第十章:アラタスナリアの蜘蛛男
朝日が木の窓枠から差し込み、俺の顔に暖かな光を落としていた。
目を開けた。頭はまだ少し酒のせいでぼんやりしていた。だが、もう痛みはなかった。体は完全に回復している。ダリウスの治癒魔法は、本当に恐ろしいほど優秀だった。
隣を見た。あの娘が、まだ静かに眠っていた。規則正しい寝息。枕に乱れた髪。眠っている彼女を見つめても、自分が何を感じているのか、よくわからなかった。
胸の奥に、奇妙な虚しさが広がっていた。
後悔ではなかった。満足でもなかった。ただ……妙な虚無感だった。昨夜、俺は前世の妻がいなくても自分は生きていけると証明した。自分の意思で、自分の望むままに生きられると証明した。だが、こうして朝を迎えると、彼女の名前すら知らない自分に気づいた。
体を起こし、静かにベッドを抜け出した。机の上に、金貨の入った袋を置いた。約束していた額の、三倍以上はある。それから服を着て、音を立てないように部屋を出た。
振り返るな。
そう自分に言い聞かせた。
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村の広場は、朝の光に包まれていた。朝露が木々の葉に残り、何人かの村人がすでに外に出て、家の前を掃いたり、新しい一日の準備を始めたりしていた。
ダリウスが、広場の真ん中の木のベンチに座って、串焼きをうまそうに食っていた。
「おう、起きたか。」彼は手を振り、口をもごもごさせながら言った。「ずいぶんすっきりした顔してるじゃねえか。昼まで寝てるかと思ったぜ。」
俺は隣に腰を下ろした。何も言わなかった。
ダリウスは俺をちらりと見て、かっかっと笑った。
「どうだ? 昨夜は楽しかったか?」
俺は答えなかった。彼も別に答えを求めていなかった。ただ、ひとりで笑っていた。まったくもって意味のわからないオッサンだった。
「まあいい。行くぞ。今日はこの村を出て、近くの都市に向かう。」
俺は頷いた。もう行く時だった。
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村から一番近い都市までの道のりは、歩いて二時間ほどだった。
道中、俺は街道沿いの小さな本屋に立ち寄り、この土地の言語について書かれた本を一冊買った。ダリウスは、俺の発音の練習に付き合ってくれた。意外なほど、辛抱強く。
「違う、そうじゃねえ。舌の位置がちげえ。いいか、俺の言う通りに言え。『アラタスナリア』。」
「アラタスナリア。」
「違う。もっと強くアクセントを置け。『アラタスナリア』。」
「アラタスナリア。」
「悪くない。続けろ。」
俺は道中、ずっとそんな調子で言葉を学び続けた。ダリウスは折に触れて発音を直してくれた。このオッサン、本当に何でもできる。知らないことがあるのかと疑うほどだった。
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太陽が高く昇った頃、都市が見えてきた。
俺は足を止めた。息を呑んだ。目の前に広がるのは、巨大な石造りの建物が立ち並び、通りを行き交う人々で賑わう、壮大な都市だった。まるで中世ヨーロッパの風景。女たちはロングスカートをまとい、男たちはスーツのような服を着ている。馬車が石畳をこつこつと鳴らしながら通り過ぎていく。すべてが、一枚の古い絵画のようだった。
俺たちは都市の中心部へと歩を進めた。俺は歩きながら、ただただ圧倒されていた。ここまで本格的な都市は、この世界に来て初めてだった。
ダリウスが、ふいに言った。
「なあ、知ってるか。これから先、たいていの人間は、一つか二つの元素に絞って、それをとことん突き詰めるんだ。あれこれ手を出しすぎるな。自分に一番合うものを選べ。」
「師匠が一番得意な元素って、何ですか?」俺は尋ねた。
「重力だ。」
俺は、はっとした。
重力。忘れられるわけがない。あの木の家で、俺が彼を殴ろうとした瞬間、彼の体から見えない力が放たれて、壁まで吹き飛ばされた。あの時は風だと思っていた。しかし、違う。あれは重力だったのだ。
「重力……。」俺はつぶやいた。「あれ、すごく難しい魔法ですよね。」
「ああ。」ダリウスは頷いた。「でも、使いこなせば、お前の想像以上に強い。まあ、今はまだ気にするな。お前はまだひよっこだ。」
それから、話題を変えた。
「代わりに、もっと覚えやすい魔法を教えてやる。糸を撃つ魔法だ。」
俺は、ぱちぱちと瞬きをした。
「糸を撃つ魔法?」
「そう。魔力で糸を作るんだ。敵を縛ったり、罠を張ったり、壁に張り付いて移動したり。すぐに覚えられる。」
糸を撃つ? 壁に張り付いて移動?
