閻魔堂
噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。
界隈法廷は、月に一度、閻魔堂で開かれる。
電車を二本乗り継いだ先の、古い門前町。土産物屋の並びの外れに、その堂はあった。普段は扉の閉まった、地図にも載らない小さなお堂。地元の人は「開かずの閻魔さま」と呼んで、年に一度の御開帳の日だけ手を合わせに来るらしい。
残りの月に一度が、今日みたいな日だ。
「先に作法を教えておく」堂の前で、湊さんが足を止めた。連行——もとい同行の律が、三歩後ろで置物になっている。「中に入ったら、軽口は全部やめろ。冗談も、比喩も、社交辞令もだ。……あの堂の文面は、この国で一番古い法律でな」
湊さんは、扉の上の、煤けた扁額を顎で示した。彫られた文字は、かすれていても読めた。
『閻魔様の前で嘘をつくと、舌を抜かれる』
「……えっと。それって、比喩、ですよね?」
「半分な。物理で舌が抜けたりはしない。だが、あの堂の中で嘘を言うと——その言葉だけ、声が砂になる。言った本人にも、聞いてる全員にも、はっきり分かる形でな。国一つ分、何百年物の文面だ。宣誓も嘘発見器も要らない。部屋そのものが、正直なんだよ」
だから界隈の裁判は、ここでやる。証言の真偽で揉めることが、原理的に、ない。
「便利ですね……」
「便利で、怖い。いいか、本気で気をつけろ。あの部屋じゃ、自分でも気づいてない嘘まで砂になる。『大丈夫です』とか『気にしてません』とか——自分を騙してる言葉ほど、綺麗に抜かれる。……昔、被告より証人の方が丸裸になった裁判を、いくつも見た」
自分でも気づいていない嘘まで。わたしは、今日ここで喋る予定の言葉を、頭の中で全部、点検し直した。
堂の中は、外から見た大きさの、三倍あった。もう、驚かないことにしている。
板張りの広間。正面の高いところに、閻魔像——ではなく、閻魔像の前に置かれた、普通の座卓。左右に、傍聴の席。すでに二十人ほどが座っていた。初めて見る顔ばかりだった。数珠を提げた老人。作業着の女の人。学生服の三人組。……全員が、同業なのだ。この国のあちこちで、噂をほどいたり、斬ったり、保管したりしている人たち。界隈というものの広さを、わたしは初めて、目で見た。
その視線が、一斉にこちらへ向いた。
好奇。値踏み。そして、いくつかの席からは、はっきりとした敵意。志願なき錨打ち——三十年前に律の家から死者を出した禁忌を、現行でやった男が、入廷したのだ。
湊さんは、全部の視線を、まっすぐ浴びて歩いた。俯きも、睨み返しもしなかった。
正面の座卓に、その人は座っていた。
小柄な、おばあさんだった。灰色の割烹着に、老眼鏡。裁判長というより、門前の茶店の店主みたいな佇まいで、湯呑みのお茶を、ふうふう吹いて飲んでいた。
「——ああ、来たね。裁定の家、当代の閻です」
声も、茶店の声だった。それなのに、その人が湯呑みを置いた音ひとつで、広間の私語が、水を打ったように消えた。
「開廷の前に、みなさんに一つ、いつものお願いね。この堂の中では、どうか、本当のことだけ。……年寄りはねえ、砂の音を聞くのが、いちばん悲しいの」
閻のおばあさんは、綴りを開いた。
「では。本日の裁き。——被告、二名」
広間が、ざわりとした。
「一名。常盤湊。咎は、志願なき錨打ち、一件。……本人、出頭。誓いの期限内。感心、感心」
おばあさんは、老眼鏡越しに、綴りの次の行を見た。そこで初めて、茶店の顔から、何かが一枚、剥がれた。
「二名。——氏名、空白。咎は、志願なき錨打ち、一件。三十年前」
一件。
わたしは、耳を疑った。傍聴席も、同じだった。あの男の咎が、一件のはずがない。柚葉。六百二十三本の縁。結。おもいで箱。おかえりちゃん。律が「史上最大」と査定した、あの帳簿の全部は——
「異議、というか、確認です」律が、立った。「執行記録には、同人の咎として、縁の刈り取り、死者の像の商業利用、大規模な照準攻撃——十七件を提出しました。なぜ、一件に」
「ええ、ええ、読みましたよ。よく調べたねえ」おばあさんは、綴りを、しわの寄った指で、とん、と叩いた。「でもねえ、律の坊や。裁きにはね、順番があるの。十七件を裁くには、まず被告が『いる』と決めなきゃならない。名前のない被告。顔も、出頭もない被告。……この堂は何百年、そういう被告を裁いたことが、一度もないの」
おばあさんは、湯呑みを置いて、初めて、裁く者の目をした。
「だからね、今日はまず、その一件から始めます。三十年前の、最初の錨打ち。被害者が、そこにいる一件からね」
視線が、湊さんに、刺さった。
「常盤湊。あなたは今日、被告であると同時に——空白の男の事件の、唯一の被害者で、唯一の証人です。……あなたの証言だけが、あの男をこの世に『いる』ことにできる。あなたが黙れば、あの男は永遠に、裁けない」
湊さんの顔が、動かなかった。動かないことの意味を、わたしはもう、知っていた。
三十年前の一件。あれを咎として証言するということは——死にかけの自分を救った、あの冬の延命装置を、この堂で、罪と呼ぶということだ。閻魔の前で。嘘の言えない部屋で。
「……開廷します」
おばあさんの声が、静かな広間に、落ちた。
「まずは軽い方から片付けましょうね。——被告・常盤湊。前へ」
途中から読んでくださった方へ。
以下1話のリンクになります。
https://ncode.syosetu.com/n7029mv/1/




