価値観の相違
数年後。
ロレンシオは、正式に国王として即位した。その隣には、王妃となったエルミラが立っていた。
戴冠式の広間には、王族、貴族、各地の領主、外国の使節が集まっていた。華やかな衣装と宝飾品が並び、楽団の音楽が高い天井に響いている。
エルミラのドレスには、南部の工房で織られた絹が使われていた。
袖口には、熟練した刺繍職人による繊細な模様が施されている。宝飾品は王家に伝わるものを中心に選び、必要以上に新しい品を注文することは避けた。
衣装の準備には、仕立師や針子、織物商、宝石細工師など、多くの人々が関わっていた。
彼女は、彼らの仕事に対して正当な報酬が支払われたことを確認していた。
それは、王妃としての務めの一つだった。
「エルミラ」
式典が終わった後、ロレンシオが声をかけた。
「疲れてはいないか?」
「少しだけ。でも、まだ大丈夫ですわ」
「ならば、夕刻の晩餐まで休んでは?」
「陛下こそ、午前中からずっと立っていらしたではありませんか」
「私は、慣れているから」
「わたくしも、いずれ慣れますわ」
二人は顔を見合わせて笑った。
即位してからも、彼らの関係は変わらなかった。 政治的な判断について意見が衝突することもある。予算の配分を巡って議論が長引くこともあった。それでも、二人は互いの意見を聞くことをやめなかった。
ロレンシオは、エルミラが自分とは異なる考えを持つことを、王妃としての欠点ではなく、必要な強みだと考えていた。エルミラもまた、ロレンシオの判断に疑問を抱いたときには、理由を尋ねることを躊躇わなかった。
二人は、互いに何でも理解できるわけではないことを知っていた。だからこそ、理解しようと努めていた。
ある日の午後、国王夫妻は、地方の教育事業について報告を受けていた。平民の子供たちに読み書きや算術を教える学校が、各地に設けられつつあるという。その事業の運営には、かつて王立学園の特待生だった女性も携わっていた。
イネス・ロペス。
彼女は、家庭教師として働いた経験を生かし、地方の教育施設の運営に協力していた。王宮での事件以降、彼女が宮廷に戻ることはなかったが、学んできた知識を社会に役立てようとする努力は続けていた。報告書には、彼女が作成した教材の一部も添えられていた。
「よく考えられた教材ですね」
エルミラが目を通しながら言った。
「子供たちが、単に答えを覚えるのではなく、自分で考えられるように工夫されていますわ」
「そうだな」
ロレンシオも頷いた。
「彼女は、能力のある人だった。今も、それは変わらないのだろう」
「ええ」
エルミラは、報告書を閉じた。
かつてイネスが、自分のドレスを見て、困っている人々を救うために使えるお金ではないかと尋ねたことを思い出す。彼女の問題意識そのものは、間違っていなかった。豊かな者が何にお金を使い、何に責任を負うべきなのか。それは、今でも考え続けるべき問題だった。
ただ、イネスは当初、貴族の消費を一面的に捉えていた。そして、貴族の立場にある者が果たすべき仕事や責任について、十分に理解していなかった。
一方で、貴族だからといって、その行為が全て正当化されるわけでもない。エルミラは、そのことも忘れなかった。
「彼女が、これからも自分の力を生かせるとよいですわね」
「そうだな」
ロレンシオは、窓の外を見た。
かつて愛した女性のことを思い出すことは、今でもあった。しかし、もう彼女が自分の隣にいないことを、悲しむことはなかった。
彼女には彼女の人生がある。自分には、自分の人生がある。
そして、彼らがかつて互いに愛情を抱いていたという事実は、今の二人の人生を否定するものではなかった。
同じ頃、王都の小さな学校では、イネスが教壇に立っていた。
「では、今日の問題です」
彼女は黒板に数字を書いた。
「ある商人が、十枚の布を仕入れました。一枚ずつ売った場合と、まとめて売った場合では、利益はどう変わるでしょうか」
子供たちが、思い思いに答えを考え始めた。
イネスは、教室を見渡した。
かつての自分は、平民の暮らしを知っているという理由で、平民のために何をすべきかも解っていると思っていた。けれど、実際には、同じ平民の間にも違いがある。農家と商人では必要な知識が違う。職人と兵士では、抱えている問題が違う。子供たち一人ひとりにも、それぞれの事情と望みがある。
自分が正しいと思うことが、全ての人にとって正しいとは限らない。だからこそ、相手の話を聞き、必要なことを考えなければならない。
「先生、出来ました!」
一人の子供が手を挙げた。
「どんな答えになったの?」
「こちらです!」
イネスは、子供のノートを覗き込んだ。
「成程。よく考えたわね。では、どうしてそうなるのか、皆に説明してくれる?」
子供は、少し緊張した様子で立ち上がった。
イネスは、その姿を見守った。かつての自分なら、正しい答えを出せることこそ、優秀さの証明だと考えていたかもしれない。
今は違う。
