叶わないと知っている恋
ロレンシオ・サジャスは、イネスの笑顔が好きだった。王太子である彼に向かって、身分を恐れて萎縮することもなく、かといって媚び諂うこともなく、思ったことを率直に口にする。王族の言葉一つに廷臣たちが顔色を変え、何気ない質問にさえ政治的な意図を読み取ろうとする日々の中で、彼女との時間は貴重だった。
王立学園の中庭。噴水の水音を聞きながら、ロレンシオは差し出された菓子を一つ摘まんだ。
「今日は随分と甘いな」
「殿下がお好きだと伺いましたから」
「昨日は甘すぎるものは苦手だと言ったはずだが?」
「ですから、いつもより少しだけ甘くしたんです。昨日のお菓子よりは控えめですよ」
得意げに笑うイネスに、ロレンシオも笑みを返した。成程、確かに昨日のものより甘さが抑えられている。
「君は妙なところで努力家だな」
「殿下に喜んでいただきたいんですもの」
イネスは頬を染めた。
初めて彼女を見たときのことを、ロレンシオは覚えている。
学園の入学式。平民出身の特待生として紹介された彼女は、緊張で頬を強張らせながらも、王族に対する過剰な畏怖より、これから始まる学園生活への期待を瞳に輝かせていた。その姿が目に留まった。
話してみれば、彼女は聡明だった。知らないことを知ったかぶりせず、解らないことは質問する。身分を理由に卑屈になることもなく、与えられた機会を最大限に生かそうと努力していた。
ロレンシオは彼女に惹かれた。それは間違いなく恋だった。
「イネス。卒業後の進路は考えているか?」
「えっ?」
「君ほど優秀なら、特待生制度の運営に携わることも出来るだろう。或いは、平民向けの教育事業を立ち上げるのもいい。君自身、平民の子供たちが何を必要としているか、よく判るはずだ」
イネスは瞬きをした。王太子が自分の将来を考えてくれている。そう思った瞬間、胸が熱くなった。
「殿下のお側で、お役に立てるのですね?」
「君の能力を生かせる場所は多い。私の側でなければならない理由はないが」
ロレンシオは、何気なく答えた。
彼にとって、イネスが自分の能力を生かし、多くの平民の子供たちに教育の機会を与えることは喜ばしい未来だった。彼女が望むなら、適切な後援者を紹介することも出来る。
だが、イネスが思い描いていた未来は違った。彼の側。それは、王太子の側近として働くという意味ではない。彼の隣に立つという意味だった。
婚約者のエルミラ・ビジャレホがいる限り、ロレンシオは自分を正式な伴侶に選べない。
けれど、彼は自分を愛している。それならば。イネスは、そこで初めて考えた。自分が彼の隣に立つ未来は、本当にあり得ないのだろうか、と。
その考えは、まだ小さな種に過ぎなかった。
ロレンシオは気づかなかった。
彼女が微笑んだまま、彼の言葉の中から、自分に都合のよい部分だけを拾い上げていたことに。
エルミラ・ビジャレホは、デメトリオ・ファリアスと話す時間が好きだった。
王太子の婚約者である彼女には、いつも誰かの目があった。
公爵令嬢として相応しい振る舞いを求められ、王妃となるための教育を受け、宮廷の人間関係を学び、領地経営や外交について知識を深める。
食事の席で交わす何気ない会話にも、相手の意図が潜んでいることがある。笑顔一つ、返事の間一つにも、慎重さが求められる。
そんな日々の中で、騎士見習いのデメトリオと話しているときだけは、少しだけ肩の力を抜くことが出来た。
「エルミラ様は、今日もお勉強ですか?」
訓練場の脇を通りかかった彼が、汗を拭いながら声をかけた。
「ええ。午後は外交史の講義、その後は王妃陛下との面談よ」
「お忙しいですね」
「そうしなければならない立場だから」
エルミラは微笑んだ。
「お疲れにはなりませんか?」
「なるわ。人間ですもの」
「それでも、お休みにはならないのですね」
「私が疲れたからといって、務めがなくなるわけではないもの」
デメトリオは、彼女を見つめた。
その横顔は美しかった。背筋は伸び、言葉遣いは穏やかで、表情には疲れを見せない。それでも、ふとした瞬間に見せる微笑みには、年相応の少女らしさがあった。
彼は以前からエルミラに憧れていた。公爵令嬢であり、王太子の婚約者。自分とは生きる世界が違う女性。だから、憧れは憧れのままで終わるはずだった。
それなのに、最近のエルミラは、自分と話すときに以前よりも柔らかい表情を見せる。彼の話に耳を傾け、ときには冗談に声を立てて笑う。彼女が自分に好意を抱いているのではないか。そう気づいたとき、デメトリオの胸には、喜びと戸惑いが広がった。
