帰る家
噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。
三日目。おかえりちゃんは、五番のコマに立っていた。建て付けの悪い、うちの玄関ドアの前に。
実験は、その朝にやった。湊さんとわたしは相合傘に入って、階段を降り、彼女の三メートル横に立った。荷札は本物だ。悪いものは、この傘の下には入れない。入れないが――
おかえりちゃんは、こちらを見もしなかった。
大きな目は、ずっとドアだけを見ていた。わたしたちが横を通っても、傘の骨が触れそうな距離まで寄っても、白い平べったい輪郭は、微動もしなかった。眼中にない、という言葉の、こんなに正確な実演を見たのは初めてだった。
「……人間は、標的じゃないんだ」戻ってから、湊さんは進行表に書き込んだ。「こいつの物語に、俺たちは登場してない。あるのは家だけだ。だから塩も結界も効かん。まだ何も『侵入』してないんだよ。物語の途中を、物語の通りに歩いてるだけだ。途中の絵は、止めようがない」
四日目の朝、店の前の段ボールが、空だった。
いつも丸まっている白黒の野良猫が、いない。結が三か月、こっそり餌をやっていた、あの猫だ。嫌な予感がして配信版のスタンプを検めると――十七番。ベッドの横に立つおかえりちゃんの絵の、部屋の隅に。白黒の猫が一匹、丸くなって、描き込まれていた。昨日までは、いなかった場所に。
絵の中の猫は、気持ちよさそうに、目を閉じていた。永遠に。
結は、その日、ほとんど口をきかなかった。
その夜、発見したのは、その結だった。
荷札の埃を払い続けた三か月で、結の目は、細かい字と細かい絵を見る目になっていた。印刷シートに虫眼鏡でかじりついていた結が、ふいに顔を上げた。
「湊さん。時計、一個じゃないです」
「……なに?」
「一番の貼り紙の時計、四時四十七分ですよね。でも五番の玄関、隅っこに腕時計が落ちてます。これ、八時四十七分。十七番の部屋の目覚まし時計は、二十時四十七分。……ぜんぶのコマに、どこかに一個、時計があります。そして一コマごとに、一時間進んでます」
三人で、二十四コマを検分し直した。あった。全部のコマに。電柱の広告に、通行人の手首に、家の中の壁に。誰も意識して見ない場所に、必ず一個、時計が描き込まれていて、針は律儀に、一時間ずつ回っていた。
「二十四コマで、二十四時間……」
「そうか。そういう話か」湊さんは、進行表を睨んだまま、低く言った。「この二十四コマは『女の子が家に近づく』話じゃない。『女の子が、一日かけて家に帰ってくる』話だ。朝の四時四十七分に出て、翌朝の四時四十七分に着く。……何万人のガキどもの想像は、場所だけじゃなく、時刻まで揃えられてる。鋳型に時計が組み込まれてるんだ。だから進みが規則正しい。だから俺に着弾日が計算できた。計算できるように、させられてたんだよ」
そして、と湊さんは、一拍おいて続けた。ここから先を言いたくない、という一拍だった。
「もっと嫌なことに気づいた。……このスタンプの題を、思い出せ」
「……おかえりちゃん」
「『おかえり』ってのは、帰ってきた奴にかける言葉だ。この物語の枠組みの中で、あの白いのは侵入者じゃない。帰宅する女の子だ。ここは、あいつの家ってことになってる。……分かるか。相合傘の文面は『悪いものは入れない』だ。だが何万人の想像の中で、あいつは悪いものじゃない。家に帰る、可愛い女の子だ。着弾の瞬間、傘が――うちの防具が、あいつを『悪いもの』と読んでくれる保証は、どこにもない」
結の顔から、血の気が引いた。防衛線の最後の頼みが、文面の読み合いの一点で、宙に浮いた。
「二十四番の意味も、たぶん割れた」
五日目、乾さんが数字を持ってきた。二十四番スタンプは、送信回数の上位アカウントに自動配信される仕様が、アプリの規約の奥に書いてあったという。
「つまり『たくさん仲良くした人にだけ、あそびにきます』の主語は、幽霊じゃない。二十四番のスタンプそのものだよ」乾さんは肩をすくめた。「ヘビーユーザーは、招待客ってわけ。フィナーレのね」
「……フィナーレ?」
「考えてもみなよ、篠宮さん。九日後の朝四時四十七分、白い子がこの部屋に入る。その瞬間、二十四番の絵――彼女が家の中で何を見つけたか――が、何十万人に一斉配信される。何十万人の子どもが、同時に、同じ結末を想像する。物語は、その瞬間に完成する」
完成した物語は、もう膨らまない。
偲ぶ会の夜、湊さんが言った言葉が、そのまま、こちらへ牙を剥いて戻ってきた。
「そうだ」湊さんが、引き取った。「完成すれば、鋳型は役目を終えて、静かにほどける。ガキどもは次の流行に移って、スタンプは忘れられて、怪異は消える。……証拠を残さない、自壊式の砲弾だよ。俺たちが航平を送ってやった理屈を、あいつは兵器の後始末に使ってる」
救いの理屈と、掃除の理屈が、同じ。
この敵の一番怖いところは、たぶんそこだった。わたしたちが大事に積み上げてきたルールの一つ一つを、この設計者は、全部別の向きに使ってみせる。
「読めない。書き換えられない。逃げられない。防具は当てにならない」
その夜、湊さんは、指を折りながら言った。全部折り終わった手を、机の上で握った。
「怪異としてのおかえりちゃんは、詰みだ。正面からは勝てん。……だがな、忘れるな。怪異には必ず、いる」
「……作者、ですね」
「そうだ。読めない絵にも、描いた奴がいる。時刻表を仕込んだ奴が、背景にうちの階段を描き込んだ奴が、四時四十七分の署名を入れた奴が、いる。――署名する奴ってのはな、篠宮。名乗りたがってるんだよ、心の底では」
湊さんは立ち上がり、荷札の箱の一番奥から、鍵のかかった小箱を出した。中身は、三通。篠宮の件の後の『合格』のスクリーンショット。お守りの件の後の、赤い糸を褒めたDMの写し。そして三週間前の、白いカード。燃やさずに、取ってあった三通。
「乾。仕事だ。相場の三倍払う」
「おや。豪気だね」
「筆跡、紙、インク、文体、規約の法務文書、絵の癖、配信のインフラ――全部並べて、こいつの名前に届く糸を一本でいい、見つけろ。九日……いや、あと五日でだ」
「名前ねえ」乾さんは三通を摘み上げて、目を細めた。「見つけて、どうするんだい。名前が分かったところで、怪異は止まらないよ」
湊さんは、答えなかった。
答えない横顔が、わたしは少しだけ、怖かった。この人が何かを決めた顔は、結の名前を編んだ夜に一度見ている。でも今回のは、あれとは違った。決めた、というより――越えることにした、という顔だった。
途中から読んでくださった方へ。
以下1話のリンクになります。
https://ncode.syosetu.com/n7029mv/1/




