いってらっしゃい
噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。
帰り支度は、簡単だった。持って帰るものが、一つしかなかったからだ。
「箱は、うちが接収するわ。盗品だもの」詩は、玉手箱を風呂敷に包みながら、事務的に言った。「蔵に戻して、封をし直す。今度は襲名の隙も作らない。……文句は?」
「ありません。保管の家の蔵より安全な場所を、わたしは知らない」ハカセは、素直に頷いた。「三十年、実証済みですから」
「あんたが実証した側でしょうが」
玄関まで、おかえりちゃんが見送りに来た。廊下の線画の中を、ぺたぺたと、音のない足取りで。戸口で振り返った結が、少し迷ってから、ポケットの飴玉を一つ、窓辺にそっと置いた。
「……持てないの、知ってるけど。見えるところに、置いとくね」
おかえりちゃんは、飴玉と結を交互に見て、口のない顔で、精一杯に、笑ったように見えた。名前を書き換えられた子と、絵に生まれた子。抱えているものの形が似ている二人は、一瞬だけ、姉妹みたいに見えた。
最後に、湊さんが、戸口で振り返った。
椅子の男と、目が合った。三十年ぶりに再会して、真実を暴かれ、三十年の研究を白紙にされ、裁判を待つ身になった男と。
「……じゃあな、ハカセ。次は法廷だ」
「ええ。楽しみにしています」
湊さんが背を向けかけた、そのとき。
「――湊」
初めて、その男は、渾名でも苗字でもなく、名前を呼んだ。三十年前、ホームで呼んだのと、同じ呼び方で。
「いってらっしゃい」
湊さんの足が、止まった。
三十年前のあの朝、発ったのはハカセで、見送ったのは湊さんだった。今日は、逆だ。発つのは湊さんで、釘付けの男は、見送るしかできない。……それだけじゃない。わたしは、航平くんの家の話を思い出していた。誰も「いってらっしゃい」を言わなかった朝の話を。行く者と送る者の間で、この一言が言えなかった朝が、どれだけの人を、三十年、凍らせてきたか。
湊さんは、振り返らなかった。振り返らないまま、答えた。
「……ああ。行ってくる」
帰ってくる、とは言わなかった。もうこの二人の間に、待つ約束は、一つも要らないのだ。
帰りの電車は、空いていた。
結は座った途端に眠り、詩は膝の風呂敷包みを抱えたまま船を漕ぎ、律は最後尾の席で、置物みたいに目を閉じていた(眠ってはいないと思う。執行人だから)。
起きているのは、わたしと、窓際の湊さんだけだった。
「……湊さん。今、どんな感じですか。その、時間が」
「どんな、なあ」湊さんは、自分の手のひらを、開いたり閉じたりした。「派手なもんじゃない。ただ……腹が減る」
「え?」
「三十年、俺の『その日』は同じ日の繰り返しだった。腹も減ったし飯も食ったが、あれは……何だろうな、レコードの針が同じ溝を回ってた。今は、違う。さっきから、時間が前に進んでる。進んだ分だけ、ちゃんと腹が減る。……妙なもんだな。腹の減り方で、生きてる方角が分かる」
湊さんは、駅の売店で買った包みを開けて、おにぎりを一つ、齧った。それから、少し驚いた顔をした。
「……うまいな、これ」
「普通の、鮭ですけど」
「ああ。普通の鮭が、うまい」
終わりのあるものは、味がする。そういうことなのかもしれなかった。湊さんはおにぎりを二つ食べて、お茶を飲んで、そして――窓に頭をもたせて、眠った。
寝顔なんて、初めて見た。三十年、明日のなかった人の、明日がある眠りだった。
それから、数日のことを、順番に書いておく。
律は翌朝、正式な書面を置いて発った。界隈法廷の召喚状。日付は、誓いの期限ぴったりの七日目。被告は二名――常盤湊と、氏名欄が空白の男。「空白のまま起訴できるのは、界隈史上初だそうよ」と、条文を引いた詩が言った。裁判の話は、また、そのときに。
詩は、検査の手配を三日でやり遂げた。界隈の伝手の医者と、普通の大学病院と、二本立てで。「丸一日かかるわよ。朝から晩まで、管に繋がれて、写真を撮られて」と、湊さんに通告した声は、帳簿の声だった。手配の速さだけが、帳簿じゃなかった。
そして、検査の前日の朝。
台所から、結の悲鳴が聞こえた。慌てて駆けつけると、結が湯呑みを持ったまま、固まっていて、その視線の先で、湊さんが、洗面所の鏡に向かって、ひどく怪訝な顔をしていた。
「……湊さん、それ」
「ああ。……髭だ」
顎の先に、うっすらと、無精髭が浮いていた。三十年、一本も伸びなかった場所に。
湊さんは、しばらくそれを撫でて、剃刀を出して、不器用に剃った。十七で止まった男は、髭の剃り方が、下手だった。結が笑いながら泣いて、詩が「みっともない剃り残しね」と言いながら目元を拭って、わたしは湯呑みを四つ、お盆に並べた。
時間は、動いている。証拠は、髭でよかった。奇跡なんかじゃなく、髭で。
「よし。……で、だ」
検査前夜、詩が突然、わたしと結の前に仁王立ちした。
「明日、あの男は丸一日、病院。店は閉める。あなたたち、暇よね」
「え、まあ、はい」
「なら、付き合いなさい。三人で出かけるわよ。……い、いいこと、これは視察だから。保管の家の当主として、管理財産の関係者の、生活実態を視察するだけなんだから」
結とわたしは、顔を見合わせた。
言い訳の下手な帳簿の子と、名前が二つある子と、噂を一つ乗り越えた子。三人で出かける休日が、どんな一日になるのか――それは、また次のお話。
途中から読んでくださった方へ。
以下1話のリンクになります。
https://ncode.syosetu.com/n7029mv/1/




