偲ぶ会
噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。
千夏ちゃんは、わたしの話を最後まで聞いて、それから言った。
「……証明して」
交差点の、ガードレールの前だった。お兄ちゃんの幽霊がいる、という話を、この子は笑わなかった。泣きもしなかった。ただ、真っ直ぐに条件を出した。小六の目じゃなかった。
「そこにいるんでしょ。じゃあ訊いて。――五年前の夏休み、二人だけの秘密。お兄ちゃんなら、絶対憶えてる」
わたしは隣の航平を見た。航平は、記憶を探して――それから、ゆっくりと首を横に振った。
「……分かりません。僕の記憶に、千夏との秘密なんて、ないんです。あるのは、自転車を教えてあげた思い出だけで」
そのまま伝えると、千夏ちゃんは「ほら」と笑った。泣くのを我慢するときの、あの笑い方だった。
「やっぱり、お兄ちゃんじゃないじゃん。……お兄ちゃんはね、五年前、ママの大事なお皿割って、二人で埋めたの。庭に。犯人は今も行方不明。そういうやつなの、本物は」
「……ごめん」と、航平は聞こえない声で謝った。
「でも、いいよ。協力する」千夏ちゃんはガードレールから手を離した。「だってその偽物、自分を終わらせてって頼んだんでしょ。家族のために。……お兄ちゃんは、そんなこと言える人じゃなかった。だから偽物。だから――そこだけは、お兄ちゃんより偉い」
偲ぶ会は、月命日の日曜、藤井家の居間で開かれた。
建て付けは千夏ちゃんが整えた。「学校の友達が、航平の思い出を話したいって」。母親は喜んで家を開けた。集まったのは家族三人と、同級生が四人。仏壇の前に、湊さんは「葬儀社の紹介で来た、思い出の聞き書きの人」として座り、わたしと結はその助手ということになった。航平は、仏壇の横に立っていた。自分の遺影の隣に。
「今日はテンプレは無しです」湊さんが口火を切った。「アプリに書けなかった話をしてください。綺麗じゃないやつを、優先で」
最初は、誰も喋らなかった。当たり前だ。半年間、この人たちは綺麗な話しかしてこなかったのだから。
口火を切ったのは、千夏ちゃんだった。
「じゃあ私から。――お兄ちゃんは、プリン泥棒です」
同級生の一人が、噴き出した。
「容器を冷蔵庫に戻すんです。空で。証拠隠滅のつもりで。バカだから」
「あー……藤井、購買のパンでもやってた」同級生が続いた。「人の焼きそばパン一口もらうって言って、三口いくやつ」
「ゲーム大会の日、あいつ、塾の鞄持ったまま来ましたよ。アリバイ工作とか言って」
「爽やか? 誰が? あいつ寝癖ついたまま登校して、女子に指摘されるまで気づかないやつですよ」
笑い声が、少しずつ、部屋の温度を変えていった。そして――わたしは見ていた。仏壇の横で、航平が変わっていくのを。
折り目のついた学生服が、着崩れていく。整っていた髪に、寝癖が浮かぶ。背筋が、中学生らしくだらしなく丸まっていく。一つ悪口が出るたび、一つ笑い話が積まれるたび、綺麗な平均値が崩れて、本物の輪郭が上書きされていく。二百人の鋳型が、この居間の七人の生の声で、揃え直されていく。
「……思い出した」航平が、掠れた声で言った。「皿。庭に埋めた。千夏が泣くから、僕が掘ったんだ。……プリンも。焼きそばパンも。全部、僕だ。僕だった」
彼は生まれて初めて――死んで初めて、かもしれない――自分の思い出を、自分のものとして抱えた顔をしていた。
その空気を、凍らせた声があった。
「……やめて」
母親だった。湯呑みを持ったまま、顔だけが白かった。
「やめてください。あの子は、そんな子じゃ……あの子は、優しい子で」
「ママ」千夏ちゃんが遮った。静かだった。「ママが喋ってるの、『箱』の中の子でしょ。テンプレで出来た子でしょ。……本物のお兄ちゃんは、プリン泥棒で、サボり魔で――最後の日、ママと大喧嘩した子だよ」
湯呑みが、畳の上で鈍い音を立てた。
「私、聞いてたよ。ドアの外で全部。お兄ちゃんがひどいこと言って、ママもひどいこと言い返して。……ねえママ。ママが半年間、あの日を無かったことにするたびに、私の知ってるお兄ちゃんも、一緒に消されてたんだよ。私だけが憶えてるの、もう疲れたよ」
長い、長い沈黙のあと。母親は、両手で顔を覆って、蓋を開けた。
「……『出て行きなさい』って、言ったの。『そんな子は、うちの子じゃありません』って。それが、私があの子に言った、最後の言葉。……次の朝、いってらっしゃいも言わなかった。言えなかったの。まだ、怒ってたから。まだ、明日があると思ってたから……っ」
ごめんね、と母親は言った。半年前、誰にも見えない場所に三文字で埋めた言葉を、初めて、声に出して。
仏壇の横で、航平の輪郭が、ほどけ始めていた。
怖いほどけ方じゃなかった。結のときとは違う。固く絞られていた結び目が、指を離されて、ゆるむみたいな。湊さんが小さく頷いたのが見えた。鋳型が、本物の形に揃い直して、そして本物の形のまま――完成したのだ。完成した物語は、もう膨らまない。注がれていたものが、静かに、引いていく。
航平は、最後に母親の前に膝をついた。見えていないはずの母親の、すぐ目の前に。
「母さん。……あれ、嘘だからね」
寝癖のついた頭で、だらしない姿勢で、本物の声で。
「いなければいいなんて、嘘。売り言葉だよ。本当は――」
その先は、輪郭ごと、夕方の光に溶けた。
母親が、はっと顔を上げた。誰もいない畳の一点を見て、口を半分開けて――何かを、聞いたのか、聞いた気がしただけなのか。それは誰にも、たぶん本人にも、分からなかった。
最後の一瞬、航平はわたしたちの方を向いて、笑った。初めて見る、ちょっと意地の悪い、等身大の中二の笑い方だった。
「澪さん、結ちゃん、ありがとう。――湊さんも」
そして、消える寸前、彼は言ったのだ。悪気なんて一グラムもない、まっさらな声で。
「湊さんも、ちゃんと終われるといいですね」
湊さんは、何も答えなかった。
畳の上に、湯呑みが四つ。ひとつだけ、最後まで湯気を眺められることのなかった湯呑みが、静かに冷めていた。
途中から読んでくださった方へ。
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