偽物 第十一章:偽物
あの夜、死にかけるほどの殴打を受けてから、俺は以前よりずっと慎重になった。
ダリウスは俺に、相手の選び方を教えた。遠くからの観察の仕方。仕掛ける前に、相手の実力を見極める方法。そして何より、すべてが制御不能になった時、どうやって自分を守るかを教えてくれた。
「馬鹿は、何も知らないものに突っ込んでいく。賢い奴は、戦うべき時と逃げるべき時を知っている。お前は一度、馬鹿をやった。二度と馬鹿を繰り返すな。」
俺はその言葉を、一言一句、心に刻み込んだ。冷たい石畳の上で、血まみれになり、死を待つような思いは、もう二度と味わいたくなかった。
日中、俺たちは北へ向けて歩き続けた。俺は毎朝、ダリウスと武術の修行をした。何度も何度も倒されたが、その一発一発から、たくさんのことを学んだ。動き方。判断の仕方。距離の取り方。相手に隙を作らせる方法。
俺はたった二つのことだけに集中した。火と、蜘蛛の糸。
もう、あれこれ手を出さない。欲張らない。火と糸だけ。火で焼き払い、糸で縛り、糸で移動する。この二つをうまく組み合わせれば、必ず恐ろしい武器になる。
俺の戦闘技術は、少しずつ、だが確実に上がっていった。
そして、俺には新しい楽しみができた。
毎晩、外に出て、人を殴るのだ。
最初は、黒い布で顔を隠しただけだった。目穴を二つ開けただけの、あまりにも簡単な仮面。自分でも笑ってしまうほど、単純なものだった。
最初のうちは、相手を選んでいた。チンピラや、弱い者いじめをするような連中ばかりを狙っていた。しかし、だんだんと、そんなことはどうでもよくなった。目に障った奴は、誰でも殴った。
一人で歩いている奴。小さな集まり。自分が確実に相手を処理できると判断したなら、それで十分だった。
しだいに、人々は警備隊に通報し始めた。そして、俺の名は、この南西部一帯に広がっていった。
「糸を放ち、夜に人を襲う無法者。」
「黒い仮面の謎の男。」
「ダーク・スパイダーマン。」
ダーク・スパイダーマン。その名前が、眠れなくなるほど俺を興奮させた。前世では、俺は何者でもなかった。誰も俺を知らなかった。誰も俺を覚えていなかった。しかし、この世界では、俺は誰かになれた。人々が噂する存在。人々が恐れる存在。
そして、奇妙なことに、ダリウスは俺を止めなかった。
むしろ、背中を押してきた。
「いいぞ。その調子だ。実戦で殴り合うのが、一番早く強くなれる。それに、お前は少し名を売っておいた方がいい。後々、動きやすくなるからな。」
その「後々の仕事」とやらが何なのか、俺にはわからなかった。だが、どうでもよかった。ただ、夜の帳が下りるたびに、胸の奥から衝動が湧き上がってくるのを感じていた。
かかってこいよ。俺を殴りに来いよ。
毎朝、俺は新聞を買い、自分が起こした事件について読んだ。
「ダーク・スパイダーマン、またも犯行か。路上で若者が殴られ意識不明に。」
「警備隊、黒い仮面の不審者を追跡中。」
「市民の間で、夜間の暴力行為への不安が高まる。」
それらの記事を読みながら、俺は罪悪感どころか、さらに興奮を高ぶらせた。それは、毎晩、俺を外へと駆り立てた。もっと、もっと、と。
新聞には、正義漢を気取る連中の言葉まで載っていた。「もしあいつに会ったら、半殺しにしてやる。」
読んで、俺は心の中で笑った。
いいぜ。かかってこい。
今夜も、いつもと同じ夜だった。
俺はビルの合間を糸で飛び回り、街の中を、物陰のように静かに駆け抜けていた。夜風が髪を抜けていく。ひんやりとして、気持ちがいい。夜の街は、不思議なくらい美しかった。星のように瞬く灯り。足下に広がる、ひっそりと静まり返った通り。
突然、下の方から怒鳴り声が聞こえてきた。
「おい! このクソ野郎!」
俺は屋根の上に張り付き、下を見下ろした。
若者たちの一団が、通りに立って、俺の方を指差していた。五人組だった。全員が、怒りに満ちた顔で、俺を睨みつけている。
「ダーク・スパイダーマン! 喧嘩がしたいんだろ! 降りてきて、俺らとやろうぜ!」
俺は屋根の上で、黙っていた。
馬鹿が。降りるわけがない。一対五なんて、死ぬに決まってる。
しかし、少し意外だった。俺はかなり上手く身を隠していたはずだ。なのに、なぜ奴らに俺の居場所がわかった?
