂の全員が、こっちを見た。わたしは箒のおじいさんの話をした。朝の砂の話を。砂の寄る隅が、被告席の足元だという話を。言いながら、自分の言っていることの意味に、追いつきたくなかった。
おばあさんが、ゆっくりと、被告席を見た。
「……常盤湊。最後の検めです」湯呑みが、こと、と鳴った。「あなたは被告ではない。それは、聞きました。では——」
三つ、数える間があった。
「あなたの中に、いますか」
湊さんは、笑おうとした。阿呆か、とでも言おうとしたんだと思う。いつもの乾いた軽口で、この馬鹿げた問いを畳んでしまおうと。指を折って、要点を数える、いつもの癖——その指が、二本目で、止まった。
「……いない」
砂になった。
膝の上に、さらさらと、自分の言葉が積もっていく。湊さんはそれを、じっと見ていた。長いこと見て、それから、掌をゆっくり閉じて、言い直した。
「……そうか。居るのか」
鳴らなかった。
律さんが、音もなく立ち上がって、席を移った。湊さんの、斜め後ろ。柄に手は、かけていない。かけていないことが、逆に、どういう距離なのかを語っていた。
「本日は、ここまで」おばあさんの声は、最後まで、事務的だった。「判決は、明日の予定でした。——予定は、変わりません。被告が、一人、増えるだけです」
閉廷の後、堂の外は、夕方だった。
どこかで、チャイムが鳴った。五時の、なんでもないチャイム。なんでもない街の音が、砂にならずに、ちゃんと空気を震わせて届くことに、わたしは少しだけ、安心した。安心してから、気づいて、寒くなった。
この三日間、堂の中で、わたしたちは何をしていた?
二十人で、朝から晩まで、あの人のことを語り続けた。『常盤湊を書いた者』。その手口を、その罪を、その顔を——全員で、同じものを、繰り返し、繰り返し、想像し続けた。
町の鋳型に、薪をくべていたのと、同じ口で。
わたしは、ノートの新しい頁に、一行だけ書いた。
わたしたちは三日間、二人を裁いていて、二人目に、餌をやっていた。
湊さんは、堂の前の石段に、一人で座っていた。夕焼けの中で、自分の掌を、開いて、閉じて、また開いて。それから、誰に言うでもなく、ぽつりと言った。
「……道理で最近、飯が、二人分うまいわけだ」
誰も、笑わなかった。湊さんも、笑っていなかった。
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