四時四十七分
噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。
六日目の朝、おかえりちゃんは十三番にいた。
うちの階段の、下から三段目。ぐらつく段のところで、手すりに白い手を掛けた絵のまま、止まっていた。ドアを開ければ見える距離に、それはもう、いた。結はその朝から、階段を使うとき、目を伏せて数を数えるようになった。
その朝の講義は、短くて、重かった。
「二十四番の正体、もう確定でいいだろう」湊さんは、進行表の空白の枠を、指で叩いた。「自転車。猫。あいつは通ったものを絵にする。なら、最終コマで絵にされるのは――四時四十七分に、あの部屋にある全部だ。棚も、畳も、湯呑みも。……人間も、な」
「人間、も」
「描かれて、二十四番として配信されて、何十万のガキどもの指で、毎日四十万回送り合われる。死にはしない。忘れられもしない。むしろ逆だ。この世の何よりも強く、保存される。ただ――二度と、動けん」
湊さんは、荷札の箱の奥から、あの白いカードを出した。三週間、燃やさずに取ってあった、あのカードを。
「思い出せ。『保たれ続ける像の価値を、あなたほど正確にご存知の方はいないはずですから』。……皮肉でも、挑発でもなかったんだよ。あれは処刑の予告状だ。あいつは俺を殺す気じゃない。永久保存する気だ。三十年、歳を取れなかった男を――今度こそ完全に、変わらないインクにしてやる、とさ」
自分の呪いを、完成させてやる。そういう殺し方だった。刃物よりも、ずっと、この敵らしかった。
そして湊さんは、その朝から、おかしくなった。
いや、正確に言えば――優しく、なった。
「結。荷札の書き方を教える。座れ」
午前中いっぱい、湊さんは結に荷札の作法を仕込んだ。墨の濃さ、紐の結び方、文面の写し方。「読み方はもう覚えたな。書き方も知っとけ」と。午後にはわたしが呼ばれて、片方の手袋を渡された。
「預かってろ」
「え……これ、湊さんの、一番使う」
「だから預ける。あんたの手はもう、こいつが覚えてる」
夕方には、乾さんへの言付けまで頼まれた。俺に何かあったら、乾に『鏡の買い手を呼べ』と伝えろ。それで通じる。――何かあったら。その五文字を、この人は、湯呑みを洗うのと同じ声で言った。
我慢できたのは、そこまでだった。
「湊さん。何をする気ですか」
台所の湊さんは、振り向かなかった。
「切り札の準備だ」
「どんな切り札ですか」
「中身は言わん」
「なんでですか」
湯呑みを置く、小さな音がした。
「――言うと、あんたたちが、手伝うと言い出すからだ」
それきり、台所の背中は、何も答えなくなった。荷札の講義も、手袋も、鏡の言付けも、全部そうだ。これは引き継ぎだ。この人は、帰らないかもしれない場所へ行く準備を、わたしたちへの置き土産という形で、堂々と隠している。
翌日、わたしは一人で、雑居ビルの四階に上がった。
「おや。珍しいお客さんだ」
乾千秋は、わたしを見ても驚かなかった。たぶん、来ると分かっていた。この人はそういう人だ。
「……湊さんが何をする気か、乾さんは知ってるんですよね」
「知らないよ。察してるだけ」乾さんは椅子を回した。「で、君はそれを僕から聞き出したい。いいよ、教えてあげよう。――ただし、有料だ」
「……いくらですか」
「金は要らない。例の貸しを、今ここで一部使うかい? 『内容不問』の貸しだ。質問一つ分、削ってあげてもいい」
初めて時計屋を訪ねた日に結んだ、期限なし、内容不問、拒否権なしの貸し。それを、こんな形で切るのか。迷ったのは、三秒だった。
「使います」
「交渉成立」乾さんは指を鳴らして、それから、珍しく、笑うのをやめた。「――彼はね、調停者が一番やっちゃいけないことを、やる気だよ」
「一番、やっちゃいけないこと……」
「篠宮さん。君、結の名前を編んだとき、縁を一本払っただろう。あの技術の意味、もう分かってるね。錨ってのは志願制だ。代償を分かった上で、自分で背負うと言った人間だけが、杭になれる。……じゃあ質問だ。志願していない人間に、無理やり杭の役を押し付けたら、それは何と呼ばれる?」
藁人形。錨の指定。設定の講義で聞いた言葉が、頭の中で組み上がって、答えの形になった。
「……呪い」
「ご名答。彼はね、救助の儀式を、呪いとして使う気だ。おかえりちゃんの物語を丸ごと、書いた本人に背負わせる。『お前の物語だ、お前が引き受けろ』ってね。……理屈は通ってる。作者ってのは、自分の物語と最初から縁で繋がってるから、錨としての相性は最高だ。だけど」
乾さんは、指を二本、立てた。
「人を呪わば、穴二つ。打ち込む瞬間、彼と敵は縁で繋がる。それが一つ目の穴。そして真名が不正確なら――錨は宛先不明で跳ね返る。行き場を失った物語は、その瞬間、一番鮮明にそれを想像してる人間に落ちる。つまり、施術者本人だ。三十年ものの鋳型を抱えたままの男に、国一つ分で編まれた砲弾の物語が、上乗せされる。……どうなるかは、僕にも分からないね。分からないから、彼は君たちに言わないのさ。知ったら君は、絶対に『半分持たせて』と言うから。結のときに、実際にそうしただろう?」
何も言い返せなかった。言い返せないところまで含めて、あの背中は、わたしのことを分かっていた。
その夜、乾さんが店に来た。仕事の顔だった。
「調査報告だよ、常盤くん。まず悪い報せ。紙、インク、文体、法務文書、配信インフラ――全部きれいなもんだ。プロの匿名だよ。そこからは名前に届かない」
「……そうか」
「で、次も悪い報せだ。行き詰まったから、僕は方針を変えた。敵の現在じゃなく、君の過去を掘った」
湊さんの手が、止まった。
「三十年前。君を『歳を取らない子』にした最初の噂。……君、書いた奴を探したかい」
「――探した」低い声だった。「十年かけてな。見つからなかった。当時はネットもない。出所は追えなかった」
「だろうね。でも僕は、君が見落としたものを見つけたかもしれない。……君の噂の文面、正確には憶えてるかい。一言一句」
「忘れるわけがないだろう」湊さんは、吐き捨てるように、そらんじた。「――『朝四時四十七分の始発を見送った子は、その日のまま、歳を取らない』。ガキの頃、うちの近所で流行った、それだけの噂だ」
時間が、止まった気がした。
四時、四十七分。
電柱の貼り紙の時計。二十四コマの時刻表の、始まりと終わりの針。わたしはあれを、四と四十七の語呂合わせの署名だと思っていた。湊さんも、そう言っていた。悪趣味な署名だと。
違う。あれは語呂合わせじゃない。引用だ。
「……そういうことだよ、常盤くん」乾さんの声から、いつもの芝居が抜けていた。「四時四十七分は、あいつの署名じゃない。君の噂の中の時刻だ。三十年前の文面から、そのまま引いてきてる。つまり奴は、君の噂を『知ってる』んじゃない。一言一句、原文を持ってる」
原文を持っているのは、この世に二種類しかいない。よほど執念深く調べ上げた人間か。
それとも。
「――三十年前、俺を書いた奴、かもしれんわけだ」
湊さんの声は、静かだった。静かなまま、三十年分、深かった。
途中から読んでくださった方へ。
以下1話のリンクになります。
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