俺は、裏に回り込み、糸で一人ずつ引きずり込もうと考えた。暗がりに一人を引き込み、殴り倒す。そして、次の一人をまた狙う。悪くない作戦だった。
だが、その瞬間、別の屋根の上から、硬くて太い蜘蛛の糸が撃ち出され、それが一直線に、チンピラどもへと飛んでいった。
俺は、はっと動きを止めた。
あの糸は……俺のじゃない。
そして、遠くの闇の中から、人影が飛び出してきた。俺とまったく同じ格好をした男だった。同じ黒い仮面。同じ糸を撃つスタイル。同じ動き方。
そいつは一人で、五人組の中に飛び込んだ。攻撃を軽やかにかわし、拳に炎をまとって、一人ずつ殴り倒していく。奴らがどんな魔法を使おうとも、そいつはいとも簡単に避けて、反撃した。
こいつ……俺の戦い方を、完全に真似ている。
偽物だ。
しかも、俺よりも、ずっと強い。
偽物のくせに、本物の俺よりも、はるかに強い。
偽物は四人を伸した。四人が地面に倒れ、気を失う。残る一人の頭を掴んで、高々と持ち上げ、大声で言い放った。
「我こそは、ダーク・スパイダーマンだ!」
俺は歯を食いしばった。腹の底から怒りが込み上げてきた。悔しい。むかつく。
俺は、あいつの手の中にいるチンピラめがけて糸を撃ち、それを絡め取ると、勢いよく手前へと引き寄せた。男は宙を舞い、壁に激突して、そのまま気を失った。
「お前、何者だ。」俺は低く唸った。「なんで、俺の真似をする?」
偽物は俺の方を向き、ふっと笑った。
「なんだ、本物のお前か。ダーク・スパイダーマン本物。」
「もう一度聞く。なんで、俺の真似をするんだ。」
偽物は肩をすくめた。
「好きだからさ。本気を出せば、お前を潰して、取って代わることだってできる。俺も人を殴るのは好きなんだ。有名になれるんだろ、これ。」
偽物は俺を見た。黒い仮面の奥の目が、楽しそうに細められた。
「ちょうどいい。お前が何者なのか、興味があったんだ。最近、やけに有名みたいじゃないか。一体、どんな才能があるんだ?」
言い終わるが早いか、偽物は糸を撃ち、一直線に俺へと飛びかかってきた。
速い。あまりにも速い。
先に仕掛けたのは、あっちだった。炎をまとった拳が、俺の顔面めがけて飛んでくる。避けられない。反射的に、両腕を交差させてガードした。
折れた。
両腕が、一撃で、粉々に折れた。拳は止まらず、俺の顔面を打ち抜いた。体が後ろへ吹き飛び、石の壁に激突する。壁が、ひび割れて砕けた。
しかも、あの拳には、青い炎が宿っていた。
青い炎が、俺の顔にまとわりつき、肌を焼いた。言葉にできないほどの激痛だった。熱い。焼ける。顔が、溶けていくようだった。
俺は叫んだ。絶望と、耐えがたい痛みの叫びだった。
こんな痛みは、生まれて初めてだった。死んで生き返るようなものだった。顔の神経が、一本一本、焼き尽くされていく。
偽物は、ゆっくりと俺に近づいてきた。燃え上がる顔の間から、俺はそいつを見上げた。
「叫ばなくていいよ。」偽物は、淡々と、冷たい声で言った。「お前、この時間に人を殴ってるんだろ。叫んだって、誰も助けに来ない時間だ。」
偽物は手を持ち上げ、指で銃の形を作り、俺の頭に狙いを定めた。
本当に、死ぬほど怖かった。
死ぬのが、怖かった。
これまでにないほど、怖かった。
涙が溢れてきた。死にたくなかった。こんな終わり方は、嫌だった。絶望の中で、痛みの中で、孤独の中で、死にたくなかった。
助けて。
誰か、助けて。
ダリウス。リアナ。母さん。父さん。セドリック。誰でもいい。
お願いだ。
偽物が、引き金を引いた。
光を帯びた衝撃波が、一直線に、俺へと放たれた。
そして、立ち込める土煙の中に、一つの背中が現れた。
俺を庇って、その一撃を受け止めた男がいた。
その背中を、俺は、すぐに悟った。
ダリウス。
俺の師匠だった。
彼は、土煙の真ん中に立ち、片手を上げて、その衝撃波を正面から受け止めていた。俺の顔の青い炎はまだ燃えていた。だが、俺の呼吸は、少しだけ軽くなっていた。
ダリウスは振り返らなかった。ただ、壁のように立ち、俺と、あの偽物の間に、堂々と立っていた。
偽物は、ぴたりと動きを止めた。黒い仮面の下の目を細め、ダリウスを見た。
「ほう。お前は誰だ?」
ダリウスは答えなかった。ただ、ゆっくりと腕を下ろし、俺の方を振り返った。
「おい、バカ弟子。少しは学んだか。」
俺は、何も言えなかった。顔はまだ焼けるように痛い。両腕は折れたまま。体中が痛む。
でも、俺は、まだ生きていた。
「あとは、俺がやる。」ダリウスはそう言って、偽物の方を向いた。「そして、てめえは……」
彼は、一歩前に踏み出した。空気が、急激に重くなる。足元の地面が、割れた。
「俺の弟子に手を出したんだ。だったら、まずは俺が相手をしてやる。」
偽物は、一歩後退した。何かを感じ取ったようだった。目の前の男から放たれる、とてつもない力の気配を。
「ダーク・スパイダーマンの師匠か……」偽物は呟いた。「面白いじゃないか。」
偽物は腕を振り、ダリウスに向かって糸を撃った。
ダリウスは、ただ、わずかに首を傾げた。糸は彼の横をすり抜け、後ろの壁に深々と突き刺さる。




