おかえりなさい
噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。
決戦前夜、最後の講義は短かった。
「復習だ。あの時計は署名じゃなく、引用だった。違いを一言で言え。結」
「……署名は『作ったのは私』の印。引用は、湊さんの噂の原文から、そのまま引いてきた文」
「そうだ。で、原文ってのは何だ。篠宮」
「鋳型の……合鍵。原文を握られてるってことは、湊さんという鋳型に、いつでも手を入れられるってこと」
「上出来だ」湊さんは頷いて、それから、静かに命令した。「明日の朝、二人はこの部屋にいるな。絵にされるのは、四時四十七分にあの枠の中にいる全部だ。なら答えは簡単だ。――枠の外にいろ」
部屋を出ろ、ではなかった。踊り場までは許された。ドアの外、二十三番の構図の、こちら側。相合傘を開いて、その下から一歩も出ないこと。それが条件だった。
「湊さんは、枠の中にいるんですよね」
「俺の仕事だからな」
「……切り札、教えてくれないんですよね。最後まで」
「ああ」湊さんは、初めて、少しだけ笑った。「だが一個だけ教えてやる。手袋を預けただろう。傘も、お前たちに持たせた。……あれは引き継ぎじゃない。疎開だ。あの二つだけは、燃やしたくなかった」
燃やす。
その言葉の意味を訊く前に、湊さんは棚に向かって、道具を降ろし始めた。一つずつ。全部。三十年分を。
九日目。午前四時四十一分。
踊り場の傘の下から、ドアの隙間ごしに、部屋が見えた。
部屋の真ん中に、湊さんが立っていた。その足元を囲むように、床には道具が円く並べてあった。ビニール傘の残り。合鍵。南京錠。補聴器。絆創膏の箱。荷札のついた、三十年分の全部。布を掛けられた鏡だけが、壁際で、いつも通り黙っていた。
四時四十五分。階段の空気が、変わった。
白いワンピースが、わたしたちの真横を、通った。傘の下のわたしたちを見もせず、音もなく、開いたドアの敷居を、またいだ。
部屋の真ん中まで進んで、二十四コマのどこにもないポーズで、初めて立ち止まる。まだ描かれていない、最後の空白の中に。
「――よく来たな。二十四時間、ご苦労だった」
湊さんの声は、静かだった。
「お前に恨みはない。お前は絵だ。描かれた通りに歩いてきただけだ。……だがな、悪いが、この部屋は誰の絵にもさせん。お前の帰る家は、ここじゃない」
左手が、荷札を掲げた。六日間隠し続けた、あの切り札を。読み上げられた文面は、こうだった。
「『迷子は、親の家に帰る。おかえりちゃんの親は、おかえりちゃんを描いた人。』」
空気が軋んだ。おかえりちゃんの大きな目が、初めて、湊さんを見た。
そして――部屋が、線になり始めた。
畳の縁に、インクの輪郭が浮く。湯呑みが、影を失って平べったくなる。湊さんの左腕が、袖口から順に、描かれた腕に変わっていく。物語が、完成を強行しようとしていた。国一つ分、一日四十万回の想像が、たった一人の男の宣言を、絵の具みたいに塗り潰しにかかっていた。
「……そうか。質量勝負か。上等だ」
湊さんは、線になりかけた左手で、足元の荷札を一枚、引き千切った。
相合傘の姉妹の、古い傘の荷札だった。破れた瞬間、傘の中身――どこかの学校で三代信じられた小さな噂が、行き場を失って、光の紐みたいに溢れ出す。八話で見た、あの剥離だ。暴れるはずのそれを、湊さんは自分の宣言に、注ぎ込んだ。
「文面のない材料には、ルールをくれてやるんだったな。――俺の一文を、手伝え」
畳の輪郭線が、一寸、薄くなった。
二枚目。合鍵の荷札。開けてほしがっている扉なら、なんでも開けた、性格のいい鍵。千切る。注ぐ。左腕の線が、肘まで押し返される。
