白紙の答案
噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。
「執行対象が、増えた」
鯉口の音の余韻の中で、しかし律は、抜かなかった。抜く前に、執行人の手順が一つ、残っていたからだ。
「――問う。三十年前より後、貴様と同種の錨打ちが、界隈で一件ある。律の先代が、家族を杭にされた一件。犯人の名は、辿れなかった。……貴様か」
ハカセは、首を横に振った。
「わたしでは、ありません」
「信じる理由は」
「わたしは嘘をつきません。嘘は、記録を汚すので」ハカセは、机の引き出しを、目で示した。「ですが、執行人殿。その事件の記録なら、持っています。犯行の手口、使われた文面の写し、そして――辿れなかった名前の、周辺情報。三十年、界隈で起きた錨打ちは、全件、収集してあります。捨てるのは、もったいないので」
律の目が、初めて、揺れた。人生を懸けた未決事件の答えが、目の前の男の引き出しに、眠っている。斬れば、答えごと失う。
「……執行は、保留する」
長い沈黙の末、律は刀を提げ直した。
「移送も、しない。する必要がない。……貴様は四十万本の釘で、この部屋に打たれている。看守も鍵も要らない、界隈史上、最も固い牢だ。裁きの日まで、そこに座っていろ。――記録は、法廷で全部吐いてもらう」
「ええ、喜んで。法廷というのは、素晴らしい反復装置ですから」
牢に入れられた男が、牢を褒めた。この男から何かを奪う方法は、本当に、無いのかもしれない。そう思いかけた、そのとき。
「――いや。あるぞ、一つ」
湊さんが、言った。
「さて、常盤さん」ハカセは、居住まいを正した。「役者は揃い、真実は開示され、執行は保留された。……答案の時間です。箱を、開けますか。開けませんか」
「その二択には、答えない」
「ほう。白紙、ですか。それも人類初の――」
「白紙でもない。……なあ、ハカセ。お前の試験はな、設問が、もう古いんだよ」
湊さんは、机の箱を、指で示した。触れずに。
「開ける=盗まれた死を受け取って、終わる。開けない=保存に同意して、続く。どっちを選んでも、お前の三十年が完成する。よく出来てる。……だがこの設問は、装置が動き続けてる前提で組まれてる。俺の凍結が、これからも続く前提でな」
「……何を」
「三十年前、俺の凍結を支えてた質量は三つだった。近所のガキ百人。お前の毎朝。詩の家の月例観測。――百人のガキは、もう五十路だ。あの数え唄を覚えてる奴なんざ、いやしない。土台の噂は、とっくに死んでる。今、俺を凍らせてるのは、お前の毎朝の想像と、詩の家の報告書。その二本だけだ」
ハカセの顔から、余裕の温度が、一度、下がった。
「そして照準――あの誓いだ。ハカセ。お前、さっき自分で全部言ったな。『必ず戻る。続きを持って』。……お前は戻った。俺の目の前に。続き――お前の三十年の研究とやらも、洗いざらい聞かせてもらった。つまり、お前の側の文面は、履行済みだ」
あ、と、声を出したのは、詩だった。帳簿の子が、誰より早く、契約の完了条件に気づいた。
「なら、残ってるのは俺の側の一言だけだ。――『待ってる』の、終わらせ方」
湊さんは、三十年待った男の顔で、旧友を、真っ直ぐに見た。
「続きは、持って戻ったな」
「…………」
「返事をしろ、ハカセ。お前は嘘をつかないんだろう」
「……ええ。持って、戻りました」
「受け取った。――待ち終わった」
その瞬間。
何の音もしなかった。光りもしなかった。ただ、湊さんが、小さく、息を呑んだ。自分の胸に、手を当てて。三十年、同じ拍を刻み続けた場所に。
「……ああ」
その声を、わたしは一生、忘れないと思う。
「――動き出した」
「――なるほど」ハカセは、少しも声を乱さなかった。乱すどころか、身を乗り出した。「照準が解けても、わたしが想像を止めなければ、鋳型は保つ。わたしは明日も、明後日も、毎朝四時四十七分に想像する。それは、お分かりのはずだ。……つまりあなたの一手は、そこで終わりではない。続きがある。聞かせてください」
