盗まれた死
噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。
「二つ目の取り立てだ。――誓いの話をしよう」
湊さんは、机の箱には触れないまま、言った。
「思い出したぞ、ハカセ。あの噂は、お前が一方的に書いたんじゃない。『それまで、そのままでいて』『ああ、待ってる』。……誓いだ。二人で作った文面だ。なら訊く。あの誓いの終わりを、十七のお前は、どう想像してた」
ハカセは、組んだ手の上から、ゆっくりと顔を上げた。
「……その質問に答える前に、常盤さん。一つ、訂正させてください。あなたは今、誓いの『終わり』を訊いた。ですが、あなたはそもそも――誓いの『始まり』を、誤解している」
「……何?」
「あなたは、こう思っている。『近所の噂に、たまたま自分が囚われた。ハカセの無邪気な一言と、自分の頷きが、引き金になった』と。……不運な事故。子どもの遊びの、暴発。そうでしょう?」
ハカセは、首を、横に振った。
「違います。あの文面に、無邪気な一字は、ありません。あれは、設計です。半年かけて、わたしが書いた。目的も、対象も、最初から一つでした」
部屋の空気が、変わった。
「常盤さん。……あなたは、覚えていない。ご両親が、必死で隠したから。ですが、わたしは聞いてしまった。あの年の秋、あなたの家の廊下で。医者の言葉を、ご両親の泣き声を」
ハカセは、一度、目を閉じた。三十年前の廊下の寒さを、思い出す顔だった。
「――十七歳の常盤湊は、死にかけていた。冬を越せない、と言われていた」
誰も、声を出せなかった。湊さん本人が、一番、動けなかった。
「思い当たる節が、あるはずです。あの年、あなたはよく眠った。よく熱を出した。医者に行くたび、ご両親は病名を教えてくれなかった。……あなたは『失くして困るものが何もない』ガキだったんじゃない。失くす予定のものしか、なかったんです」
「……待て」湊さんの声が、掠れた。「待て。じゃあ、あの噂は」
「『朝四時四十七分の始発を見送った子は、その日のまま、歳を取らない』――歳を取らない、ということはですね、常盤さん。その日のまま、ということは」
ハカセの声は、静かで、正確で、三十年分、震えていた。
「病も、その日のまま、進まない。……延命装置です。わたしが、あなたのために書いた、世界で最初の。文面は近所の子ども百人に、半年かけて信じ込ませた。ですが器を、あなた一人に確実に投錨するには、儀式が要った。文面の中の場面を、現実に、演じる儀式が。――『始発を、見送る子』。誰かが見送るためには、誰かが、発たなければならない」
あ、と、わたしは声を漏らしていた。
鏡の底の、あの朝。旅立つ理由を語った少年。『ここにいたら、僕は、僕の研究ができない』。
「……嘘だったんですね。あの、旅立ちの理由」
「半分は」ハカセは、わたしの方を見て、薄く笑った。「研究がしたかったのは本当です。ですが順番が逆だ。発つ必要があったから、発つ理由を作った。あの噂の起動条件は、見送りだった。わたしは、装置の部品として、自分をあの始発に乗せたんです。……十七年住んだ町と、たった一人の友人を、装置の起動と引き換えに」
それまで、そのままでいて。
あの無邪気な別れの言葉は、別れの言葉じゃなかった。処方箋だった。泣きそうな顔で笑っていた少年は、友達の命を止めるために、自分の人生から、友達を切り離していた。
「――証明が要りますか」
ハカセは、詩の方を、見た。
「三代目の詩さん。お宅の帳簿の、常盤湊の台帳。一枚目の、依頼主の欄。……読めましたか、一度でも」
詩の顔から、血の気が引いていった。手帳を開く手が、震えていた。ページを繰って、一番古い一枚に辿り着いて――詩は、そこで固まった。
「……砂に、なってる。依頼主の名前だけ。……ずっと、経年の掠れだと思ってた。先代も、そう言ってた。古すぎて読めないだけだ、って」
「わたしです」
ハカセは、事もなげに言った。
「三十年前、始発を降りたその足で、わたしは保管の家を訪ねた。十七の子どもが、生きた原本を一枚持って。……『友人に延命の文面を打ちました。原本を、預かってください。彼を、見ていてください。毎月の経過を、報せてください』と。対価は、わたしの生涯の労働で払う契約でした。――お宅の家が三十年やってきた所有とは、常盤さん。あなたの命の、委託管理です。依頼主は、わたし。……詩さん。あなたの家は三十年、何も知らずに、立派に仕事をしてくれた。毎月の報告書は、一通も欠けたことがない」
毎月の、報告書。
傘を一人でささない律儀さ。荷札を読むときの目つき。あの男が知っているはずのない、湊さんの三十年の細部。出所は、鏡じゃなかった。詩の家の、月例報告だった。
「うちが……」詩の声は、聞いたことのない音をしていた。「うちが、三十年。あんたの、観測装置……」
「人聞きの悪い。看護記録です」
湊さんは、その間、一言も発していなかった。机の上の、小さな木の箱を、ずっと見ていた。三十年、恋い焦がれた箱を。
「……つまり」
やっと出てきた声は、自分の足元を、一歩ずつ確かめる声だった。
「この箱を開けたら、三十年が、いちどきに返ってくる。……三十年だけじゃ、ないんだな。あの冬から止まってる、俺の――」
「はい」
ハカセは、頷いた。合理の男は、ここで嘘をつくことの無駄を、誰よりも知っていた。
「中断された死も、続きから、返ってきます。開ければ、あなたは四十七歳になり、そして、おそらく数日で――三十年前の冬の、続きを迎える。……常盤さん。あなたが三十年探し続けた『出口』の正体は、それです。わたしは三十年前、あなたの死を、一度盗みました。この箱は、盗品の返却口です」
三十年、開けることだけを夢見た箱が。
ちゃんと終わるための、たった一つの出口だと信じた箱が。
中断された処刑の、再開ボタンだった。
「……なんで」湊さんの声が、初めて、割れた。「なんで、言わなかった。三十年前に。一言、病気のことを言えば、俺は――」
「言えば、あなたは断ったからです」
ハカセは、即答した。三十年前に答えを用意していた即答だった。
「十七のあなたは、そういう男だった。『俺のために、お前が町を出るのか』と言って、装置ごと、蹴ったでしょう。……だから、黙って打ちました。あなたの同意は、『待ってる』の一言だけ、貰いました。それが、志願なき錨打ちというなら――」
ハカセは、そこで初めて、部屋の隅の執行人を、真っ直ぐに見た。
「――ええ。界隈で最初にその罪を犯したのは、三十年前の、わたしです」
途中から読んでくださった方へ。
以下1話のリンクになります。
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