三枚目。四枚目。補聴器。南京錠。名前も知らない道具たち。三十年、雨に濡れて歩き、片割れを探さず、毎月怪談を語りに巡回して、生活を質に入れて養ってきた、三十年分の可愛い噂たち。それが一枚千切れるごとに、一つ、この世から永久に消えていく。そして一つ消えるごとに、湊さんの一文が、一コマ分、重くなっていく。
「湊さんの、腕が……」結が傘の柄を握り締めて、泣いていた。「棚が、全部……」
三十年と、国一つ分の、綱引きだった。
最後の一枚を千切ったとき、湊さんの左腕は肩まで線画で、部屋の半分は絵だった。おかえりちゃんは目の前にいた。手を伸ばせば届く距離。彼女の白い手が、湊さんの胸に、触れようとして――
湊さんが、先に動いた。
線になりかけた左手で、切り札の荷札を、判子みたいに握り込む。そして、彼女の額のあたりの空気に、それを、まっすぐ押した。郵便局員が、宛先不明の封筒に、還付印を叩きつけるように。
「――宛所に、尋ね当たりません」
どん、と。音のない音が、ビル全体を揺らした。
「受取人は、この住所にいない。この家は、お前の絵じゃない。二十四時間の配達、ご苦労だった。……差出人に、還れ」
白が、めくれた。
おかえりちゃんの輪郭が、二十四コマを逆回しにするように畳まれていく。階段が、玄関が、道が――そのどのコマからも時計屋が消えて、知らない部屋、知らない机、知らないインクの瓶に、背景が描き変わっていく。部屋を侵食していた線が、引き潮みたいに、彼女ごと退いていく。
最後の一瞬、口のない顔が、湊さんを見た。
怒っているようにも、泣いているようにも――ほんの少しだけ、ほっとしているようにも見えた。帰る家を、初めて教えてもらった子の顔に。
「……ああ」湊さんは、その顔に、小さく頷いた。
「おかえりって、言ってもらえよ」
白は、消えた。
直後――夜明け前の街の、ずっと遠くで、何かが軋む音がした。古い家の梁が、急に重いものを載せられたときの、あの音が。糸の張る方角から、確かに、一度だけ。
届いたのだ。どこかの誰かの手元に、国一つ分の重さが。
そして四時四十七分、日本中の子どもの端末に、二十四番が配信された。
結のスマホにも、届いた。恐る恐る開いたその絵には――時計屋は、写っていなかった。知らない部屋。知らない机。誰かの膝の上に座って、初めて口を描かれたおかえりちゃんが、笑っていた。膝の主は、画面の外で、顔は見えない。
何十万人の子どもが、今朝、同じ結末を想像する。よかったね、おうちに帰れたんだね、と。
国一つ分の祝福が、あの配達を、永久に確定させた。もう誰にも、返品はできない。
部屋に駆け込むと、湊さんは空になった棚の前に、座り込んでいた。床には千切れた荷札の山。三十年の武器庫の、燃え殻。左腕は肉に戻っていたが、袖をまくると、手首に一周、細いインクの線が、刺青みたいに薄く残っていた。
そして、左手の小指に。
色のない糸が、一本、結ばれていた。窓の隙間をすり抜けて、明け方の街の、軋んだ音のした方角へ、ぴんと張って消えている糸が。
「……穴、二つ、か」湊さんは自分の小指を見て、乾いた声で笑った。「杭を打てば、打った側にも糸が渡る。分かってて、やった。棚も、腕の線も、これも、全部込みの値段だ。……安い買い物だったよ。何せ、これでようやく」
顔を上げた目は、疲れ果てて、空っぽで、それでいて三十年分、飢えていた。
「――この糸の先に、俺を書いた奴がいる」
途中から読んでくださった方へ。
以下1話のリンクになります。
https://ncode.syosetu.com/n7029mv/1/




