贅沢という名の仕事
エルミラの衣装合わせに、イネスが招かれたのは偶然だった。
王立学園では、優秀な特待生に宮廷行事を見学させる制度がある。王族や上位貴族がどのような仕事をしているのかを知り、将来の進路に役立てるためのものだった。
今回の見学先は、王太子妃候補の衣装を準備する王宮の一室である。イネスは、部屋へ足を踏み入れた途端、思わず息を呑んだ。窓辺に置かれた衣装掛けには、何着ものドレスが並んでいる。
淡い青の絹に銀糸の刺繍を施したもの。深い緑の布地に金糸で植物の模様を縫い取ったもの。繊細なレースを幾重にも重ねたもの。胸元には宝石があしらわれ、袖口には細やかな刺繍が施されている。その一着一着が、平民の家庭であれば何年も働かなければ手に入らないほどの価値を持っているだろう。
その中心で、エルミラが仕立師の説明を聞いていた。
「こちらのレースは、南部の工房に依頼したものです。前回よりも細い糸を使っているそうですわ」
「仕上がりは見事ね。ただ、袖口の刺繍はもう少し控えめにしていただけるかしら。こちらの模様と重なると、少し華美になりすぎる気がするの」
「承知いたしました」
仕立師は丁寧に頭を下げ、手元の帳面に変更を書き込んだ。
エルミラは別の衣装に目を向けた。
「こちらの絹は、どちらの商会から?」
「ビジャレホ領の商会でございます。先月の注文分を納めていただきました」
「納期は予定どおりだったのね。では、残金の支払いも契約に従って進めてください。工房への支払いが遅れないように」
「畏まりました」
イネスは、思わず口を開いた。
「これほどのお金があれば、困っている人たちを何人も救えるのではありませんか?」
部屋の空気が、僅かに変わった。仕立師が顔を上げる。侍女たちが互いに目を合わせた。しかし、エルミラは不快そうな顔をしなかった。
「そうね。確かに、この衣装にかかる金額があれば、当面の食料に困っている家庭を助けることは出来るでしょう」
イネスは、同意を得られたと思った。
「でしたら、どうしてこんなに贅沢をなさるのですか?」
「その質問に答える前に、一つ聞いてもいいかしら」
エルミラは、衣装掛けの側に置かれた注文書を手に取った。
「あなたが今着ている服は、どこで仕立てたもの?」
「これは、学園の制服です」
「では、あなたの普段着は?」
「母が仕立ててくれたものもありますし、市場で買うこともあります」
「市場で服を買うとき、代金は誰に渡るのかしら」
「お店の人です」
「そうね。では、お店の人が布を買うとき、そのお金は誰に渡る?」
「……布を作った人でしょうか」
「そのとおりよ」
エルミラは、注文書に視線を落とした。
「この絹の代金は織物商へ、レースの代金は職人組合へ、刺繍の代金は針子たちへ支払われる。宝飾品を注文すれば、細工師や商人だけでなく、鉱山で働く人々の収入にも繋がるわ」
「でも、それほど高価な品でなくてもよいのではありませんか?」
「勿論。必要以上の浪費を正当化するつもりはないわ」
エルミラは、イネスの目を見た。
「けれど、私たちが地位に相応しい衣装を一切注文しなくなれば、職を失う人々がいることも事実なの。絹を買わなければ、養蚕農家や織物職人の仕事が減る。レースを使わなければ、その技術を受け継ぐ者がいなくなる。刺繍を施さなければ、針子たちの工房は維持できなくなるかもしれない」
「それなら、職人たちに直接お金を配ればよいのでは?」
「一度だけお金を配れば、その人たちの技術や工房まで残せるかしら」
イネスは答えられなかった。
「仕事があれば、職人は技術を磨き、弟子を育てられる。商人は仕入れを続けられるし、農家は次の年の生産に投資できる。私たちの消費が、その循環を支えている面もあるのよ」
エルミラは、衣装の裾をそっと持ち上げた。
「贅沢をすれば何でも許される、という話ではないわ。地位と資産に応じて社会へお金を流すことには、責任も伴うということ」
「……それでも、貴族の方々は十分に恵まれていらっしゃいます」
「ええ。だからこそ、私たちには果たすべき務めがあるのよ」
その返事は、驕り高ぶったものではなかった。
イネスには、寧ろ不思議だった。どうしてエルミラは、自分の贅沢を少しも恥じていないのだろう。どうして、あれほど高価なドレスを身にまといながら、職人の生活について語ることが出来るのだろう。
イネスは、まだ理解できなかった。彼女の目に映っていたのは、贅沢を楽しむ公爵令嬢と、それを正当化するための理屈だった。
エルミラの目に映っていたのは、衣装を注文することによって支えられる、数多くの人々の暮らしだった。
同じドレスを見ているのに、二人が見ているものは違っていた。
