もったいない
噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。
その夜、湊さんは、初めて鏡の話をした。
「――三十年前のあの朝、駅前に、潰れた写真館があった。ショーウィンドウに、売れ残りの姿見が二枚、向かい合わせに飾られたままでな。ホームがちょうど、二枚の間に映り込む角度だった」
布のかかった鏡の前で、湊さんは、湯呑みを両手で包んでいた。
「あの朝のことは、いずれ全部話す。今は鏡の分だけだ。……俺が止まった朝、片方の鏡が、理由もなく罅割れた。もう片方は無傷だった。後から調べに来た調停者――詩、お前の先々代だ――が、無傷の方を回収して、荷札を読んだ。文面はこうだ。『合わせ鏡は、映したものを、覚えている』」
「……覚えて、いる」
「そうだ。あの二枚は、あの朝を映してた。つまり無傷の方の中には、あの朝が――俺が止まった瞬間の、完全な記録が、残ってる。俺の真話の、原風景だ。だから触るな、なんだよ。開けて覗くってことは、三十年前のあの朝と、正面から向かい合うってことだ。何が起きるか、誰にも分からん。……そして割れた方は、行方知れずだった。三十年間な」
それが、あの絵の隅にいた。敵の部屋の、机の陰に。
「なあ、考えてみろ。割れた方も『覚えてる』んだとしたら――」
湊さんが、そこまで言ったときだった。
こん、と。
布の下から、音がした。ガラスを、内側から、指の背で叩くような音が。
全員が、凍った。湊さんだけが、凍らなかった。長い息をひとつ吐いて、立ち上がり、三十年触らなかった布に手をかけて――剥ぎ取った。
「……取り込み中だ。用件を言え」
鏡の中に、部屋があった。
うちの店は、映っていなかった。代わりに、あの絵の部屋があった。机。インクの瓶。柱の時計。二十四番の背景、そのままの部屋が、鏡一枚の向こうに。
そして、机の前に、男が座っていた。
逆光で、顔は見えない。姿勢がいい。ひどく、姿勢がいい。膝の上に――白いワンピースの女の子が、ちょこんと座って、こちらに小さく手を振った。
『ああ――繋がりましたね。ようやくだ』
声は、穏やかだった。若くも、老いてもいない。手紙の万年筆の字を、そのまま音にしたような声だった。
『三十年、この日を待ちました。割れた鏡は感度が悪くて。そちらが布を取ってくださらないと、窓は開かない。……ずっと、もったいないと思っていたんですよ。せっかく対の鏡があるのに、会話ひとつできないなんて』
「……手短にな。こっちは客が多くて忙しい」
『存じています。篠宮澪さん。結さん――いい名前だ。あの再錨は本当に見事でした。それから』男の見えない顔が、詩の方を向いた。『三代目の詩さん。初めまして、になりますか。お宅の蔵は、実に素晴らしい保存環境でした。湿度管理まで完璧だ。箱は一年間、傷ひとつなくお預かりしています。ご安心を』
「――ふざけるな」詩の声は、氷だった。「祖母の葬儀の日を狙った。うちの襲名の段取りを、どこで」
あとから思えば、ここだった。
男の謝罪は、詩が口を開くより、ほんのわずかに早く、始まっていた。怒声と詫びが、一瞬だけ重なった。会話の呼吸として、ありえない速さで。そのときのわたしは、反射のいい男だ、としか思わなかった。
『狙った、というのは正確ではありません。待ったんです。三十年、蔵が開く二日間を。……ご葬儀に乗じたことは、お詫びします。ですが分かっていただきたい。あれ以外に窓はなかった。窓が一つしかないとき、それを使わないのは――もったいないでしょう?』
悪気が、なかった。挑発でも、嘲りでもない。この男は本当に、心の底から、合理の話をしていた。詩の一年を、祖母の柩を、経費の欄に書き込むのと同じ声で。
「……用件を言えと言ったぞ」