答えを出すことだけではなく、何故そう考えたのかを説明すること。自分とは異なる答えを聞くこと。間違いがあれば、どこで考え違いをしたのかを確かめること。そうした積み重ねこそが、学ぶということなのだと思う。
授業が終わると、子供たちは元気よく教室を出ていった。
イネスは、黒板を消しながら、窓の外を見た。王宮にいた頃、自分は、あそこに立てば何かが変わると思っていた。
高価なドレスを着て、貴族たちの茶会に参加し、王太子の隣に立つことが出来れば、世界の見え方も変わるのだろうと。
実際、世界の見え方は変わった。
しかし、それは王太子の隣に立ったからではなかった。自分が知らなかったことを知り、自分が誤っていたことを認め、他人の立場を考えるようになったからだった。
そして、彼女は漸く理解し始めていた。
自分がかつて望んだ地位を得られなかったことと、自分の人生に価値がないことは、まったく別の問題なのだ。
王宮では、夕刻の晩餐会が始まろうとしていた。
エルミラは、侍女たちとともに最後の準備を確認していた。衣装の仕上がり、招待客の席次、料理の順序、各国の使節への対応。どれも細かな仕事だったが、どれ一つとして軽視することは出来ない。
侍女が、最後の書類を差し出した。
「王妃陛下、こちらで最終確認となります」
「ありがとう。確認いたしますわ」
エルミラは書類に目を通し、必要な箇所に印をつけた。
そのとき、ロレンシオが部屋に入ってきた。
「準備は整ったか?」
「ええ。問題ありませんわ」
「それはよかった」
ロレンシオは、彼女の手元にある書類を見た。
「また、細かなところまで確認していたのだね」
「当然ですわ。知らなかったでは済まされませんもの」
エルミラは、かつて自分が口にした言葉を思い出し、少しだけ笑った。
「……何か?」
「いいえ。昔、同じことを言った気がしたのです」
「確かに、聞いた覚えがある」
二人は微笑み合った。
「陛下」
エルミラが、静かに呼びかけた。
「わたくしたちは、これからも意見が合わないことがあるでしょうね」
「当然だろう」
ロレンシオは即座に答えた。
「君が私の意見に全て賛成するようになったら、私は寧ろ心配する」
「まあ」
「君には、君の考えがある。それを失ってほしくはない」
エルミラは、彼を見つめた。
自分たちは、何もかも同じ価値観を持っているわけではない。好きなものも、考え方も、物事を判断する基準も、異なるところがある。
けれど、違いがあるからといって、相手を否定する必要はない。違いがあるからこそ、相手の考えを聞く意味がある。
「わたくしも、陛下がご自身の考えを失われないことを願っておりますわ」
「それは安心した」
ロレンシオは、彼女に手を差し出した。
「では、参ろうか」
「ええ」
エルミラは、その手を取った。
二人は並んで部屋を出た。その先には、国王夫妻として果たすべき務めが待っている。華やかな晩餐会も、厳しい外交交渉も、時には困難な決断もあるだろう。
それでも、二人は歩いていく。互いの価値観が完全に一致しているからではない。互いに違いがあることを知り、その違いを認めたうえで、共に歩むことを選んだからだ。
かつて、四人はそれぞれ愛する相手を求めた。
イネスは、愛されていることを、自分が望む未来を手に入れられる保証だと考えた。デメトリオは、愛されていることを、自分の出世を助ける機会だと考えた。ロレンシオは、愛情があっても責任を放棄することは出来ないと知った。エルミラは、愛する相手であっても、自分の意思と尊厳を委ねてはならないと学んだ。同じ恋という感情を抱きながら、彼らがそこに求めたものは、まったく違っていた。
愛情が本物であっても、価値観が異なれば、同じ未来を望めるとは限らない。努力したからといって、他人が自分の望みを叶えてくれるわけではない。誰かを愛しているからといって、その人の意思を無視してよいわけでもない。そして、正しいと思うことを主張するのなら、自分自身の行動にも責任を持たなければならない。
四人がたどり着いた未来は、それぞれ違っていた。
ある者は地位を失い、ある者は愛を失い、ある者は新しい道を見つけ、ある者は責任ある立場へ進んだ。けれど、その結果を決めたのは、身分だけでも、運命だけでもなかった。彼らが何を大切にし、何を望み、そのために何を選んだのか。その積み重ねが、それぞれの未来を形作ったのだ。
価値観が違うことは、罪ではない。違う価値観を持つ相手を理解できないことも、必ずしも罪ではない。だが、自分と違うというだけで相手を否定し、自分の望みを叶えるために相手の尊厳を踏みにじるのなら、その行為には責任が伴う。それを理解できるかどうかが、四人の運命を分けた。
そして、王宮の大広間では、楽団の演奏が始まった。国王と王妃は、並んで広間へ足を踏み入れる。
二人の前には、まだ見ぬ未来が広がっていた。互いに異なる価値観を持ちながら、それでも共に歩む未来が。
それこそが、二人が選び取った答えだった。




