選ばれるはずだった女
「では、イネス嬢」
国王の声が広間に響いた。
「最後に確認する。あなたは、エルミラ公爵令嬢が自分に嫌がらせをしたと、今も主張するのか」
イネスは顔を上げた。大勢の視線が自分に集まっている。
これまで、彼女は何度も自分に言い聞かせてきた。自分は間違っていない。平民であっても努力すれば道は開ける。身分の差を理由に、最初から可能性を諦める必要はない。それは、間違いではなかった。彼女が特待生として王立学園へ入学したことも、必死に勉強して優秀な成績を収めたことも、ロレンシオに認められるほどの能力を身につけたことも、全て彼女自身の努力によるものだった。
だが、いつからだろう。 努力によって道を切り開くことと、望むものを手に入れるために他人を退けることの区別が、つかなくなってしまったのは。
「わたくしは……」
イネスはロレンシオを見た。
彼は彼女を見返していた。その眼差しには、かつての優しさが残っていた。しかし、そこにあるのは無条件の庇護ではない。彼女の言葉を聞き、行為を確かめ、正しく判断しようとする王太子の眼差しだった。
「殿下は、わたくしを愛してくださっています」
イネスは、漸くそれだけを口にした。
「それは、嘘ではありませんよね?」
ロレンシオは目を閉じ、短く息を吐いた。
「嘘ではない」
彼は答えた。
「君を愛していたことは、事実だ」
イネスの瞳に、微かな希望が浮かんだ。
「でしたら――」
「だが、君を愛していることと、君の望みを全て叶えることは違う」
その言葉に、彼女の表情が凍りついた。
「私は君に、将来の道をいくつも示したはずだ。君の能力を生かせる仕事を紹介することも、教育事業に携わる機会を用意することも出来ると伝えた。それは、君が平民だから相応の場所に収まれという意味ではなかった」
「では、どうして……」
「君が望むものを、私が与えられるとは限らないからだ」
ロレンシオの声は穏やかだった。
「私は君を愛していた。しかし、君と結婚することを約束したことはない。君が私の愛情を、将来の地位を得るための保証だと考えていたのなら、それは私の意図とは違う」
イネスは首を横に振った。
「違います。わたくしは、ただ……」
「エルミラがいなければ、私が君を選ぶと思ったのか?」
彼女は答えられなかった。
「だから、彼女を退けるために、事実ではない告発をしたのか?」
「わたくしは、エルミラ様が嫌いだったわけでは……」
「ならば、なぜ彼女が君を嫌がらせたと訴えた?」
ロレンシオは、責めるような口調ではなかった。だからこそ、イネスは逃げ場を失った。
「君がエルミラをどう思っていたかは、今回の問題とは別だ。君が彼女に嫉妬したとしても、それ自体を罪に問うつもりはない。だが、嫉妬を理由に事実を歪め、彼女の名誉を傷つけたのなら、話は違う」
「……わたくしは」
イネスの声が震えた。
「わたくしは、殿下のことが好きだったのです」
「知っている」
「ずっと、お側にいたかったのです」
「それも知っている」
「でしたら、どうして……!」
涙が頬を伝った。
「どうして、わたくしを選んでくださらなかったのですか!」
広間が静まり返った。
ロレンシオは、すぐには答えなかった。
彼女の涙を見ていると、胸が痛んだ。自分もまた、彼女に恋をしていたのだ。二人で過ごした時間は楽しかった。身分を意識せずに話せる相手は貴重だった。彼女の努力を尊敬していたし、彼女が夢を語る姿を好ましく思っていた。
しかし、彼が彼女に惹かれた理由は、彼女が王太子妃になれるからではなかった。そして、彼女を愛したことは、王太子としての責務を捨てる理由にはならなかった。
「イネス」
彼は静かに告げた。
「君は、私に選ばれなかったことを、エルミラのせいにした」
イネスの涙が止まった。
「だが、君が私の伴侶として選ばれなかった理由は、身分だけではない。君は、私が何を大切にしているのかを知ろうとしなかった」
「そんな……」
「私は、君が努力して学ぶ姿を尊敬していた。知らないことを尋ね、よりよい方法を考え、自分の力で未来を切り開こうとする君が好きだった」
ロレンシオは、一度言葉を切った。
「だが、君はいつからか、自分が望むものを手に入れるために、他人が積み重ねてきたものを取り除こうとするようになった」
イネスは、何も言えなかった。
「私は君のことを愛していた。だからこそ、君が過ちを犯す前に気づいてほしかった。君の望む未来が、誰かの犠牲の上にしか成り立たないものなのか、考えてほしかった」
「……殿下」
「しかし、君は私の言葉を聞こうとしなかった」
ロレンシオの声に、初めて寂しさが滲んだ。
「私が君を愛しているという事実だけを、何度も確かめた。だが、私が何を考え、何を守ろうとしているのかには、興味を持たなかった」
イネスは、彼を見つめた。
彼が自分に向けていた愛情は、本物だった。けれど、自分はその愛情の中に、何を見ていたのだろう。彼の笑顔。優しい言葉。贈り物。二人きりの時間。そのどれもが、彼女にとっては特別なものだった。
しかし、ロレンシオがエルミラと語り合っていた国の将来や、王族としての責任について、イネスは理解しようとしなかった。自分が彼の隣に立てば、そうしたことも学べると思っていた。彼の隣に立つために、自分が何を学ぶべきなのかを考えることなく。
「……わたくしは、間違っていたのでしょうか」
イネスの声は、ひどく小さかった。
「努力すれば、身分を越えられると思ったことも?」
「それは間違いではない」
ロレンシオは、はっきりと答えた。
「君が平民であることは、君の可能性を否定する理由にはならない。だが、努力したことを理由に、他人が君に譲らなければならないわけでもない」
イネスは唇を震わせた。
「君には、君自身の力で進める道があった。今も、完全に失われたわけではない。だが、今回のことについては責任を取ってもらう」
国王が頷いた。
調査によって、イネスの告発に事実と異なる部分があることは明らかになっていた。そして、デメトリオと連携し、エルミラの立場を揺るがそうとしていたことも、二人のやり取りや証言から確認されつつあった。
ただし、処分は身分や感情によって決めるべきものではない。国王は、関係者への聞き取りと記録に基づき、正式な判断を下すことにした。
「イネス嬢。あなたは、王太子の婚約者に対して虚偽を含む告発を行い、王家の婚約に関する問題を不当に利用しようとした疑いについて、引き続き調査を受けることになる。調査の結果に応じて、学園の特待生資格を含む処遇を改めて決定する」
イネスは、呆然と立ち尽くしていた。
自分は、王太子妃になれなかった。それだけではない。自分が努力して手に入れたはずの未来まで、危うくなっている。
けれど、彼女はまだ、そのことを本当の意味では理解していなかった。
失ったものの大きさよりも、ロレンシオが自分を選んでくれなかったという事実の方が、ずっと痛かったからだ。