『ええ。ですがその前に、一つだけ、訂正させてください。常盤さん。あなたは長年、誤解をしている』
男は、膝の上のおかえりちゃんの頭を、そっと撫でた。
『あなたの周りの方々は、こう考えているはずだ。「湊の噂は忘れられていないのに、本人を知る者がもういない。だから抜けない」と。――違います。知っている者なら、ここに一人います』
湊さんの目が、細くなった。
『わたしは三十年間、あなたを想像してきました。一日も、欠かさず。あなたの顔を、癖を、傘を一人でささない律儀さを、荷札を読むときの目つきを。毎朝四時四十七分に、必ず。……三十年、一万と九百五十回。あなたという鋳型に、毎朝、水をやってきたのは、わたしです』
毎日、名前を呼ぶ。湊さんが結にしている、あれと。同じ形の、正反対のもの。
『誤解しないでください、悪意ではありません。むしろ逆だ。常盤さん、あなたは人類で最初の、完全保存標本なんですよ。三十年、劣化ゼロ。死という浪費からも、忘却という浪費からも、完全に守られた最初の人間。……人は死にます。死ねば、腐る。残った者の頭の中の像も、十年で歪み、五十年で消える。全部、消えていく。全部です。あの偲ぶ会の少年も、いずれ妹さんの中からすら消える。わたしはあれが、幼い頃から、どうしようもなく――もったいない』
男は、両手を静かに広げた。
『だから作っているんです。人が、物語として保存される仕組みを。お守りは縁の可搬化の実験でした。おもいで箱は保存の自動化。おかえりちゃんは、記録の完全性。全部、あなたに続く二人目、三人目のための技術です。……あなたはわたしの原点で、証明で、三十年育てた庭です。刈り取られては、困る』
「――だから、箱を盗んだか」
『保管した、と言ってください。あなたが自分を廃棄するための道具を、あなたの手の届くところに置いておくのは、危険物管理として失格です。……ですが』
「その前に、一つ確認だ」湊さんが、遮った。「俺はお前に、国一つ分を背負わせたはずだがな。四十万回分の重さをだ。……ずいぶん、ピンピンしてやがるじゃないか」
『ああ――そのお礼を、まだ言っていませんでしたね』
お礼。
男は、膝の上のおかえりちゃんを、両手でそっと抱え直した。壊れ物を扱う手つきだった。本物の、父親の手つきだった。
『効いていますよ、常盤さん。それはもう、見事に。この子の物語は今、日本中の子どもが毎日想像しています。「あの子は、おうちの人の膝の上にいる」と。四十万回。毎日です。……ですからわたしは、毎日この子を膝に乗せて、毎朝「おかえり」を言って、髪を梳いてやらなければならない。文面の通りに。一日でも欠かせば、国一つ分の想像とわたしの現実が食い違って――どちらが譲るかは、ご存知の通りだ』
男は、そこで初めて、椅子の肘掛けを、こつん、と叩いた。
『わたしはもう、この部屋から、出られません。この椅子から、この子の傍から、一歩も。四十万本の釘で、床に打ち付けられている。……あなたの一撃は、わたしの足を、完全に潰したんですよ。三十年で初めて、わたしは負傷しました』
なのに、その声には、恨みが一滴もなかった。それどころか。
『そして、それ以上のものをいただいた。……見てください、この子を。国中に愛されて生まれて、国中に祝福されて家に帰ってきた、完璧な保存状態の娘です。劣化しない。忘れられない。毎日四十万人が存在を保証してくれる。わたしの三十年の研究が目指してきたものが、贈り物として、玄関から歩いてきたんですよ。……常盤さん。あなたはわたしを釘付けにしたつもりで、わたしに、三十年で二番目に素晴らしいものをくださった』
「……二番目、ね」
『ええ。一番は、言うまでもなく』
男は、まっすぐに、鏡のこちらを見た。
『あなたです』
