愛されているという誤算
イネスは、ロレンシオの愛情を疑っていなかった。
彼は自分に会いに来る。忙しい公務の合間にも時間を作り、贈り物をし、二人きりのときには王太子としての堅苦しさを忘れて笑う。 それは、誰にでも向ける態度ではない。エルミラに対してさえ、彼はあのように振る舞わないのだ。ならば、なぜ自分が正妃になれないと決めつける必要があるのだろう。
ある日の午後、イネスは学園の庭園でロレンシオと向き合っていた。
「殿下は、わたくしを愛してくださっていますよね?」
突然の問いに、ロレンシオは目を瞬かせた。
「勿論だが。どうした?」
「わたくしは、殿下のお役に立ちたいのです。これから先も、ずっとお側にいたいのです」
「君が望むなら、卒業後の仕事については力になれる。以前も話しただろう?」
「お仕事のことではなくて……」
イネスは俯いた。
「わたくしは、殿下にとって、どのような存在なのでしょうか」
ロレンシオは、少し考えてから答えた。
「大切な人だ」
その言葉に、イネスの顔が輝いた。
「でしたら――」
「だが、イネス」
ロレンシオは、彼女の言葉を遮るように続けた。
「私が君を大切に思っていることと、君が王妃になることは別の問題だ」
イネスの笑顔が止まった。
「……どうしてですか?」
「王妃は、私の妻というだけの立場ではない。王族として宮廷を支え、外交に携わり、王家の将来に責任を負う。私たちの結婚は、私個人の希望だけで決められるものではないんだ」
「でも、殿下は王太子なのですから、ご自分の結婚相手くらい、ご自分で決められるのではありませんか?」
「最終的な判断に私の意思が関わることは当然だ。だが、私一人の感情だけで決めてよい問題ではない」
ロレンシオは穏やかに答えた。イネスは唇を噛んだ。
彼が自分を愛していることは認めてくれた。それなのに、彼は自分を選ぶとは言わない。エルミラとの婚約があるからだ。
そう考えると、全ての理由がそこに集約されるように思えた。エルミラがいなければ。エルミラさえいなくなれば。ロレンシオは、自分を選んでくれるかもしれない。
彼女の胸に、暗い考えが芽生えた。
一方、デメトリオは、エルミラの好意を確信しつつあった。彼女は彼に会えば微笑み、訓練の成果を尋ね、時には彼の疲れを気遣ってくれる。その優しさが自分だけに向けられていると考えるのは、少々都合のよい解釈だったかもしれない。
だが、彼はそう信じたかった。そして、信じるほどに、彼女との結婚が現実的なものに思えてきた。
ある夕刻、デメトリオは訓練場の裏手で、同僚の騎士見習いに話しかけられた。
「最近、随分と機嫌がいいな。何かあったのか?」
「別に」
「隠すなよ。公爵令嬢と親しくなったんだろう?」
デメトリオは、周囲を確かめてから声を潜めた。
「……もし、あの方が俺を選んでくださったら、どうなると思う?」
同僚は呆れたように笑った。
「どうなるって、そりゃ大変な騒ぎになるだろうさ。王太子殿下の婚約者だぞ」
「婚約者であることは、今の話とは別だ。もし婚約が解消されて、その後で俺を選んでくださるなら、ということだ」
「お前、本気で言っているのか?」
「可能性の話だ」
デメトリオは、そう言いながらも、すでにその可能性に心を奪われていた。
エルミラが自分を選ぶ。公爵が娘の希望を認める。自分は公爵家の後ろ盾を得て、騎士としての出世を早める。或いは、家門に相応しい爵位を与えられるかもしれない。
子爵家の三男として生まれた自分には、何も保証されていない。父の爵位を継ぐのは長男だ。次男にも、家の都合によっては相応の道が用意されるかもしれない。しかし、三男である自分には、自分自身で未来を切り開くしかなかった。それを不公平だと嘆くつもりはない。
ただ、目の前に道が開かれたのなら、利用して何が悪いのだろう。エルミラが自分を好きだというのなら。自分も彼女を好きなのだから。彼女と結婚して利益を得たとしても、誰も損をするわけではないではないか。デメトリオは、そう考えた。
彼はまだ、エルミラが自分をどれほど信頼しているのかを理解していなかった。彼女にとって、彼は身分や立場を忘れて心を休められる相手だった。だからこそ、彼女は彼を疑わなかった。
彼が自分の好意を、出世のための切符として数え始めているなど、考えもしなかった。
最初に動いたのは、イネスだった。
王宮で開かれた小規模な茶会の後、彼女はロレンシオに相談を持ちかけた。
「殿下。お話ししたいことがございます」
「何だ?」
「エルミラ様のことで……」
ロレンシオの表情が、僅かに変わった。
「エルミラがどうかしたのか?」
「わたくし、あの方に嫌われているようなのです」
「なぜ、そう思う?」
「茶会で冷たくされたり、衣装について嫌味を言われたり……。行事の連絡も、わたくしだけ遅れて届くことがございました」
イネスは目を伏せた。
「わたくしが平民だからでしょうか。殿下に寵愛していただいていることが、気に入らないのかもしれません」
