黙る街
噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。
午後の審理は、不在の被告の、証拠調べだった。
「被告『常盤湊を書いた者』の実在を裏付ける、物的な記録の提出が一件」閻のおばあさんが、綴りから顔を上げた。「——保管の家、三代目詩。前へ」
詩は、風呂敷包みから、古い台帳を出した。うちの店の帳簿より、ずっと古く、ずっと分厚い、革の台帳を。
「保管の家が三十年間管理してきた、常盤湊の委託台帳です。一枚目、契約の写し。依頼主の署名欄は——ご覧の通り、砂化しています。ですが契約の内容、対価の記録、三十年分の月例報告の控え、全て現存します。依頼した者は、確かに、いました」
台帳が、係の手で座卓に運ばれる。おばあさんが頁をめくる、乾いた音だけが、堂に響いた。
そして、めくる手が、止まった。
「……三代目。確認しますよ。この月例報告は、三十年間、どこに送られていたの」
「指定の私書箱です。三か所、数年ごとに変わって——」
「送り先が、被害者を打った加害者本人だと、保管の家は、知っていましたか」
堂の空気が、変わった。傍聴席の視線が、証拠の台帳から、それを運んできた小さな当主へ、一斉に移った。……来た。この質問は、来ると分かっていた。分かっていて、防ぎようがなかった。
「わたしは」詩の声は、揺れなかった。「襲名は一年前です。契約の経緯は、知りません」
鳴らない。
「では、質問を変えますね。——先代は、知っていたと思いますか」
詩の指が、台帳の縁で、白くなった。祖母。一年前に死んだ、先代の詩。三十年、毎月の報告書に判を押し続けた人。
「……分かりません」
鳴らなかった。分からない、は本心だった。本心であることが、この場では、いちばん残酷だった。知っていたと言えば家が終わる。知らなかったと言えば、たぶん、砂になる。孫は、祖母の潔白を、本心では信じきれていない——それを、堂中が、砂の鳴らなさで、聞いてしまった。
傍聴席のどこかから、低い声がした。「……保管の家も、被告席じゃないのか」
閻のおばあさんが、湯呑みを、こと、と置いた。それだけで、私語は死んだ。
「本日は、ここまで。……三代目。台帳は、お預かりします。あなたの家の話は——別の日に、別の裁きとして、いたしましょうね」
救いなのか、宣告なのか、分からない閉廷だった。
その夜、門前町の旅籠で、わたしたちは地図を広げた。
乾さんが昼から集めた「砂の目撃談」に、結が旗を立てていく。土産物屋。参道。バス停。診療所——診療所。夕方、医者が高齢の患者に「心配いりませんよ」と言おうとして、砂にした。三回、言い直して、三回、砂にして、四回目に医者は、何も言わずに患者の手を握ったそうだ。
「範囲、広がってます」結が旗を数えた。「昼は参道だけだった。夜には、駅前まで」
「なら、急ぎましょう」詩が言った。審理の疲れを、仕事の顔で塗り潰して。「これだけ急に悪性化するなら、誰かが薪をくべてるはずよ。閻魔の文面を、意図的に増幅してる工作犯がいる。貼り紙、替え歌、SNS——ばら撒かれた文面を探すの。篠宮さんの噂のときと同じ。設計者を、探す」
わたしたちは、手分けして探した。乾さんは町の掲示板とSNSを浚い、詩は町内会の回覧板を検め、結は手袋で「最近落とされた文面」を辿り、わたしは、町の人の話を聞いて回った。
そして——何も、出なかった。
貼り紙は、ない。替え歌も、ない。SNSに閻魔の話題は、観光案内以外、一件もない。誰も、何も、ばら撒いていなかった。
「おかしいわね……」詩が、地図を睨んだ。「工作なしで、何十年も安定してた鋳型が、こんな急に」
わたしは、旗だらけの地図を見ていた。見ているうちに、旗の並びじゃなくて、結が旗の横に書き込んだ時刻の方が、目に入ってきた。
午前十時十二分、土産物屋。十時四十分、参道の子ども。十一時半、ベンチのおばあさん。……正午から一時までは、一件もない。午後一時十五分から、また続く。四時の閉廷後は、ぱたりと減って——
「……ねえ。これ」
声が、掠れた。
「砂が出てる時間、開廷中だけです。お昼の休廷中は、止まってる。……薪をくべてる犯人、いますよ。二十人。ううん、わたしたちも入れて、二十三人」
三人が、地図を覗き込んだ。乾さんが、最初に理解して、天井を仰いだ。
「……ああ、そうか。そういうことか。考えてもみなよ。あの堂の中で、今、何が行われてる? 二十人以上の人間がね、閻魔の文面の真下で、朝から晩まで、本当のことだけを、全力で語り続けてるんだ。嘘は砂になる、を全員が信じて、実演して、確認し合ってる。……あれ以上に濃い反復が、この世のどこにある?」
揃った想像。高密度の反復。何十年、月一回の細い薪で安定していた鋳型に、三日間ぶっ通しの、特大の薪。
「犯人は——」わたしは、言った。言いたくなかったけれど、事実は砂にならない。「裁判、です」
悪意のある工作犯なんて、いなかった。界隈でいちばん正しい営みが、いちばん正しく行われた結果、町が壊れ始めている。誰も悪くない。……誰も悪くないのが、この街では、いちばん、たちが悪い。
「裁判を止めれば、鋳型は静まる。でも」結が、小さな声で言った。「止めたら、湊さんの判決も、ハカセの裁きも、流れちゃう。……次の開廷は、一か月後。その間、湊さんは判決待ちのまま、あの人の件は宙ぶらりんのまま」
「続ければ、町が壊れる」詩が、続けた。「明後日には判決だけど——あと二日、この密度で薪をくべたら、鋳型がどこまで肥るか」
旅籠の窓の外を、わたしは見た。
夜の商店街に、人は、ぽつぽつと歩いていた。歩いているのに——静かだった。呼び込みの声がない。立ち話がない。すれ違う会釈だけの、無言の通り。昼間、自分の「名物です」を三回砂にした土産物屋のおじさんは、夕方から、値札を指差すだけで商売をしていたらしい。
嘘を抜かれ続けた町は、正直になったんじゃなかった。
黙り始めたのだ。口を開けば、何が抜かれるか分からないから。優しさも、強がりも、慰めも、商売文句も——人と人の間に挟まっていた柔らかいものを全部抜かれて、町は、喋ることそのものを、怖がり始めていた。
途中から読んでくださった方へ。
以下1話のリンクになります。
https://ncode.syosetu.com/n7029mv/1/




