空っぽの棚
噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。
かえりちゃんブームは、一週間で終わった。
二十四番の配信で、物語は完成した。完成した物語は、もう膨らまない。子どもたちは「よかったね」と一斉に想像して、満足して、次の流行のスタンプへ移っていった。公式アカウントは更新を止め、送信ランキングから白いワンピースは消えた。何十万人の指が起こした九日間の砲撃を、世界の誰も、事件として覚えていない。
時計屋の二階には、空っぽの棚が残った。
三十年分の道具が消えた棚は、思っていたより、ずっと広かった。結は毎朝、何も載っていない棚を、それでもはたきで払う。「癖なので」と言いながら。湊さんは何も言わない。言わないけれど、空の棚を見る時間が、日に何度か、ある。
残ったのは三つだけだ。わたしに疎開させた片方の手袋。結の持っていた相合傘。そして、壁際で布を被ったままの、触るなの鏡。
雨の日、わたしは訊いてみた。
「湊さん、もう……一人で傘、させるんじゃないですか。維持費を払う道具、ほとんど無くなったんだし」
「阿呆。相合傘が生きてるだろ」
湊さんは、当たり前みたいに言って、当たり前みたいに、濡れて出て行った。空っぽの棚の男は、掛け金の払い方だけは、変えなかった。
「――で、敵さんの現況だけどね」
数日後、乾さんが精算書と一緒に、報告を持ってきた。
「音沙汰なし。手紙も、DMも、新商品も、ぱったりだ。三つの販売アカウントも、あの朝から全部止まってる。……初めてだよ、あいつが黙ったのは」
「糸は」湊さんが自分の小指を見た。色のない糸は、今もそこにある。張ったまま、方角だけを示して。
「辿るのは、まだやめておきたまえ。君、丸腰だろう今。……それより面白い話をしてあげよう。二十四番の絵、あるだろう。誰かの膝の上の、あの絵」
乾さんは、スマホに例の絵を出した。知らない部屋。顔の見えない膝の主。笑うおかえりちゃん。
「日本中の子どもがね、今、この『膝の人』を想像してるんだよ。おかえりちゃんのおうちの人、としてね。よかったね、優しい人の家に帰れたんだね、って。……分かるかい、常盤くん。君のやったことの、本当の戦果が」
湊さんは、しばらく黙って、それから、ゆっくりと目を見開いた。
「……鋳型が、できてる」
「そういうこと」乾さんは、指を鳴らした。「あいつの武器は、徹底した名無しだった。名前がない。像がない。鋳型がないから、こっちの技術が何一つ届かない。……ところが今、何十万人の子どもが、毎日あいつを想像してる。顔は見えなくても、『おかえりちゃんと暮らしてる、あの膝の人』という役名でね。名無しの男が、生まれて初めて、役を貰ったんだ。――像を持った奴には、いつか手が届く。君はあいつに、砲弾を送り返しただけじゃない。住所と表札を、押し付けたんだよ」
宛所に尋ね当たりません、の判子は、差出人の住所を、世界に登記させていた。
「もっとも」と、乾さんは声を落とした。「向こうも、それに気づいてる。だから黙ってるのさ。次に動くときは、たぶん、今までの通販ごっこじゃない。……それとね、常盤くん。最後に忠告だ。志願のない錨打ち――あれ、界隈に知れたら、君、ただじゃ済まないよ。調停者が一番やっちゃいけないことを、やったんだから」
「知ってる」
「知ってて、隠す気もない、と」
「隠してどうする」湊さんは、手首のインクの線を、袖の上から撫でた。「越えたものは、越えたんだ」
その客が来たのは、雨の火曜日だった。
ノックは、なかった。建て付けの悪いドアが外から乱暴に開いて、雨の匂いと一緒に、女の子が入ってきた。
わたしや結と、同じくらいの歳。畳んだ傘の先から雫が垂れるのも構わず、高そうな革靴で敷居をまたいで、彼女は事務所を一望した。空っぽの棚。古い机。湯呑み。それらを順番に見て、心底つまらなそうに、鼻を鳴らした。
「――へえ。想像してたより、みすぼらしくなったのね」
湊さんが、固まった。
入ってきた瞬間の足音で、もう分かっていたみたいだった。振り向いた顔には、驚きじゃなくて、諦観に近い何かが浮かんでいた。長患いの持病が、また疼き出したときの顔だった。
「……おい。うちは土足じゃないぞ。それに――月末でもないだろう、まだ」
月末。