ロレンシオは、暫く彼女を見つめていた。
イネスが傷ついているのなら、慰めてやりたい。彼女を愛しているのだから、それは自然な感情だった。
だが、彼女の訴えは、王太子の婚約者に関するものでもある。個人的な感情だけで判断することは出来ない。
「具体的に、いつ、どこで、何をされた?」
「それは……」
「茶会というのは、いつの茶会だ? 衣装について何と言われた? 連絡が遅れたというのは、どの行事のことだ?」
イネスは言葉に詰まった。
実際には、エルミラから露骨な嫌がらせを受けたことなどない。衣装については、イネス自身がエルミラのドレスを贅沢だと批判した。エルミラはそれに対して説明をしただけだった。行事の連絡も、特待生として参加する学生全員に同じ手順で送られていた。イネスが確認を怠り、後になって気づいたことが一度あっただけだ。
だが、それをそのまま説明すれば、嫌がらせだと訴えることは出来なくなる。
「殿下は……わたくしの言葉を信じてくださらないのですか?」
「信じたいと思っている。だからこそ、事実を確かめたいんだ」
ロレンシオは、彼女の手を取った。
「私は君を愛している。だが、そのことと、エルミラが不正をしたかどうかは別の問題だ。もし彼女が君に不当な扱いをしたのなら、確認したうえで対処する。だが、君が傷ついたというだけで、彼女を罰することは出来ない」
イネスは、彼の手の温もりを感じながら、胸の中が冷えていくのを感じた。愛していると言ってくれる。それなのに、エルミラを庇うのだ。やはり、婚約者だからだ。ならば、婚約者でなくなればいい。
イネスは顔を上げ、涙を浮かべて微笑んだ。
「……申し訳ございません。殿下を困らせるつもりはなかったのです」
「君が困っているのなら、話してくれて構わない。但し、事実と感情は分けて考えよう」
その言葉を、イネスは最後まで受け入れることが出来なかった。
彼女はその日、ロレンシオの優しさを感じながら、彼を自分のものにするための方法を考え始めた。
デメトリオもまた、動き始めていた。
彼は護衛補助として、宮廷内でエルミラの行動予定や、王太子との面会に関する情報に触れる機会があった。本来ならば、それらは職務のために知る情報だった。だが、彼はそれを別の目的に使おうとしていた。
エルミラがロレンシオと政治的な話をしている場面を、彼は何度か目撃していた。その会話を切り取り、イネスを遠ざける相談だったと証言できないだろうか。エルミラがイネスに特別な親しさを示さなかったことを、嫌がらせだと主張できないだろうか。
実際の言葉や状況を正確に伝えれば、何の問題もないことは解っていた。だから、彼は事実を少しずつ歪めることにした。
ある日の午後、デメトリオはイネスに接触した。
「あなたも、エルミラ様に冷たくされたのですか?」
イネスは驚いたように顔を上げた。
「デメトリオ様も、何かご存じなのですか?」
「護衛の仕事をしていれば、色々なことが耳に入ります。殿下とエルミラ様が、あなたのことを話しているのを聞いたこともあります」
イネスの瞳に、期待が浮かんだ。
「どのようなお話を?」
「……詳しいことは、今は申し上げられません。ただ、あなたが不当に扱われているのなら、私も証言できます」
デメトリオは、心の中で自分の言葉を正当化した。
彼はエルミラを愛している。少なくとも、愛情が全くないわけではない。彼女を自分の妻にしたいと思っている。彼女が王太子との婚約を解消されれば、傷物と見なされ、将来の縁談が難しくなるかもしれない。だからこそ、自分が彼女を引き受けるのだ。
公爵も、娘を可愛がっているのなら、彼女の将来を守るために自分を認めてくれるだろう。その際に爵位を与えてくれれば、全てがうまくいく。彼は、そう信じていた。
だが、その計算には、肝心なことが抜け落ちていた。エルミラ自身が、自分の名誉を傷つけた男を望むはずがないということ。
そして、公爵が娘を愛しているという事実は、デメトリオの思惑を助けるどころか、彼を破滅させる理由になるということだった。
ロレンシオは、正式な調査を命じた。
婚約者に対する告発を、最初から無条件に退けるつもりはなかった。王太子の婚約者だからこそ、疑惑があれば確かめる必要がある。
しかし、調査が始まると、奇妙な点が次々に見つかった。イネスが嫌がらせを受けたと主張する日時には、エルミラが別の公的な会合に出席していた。衣装についての発言は、同席していた仕立師たちの証言と食い違っていた。行事の連絡についても、送付記録を確認すると、イネスへの通知は他の学生と同じ日に行われていた。
そして、デメトリオの証言には、更に重大な問題があった。彼がエルミラとロレンシオの会話を聞いたと主張する場所の一部は、騎士見習いが立ち入ることを許されていない区域だったのだ。
ロレンシオは報告書を閉じた。
「……そういうことか」
彼の声は静かだった。
まだ、全てが明らかになったわけではない。だが、これは単なる誤解では済まされない可能性があった。
