檻から先に
噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。
「分からないんです。なんで敵は、箱を盗んだんですか」
翌日の作戦会議は、わたしの質問から始まった。
「あの敵は、湊さんを永久保存したいんですよね。歳を取れないまま、変わらないインクにしたいくらい。……だったら玉手箱は、放っておけばいいじゃないですか。蔵の奥で、誰にも渡らないまま眠ってたんだから。わざわざ盗み出して、自分の手元に置く理由が、ない」
「いい質問だ。俺も一晩、同じことを考えた」湊さんは、荷札を机に置いた。「で、時系列を並べたら、答えの形が見えた。――結、思い出せ。縁結びのお守りの、最初のレビューはいつだった」
「……十一か月前、です」
「そうだ。で、箱が盗まれたのは一年前。盗みが、先なんだよ。お守りも、おもいで箱も、おかえりちゃんも、全部そのあとだ。……分かるか、篠宮。あいつの一連の『試験』は、箱を手に入れた直後に始まってる」
順番が、意味を持って並び直った。
「実験ってのはな、検体が逃げないように、檻の戸を先に閉めるもんだ。玉手箱は、俺という検体にとって、この世でたった一つの出口だった。あいつはまず出口の鍵を抜いた。それから、ゆっくり観察を始めたんだ。合格だの不合格だの、採点しながらな。……つまり俺は、一年前から、あいつの実験箱の中にいたってことだ。気づかないまま、一年」
背中が冷えた。わたしの噂も、縁結びのお守りも、あの偲ぶ会も。わたしたちが必死で戦ってきた全部が、鍵のかかった箱の内側の出来事だった。
「盗んだ理由は、最低でも二つ重なってる。一つ、出口の封鎖。二つ――」湊さんは、荷札の切られた紐を撫でた。「餌だ。荷札を置いていったのがその証拠だよ。盗みってのは、隠すもんだ。なのにあいつは、わざわざ盗みましたと名乗っていった。いずれ俺が知って、追ってくることまで、勘定に入ってる」
「……罠と分かってて、追うんですか」
「ああ」即答だった。「罠の奥にしか、あの箱はないんだからな」
「次はお前の番だ、詩。盗まれた日のことを、正確に」
詩は、手帳を握ったまま、少し黙った。話す順番を、決めている沈黙だった。
「……十三か月前、先代が死んだ。わたしの祖母よ。『詩』は、わたしで三代目」
やっぱり、とわたしは思い、同時に、算数の答え合わせが始まったことに気づいた。三十年前の詩と、目の前の詩は、別の人間だ。
「蔵の守りの文面は、代々の『詩』を錨にしてる。先代が死ぬと、守りは宙に浮く。襲名の儀で、わたしに投錨し直すまで――丸二日。蔵が裸になるのは、三十年でその二日だけ。……箱は、その二日の間に消えた。葬儀の、真っ最中に」
「……守りの切り替わりを、知ってた奴の仕業だ」
「そうよ。うちの襲名の段取りを知ってる人間なんて、この世に十人いない」詩の指が、また白くなった。「わたしの襲名の初仕事は、目録改めだった。蔵の棚卸しをして、箱が無いことに気づいて――それから一年、家中の伝手で追った。追い切れなかった。だから」
だから、湊のところへ来た。三十年で初めて、自分の足で。
祖母の死と、襲名と、初仕事での大失態。この子の一年が、どんなものだったか。帳簿の言葉の下に何を埋めてきたか。訊けるほど、わたしはまだこの子を知らなかった。
「……なるほどな」湊さんは、それ以上、詩の傷を掘らなかった。「敵は、うちの三十年を研究し尽くしてた。それだけじゃない。お前の家の内側まで知ってる。覚えとけ」
「で、肝心の追い方だけど」乾さんが、呼ばれて来ていた。「糸は方角しか示さない。張ったままで、地図には落ちない。……ただね、僕らには糸のほかに、もう一つあるんだよ。あいつの肖像画が」
乾さんが机に置いたのは、拡大印刷された、二十四番だった。
知らない部屋。知らない机。インクの瓶。誰かの膝の上で笑う、おかえりちゃん。
「言っただろう、常盤くん。像を持った奴には、いつか手が届くって。――思い出したまえ。おかえりちゃんは、通り道の現実を絵に取り込む。自転車も、猫も食った。なら、送り返された先で、あの子が最後に食ったのは何だ?」
「……あいつの部屋か」
「ご名答。この二十四番の背景は、想像画じゃない。実景だよ。あの子が着いた部屋を、そのまま絵に取り込んでる。つまりこれは、犯人が自分で日本中にばら撒いた、自分の部屋の写生画だ」
全員が、絵に顔を寄せた。
机。インク瓶。積まれた本の背表紙は、潰れて読めない。窓。窓の外は白く飛んでいる。壁に、額。カレンダーはない。時計は――あった。柱に一つ。針は、四時四十七分。趣味の悪さは、徹底していた。
そして、部屋の隅。
結が、先に気づいた。三か月、はたきをかけ続けた者の目が、それを見つけた。
「……湊さん。これ」
絵の隅、机の陰に。布を掛けられた、姿見ほどの何かが描かれていた。布の掛け方も、大きさも、輪郭も――この店の壁際の、あの「触るな」と、寸分違わず同じだった。
湊さんは、長いこと、絵のその一角を見ていた。それから、店の壁際の、布のかかった鏡を見た。三十年、誰にも触らせなかった、割れていない方の合わせ鏡を。
「……そうか」
声が、深いところから、出てきた。
「割れた方は、お前のところにあったのか」
途中から読んでくださった方へ。
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