思い当たることが、あった。湊さんは月に一度、月末の金曜だけ、行き先を言わずに店を空ける。仕入れだと言っていた。仕入れてきたものを、わたしは一度も見たことがなかったのに。
「予定は変わったの。あなたのせいでね。それと、こっちから出向いてあげたのは三十年で初めてよ。ありがたく思いなさい。――ああ、そこの二人。わたしは客じゃないわ。依頼主よ。もっと上」
女の子は、靴を脱がなかった。代わりに、濡れた傘を、こともあろうに結に向かって放った。慌てて受け取った結に「そこ、掛けておいて」と言い、部屋の真ん中の椅子――湊さんの椅子に、当然のように座った。
「常盤湊。あなたに依頼があるの。ああ、先に言っておくけど――拒否権は、ないから」
「断る。お前の依頼だけは受けないと、三十年前に決めてる」
三十年前。
どう見ても、わたしや結と同い歳の子が、いま、三十年前、と言った。頭の中で、算数が合わない。合わないまま――この店で、算数の合わない人をもう一人知っていることに、わたしは気づいてしまった。
わたしと結が固まっている横で、女の子は、少しも動じなかった。むしろ、その返事を待っていたみたいに、口の端を上げた。
「『朝四時四十七分の始発を――』」
空気が、凍った。
女の子は、歌うように、そらんじ始めていた。あの文面を。三十年前の、一言一句を。世界で、書いた本人と湊さんしか正確には知らないはずの、あの原文を。
「――『見送った子は』……続き、言ってもいいの? ここで。この子たちの前で、最後まで」
「……やめろ」
湊さんの声を、わたしは初めて、そんなふうに聞いた。低くも鋭くもない。ただ、平たかった。逆らうという選択肢を、最初から抜き取られた声だった。
「やめてほしいなら、座って聞きなさい。お行儀よく」
湊さんは、座った。
三十年分の武器庫を一晩で燃やした男が、国一つ分の砲弾を判子一つで送り返した男が、自分の店で、自分の湯呑みの前で、女の子に言われるまま、静かに椅子を引いて、座った。……この二人の間の空気は、初対面のそれじゃなかった。もっと古くて、もっとこじれた、年季の入った何かだった。結が青い顔でわたしを見た。わたしも、同じ顔をしていたと思う。
「よろしい」
女の子は、満足そうに脚を組んだ。雨音の中で、その子は初めて名乗った。
「詩。名字は、そのうち教えてあげる」
それから、ゆっくりと部屋を見回して――空っぽの棚の前で、視線を止めた。
初めて、その顔から高慢が抜けた。抜けた下から出てきたのは、怒りだった。静かで、温度の低い、勘定を知っている人間の怒りだった。
「……三十年分」詩は棚を見たまま言った。「傘。手袋。合鍵。南京錠。補聴器。あなたが方々から拾ってきて、わたしが目こぼししてやってた、三十年分の目録。――それを、一晩で、灰にしたのね。持ち主に、一言の断りもなく」
「……俺の道具だ」
「あなたのものは、わたしのものよ」
詩は、事もなげに言った。事もなげに言われた言葉の意味が、わたしの中に落ちてくるまで、数秒かかった。
「三十年前から、そうでしょう。あなたも、あなたの拾い物も、この店も。全部わたしの管轄。……それを忘れて好き勝手した挙句、界隈が騒ぐような外道の儀まで打って、得体の知れない糸を小指にぶら下げて帰ってきた。――目の届かないところに置いておくと、これだから」
所有。管轄。目の届くところ。
この人は、湊さんの雇い主でも、旧い友達でもない。言葉の選び方が、最初から最後まで、持ち主のそれだった。そして湊さんは、それに言い返さなかった。言い返せる立場じゃないことを、三十年かけて知っている顔だった。
「だから決めたの。あなたには当分、わたしの目の前で働いてもらう。……さて、依頼の内容だけど」
詩は、探し物の在り処を知っている人間の目で、湊さんを見た。
「――玉手箱を、探しなさい」
湊さんは、長いこと黙って、それから、疲れた声で言った。
「……変わらんな、お前は。三十年前から」
詩は、初めて、笑った。高慢でも意地悪でもない、古い古い笑い方だった。どこかで見たことがある、と思って、すぐに気づいた。湊さんと、同じ笑い方だった。
「あなたもね。――お互い様でしょ」
途中から読んでくださった方へ。
以下1話のリンクになります。
https://ncode.syosetu.com/n7029mv/1/




