絵の中の家
噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。
その夜、誰も眠らなかった。
おかえりちゃんは、動かなかった。電柱の陰で、一番のポーズのまま、手を振り続けていた。振っている、というより、手を振る絵のまま、そこに在り続けていた。
「目を離すな。交代で見張る」湊さんは窓辺に椅子を置いた。「動くところを見た奴は、たぶんいない。ああいう手合いは、見ていない間に進む」
その言葉は、明け方の四時に証明された。うたた寝したわたしを結が揺すり起こしたとき、電柱の陰は空っぽで――おかえりちゃんは、通りの真ん中に立っていた。二番のスタンプと、寸分違わぬ立ち姿で。夜の路面に、シールみたいに、ぺたりと。
「……一晩で、一コマ」
湊さんは印刷シートの二番に、マジックで印をつけた。二十四コマの物語の、進行表になった紙に。
「ひとつ、ずっと分からないことがあるんです」
朝、目の腫れた顔で、わたしは言った。昨日の夜から、喉に刺さりっぱなしの棘だった。
「おかえりちゃんは、なんで、うちに来たんですか。わたしたち、誰もスタンプを送ってません。使ってもいない。『たくさん仲良くした人のところに来る』なら、来るのは送信回数の多い子のところのはずです。うちに来る理由が、ない」
「……ああ。俺も夜通し、それを考えてた」
湊さんは印刷シートを机に広げた。二十四コマの絵物語を。
「答えは、たぶんこの中にある。篠宮、結。目の検査だ。一コマずつ、背景を見ろ。女の子じゃない。女の子の後ろを見ろ」
言われて初めて、まともに背景を見た。一番、電柱。よくある電柱。斜めに貼り紙がしてある。二番、道。アスファルトのひび。三番、家の門――
結が、息を呑んだ。
「……この門、うちの、下の」
言われてみれば、そうだった。三番のコマの門は、この雑居ビルの、一階の潰れた時計屋の入口だった。シャッターの錆の浮き方まで、同じだった。四番の庭に見えていたのは、ビル脇の狭い路地。五番の玄関は、うちの建て付けの悪いドア。十三番の階段は、猫が上っても軋む、あの階段。手すりの、ぐらつく三段目の感じまで。
そして二十三番。細く開いた部屋のドアの隙間から見えている室内に――棚が描かれていた。壁一面の棚。何かがたくさん並んだ、荷札の紐まで描き込まれた、見間違えようのない棚が。
「極めつけは、これだ」
湊さんは一番のコマの、電柱の貼り紙を指した。虫眼鏡で覗くと、貼り紙には小さな時計の絵が印刷されていた。時計屋の広告らしき、丸い文字盤。針が指している時刻は――四時四十七分。
4と、47。
「……署名だよ。悪趣味な」湊さんの声は、静かなまま、どこか底が抜けていた。「この二十四コマの家は、どこの家でもない。最初から、うちだ。……分かるか、篠宮。あんたの質問の答えはこうだ。おかえりちゃんは『送った人の家に行く』怪異じゃない。『この絵の家に行く』怪異なんだ。そして全国の何万人のガキどもは、可愛いスタンプを送るたびに、知らずに想像してる。『白い女の子が、この家に、近づいていく』って物語を。毎日、何十万回も」
背中が、冷たくなった。
子どもたちに、悪意はない。一グラムもない。おはようの挨拶に、放課後の約束に、おやすみの一言に、可愛いから添えているだけだ。その無邪気な指先の一回一回が、揃った想像の一発一発になって――この古い雑居ビルに、撃ち込まれている。
「……大砲だ」結が、掠れた声で言った。「日本中の子どもが、悪気なく引き金を引いてる、大砲……」
「そういうことだ。篠宮の噂は五百人分だった。おもいで箱は二百人分だった。こいつは――乾に今朝、数字を出させた」
湊さんはスマホの画面をこちらに向けた。乾さんからのメッセージ。無料スタンプランキング一位。累計送信数、一日あたり約四十万回。しかも伸びている。
「一晩で一コマ進んだのは偶然じゃない。送信の総量と連動してるはずだ。伸び方から逆算すると――」湊さんは進行表の紙に、日付を書き込んでいった。二十三番のコマの横に書かれた数字を見て、わたしは指先が冷えた。
「九日。九日後に、こいつは二十三番に着く。うちの階段を上りきって、このドアの前に立つ。……二十四番が何なのかは、着いてからのお楽しみってわけだ」
「逃げましょう」
わたしは言った。当たり前の結論だと思った。
「絵の家がここなら、ここにいなければいい。九日もあれば、どこへでも」
「駄目だ」
即答だった。湊さんは、棚を見た。
「棚が、あるだろ」
「……道具ごと、運べば」
「生活級はな。だが道具ってのは土地と持ち主に馴染んでる。急な引っ越しは錨が緩む。半分は死ぬだろうな。それでも傘と手袋くらいは連れて逃げる。……問題は、あれだ」
湊さんは、棚の最奥を見た。布の掛かった、赤い字の札。触るな。
「合わせ鏡は、動かせない。三十年前にここへ投錨して、それきりだ。運ぶってことは、触るってことだ。触ったらどうなるかは――俺も知らん。知らんが、知りたくない程度には、知ってる。あれを置いて逃げれば、九日後、おかえりちゃんと鏡が、無人の部屋でこんにちはだ。……最悪の顔合わせだよ。それだけは、させられん」
三十年かけて集めた武器庫が、そのまま、逃げられない理由になっていた。敵はたぶん、それも計算済みなのだ。籠城しか選べないところまで含めて、この二十四コマは設計されている。
その日の午後、異変に最初に気づいたのは、やっぱり結だった。
「……湊さん。五番、なんか増えてませんか」
スマホの中の配信版スタンプと、印刷シートを並べる。印刷の五番――うちの玄関の絵には、ドアと傘立てしか描かれていない。だが配信版の五番には、玄関の脇に、自転車が一台、描き足されていた。青い、荷台に籠のついた自転車。
見覚えがあった。隣のビルの管理人さんの自転車だ。いつも、路地に停めてある。
三人で路地に降りた。自転車は、なかった。管理人さんは「朝から見当たらないんだよ、盗まれたかねえ」と首をひねっていた。
「……食ってる」
部屋に戻った湊さんの声は、低かった。
「あいつは、通り道の現実を、背景として絵に取り込みながら歩いてる。配信済みのスタンプのくせに、何十万の端末の上で、静かに描き変わり続けてるんだ。誰も気づかん。絵がちょっと賑やかになった、くらいにしか」
絵が、現実を食う。食われた自転車は、もう、どこにもない。あるのは、日本中の子どもが今日も送り合う、可愛い絵の中だけだ。
夕方、結のスマホが、ぽこん、と軽い音を立てた。
スタンプの公式アカウントからの、お知らせだった。ピンク色の、可愛いフォントで。
『だいにんきありがとう! みんなにあえるのがまちきれないよ』
『24ばんスタンプは、9にちごに、はいしんかいし!』
配信開始。九日後。着弾と、同時に。
二十四番の空白の枠に何が描かれるのか、日本中の子どもが、楽しみに待っている。
途中から読んでくださった方へ。
以下1話のリンクになります。
https://ncode.syosetu.com/n7029mv/1/