そして、その後に続いた感情は、彼自身も予想していなかったものだった。
――もしかしたら、俺にも運が回ってきたのではないか。
公爵令嬢に選ばれた男。王太子妃候補の心を射止めた騎士。
もしエルミラが自分を選ぶなら、公爵も反対できないのではないか。娘を溺愛しているという噂の公爵ならば、娘の望みを叶えるため、自分に相応の地位を与えてくれるかもしれない。
子爵家の三男である自分には、継ぐべき爵位がない。騎士として出世できたとしても、その道のりは長い。だが、公爵家の後ろ盾があれば話は違う。従属爵位の伯爵位くらいなら、夢ではないのではないか。
彼はまだ、エルミラを好きだった。但し、彼女を好きだという気持ちの横に、別の欲望が並び始めていた。
エルミラは、それを知らなかった。彼女にとってデメトリオは、決して結ばれることのない相手だった。だからこそ、安心して好きでいられた。
叶わないと判っている恋は、時に人を自由にする。選択を迫られることがないからだ。
彼女は王太子妃となるために育てられた公爵令嬢であり、ロレンシオは王国を継ぐ王太子だった。二人とも、自分の恋心が国や家門の将来を左右する決定を覆す理由にはならないと理解していた。
学生である今だからこそ許される、密かな恋。卒業し、責任ある立場へ進めば、いずれ終わる。それでよかった。
少なくとも、エルミラはそう思っていた。
王宮の晩餐会は、華やかだった。
磨き上げられた大理石の床に、幾つもの燭台の光が揺れる。絹のドレスがすれ合い、宝石が煌めき、楽団の奏でる音楽が広間を満たしていた。
ロレンシオは、エルミラと向かい合っていた。
「北部の穀物備蓄について、陛下はどうお考えなのかしら」
エルミラが尋ねた。
「今年の収穫は悪くない。だが、国境沿いの冬は厳しい。輸送路が雪で塞がれれば、備蓄の量だけでは足りない可能性がある」
「ならば、秋のうちに街道の補修を急ぐ必要がありますわね。橋の補強も」
「その予算をどこから捻出するかだな。軍備を削るわけにはいかない」
「商業税の見直しはいかがでしょう。北部へ物資を運ぶ商人への負担を一時的に軽減すれば、輸送量が増えるかもしれません」
「その分、他の地域との公平性をどう説明する?」
「免除ではなく、輸送費の一部を補助する形にすれば。災害時の物資供給に関する制度として整備できますわ」
ロレンシオは、考え込むように顎へ手を添えた。
「成程。父上に提案してみよう」
「その際は、商人組合の意見も添えるべきです。実際に街道を使う方々の話を聞かずに制度を作っても、現場に合わない可能性がありますもの」
「君は本当に細かいところまで気が回るな」
「王妃となるのであれば、知らなかったでは済まされませんから」
エルミラは穏やかに答えた。ロレンシオも頷いた。二人の間に、恋人同士の甘い空気はない。だが、互いに対する信頼はあった。
ロレンシオは、エルミラが王妃となった後の姿を想像できた。彼女は自分の隣で、国の行く末を考え、臣下の意見を聞き、時には自分とは異なる判断を示すだろう。その姿は頼もしかった。そしてエルミラも、ロレンシオが王となった後の姿を想像できた。彼は時に厳しい決断を迫られ、個人的な感情を抑えなければならない。それでも、国を守る責務から逃げることはないだろう。二人は、そういう相手として互いを信頼していた。
少し離れた場所から、その光景をイネスが見ていた。
ロレンシオが自分といるときに見せる笑顔とは違う。エルミラと話す彼の表情は真剣で、二人の会話には、自分の知らない言葉が幾つも飛び交っていた。北部の穀物備蓄。輸送路の補修。商業税。物資供給制度。どれも、自分が普段考えることのない話題だった。
イネスは胸の奥に、小さな棘が刺さるのを感じた。ロレンシオは自分を愛している。それなのに、彼が本当に将来を語り合う相手は、エルミラなのだ。
反対側では、デメトリオもエルミラを見ていた。自分と話すときの彼女は、穏やかで優しい。時には疲れた顔を見せ、何気ない話に笑ってくれる。だが、王太子と向き合う彼女は違った。背筋を伸ばし、言葉を選び、国の将来について意見を述べる。その姿には、普段の彼女とは異なる威厳があった。
あの場所に立つ彼女。その隣に立つ男。
デメトリオは、自分の胸に湧き上がる欲望を、もはや見ないふりが出来なかった。
自分も、あちら側へ行けるのではないか。彼女が自分を愛しているのなら。彼女が望んでくれるのなら。身分の差など、乗り越えられるのではないか。
その夜、四人は同じ広間にいた。そして、同じ光景を見ながら、まったく異なる未来を思い描いていた。