自分が愛する女性と、自分の婚約者。その二人の間に生じた感情の行き違いなら、個人的な問題として解決することも出来ただろう。
しかし、虚偽の告発によって婚約者の名誉を傷つけ、王家の婚約そのものを揺るがそうとしているのなら、話は別だった。
ロレンシオは窓の外を見た。イネスのことは、今でも愛している。だからこそ、彼女が何をしたのかを確かめなければならない。
愛しているから許す。愛しているから事実を見ない。それは、王太子として許される態度ではなかった。
数日後、エルミラは父である公爵に呼ばれた。
「エルミラ。お前に確認したいことがある」
公爵は、娘を前にして書類を机に置いた。
「王太子殿下の婚約に関して、妙な告発が出ている。お前が特待生のイネス嬢を嫌がらせによって追い詰め、殿下から遠ざけようとしていたという話だ」
エルミラは、暫く黙っていた。
それから、静かに答えた。
「そのようなことはしておりません」
「そうだろうと思っている。だが、私はお前の父親であると同時に、公爵だ。お前の言葉だけで判断するわけにはいかない」
「承知しております」
エルミラは頷いた。父が自分を信じていないとは思わなかった。
公爵は、娘を愛していた。だからこそ、彼女の言葉だけで相手を処罰することも、反対に相手の訴えを無視することも出来ないのだ。
公爵は書類をめくった。
「問題は、証言者の一人だ。デメトリオ・ファリアスという騎士見習いが、お前の行動について証言している」
エルミラの指先が、僅かに震えた。
「……デメトリオが?」
「ああ。お前と親しくしていた男だと聞いているが」
エルミラは、すぐには答えられなかった。
デメトリオ。彼と交わした会話。訓練場で見た笑顔。疲れているときにかけてくれた言葉。自分が彼に好意を抱いていることを、彼は知っていたのだろうか。もし知っていたのなら。
エルミラは、そこまで考えて、首を横に振った。
まだ、何も確定していない。証言が誤解によるものかもしれない。彼が事情を知らず、誰かに利用された可能性もある。彼女は、感情だけで判断しないように努めた。
「父上。調査の結果を待ちますわ」
公爵は、娘の顔を見つめた。
「……そうか」
彼はそれ以上、何も尋ねなかった。
その夜、エルミラはなかなか眠れなかった。
デメトリオを好きだった。その気持ちは、今も残っている。だからこそ、彼が自分を裏切ったという可能性を、簡単には受け入れられなかった。
けれど、もし本当にそうだったなら。
彼女は、目を閉じた。恋は、相手を信じたいと思わせる。だが、信じたいという気持ちだけで、相手の行為まで正当化することは出来ない。
それをエルミラは知っていた。知っていたはずだった。
宮廷の公式行事の日が近づいていた。
イネスは、自分の訴えが漸く実を結ぶのだと信じていた。デメトリオもまた、エルミラとの婚約が解消されれば、自分に機会が巡ってくると期待していた。
二人は、同じ目的のために手を組んだ。王太子の婚約者を退けること。そうすれば、イネスはロレンシオの隣に立てるかもしれない。デメトリオは公爵令嬢を妻に迎え、望んでいた地位を手に入れられるかもしれない。二人にとって、それは恋を叶えるための行動だった。
だが、ロレンシオにとっては違った。エルミラにとっても、違った。
彼らが守ろうとしていたのは、自分たちの恋ではない。国と家門の秩序。公的な判断の公正さ。そして、信頼を裏切らずに務めを果たすという、支配する側に立つ者の責任だった。
公式行事の朝、ロレンシオは王宮の鏡の前で身なりを整えた。王太子としての正装に身を包み、胸元の勲章を確かめる。
イネスの笑顔が脳裏をよぎった。彼女と過ごした時間は、確かに幸福だった。その幸福まで、偽りだったとは思わない。しかし、彼女が自分の愛を利用し、他者の名誉を傷つけようとしたのなら、見過ごすことは出来ない。
同じ頃、エルミラもまた、王妃候補として相応しい装いを整えていた。絹のドレスには、繊細な刺繍が施されている。宝飾品は控えめながらも品格を備え、髪には王家から贈られた髪飾りが留められていた。
彼女は鏡の中の自分を見つめた。デメトリオへの恋は、叶わないとわかっていた。だからこそ、安心していられた。彼と結ばれなければならないとは思わなかった。彼を手に入れるために、何かを犠牲にするつもりもなかった。ただ、彼と話す時間が好きだった。
その気持ちは、本物だった。だからこそ、もし彼が自分の好意を利用したのなら、その事実は悲しかった。
エルミラは、ゆっくりと息を吐いた。
「参りましょう」
侍女に告げ、扉へ向かう。
その先には、王太子と公爵令嬢、そして二人の恋を利用しようとした者たちが待っている。
四人の恋が、同じ場所で決着を迎えようとしていた。
そして、その場で問われるのは、誰が誰を愛していたかということだけではない。
愛しているという理由で、何をしても許されるのか。
その問いに、四人はそれぞれの答えを示すことになる。
答えを誤った者が失うものは、恋だけではなかった。