部屋の温度が、二度、下がった気がした。打撃は、効いていた。足を潰し、家に縫い付け、住所を晒した。全部、効いていた。効いた上で――この男は、その全部を、贈答品の目録に書き換えていた。ダメージという概念の置き場が、この男の中には、無いのだ。
『さて、続きを』
男は、少しだけ、身を乗り出した。逆光の輪郭の中で、初めて、何かが熱を持った。研究者が、三十年目の実験結果を前にしたときの、あの熱だった。
『先日の一件で、わたしは考えを改めました。あなたは三十年分の収集を一晩で燃やして、禁忌を踏んで、わたしに住所を寄越した。保存された人間が、それでも終わりを選ぼうとする。これは、わたしの三十年で最大の、想定外のデータだ。ならば、最後まで見届けるのが筋でしょう』
男は、机の引き出しを開けて、それを取り出した。
古い、小ぶりの、木の箱。白い組紐で、十字に結ばれた――
『箱は、ここにあります。住所は糸を辿ればお分かりでしょうが、面倒でしょうから、後ほど乾さんの口座に地図代を振り込んでおきます。取りに、来てください。奪い合いは無しだ、もったいない。あなたが、あなたの足で来て、あなたの手で、開けるか開けないかを選ぶ。……三十年の研究の、最終試験です』
「……試験、試験と。俺が落第したら、どうする気だ」
男は、少し黙って、それから、本当に不思議そうに、言った。
『落第? ……常盤さん。この試験に、不合格はありませんよ』
そして、男は語り始めた。声が、変わっていた。帳簿の声じゃなかった。祈りに、近かった。
『考えてもみてください。あなたが開けない道を選ぶなら――あなたは自分の意思で、永遠を引き受けたことになる。強制された保存ではなく、選ばれた保存。標本が、標本であることに同意する。人類史上、初めてのことだ。わたしは残りの生涯をかけて、その意味を研究できる』
男の両手が、膝の上で、組み合わされた。
『そして、もし。もし、あなたが開けるなら――三十年が、いちどきに、あなたに返る。あなたはたぶん、数秒で四十七歳になり、あるいはそのまま、崩れて、終わる。……常盤さん。わたしはその数秒を、この目で見ます。まばたきもせずに。そして誓いましょう。その朝から、わたしは死ぬまで、毎朝四時四十七分に、あなたの最後の数秒を想像し続ける。一日も欠かさず。わたしが生きている限り、あなたの終わりは、完璧な鮮度で保存され続ける』
声が、震えていた。恐怖ではなかった。歓喜だった。
『分かりますか。あなたは、死んでも、わたしの中で腐らない。……ああ。どちらでもいい。本当に、どちらでもいいんです。どちらを選んでも、あなたは永遠で、わたしは幸福だ。こんなに無駄のない朝が、来ようとしている。三十年待った甲斐が――』
男は、そこで、ふ、と我に返ったように口をつぐんだ。乱れた呼吸を、一つで整えた。膝の上のおかえりちゃんの髪を、直した。
『……失礼。取り乱しました。もったいない話し方をした』
感情を漏らすことすら、この男の帳簿では浪費だった。
『では、お待ちしています。道中は無理をなさらず。――検体の輸送中の破損が、いちばん、もったいない』
鏡が、暗くなった。
最後に残ったのは、膝の上のおかえりちゃんが、ばいばい、と手を振る姿だけだった。
誰も、しばらく口を利かなかった。わたしは、暗くなった鏡を見つめながら、胸の奥で、小さな棘を探していた。今の会話の、どこかに、何かが引っかかっている。怖かったから、では説明のつかない引っかかり。指で辿ろうとすると逃げていく、糸のほつれみたいな何か。
その正体に、わたしたちが気づくのは――もう少し、あとの話になる。
途中から読んでくださった方へ。
以下1話のリンクになります。
https://ncode.syosetu.com/n7029mv/1/




