それぞれの未来
季節が移り、王立学園の卒業式が近づいていた。
エルミラは、これまでと変わらず学業と王妃教育を続けていた。外交史、財政、領地経営、宮廷儀礼。学ぶべきことは、いくらでもあった。
以前なら、これらの勉強を、王妃となるために必要な義務として考えていた。勿論、それは今も変わらない。
しかし、彼女は最近、別のことも考えるようになっていた。自分が王妃になったとき、どのような判断を下したいのか。王家と公爵家の利益が衝突したとき、どうするのか。領民の生活と国庫の事情が両立しないとき、何を優先するのか。
そして、自分自身の感情が、公的な判断を曇らせそうになったとき、どうすればよいのか。正しい答えが、いつも簡単に見つかるとは限らない。
だからこそ、学ぶ必要があるのだ。
ある午後、エルミラは王宮の執務室で、ロレンシオと北部の備蓄計画について話し合っていた。
「こちらの案では、輸送費が予算を超過しますわ」
「判っている。だが、補助を減らせば商人が輸送を控える可能性がある」
「ならば、輸送量に応じた補助制度に変更してはいかがでしょう。一定量以上の物資を運んだ商会には追加の補助を出す。ただし、実際の輸送記録を提出させる必要がありますわ」
「不正な申請を防ぐためか」
「ええ。それと、地方の小規模な商会が大手に不利にならないよう、制度を分けるべきだと思います」
ロレンシオは、書類に目を落とした。
「……いい案だ。財務官に試算を依頼しよう」
「ありがとうございます」
エルミラは微笑んだ。
以前と同じように、二人は意見を交わしていた。ただ、以前よりも互いの考えを率直に伝えられるようになっていた。
ロレンシオは、彼女が自分と異なる意見を持つことを恐れなくなった。エルミラもまた、王太子の判断だからという理由だけで、無条件に賛同する必要はないと考えるようになった。
二人の間には、恋愛感情とは別の、確かな信頼が育っていた。
卒業式の日、エルミラは学園の庭園を訪れた。かつて、デメトリオと話した場所だった。
訓練場の脇を通りかかったとき、彼が汗を拭きながら声をかけてきたこと。忙しい一日の合間に、彼との何気ない会話を楽しみにしていたこと。今でも、その記憶は残っていた。
けれど、もう胸が締めつけられることはなかった。彼を好きだった自分を、恥じるつもりもない。ただ、彼と過ごした時間は、過去のものになったのだ。
「エルミラ」
声をかけられ、振り返る。
ロレンシオが立っていた。
「こちらにいたのか」
「ええ。少し、昔のことを思い出しておりました」
「……デメトリオのことか?」
エルミラは驚いたように目を瞬かせた後、微笑んだ。
「そうですわね」
「まだ、彼のことを?」
「好きだったことは事実ですもの。その気持ちまで、なかったことにする必要はないでしょう?」
ロレンシオは頷いた。
「そうだな」
「殿下も、イネス様のことを思い出されることがおありでしょう?」
「……ある」
彼は、正直に答えた。
「彼女と過ごした時間は、私にとっても大切なものだったから」
エルミラは、彼の横顔を見つめた。
「ならば、その思い出を大切になさればよろしいと思いますわ」
「君は、気にならないのか?」
「何がでしょう?」
「私が、かつて別の女性を愛していたことが」
エルミラは、少し考えた。
「殿下がどなたかを愛したことと、これからわたくしとどのような関係を築くかは、別の問題ですわ」
その言葉に、ロレンシオは目を見開いた。どこかで聞いたような言葉だった。そして、すぐに思い当たった。
「……君は、本当に厳しいな」
「殿下も、そうおっしゃいましたわね」
二人は顔を見合わせ、笑った。
「ですが、殿下」
エルミラは、静かに続けた。
「過去の恋を大切にすることと、その恋に囚われ続けることは違います。わたくしも、そう思うようになりました」
ロレンシオは、ゆっくりと頷いた。
「私も、そう思う」
庭園を、秋の風が吹き抜けた。
二人は、暫く並んで歩いた。その先に、どのような未来が待っているのかは、まだ解らない。けれど、二人には、互いに問いかけ、答えを探すことが出来る。
それだけで、十分に価値のある関係だと、今は思えた。
イネスは、王都の小さな下宿で暮らしていた。学園の特待生資格を失った後、彼女は進路を一から考え直さなければならなかった。
王宮に勤める道は、閉ざされた。かつてロレンシオが紹介してくれると話していた教育事業への道も、今すぐに進むことは出来ない。
それでも、彼女には学んできた知識があった。家庭教師の仕事を探し、商家の子供たちに読み書きや計算を教えるようになった。
最初のうちは、思うようにいかなかった。教え方がわかりにくいと指摘されることもあった。自分が理解していることを、相手も理解できるとは限らない。その当たり前の事実に、彼女は何度も直面した。
それでも、彼女は勉強を続けた。かつてなら、自分の能力を認めてくれない相手に不満を抱いていただろう。しかし今は、相手が理解できないのなら、自分の説明に問題があるのかもしれないと考えるようになった。
ある日、教え子の一人が、算術の問題を解けずに泣きそうな顔をしていた。
「先生、解りません」
イネスは、答えを教えようとして、手を止めた。かつての自分なら、正しい答えを示すことが、最も親切な方法だと考えていただろう。
だが、今は違った。
「どこまでは解ったの?」
「ここまでは……」
「そう。では、ここから一緒に考えてみましょう」
彼女は、子供の隣に腰を下ろした。
時間はかかった。けれど、最後には子供自身が答えにたどり着いた。
「出来た!」
嬉しそうに笑う教え子を見て、イネスも笑った。
その瞬間、彼女は初めて、何かを手に入れたという感覚を覚えた。誰かに選ばれたわけではない。誰かの地位を奪ったわけでもない。
ただ、自分が学んだことを使い、相手が出来なかったことを出来るようにした。それだけだった。
けれど、それは確かに、自分自身の力で得たものだった。
夜、仕事を終えたイネスは、机に向かい、学園で使っていた古いノートを開いた。そこには、かつて自分が書いた言葉が残っていた。
――努力すれば、未来は変えられる。
彼女は、その文字を見つめた。間違った言葉ではない。ただ、自分はその意味を、都合よく解釈していたのだ。
努力すれば、未来を変えられる。しかし、努力したからといって、他人が自分に望むものを譲らなければならないわけではない。
自分が努力したことと、他人が積み重ねてきたものの価値は、別の問題なのだ。
イネスは、ノートを閉じた。
自分が犯した過ちは、消えない。ロレンシオとの恋も、元に戻らない。
それでも、これからの自分が何をするかは、自分で決められる。
彼女は、明日の授業の準備を始めた。
その机の上には、王太子から贈られた品も、華やかなドレスもなかった。あるのは、使い込まれた教材と、教え子たちの答案だけだった。
けれど、それらは今の彼女にとって、誰かの愛情の証明よりも確かなものに思えた。