「ああ、続けろよ、毎朝の日課は。止められないだろうからな、お前は」
湊さんの声は、静かだった。静かなまま、この夜いちばん、深く刺さった。
「だがな、ハカセ。宛先の消えた想像が、俺に届くか? 誓いは終わった。詩の家の契約も――」
「今この場で、解約するわ」詩が、即答した。帳簿を閉じる音が、判決みたいに響いた。「依頼主は目の前にいる。三十年分の未払い請求書は、後日、法廷に送るから」
「――報告書は、もう来ない。鏡の対は、帰ったら布に戻す。観測の窓は、全部、閉じる」湊さんは、一歩、机に近づいた。「なあ、ハカセ。観測のない想像が、どうなるか。お前が一番よく知ってるはずだ。……歪むんだよ。校正されない像は、毎日少しずつな。おもいで箱の母親と、同じだ。お前は明日から毎朝、俺を想像する。明後日も、十年後も。そしてその俺は、毎朝少しずつ、本物の俺じゃなくなっていく。三十年、一日も欠かさず完璧だった、お前の帳簿の――最後のページからな」
これが、採点者に読めない文字の、正体だった。
開けもしない。同意もしない。観測の外で、生きる。ハカセの手に残るのは、開かれた箱でも、保存された標本でもなく――検証不能のまま、毎朝確実に腐っていく、想像の中の友達だけ。悲しいと、もったいないの区別がつかない男の、三十年の帳簿が、永遠に埋まらない空欄で終わる。
長い、長い沈黙のあと。
ハカセは――拍手を、した。
釘付けの椅子の上で、ゆっくりと、三回。心の底からの、音だった。
「……素晴らしい」
声に、焦りは一滴もなかった。あるのは、純度の高い、恍惚だけだった。
「素晴らしい、常盤さん。完璧だ。わたしの三十年の設計を、わたしの発見した法則だけで、殺してみせた。観測の遮断。校正の停止。想像の経年劣化。……全部、わたしの帳簿にある道具だ。あなたはわたしの武器庫から一つも借りずに、いや、わたしの武器庫の中身だけで、わたしを撃った。ああ――こんな答案が、この世に書けるのか」
この男は、自分の敗北を、鑑賞していた。三十年の研究を白紙にされた瞬間を、人生最高の観測結果として、味わっていた。
「一点だけ、確認を」ハカセは、講評を続ける試験官の声で言った。「病のことは、お考えですか。凍結が解ければ、あの冬の続きが始まる。三十年前は、不治だった」
「三十年前は、な」
答えたのは、湊さんじゃなかった。
「三十年、医学が止まってたとでも思ってるの?」詩だった。「帰りに検査の手配をするわ。界隈の伝手も、普通の病院も、両方。……治るかどうかは、知らない。誰にも分からない。分からないまま生きるのが、普通の人間よ」
「分からないまま、生きる」
ハカセは、その言葉を、舌の上で転がした。珍味を、初めて口にした顔だった。
「……設計も、予測も、保存も届かない場所で、明日の分からない命を、明日に向かって使う。わたしが三十年、もったいないの一語で棚から下ろし続けた選択肢を、あなたがたは、正面から選ぶ。……ふむ。面白い。実に、面白い。わたしには生涯かかっても書けない文面だ」
ハカセは、膝の上のおかえりちゃんの髪を、そっと直した。それから、まるで茶会の締めみたいに、穏やかに言った。
「常盤さん。あなたの答案を、正式に受理します。……そして予告しておきましょう。わたしは明日の朝も、四時四十七分に、あなたを想像します。あなたの言う通り、像は毎朝、少しずつ歪んでいくでしょう。本物のあなたから、遠ざかっていくでしょう。――それも含めて、観測です。完璧な保存が不可能になった今、わたしの目の前には、人類が誰も記録したことのない現象が広がっている。『三十年完璧だった像が、どんな速度で、どんな順番で、崩れていくのか』。……ふふ。塞翁が馬とは、このことだ。空欄というのは、常盤さん」
白紙の顔、だと思ったものは。
次の実験ノートの、一ページ目の顔だった。
「――次の設問の、置き場所なんですよ」
途中から読んでくださった方へ。
以下1話のリンクになります。
https://ncode.syosetu.com/n7029mv/1/




