おかえりちゃん
噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。
宣戦布告から三週間、何も起きなかった。
それが一番、嫌だった。湊さんは店の戸締まりの決まりを三つ増やし、乾さんは「僕への相談料は据え置きにしておいてあげるよ、期間限定でね」と嫌な優しさを見せ、結は夜中に物音がするたび、赤い糸の結び目を確かめるようになった。
何も起きないまま、三週間。警戒というのは、続けると薄まる。薄まった頃を選んで、それは届いた。
白い封筒。切手なし。宛名は万年筆の綺麗な字で『常盤湊様』。
中身は、二つ折りの上質な紙が一枚。開くと、几帳面な挨拶文があった。
『先日お約束しました試供品をお届けします。新商品「おかえりちゃんスタンプ」全24種、無料配信中です。おかげさまで、お子様たちに大変ご好評をいただいております。』
紙の下半分に、スタンプが二十四個、順番に印刷されていた。
白いワンピースの、女の子のキャラクターだった。目が大きくて、髪が長くて、口がなかった。丸っこい、可愛い絵柄。一番のスタンプは、遠くの電柱の陰から、こちらに手を振っている絵。二番は、少し近づいて、道の真ん中に立っている絵。三番は、家の門の前。四番は、門の内側。五番は――
「……近づいてきてる」
結が、呟いた。
二十四個のスタンプは、二十四コマの物語だった。文字は一つもない。ただ、白い女の子が、一コマごとに、家に近づいてくる。門をくぐり、庭を横切り、玄関の前に立ち、ドアの隙間から覗き、階段を上り――二十三番は、部屋のドアが細く開いた絵。
二十四番は、印刷されていなかった。枠だけが、白く空いていた。枠の下に小さく一行、『24番は、たくさん仲良くした人にだけ、あそびにきます』。
「湊さん、これ――」
「触るな。まだ何も送るな。誰にもだ」
湊さんはピンセットで紙をつまみ、机の上でためつすがめつして、荷札を読むときの目で、長いこと睨んだ。それから、わたしが初めて聞く種類の声で、言った。
「……文面が、無い」
「え?」
「噂には文面がある。条件と結果を書いた設計図だ。俺の仕事は三十年、それを読むことだった。呪いだろうが幽霊だろうが、どれだけ性悪な怪異でも、読めれば戦える。……だがこいつには、読む場所が無い。絵だけだ。二十四コマの、文字のない絵」
「絵じゃ、想像は揃わないんじゃ……だって、物語が要るんですよね。条件と結果の」
「揃うんだよ、これは」湊さんは紙を指で叩いた。「物語が描いてある。読めるだろ、あんたにも。『この子は、近づいてくる』。翻訳がいらない。国語の点数も関係ない。五歳でも分かる。……文面ってのは、実は弱点だったんだ。言葉は人によって思い浮かべる絵がズレる。だから校正が要った。だが最初から絵で配れば、二百人だろうが二万人だろうが、寸分違わず同じ像を思い浮かべる。――こいつは、鋳型の設計として、文面より一世代先だ」
そのとき、わたしのスマホが震えた。クラスのグループチャットだった。
画面を見て、血の気が引いた。
「湊さん。……あの、これ、うちの学校、もう流行ってます」
トーク画面は、白い女の子で埋まっていた。おはようの代わりに一番。放課後の集合連絡に五番。おやすみの代わりに十七番――ベッドの横に立ってる絵。可愛いから。無料だから。新しいから。配信日を確かめると、二週間前だった。
手紙より、先に。
「……ああ、そうか」湊さんは、乾いた声で笑った。「これは予告状じゃない。納品書だ。『もう手遅れです』って意味の」
補聴器は、その夜から、おかしくなった。
街の信の囁きを拾う道具。いつもは、ざりざりという砂の音に、切れ切れの言葉が混ざる。トンネルの、三時の、目が合うと――言葉の切れ端が、噂の在り処を教えてくれる。
今夜の補聴器は、無音だった。
「壊れたんですか?」
「いや」湊さんは補聴器を外して、机に置いた。置く手つきが、心なしか、重かった。「拾ってはいる。街のどこかで、でかい鋳型が育ってる気配だけは、ある。……だが言葉が拾えない。囁く必要が無いんだよ、こいつは。誰も『おかえりちゃんが近づいてくる』なんて口に出さない。指一本で、絵を送るだけだ。無言で、無音で、一日に何万回も」
言葉を拾う道具は、言葉のない噂の前で、ただの古い補聴器だった。
「片方の手袋は」結が棚を見た。「出所を、辿れませんか。配信元を」
「配信元は乾が調べてる。だが賭けてもいい、お守りと同じだ。ペーパーの向こうの海の向こうだ。……それにな、結。手袋が辿れるのは『落とし物』だ。こいつは落とし物じゃない。配り物だ。文面の条件から外れてる」
一つずつ、潰されていく。読む目も、聞く耳も、辿る手も。三十年かけて棚に並べた武器が、たった一枚の可愛いスタンプの前で、順番に、ただの古道具に戻っていく。
敵は三週間、何もしなかったんじゃない。わたしたちの戦い方を、研究し終わっていたのだ。
「……湊さん。二十四番って、何が来るんでしょうか。『たくさん仲良くした人にだけ、あそびにきます』って」
「知らん。だが設計者の趣味から言って、ろくなもんじゃない。仲良くする――送信回数だろうな。たくさん送った人間のところに、何かが」
湊さんが言い終わる前に。
結が、窓辺で、固まった。
湯呑みを持ったまま、夜の窓の外を見て、動かなくなった。声も出さなかった。出せなかったのだと思う。わたしは結の視線を辿って――辿ったことを、少しだけ後悔した。
通りの向かいの、電柱の陰。
街灯の白い光の際に、それは立っていた。白いワンピース。長い髪。大きな目。口のない顔。厚みが、なかった。夜の景色に、シールを貼ったみたいに、そこだけ平べったくて――一番のスタンプと、寸分違わぬポーズで、こちらに、手を振っていた。
「……湊さん」
結の声は、囁きよりも小さかった。
「おかえりちゃんが、いる」
途中から読んでくださった方へ。
以下1話のリンクになります。
https://ncode.syosetu.com/n7029mv/1/




