砂の音
噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。
最初に砂の音を聞いたのは、開廷の直後だった。
傍聴席の誰かが、隣の席の知り合いに、小声で言ったのだ。「や、どうも。お元気そうで」——その最後の四文字だけが、ざり、と乾いた音を立てて崩れた。言った本人が、一番びっくりした顔をしていた。社交辞令。相手が元気かどうかなんて、本当はどうでもいい挨拶。堂は、その程度の嘘も、拾う。
「ほらほら、静かにね」閻のおばあさんが、湯呑み越しに言った。「ここでは、口を開く前に、三つ数えるの。言おうとしてる言葉が、本当かどうか。……それだけで、砂はずいぶん、減るからね」
広間の空気が、一段、締まった。全員が、自分の舌の上の言葉を、点検し始めた気配がした。
この部屋は、裁く前に、まず黙らせるのだ。
「被告・常盤湊。名を」
「常盤湊」
砂は、鳴らなかった。名前が本物であることの、確認。氏名空白の男とは、そこからして違うのだと、手続きの一つ目が、静かに示していた。
「咎を読み上げます」閻のおばあさんは、綴りに、老眼鏡を近づけた。「本年○月○日、未明。被告は、怪異一体——通称『おかえりちゃん』の神話を、同意なき第三者を錨として指定し、打ち込んだ。指定の文言、『おかえりちゃんの親は、おかえりちゃんを描いた人』。……被告。事実に、相違は?」
「ない」
鳴らない。
「打った時点で、それが界隈の最大の禁忌であると、知っていましたか」
「知っていた」
鳴らない。
「他の手段を、尽くしましたか」
湊さんは、初めて、三つ数えた。この部屋の作法通りに、自分の言葉を、点検して。
「……尽くしたとは、言えない。時間があれば、別の手が、あったかもしれない。俺は、探すのをやめて、打った」
鳴らない。傍聴席が、微かにどよめいた。被告に一番有利になるはずの答弁を、被告が自分で、潰したのだ。嘘のつけない部屋で、嘘をつかないという戦い方を、この人は選んでいた。
「よろしい。——検察側、執行の家」
律が、立った。感情のない声で、事実だけを積んだ。九日間の経緯。棚の焼却。儀の手順。宛先の指定方法。まるで機械の検分だった。そして最後に、一つだけ、事実でないものを読み上げた。
「執行の家の所見。……本件の錨打ちは、界隈の記録にある同種の咎と、構造が異なる。過去の事例は全て、利得のため、あるいは害意のために、無関係の人間を杭にした。本件の杭は——当該怪異の、製造者本人である。以上」
それは、弁護だった。弁護と呼ばずに置かれた、執行人なりの一枚だった。律は湊さんを見もせずに座ったが、砂は、一粒も鳴らなかった。全部、本心だった。
「証人。篠宮澪」
自分の名前を呼ばれた瞬間の心臓の音を、どう書けばいいのか、分からない。
証言台に立って、あの夜のことを話した。傘の下から見たこと。棚が一枚ずつ燃えたこと。湊さんの腕が線になっていったこと。事実は、するすると言えた。事実は、砂にならない。
問題は、最後の質問だった。
「証人に、聞きますね」閻のおばあさんの声は、優しかった。優しいまま、逃げ道を全部塞いでいた。「あなたは、被告のした事を——正しかったと、思いますか」
「正しかったと思いま——」
ざり。
自分の声が、口の中で砂になる感触は、想像の百倍、気持ちが悪かった。喉は動いたのに、言葉だけが、崩れて消えた。広間中が、わたしの砂の音を、聞いていた。
顔から、火が出た。違う。嘘をつくつもりなんて、なかった。わたしは本当に、湊さんは正しいと——
……本当に?
三つ、数えた。数えて、自分の胸の底を、初めてちゃんと、覗いた。あの夜からずっと、目を逸らしてきた場所を。志願なき錨打ち。人を杭に打つ罪。律の先代は、それで死んだ。結は、その被害者だ。わたしの隣で今も、名前を失ったまま生きている。……「正しい」なんて言葉で括れるものを、わたしは、見ていない。
「……言い直します」
声が、震えた。震えたまま、言った。
「正しかったかは——分かりません。今も、分かりません。あれは、人を杭に打つ罪で、その罪で死んだ人も、苦しんでる人も、いることを、わたしは知っています。……でも、あの夜。あの部屋で。九日間追い詰められて、棚を全部燃やして、それでも足りない場面で——他の道は、わたしには見えませんでした。今、思い返しても、見えません。……以上です」
砂は、鳴らなかった。
一言も、鳴らなかった。
閻のおばあさんは、老眼鏡の奥で、少しだけ、目を細めた。「……いい証言でした。砂を鳴らしてから言い直せる人は、めったにいないの。大抵はね、鳴らした言葉に、しがみつくから」
「では、被告。最後に、こちらから三つ」
審理の終わり、閻のおばあさんは、綴りを閉じた。閉じてから訊く質問が、本番なのだと、その仕草が言っていた。
「一つ。——後悔していますか」
湊さんは、三つ数えて、答えた。
「……していない」
鳴らなかった。
傍聴席の空気が、凍った。反省なき被告。量刑には、最悪の答えだ。それでも彼は、砂になる「反省してます」より、砂にならない本心を、置いた。
「二つ。——もう一度、同じ状況になったら、また、打ちますか」
「打つ」
鳴らない。どよめきが、今度は、はっきりと起きた。
「静かに。……ふふ。正直な被告だこと」おばあさんは、湯呑みを、ことりと置いた。「では、三つ目」
最後の質問の前に、おばあさんは、綴りの上で、両手を組んだ。茶店の顔が、閻魔の顔に、なった。
「常盤湊。あなたは、打った側として、二つの答えをくれました。……なら今度は、打たれた側として、答えなさい」
打たれた側。
広間の全員が、次の裁きの——氏名空白の男の一件の入口が、今、開こうとしていることに気づいた。
「三十年前。あなたの同意なく、あなたを杭に打った、あの錨打ちを——あなたは、赦していますか」
湊さんの唇が、開きかけて。
止まった。
三つどころか、十を数えても、言葉は、出てこなかった。嘘のつけない部屋で、この人は今、生まれて初めて——自分の本心が、どっちなのか、分からずにいる。
途中から読んでくださった方へ。
以下1話のリンクになります。
https://ncode.syosetu.com/n7029mv/1/