数日後、王立学園では領地経営に関する講義が行われた。
講師は、複数の領地で財務監査を担当した経験を持つ官僚だった。教壇には各領地の収支報告書が並べられ、学生たちは税収と支出の関係について学んでいた。
「では、領民が納めた税金は、何に使われるべきでしょうか」
講師の問いに、イネスが手を挙げた。
「領民の生活を守るためです。街道や橋の整備、治水、兵士の維持などに使われるべきだと思います」
「よろしい。では、その支出を差し引いた残りは?」
「領主の収入になるのだと思います」
「そのとおりです。では、領主がその収入で豪華な暮らしをしているとしたら、どう考えますか?」
イネスは迷わず答えた。
「領民が苦労して納めた税金なのですから、必要以上に贅沢をするのは問題だと思います」
教室の一部から、小さな賛同の声が上がった。
講師は頷いた。
「必要以上の徴税や、領政に必要な支出を怠る行為は、確かに問題です。では、税収の全てが領主一家の懐に入っていると考えるのは正確でしょうか?」
今度は、エルミラが口を開いた。
「いいえ。税収はまず領政のために管理されるはずです。街道の補修、治水、領兵の維持、備蓄、災害への備え。それらを賄ったうえで、制度に従って領主家の収入が定められるのですから」
イネスが振り返った。
「ですが、領主家の収入だって、元は領民が納めた税金でしょう?」
「その一部が領主家の収入として認められる制度なのは確かよ。但し、税収そのものと領主家の私的な収入を混同してはいけないわ」
「どう違うのですか?」
「例えば、領内の橋が壊れたとしましょう。修理しなければ、農作物を運ぶ商人も、町へ通う領民も困る。だから領政の予算から修理費を出す。それは領主一家が贅沢をするためのお金ではないでしょう?」
「それは、そうですが……」
「では、領兵が必要とする武具や、凶作に備えた穀物の購入費は? どれも領民の暮らしを守るために必要な支出よ」
エルミラは、落ち着いた口調で続けた。
「勿論、帳簿を確認し、不正があれば追及する必要があるわ。領主が制度を悪用してよいはずがないもの。けれど、領政に必要な支出まで贅沢と呼ぶのは違うと思うの」
イネスは唇を結んだ。言っていることは理解できる。
だが、それで貴族が豪華な暮らしをしていることまで納得できるわけではなかった。
「上位貴族の中には、領地の税収に頼らず、宮廷の官職や商業事業から得た収入で生活している家門も多いのですよ」
講師が補足した。
「領地の税収を全て領政に充て、領主一家の生活費は別の収入から賄う家もあります。勿論、全ての家がそうだとは申しませんが」
教室が静かになった。
イネスは、初めて知る事実に戸惑っていた。貴族は、領民の税金を好き勝手に使っているのだと思っていた。それが間違いだとまでは言い切れない。実際、領民を苦しめる領主もいるのだろう。しかし、全ての貴族が同じだと考えていたことは、確かに正確ではなかった。
「イネス嬢」
講師が彼女を見た。
「あなたの問題意識は大切です。ですが、制度を批判するのであれば、まず制度を正確に理解する必要があります。そうでなければ、正すべき問題と、維持しなければならない仕組みの区別がつきません」
「……はい」
イネスは返事をした。
その日の講義が終わった後、彼女はエルミラに近づいた。
「エルミラ様は、領民のことを本当に考えていらっしゃるのですね」
「当然のことよ。領地が荒れれば、領主家も立ち行かなくなるもの」
「それは、ご自身の家のためでもあるのですか?」
「ええ」
エルミラは、あっさりと認めた。
「領民が豊かであれば領地は栄える。領地が栄えれば、家門も安定する。両者の利益が一致するように努めるのが、領主の仕事でしょう?」
イネスは、その答えに眉を寄せた。
彼女は、貴族は領民のために尽くすべきだと思っていた。そこに自分たちの利益を持ち込むことは、どこか不純に感じられた。
しかしエルミラは、領民の利益と家門の利益を対立するものだとは考えていない。領地を守ることは家門を守ること。家門を守ることは、領民の暮らしを守る基盤を維持すること。だからこそ、彼女にとって領地経営は慈善事業ではなく、責任ある仕事だった。
「……貴族の方々は、難しいことを考えていらっしゃるのですね」
「難しいかどうかは、立場によるのではないかしら」
エルミラは微笑んだ。
「あなたにも、あなたの立場で考えるべきことがあるでしょう?」
その言葉に、イネスは何も答えなかった。
彼女は自分の立場を変えたいと思っていた。だが、立場が変われば、考えなければならないことまで変わる。
そこまでは、まだ思い至っていなかった。
貴族の茶会は、イネスにとって退屈なものに思えた。
