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怪異は文章通りにしか動かない〜噂が現実になる街で、怪異を解く〜  作者: パリトン
老けたな

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鏡の底

噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。


布の下から現れた鏡面は、暗かった。夜の部屋を映すでもなく、ただ、深い水の面みたいに暗かった。


「先に言っておく。こいつは通信機じゃない。再生機だ」湊さんは、鏡の縁に手を掛けた。「文面は『映したものを、覚えている』。それだけだ。対の鏡は互いを映し合う――だから、こいつを覗いて最初に出てくるのは、割れた方が最後に映したものになる」


「割れた方が、最後に映したもの……」


 言いながら、わたしは気づいた。胸の奥の、あの糸のほつれの正体に。


「……湊さん。じゃあ、この間の、あの会話」


「ああ。生放送じゃない」湊さんは、あっさりと言った。「あいつは割れた鏡の前で、あの口上を、あらかじめ演って録った。俺たちの質問も、詩の怒りも、全部予測済みの台本だ。……気づいてたか? 詩が口を開くより先に、謝罪が始まってた。会話の呼吸じゃなかった。再生の呼吸だったんだよ」


 背筋が、冷えた。わたしたちはあの夜、対話をしていたつもりで、三十年計の予測の上を、一字一句、歩かされていた。


「だから、覗く価値がある。録画にはな、本番の前後が残る」


 鏡面が、揺れた。


 最初に浮かんだのは、あの部屋だった。机。インク瓶。柱の時計。……ただし、口上の夜じゃない。もっと古い、積み重なった朝、朝、朝。


 男が、割れた鏡の前に座っている。膝の上に、まだおかえりちゃんはいない。何年前かの朝だ。柱の時計が、四時四十七分を指した瞬間、男は背筋を伸ばして、鏡に向かって、言った。


『おはようございます、常盤さん。今日のあなたを、想像します』


 場面が、切り替わる。別の朝。同じ姿勢。同じ言葉。また切り替わる。同じ言葉。同じ、同じ、同じ――何百、何千の朝が、束になって流れていく。服が変わり、部屋の物が増え、髪に白いものが混ざっていっても、四時四十七分の姿勢と言葉だけが、一度も、変わらない。


「……趣味の悪い定点観測だな」湊さんの声は、乾いていた。乾かせて、いた。


 次に浮かんだのは、見覚えのある光景だった。あの口上だ。ただし、様子が違う。男は途中で言葉を止め、少し首を傾げ、最初からやり直した。もう一度。もう一度。――あの、声が歓喜に震えた祈りの箇所。あそこに来るたび、男は震えを測っているようだった。震えすぎた回を捨て、抑えすぎた回を捨て、ちょうどいい震えを、何度も、何度も、録り直していた。


「狂ってるのを、隠してるんじゃない」わたしは、呟いていた。「狂ってるのを……製図してる」


「ここからだ。――もっと、底へ行く」


 湊さんが、鏡の縁を握り直した。鏡面の暗さが、質を変えた。対の記憶の層を抜けて、この鏡自身が最後に映したもの。三十年間、布の下で保存されてきた、一番底の記録へ。


 朝の、駅だった。


 白み始めた空。始発前の、誰もいないホーム。画面の端に、写真館のショーウィンドウの枠。つまりこれは、あの二枚の鏡から見た、あの朝の視界そのものだ。


 ホームに、少年が二人、立っていた。


 片方は、見間違えようがなかった。今より少しだけ幼い、十七の常盤湊。もう片方は、同じ年頃の、痩せた少年だった。大きな鞄を提げて、きちんと背筋を伸ばして――顔が、見える。逆光じゃない。はっきりと、見える。生真面目そうな、どこにでもいる顔だった。どこにでもいる顔で、あの姿勢の良さだけが、三十年後と同じだった。


 隣で、湊さんの息が、止まっていた。


『――ほんとに、行くのか』


 十七歳の湊さんが、言った。音も、残っていた。


『行くよ。ここにいたら、僕は、僕の研究ができない』少年は、笑った。『見たろ。僕らの遊びは、本物だった。文を書けば、みんなが信じれば、世界の方が曲がる。こんなすごいことを、この町の路地裏だけで終わらせるのは――』


 少年は、そこで、あの言葉を言った。三十年後と、同じ言葉を。


『――もったいないよ』


 始発が、ホームに滑り込んでくる。少年は乗り込む間際、振り返って、名前を呼んだ。


『じゃあな、湊。僕は必ず、続きを持って戻る。だからおまえは――』


 窓越しに、少年は笑った。無邪気に。本当に、ただ無邪気に。


『それまで、そのままでいて』


 そして、十七歳の湊さんは。三十年間、本人すら忘れていた声で、こう返したのだ。


『――ああ。待ってる』


 四時四十七分。発車。ホームに一人。ショーウィンドウの中で、何かが罅割れる音。記録は、そこで終わっていた。


 長い沈黙のあと、わたしは、一番大事なことに気づいて、震えた。


「湊さん。今の、名前……あの子、湊さんの名前を呼びました。なら、湊さんも、あの子の名前を――」


「呼んだ。録画の中の俺は、確かに呼んでた」湊さんの声は、深い穴の底から響いてきた。「だが聞こえなかっただろう。あそこだけ、音が、砂になってた」


 言われて、気づいた。少年の名を呼んだはずの箇所が、記憶の中で、きれいに空白だった。結の名前と、同じ崩れ方だった。


「……そういうことか。あいつは、自分で自分を解錨してやがる。自分の真名を、この世から自分で消した。だから三十年、誰にも辿れなかった。名無しは、性格じゃない。技術だったんだ」


 湊さんは、暗くなった鏡の前に、立ち尽くしていた。


「三十年、『俺を書いた奴』を探してた。恨むために探してるつもりだった。……違ったよ。今、思い出した。あの噂はな、あいつが一方的に書いたんじゃない」


 それまで、そのままでいて。


 ああ、待ってる。


「――誓いだ。あいつが条件を書いて、俺が、頷いた。制約と誓約。二人で一つの文面を作ったんだ。……三十年前のあの朝、俺は」


 湊さんは、自分の、歳を取らない手のひらを見た。


「俺が、書かせたのか」

途中から読んでくださった方へ。

以下1話のリンクになります。

https://ncode.syosetu.com/n7029mv/1/

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