愛と責任のあいだ
数日後、ロレンシオは国王の執務室に呼ばれた。
「今回の件について、お前はどう考えている」
国王は書類を机に置いたまま尋ねた。
「イネス嬢の処遇については、調査結果を待つべきだと考えております。デメトリオについても同様です。事実が確認された範囲で、相応の責任を負わせるべきでしょう」
「それは当然だ。私が聞きたいのは、その先の話だ」
国王は、息子を見た。
「お前は、エルミラ嬢との婚約をどうするつもりだ?」
ロレンシオは、一瞬だけ言葉を失った。
これまで、彼にとってエルミラとの婚約は、疑う余地のないものだった。二人は互いの立場を理解し、将来の責任を共有することが出来る。恋愛感情の有無にかかわらず、王家と公爵家の結びつきとしても、王国の安定という意味でも、合理的な婚約だった。
しかし、今回の事件によって、彼は改めて気づかされた。自分がエルミラに信頼を寄せていたのは、彼女が公爵令嬢だからだけではない。彼女は、立場に伴う責任を理解している。自分とは異なる意見を持っていても、感情だけで相手を否定しない。自分の利益を考えることを恥じず、その利益が他者の利益と両立する方法を探そうとする。そうした姿勢を、彼は尊敬していた。
「私は、エルミラとの婚約を続けたいと考えております」
ロレンシオは答えた。
「今回の件で、彼女に対する信頼が揺らぐことはありませんでした。寧ろ、彼女がどれほど自分の感情を慎重に扱い、公的な判断と切り分けようとしているかを、改めて知ることが出来ました」
「お前は、彼女を愛しているのか?」
国王の問いに、ロレンシオは沈黙した。
イネスに向けていた気持ちと、エルミラに向けている気持ちは違う。イネスといるとき、彼は王太子としての重責を忘れることが出来た。エルミラといるとき、彼は王太子としての自分を理解してもらえると感じた。どちらも、彼にとって大切な感情だった。しかし、どちらも同じ形の恋ではなかった。
「……私は、彼女を尊敬しております」
「それは知っている」
「彼女となら、国の将来について意見を交わし、互いに足りないところを補い合えると思います。ですが、それを愛と呼べるのかは、まだわかりません」
国王は、ふっと笑った。
「正直で結構だ」
「陛下は、愛情がなくても結婚は成立するとお考えなのですか?」
「愛情があれば、結婚がうまくいくと思うか?」
問い返され、ロレンシオは口を閉じた。
「愛情は大切だ。だが、愛情だけで国は治められない。相手を愛しているからといって、その相手が正しいとは限らない。相手を愛しているからこそ、過ちを指摘しなければならないこともある」
国王は窓の外へ目を向けた。
「お前がイネス嬢を愛していたことは知っている。彼女と過ごす時間が、お前にとって安らぎだったこともな」
「……はい」
「だが、お前は王太子だ。個人的な安らぎを得られる相手と、王妃として国を支えられる相手が、必ずしも同じとは限らない」
「承知しております」
「ならば、エルミラ嬢と結婚することを、ただの義務だと考えるな。彼女は、お前の人生を共に歩む人間でもあるのだから」
ロレンシオは、深く頭を下げた。
その日の午後、彼はエルミラに面会を申し込んだ。
王宮の庭園には、秋の風が吹いていた。
エルミラは、白い花が咲く小道の脇でロレンシオを待っていた。
「待たせて済まない」
「いいえ。わたくしも、今来たところですわ」
二人は並んで歩き始めた。暫く、言葉はなかった。やがて、ロレンシオが口を開いた。
「今回の件では、君に迷惑をかけた」
「殿下が謝罪なさることではありませんわ。調査を命じ、事実を確認してくださったのですから」
「だが、私は君の名誉が傷つけられる可能性を、事前に防ぐことが出来なかった」
「事実を確かめずに誰かを罰するより、よほどよいことだと思います」
エルミラは微笑んだ。
「殿下がわたくしを信頼してくださっていることは、解っておりました。それでも、王太子として事実を確認する必要があったのでしょう?」
「……君は、本当に厳しいな」
「そうでしょうか?」
「自分にも、私にも」
「そうかもしれませんわね」
エルミラは、少しだけ楽しそうに笑った。その笑顔を見て、ロレンシオも微笑んだ。
彼は、イネスと過ごした時間を思い出した。彼女の笑顔は、いつも明るかった。自分の何気ない言葉に喜び、贈り物に頬を染め、些細な冗談にも笑ってくれた。その笑顔が好きだった。
だが、エルミラの笑顔は違った。彼女は、彼が正しいことを言ったからといって、無条件に賛同するわけではない。彼が誤った判断をすれば、必要なことを指摘するだろう。それでも、彼女は彼を支えることを選ぶ。その信頼が、今は以前よりも深く感じられた。
「エルミラ」
「はい」
「私は、君と婚約を続けたいと思っている」
彼女は足を止めた。
「……殿下」
「君となら、互いの意見を交わしながら、国の将来を考えていけると思う。私が誤ったときには指摘してほしい。君が迷ったときには、私も力になりたい」
ロレンシオは、彼女を見つめた。
「ただ、君に一つ尋ねたいことがある」
「何でしょう?」
「君は、私との婚約を続けたいと思っているか?」
エルミラは、暫く彼を見つめていた。
これまで、その問いを真正面から受けたことはなかった。二人の婚約は、家門と王家の間で決められたものだった。互いにそれを理解し、務めを果たすことを当然だと考えていた。
しかし、今回の事件を経て、彼女もまた考えていた。自分は何を望んでいるのだろう。デメトリオに恋をしたことは事実だ。彼と結ばれたいと思ったことはなくとも、彼と話す時間を失うのは寂しかった。それでも、彼女は自分の将来を他人に委ねるつもりはなかった。
「はい」
エルミラは答えた。
「わたくしは、殿下との婚約を続けたいと思っております」
「それは、王妃となる務めを果たすためか?」
「それも理由の一つですわ」
彼女は穏やかに微笑んだ。
「ですが、それだけではありません。殿下は、わたくしの意見を聞いてくださいます。わたくしが間違っていれば、理由を示して指摘してくださる。そして、わたくしにも殿下の判断を問い直す機会を与えてくださいます」
「……それが、君の望みなのか?」
「ええ。わたくしは、ただ命令に従うだけの妻になりたいわけではありません。殿下と共に考え、共に責任を負える人間でありたいのです」
ロレンシオは、深く頷いた。
「私も、そう思っている」
二人は再び歩き始めた。
そこに、恋人同士のような甘い言葉はなかった。しかし、二人は初めて、婚約という立場の向こう側にいる一人の人間として、互いの意思を確かめ合ったのだった。




