老けたな
噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。
玄関の戸は、鍵が開いていた。
というより、おかえりちゃんが、内側から開けてくれた。白い平べったい姿で、ぺこりとお辞儀をして、廊下の奥を手で示す。スリッパが、人数分、きちんと並べてあった。結が反射的に「お、おじゃまします」と言い、詩に睨まれていた。
廊下は、静かだった。静かで、清潔で、そして――ところどころ、線画だった。柱の一本。天井の隅。廊下の突き当たりの花瓶。家の中身が、まだらに絵に変わっていた。おかえりちゃんと暮らすということの、維持費の形が、家そのものに出ていた。
突き当たりの部屋の戸を、おかえりちゃんが、開けた。
あの部屋だった。机。インク瓶。柱の時計。何十万人の子どもが毎日眺めた部屋の真ん中で、男が一人、椅子に座っていた。
「――ああ」
男は、こちらを見て、目を細めた。
「本当に、来てくださった」
顔が、見えた。
逆光じゃなかった。録画じゃなかった。生真面目そうな、どこにでもいる顔。鏡の底で見た、あの痩せた少年の顔が、そのまま――三十年分、老いていた。目尻に皺があった。髪は半分、白かった。頬の肉は削げて、四十七年生きた男の、四十七年分の顔が、そこにあった。
隣に立つ湊さんは、十七のままだった。
二人が向かい合った瞬間、その残酷さが、部屋の全員に、音もなく落ちた。片方は生きて、老いた。片方は、待って、止まった。三十年という時間が、二人の顔の間に、川みたいに横たわっていた。
「……老けたな」
湊さんが、先に言った。
「ええ。あなたの分まで」
男は、悪気なく、微笑んだ。この男の言葉は、いつもそうだ。事実を言っているだけなのに、刃物の形をしている。
「どうぞ、お掛けください。椅子は人数分あります。……ああ、すみません、わたしは立ってお迎えができない。ご存知の通り、釘付けなもので」男は、自分の膝を、こつんと叩いた。おかえりちゃんが、当然のようにそこへ、ちょこんと収まった。「お茶を出したいところですが、この子は物が運べない。手ぶらの歓迎で、失礼します」
「歓迎は要らん。……その前に、一つ、試させてもらうぞ」
湊さんは、座らなかった。立ったまま、男を正面から見て、言った。
「――さっきから、予測と違う顔をしてるな、お前」
男の、微笑が、止まった。
「録画のお前は、完璧だった。質問も、怒りも、間合いも、全部読み切ってた。……だが今は違う。俺たちが戸を開けてから、お前は三回、瞬きの数を間違えてる。律が同行してるのは、予測に無かったな? 詩が来てるのも、半々だったろう。……なあ。三十年ぶりの生放送は、どんな気分だ」
男は、しばらく黙って――それから、堪えきれない、という顔をした。
「……ああ。ああ、そうです。その通りです。分かりますか、常盤さん。この感覚が」
声に、あの震えが、混ざり始めていた。今度は、リテイクのない震えだった。
「三十年、わたしはあなたを想像してきました。完璧に。あなたの返事も、癖も、間合いも、全部、頭の中で再生できた。……ですが今、あなたは、わたしの予測の外から、瞬きの数の話をした。予測できなかった。三十年で、初めて」
男は、両手を組んで、祈るみたいに、言った。
「素晴らしい。生きているあなたは、こんなにも、もったいなくない」
褒め言葉の形をした何かに、部屋の温度が下がった。律が、半歩、湊さんの側に寄った。執行人の目は、さっきから一度も、男から離れていない。
「――さて。積もる話の前に、本題を済ませましょう」
男は、机の引き出しから、それを取り出した。
古い、小ぶりの、木の箱。白い組紐。鏡越しに見たそれが、腕を伸ばせば届く距離の、机の上に、ことりと置かれた。
「玉手箱です。ご確認を。……荷札は、お持ちですね。結び直せば、この箱は目を覚まします。開けるも、開けないも、そこからは全て、あなたの手の中だ。わたしは指一本、出しません。約束します。強いられた選択に、データの価値はないので」
箱が、そこにあった。三十年の探し物が、あまりにも呆気なく、手の届くところに。呆気なさすぎて、逆に、誰も手を伸ばせなかった。これが罠でないことが、この男の場合、一番の罠なのだ。
沈黙を破ったのは、湊さんだった。ただし、箱には触れずに。
「……箱の前に、取り立てる物が、あと二つある」
「ええ、どうぞ。三十年分、伺います」
「一つ。誓いの話は、あとでゆっくりやる。――まず、一つ目だ」
湊さんは、息を吸った。三十年分の、何かを乗せるための息だった。そして、言った。
「久しぶりだな――ハカセ」
男が、固まった。
完璧に組まれていた両手が、解けた。瞬きが、止まった。予測の女神に三十年愛された男の顔から、初めて、すべての設計が抜け落ちて――そこには一瞬だけ、路地裏で友達に渾名を呼ばれた、痩せた少年の顔があった。
「……その、呼び方は」
「名前は砂になった。だが、渾名は残ってやがった。真名じゃないからな。帳簿のどこにも載ってない、ガキ二人だけの言葉だ。……お前が消し損ねた、たった一個の、お前だよ」
男は――ハカセは、長い、長い沈黙のあと。
組み直した手の上に、額を乗せて、小さく、笑った。それは録画のどの笑いとも、違う音だった。
「……ああ。もったいないなあ、常盤さん。あなたは本当に。……三十年、それを取っておくなんて」
途中から読んでくださった方へ。
以下1話のリンクになります。
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