招かれた夫人たちは、季節の花を褒め、菓子の味を話題にし、ドレスや宝石について感想を交わす。何が楽しいのだろう。
平民の女性たちが仕事の合間に集まり、家族の愚痴をこぼしながらお茶を飲むのと、大して変わらないではないか。イネスは、そう考えていた。
ところが、茶会の半ばに差しかかった頃、話題が変わった。
「そういえば、南街道の橋が傷んでいるそうですわね」
ある伯爵夫人が、何気ない調子で口にした。
「ええ。先日、商会の者から聞きました。雨が続けば、荷馬車が通れなくなるかもしれないとか」
「それは困りますわ。来月は北部へ布地を運ぶ予定があるのです」
「では、橋の管理を担当する役人に知らせておきましょう。今のうちなら、補修も間に合うかもしれません」
別の夫人が頷いた。
その隣では、領内の工房が職人不足に悩んでいるという話が始まっていた。
「腕のよい刺繍職人が何人か、王都へ移ってしまったそうなのです」
「王都の工房が高い賃金を提示したのでしょうね。こちらの工房にも、弟子を育てる余裕が必要ですわ」
「ならば、商会を通じて仕事を融通できないかしら。閑散期に注文が減るのなら、こちらで別の品を発注してもよいのですけれど」
エルミラは、それらの会話を聞きながら、ときおり質問を挟んでいた。橋の管理者は誰か。補修に必要な資材はどこから調達できるか。工房が不足しているのは熟練職人なのか、それとも見習いなのか。彼女は話題を整理し、必要な情報を覚え、後日確認すべきことを頭の中で組み立てていた。
イネスは、次第に戸惑い始めた。これは単なるおしゃべりではない。彼女たちは、商家の経営状況や領地間の取引、職人の雇用、街道の安全について情報を交換している。しかも、誰もが相手に何を話すべきか、どこまで話すべきかを慎重に判断していた。
ある夫人が、隣領の商会について尋ねたとき、別の夫人は笑顔を崩さないまま、話題を別の品物へ移した。イネスには理由がわからなかった。だが、エルミラは理解しているようだった。
取引先の事情を不用意に明かせば、商会に損害が及ぶことがある。ある家門の後継者について話すにしても、確かな情報と憶測は区別しなければならない。何気ない言葉が、誰かの利益になり、誰かの不利益になる。だから、貴族の女性たちは笑顔のまま言葉を選ぶ。それが社交だった。
「お茶会は、ただのおしゃべりではないのですね」
帰り際、イネスはエルミラに言った。
「勿論、楽しい時間でもあるわ」
エルミラは扇を閉じた。
「でも、家門を守り、領民の利益を守るための情報収集の場でもあるの。誰と交流を深めるべきか、どの取引に利益があるか、どの問題を早めに解決すべきか。そういうことを考えながら、お話ししているのよ」
「皆さん、いつもそんなことを?」
「そうね。夜会も狩猟も、単なる遊びではないわ。交流を深め、情報を集め、互いの利益を調整する機会でもあるの」
エルミラは少しだけ表情を引き締めた。
「社交は、言葉と表情、そして洗練された仕草で行う交渉でもあるのだから」
イネスは、黙って彼女を見つめた。
貴族たちはいつも遊んでいる。自分たちが納めた税金で贅沢をし、茶会や夜会に明け暮れている。そう思っていた。
だが、その場で交わされていた話の中には、街道の補修や職人の雇用に直結するものがあった。それでもイネスは、心から納得することが出来なかった。
彼女には、どうしても受け入れがたいことがあったのだ。貴族たちは、豊かな生活を送りながら、その生活自体が仕事の一部だと考えている。
ならば、自分も貴族になればよいのではないか。王太子の隣に立つことが出来れば、自分もその世界の一員になれるのではないか。
エルミラが当たり前のように口にする責任も、自分がその立場になってから学べばよいのではないか。
イネスの中で、疑問はいつしか願望へと姿を変えていた。そして願望は、少しずつ、別のものへ変わり始めていた。
――エルミラ様さえいなければ。
その考えが浮かんだ瞬間、イネスは自分の胸に手を当てた。自分はロレンシオを愛している。それは本当だ。けれど、彼に愛されている自分が、平民のまま終わる必要があるのだろうか。彼に愛されているのなら、その愛を未来に繋げてもよいのではないか。
自分は努力して学園へ入った。王太子に認められるほどの能力も身につけた。ならば、正妃になることだって、絶対に不可能とは言い切れないはずだ。
イネスは、まだ知らなかった。彼女が手に入れたいと願う地位は、愛されているという事実だけでは手に入らないことを。
そして、その地位を得るために最初に切り捨てようとしているものが、ほかでもない、彼女自身の恋の純粋さだったことを。




