視察記録(記録者:詩)
噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。
【視察記録 ○月○日 晴れ 記録者・三代目詩】 【視察対象:元・管理財産 常盤湊】 【目的:契約解消後の生活実態および健康状態の確認】 【特記事項:これは視察である】
書き出しの一行を三回書き直した時点で、今日の記録の客観性は、すでに危うい。
認めるべき事実から書く。先日、わたしは湊への委託管理契約を、当主権限で解約した。正しい判断だった。あれは死んだ男の依頼で、続ける理由は帳簿のどこにもなかった。……ただし解約処理を終えた夜、わたしは一つの事務的な事実に気がついた。
月末の金曜が、消えた。
三十年——わたしの人生の全部と、その前から——続いてきた定例が、契約と一緒に消滅した。うちの家が湊に会う理由は、もう、帳簿のどの行にもない。
だから、視察である。当主には、元管理財産の経過を確認する義務が……義務は、ないが、慣習が……慣習も、ないが。
【目的(訂正):視察である。以上】
十時、駅前で合流。湊は五分前に来ていた。無精髭は、剃ってあった。まだ下手だった。
「で、視察ってのは、何をすればいい」
「あなたは黙ってついてくればいいの。視察項目は組んである。一、食事摂取状況の確認。二、市街地における行動観察。三……三は、後で言う」
「はいはい」
その「はいはい」は、目下に対する雑な返事のくせに、歩く速度をわたしに合わせる程度の分別は含まれていた。減点と加点、相殺。
商店街。八百屋の前を通ったとき、閉まったシャッターの奥から「まいどあり」と一回だけ聞こえた。誰もいない店の、いつもの一回。湊は目もくれなかった。この街の住人は、こういうものにいちいち驚かない。跨ぐ階段は跨ぎ、聞こえる挨拶は聞き流す。三十年この街を見てきた男の歩き方は、街の「少しおかしい」と、完全に折り合っていた。
視察項目一。喫茶店にて食事摂取状況を確認。
湊は、モーニングセットを完食した。トーストと、ゆで卵と、小さなサラダを、いちいち味わって食べた。三十年、同じ日を繰り返していた男は、朝食の卵に、軽く感動していた。
「……そんなに、おいしい? ただのゆで卵よ」
「ああ。終わりのある卵は、うまい」
意味の分からない感想である。記録に残す。【所見:食欲良好。感想は不可解】
なお、店の奥の窓際に一席、誰も座らない席があった。あの席のコーヒーは、いつまでも冷めないらしい。理由は誰も知らない。マスターは何も言わず、時々、連れを亡くしたばかりの客だけが、なぜか自然とあの席に案内される。……湊は席の存在に気づいていたが、何もしなかった。祓える男が、祓わない。それがこの男の商売の、たぶん一番深いところだ。
視察項目二の途中で、わたしは、ずっと訊けなかったことを訊いた。訊くつもりはなかった。歩きながらだと、口が軽くなる。設計ミスである。
「……ねえ。八年前のこと、覚えてる」
「八年前?」
「わたしが、七つのとき。『蔵の家の子と遊ぶと、閉じ込められる』って噂が、わたしの小学校で立った。……家の商売のせいよ。気味の悪い蔵の家。遊びに行った子が帰らない、なんて尾ひれがついて。半年で、わたしの周りから、遊ぶ子が全員消えた」
湊は、少し考える顔をした。
「そんな折、誰かが、うちの学校に但し書きを接いだの。『ただし、蔵の家の子が笑った日は、みんな帰れる』——変な文面。でも効いた。みんな、わたしを笑わせに来るようになった。噂は一年で萎れて、わたしには、友達ができた」
わたしは、足を止めた。
「後になって、家の帳簿を全部調べた。あの但し書きの施術記録は、どこにもなかった。うちは全部を記帳する家よ。載ってない仕事は、この世に存在しない仕事。……でも、中学のとき、蔵の整理で古い紙屑の箱を見つけた。反故の荷札が一枚。あの但し書きの、書き損じ。筆跡は——あなたの字だった」
帳簿の外の、無償の一枚。対価も、報告も、恩着せもなく。全部に値段のつくわたしの世界で、たった一件だけ、値段のなかった仕事。
わたしが三十年——じゃない、わたしの八年、この男から目を離せない理由の、全部がそれだ。
湊は、しばらく黙って、それから、心底困った顔で、言った。
「……悪い。よく、覚えてない」
「……は?」
「いや、言われてみれば、そんなこともした気がする。月例の報告で店に寄ったとき、当主の孫が庭の隅で一人で貝殻を並べてたのは、覚えてる。……荷札一枚の仕事だ。うちの棚の在庫で済んだしな。いちいち覚えて——おい、なんで怒る」
怒ってなどいない。【所見:記録者は怒っていない】
この男は、わたしの人生を一枚で書き換えた仕事を、覚えてすら、いない。……そうだ。そういう男なのだ。帳簿の外の仕事を、帳簿の外でやるから、自分の中にも記帳されない。恩を数えない人間の親切だけが、値段のつけようがなくて、だから一番、高くつく。
こっちは八年、利子を払い続けているのに。
視察項目三は、駅前の、古い写真館だった。潰れていない方の、営業している写真館。
「……写真?」
「記録よ」わたしは、努めて事務的に言った。「契約が切れて、月例報告も終わった。うちの帳簿から、あなたの経過の記録は、今後一切消える。三十年続いた観測が、白紙になる。……それは、記録を預かる家として、少し、落ち着かない。だから」
「だから?」
「一枚だけ、私的に、撮っておく。……文句は?」
湊は、わたしの顔をしばらく見て、それから、何かに気づいた顔をして、何も言わないことに決めた顔をした。この男のこういうところは、三十年分、年の功である。ずるい。
「ないよ。……ああ、だが一つ条件だ。お前も入れ」
「は? なんで、わたしが」
「観測記録なら、観測者も写ってなきゃ、資料として不完全だろ」
屁理屈である。帳簿的には、完全に、屁理屈である。
……でも、帳簿の外でなら、通る理屈かもしれなかった。
写真は、一枚だけ撮った。仏頂面の男と、笑っていいのか分からない顔の、わたし。現像された写真の中で、二人とも、絶望的に写真慣れしていなかった。ひどい一枚だった。ひどい一枚を、わたしは家宝にする予定である。誰にも言わないが。
帰り際、改札の前で、湊が言った。
「で、当主殿。次の視察は、いつだ」
……この男は。気づいていて、訊くのだ。わたしが新しい口実を、帳簿のどこに書けばいいか分からずにいることを。
「……月末の、金曜」
わたしは、前を向いたまま、言った。
「今後は——私用よ」
言い終わる前に改札を通った。振り返らなかった。振り返ったら、あの男が笑っているのが見えてしまうからだ。
【視察記録・結び】 【健康状態:良好。時間は動いている。髭の剃り方は、まだ下手】 【契約関係:終了済み。今後の定例は、私用として継続】 【特記事項:なし】
【特記事項(追記):たのしかった】
【特記事項:なし。以上】
途中から読んでくださった方へ。
以下1話のリンクになります。
https://ncode.syosetu.com/n7029mv/1/




