看護記録と実験ログ
噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。
沈黙を最初に破ったのは、執行人だった。
「――検算する」
律は、部屋の隅から一歩、前に出た。感傷の欠片もない声だった。それがこの場では、ほとんど救いだった。
「三十年前の錨打ち。話が通らない。二人の誓い程度で、三十年の不老が立つはずがない。鋳型には質量が要る。二人の想像は、二人分だ。学校一つ分に、遠く届かない。……質量の出所を言え。執行記録に載せる」
「さすが、律の家。いい質問だ」ハカセは、審査を受ける研究者の顔で、頷いた。「三段です。一つ、点火。土台の噂は、わたしが半年かけて、近所の子ども百人に育てさせた。替え歌にして、缶蹴りの数え唄にして、肝試しの作法にした。子どもの遊びは、最高の反復装置です。学校一つ分の質量は、あの冬までに確保してあった」
「二つ目」
「照準。百人の鋳型は、あのままでは誰にも取り付かない。『見送った子』――文面の場面を現実に演じ、本人の同意の一言を得る。誓いは力の源じゃありません。宛先の指定です。呪いに於ける、藁人形と同じ機能ですよ」
「三つ目」
「維持費。点火より、照準より、これが本体です。忘れられた噂は死ぬ。だからわたしは毎朝想像し、保管の家には月例の観測を契約させた。専任の信者一名と、観測機関一家。三十年、火を絶やさなかった。……延命装置というのは、機械ではなく、運用なんです」
律は、全部を聞き終えて、静かに、査定を口にした。
「計画性、規模、継続年数。……界隈の記録にある志願なき錨打ちの中で、史上最大だ。執行記録に、そう載せる」
「光栄です」
悪びれる素振りが、原子一個分も、なかった。
「――あの」
小さな声だった。小さくて、部屋の全員が振り向いた。
結だった。ずっと黙って、部屋の隅に立っていた結が、まっすぐに、ハカセを見ていた。
「ひとつだけ、聞いていいですか」
「どうぞ。結さん」
「……わたしの名前、覚えてますか」
空気が、止まった。
「あなたが毎日、DMで呼んでたやつです。『名前で呼んでくれるのは、この人だけ』って、わたしが思ってた、あの名前。……十一か月呼んで、一言で捨てた、わたしの、元の名前」
ハカセは、瞬きを一つした。それから、事もなげに、答えた。
「ええ。覚えていますよ」
そして、口にした。
音は、出た。確かに、名前の形をした音が。けれどそれは、わたしたちの耳に届いた端から、砂になって崩れた。結自身の耳の中でも、崩れたのが、顔で分かった。自分の元の名前を、自分で受け取れない。世界でただ一人、この男の中にだけ、あの子の名前は、完全な形で保存されている。捨てた男の中にだけ。
「記録はあります。DMのログも、購入履歴も、経過観察のメモも、全部。破棄はしていません。――もったいないので」ハカセは、親切ですらある声で続けた。「ご入用でしたら、差し上げましょうか。あなたの、元の」
「いりません」
結の声は、震えていなかった。
「わたしは、結です。澪ちゃんの縁で編んでもらって、湊さんが毎日呼んでくれる、結です。……あなたの実験ログの中の子は、あなたが飼ってればいい。わたしは、いらない」
それだけ言って、結は、一歩も引かずに立っていた。三十年の愛の美談で温まりかけていた部屋の空気が、正しい温度まで、一気に冷えた。
「じゃあ、わたしからも一つ」
わたしは、口を開いていた。開かずには、いられなかった。
「三十年前のあなたは、友達一人のために、故郷も、名前も、全部捨てた。……その話は、分かりました。本当だと思います。でも、だったら教えてください。柚葉に文面を送ったのは。六百二十三人の縁を刈ったのは。航平くんの家族を培養装置にしたのは。――友達一人のための犠牲が、他人なら何人でもいい話に変わったのは、いつからですか」
ハカセは、初めて、少しだけ考えた。誤魔化すためではなく、正確に答えるための間だった。それがこの男の、一番怖いところだった。
「……いつから、という質問には、こう答えます。最初からです」
悪夢みたいに、明晰な声だった。
「誤解のないように、正確に言いましょう。あなたがたは今、こう思っている。『三十年前は純粋な友情だった。それがいつか、狂った』と。……美しい筋書きですが、事実と違う。わたしは、あの冬から、これです」
ハカセは、自分の胸に、手を当てた。診断を告げる医者の手つきだった。
「あの冬、廊下で医者の言葉を聞いたとき。わたしは、泣きませんでした。膝も震えなかった。頭に浮かんだのは、たった一つ――十七年かけて出来上がった常盤湊という人間が、この冬で消える。あの観察眼が。あの頷き方が。路地裏で一緒に作った、あの半年が。全部、消えて、二度と参照できなくなる。……もったいない、と。それだけでした」
部屋の誰も、動けなかった。
「悲しい、と、もったいない、の区別が――わたしには、たぶん、生まれつき無いんです。半年かけて延命装置を設計している間、わたしは一度も泣いていません。ホームで泣きそうな顔をしたのは、装置の起動に、別れの場面が必要だったからです。……ですから、いつから、の答えは変わりません。友達一人のための犠牲が実験に変わったのではない。最初の犠牲が、最初の実験だった。常盤さんは、わたしの親友で――同時に、一日たりとも欠けることなく、検体第一号でした」
「一人を救う技術は、一人分にしか使えない。人は、常盤さんの他にも死ぬ。忘れられる。毎日、何千人も。……全員を救う技術には、汎用化が要る。汎用化には、実験が要る。実験には――材料が、要る」
「材料って、言った」結が、掠れた声で言った。「今、人のこと、材料って」
「ええ」ハカセは、頷いた。訂正する気配もなく。「謝罪をお望みなら、正直に言います。わたしの帳簿に、謝罪の欄はありません。あるのは投入と、産出と、歩留まりです。柚葉さんの件で、文面の伝播係数が取れた。お守りで、縁の刈り取り効率が。おもいで箱で、保存の自動化が。……そして結さん、あなたで、完全喪失からの再錨の実例が。あなたがたが積んでくれたデータの上に、次に救われる誰かが立つ。わたしはそれを、無駄とは呼ばない」
愛の物語なんて、最初から、無かったのだ。
三十年前の美談だと思ったものは、この病の、一番最初の症状だった。故郷を捨てた献身も、六百二十三本の縁も、結の名前も、同じ帳簿の一ページ目と最新ページに過ぎない。腐ったんじゃない。堕ちたんでもない。この男は、十七の冬の廊下で友達の死を「もったいない」と思ったときから――ずっと、まっすぐに、これだった。
「……ああ。思い出したよ」
湊さんが、静かに言った。三十年前の真実を聞いてから、初めての、まともな声だった。
「お前に会ったら、殴るか、礼を言うか、三十年決められなかった。……今、決まった。礼は、十七の俺が言う。三十年前のお前にだ。――そして今のお前を殴る理由は、俺の分じゃなくても、この部屋に、山ほどある」
そのとき。
部屋の空気を裂いて、鯉口の鳴る音がした。
律だった。荷札の鱗の刀を提げ、感情のない目で、椅子の男を見据えて、執行人は言った。
「――執行対象が、増えた」
途中から読んでくださった方へ。
以下1話のリンクになります。
https://ncode.syosetu.com/n7029mv/1/