蜘蛛男。
そのイメージが、瞬時に頭の中に浮かんだ。前世で漫画や映画で見た、あのスーパーヒーロー。白い糸を手首から放ち、高層ビルの間を飛び回る姿。
俺は抑えきれない興奮を感じていた。
「教えてください!」
ダリウスは俺を見て、眉を上げた。
「なんだ、その食いつきは。」
「なんでもないです。でも、それ、覚えたいです。」
「ああ。教えてやるよ。」
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そうして、俺は糸を撃つ魔法を学び始めた。
思っていたより難しかった。最初に撃てたのは、数十センチの、ふにゃふにゃの細い糸だけだった。それも、すぐに地面に落ちてしまった。しかし、俺は諦めなかった。毎日、練習を続けた。
ダリウスは、糸をより強く、より粘り気があり、より遠くへ飛ばすための魔力の使い方を教えてくれた。俺は彼の動きを真似し、魔力の流れを何度も何度も練習した。
頭の中には、ずっと蜘蛛男がいた。
俺はそのスタイルを真似し始めた。手首から糸を撃つ角度。高く跳ぶ動き。糸にぶら下がって移動する感覚。
ダリウスはそんな俺を見て、首を振った。
「お前、まるで間抜けだぞ。」
「放っといてください。」
「おう。放っとく。でも、あんまり変な真似ばかり覚えるなよ。」
「変じゃないです。スタイルです。」
ダリウスは、また首を振った。
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そして、ついに、その時が来た。
金が底をついた。
本当に、完全になくなった。あの酒場の娘に渡した金貨。それから本を買い、宿を取り、数日間の食事に消えた。今、手元に残っているのは、わずかな銀貨だけだった。
ダリウスが、小さな食堂で俺と向かい合い、真剣な顔をした。
「そろそろ、強盗の時間だな。」
俺は、ぎくりとした。
「またですか?」
「ああ。今回はやるしかねえ。やるか、野宿か、どっちかだ。」
俺はため息をついた。……仕方ない。やるしかないか。
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俺たちは夜になるのを待った。
俺は自分のために仮面を作った。ただの黒い布で目元を隠した、簡単なものだ。蜘蛛男のスタイルを真似た。完璧に似せることはできなかったが、それでも雰囲気くらいはある。
ダリウスは壁に寄りかかり、腕を組んで、俺を見ていた。
「お前、それで強盗やるのか?」
「スタイルです。」
「道化師みたいだぞ。」
「放っといてください。」
俺は深く息を吸い込んだ。それから、通りへと飛び出した。
夜の道は静かだった。街灯が黄色い光を落としている。遠くに、ひとつの影が歩いていくのが見えた。
壁の端に張り付き、向かいの屋根に向かって糸を撃った。糸が張り付く。俺は体を預け、影の前に降り立った。
「止まれ。」
男は足を止めた。長いコートを着た、がっしりとした体格の男だった。暗がりで、顔までは見えない。
「金を全部、置いていけ。」
男は何も言わなかった。ただ、じっと立っていた。
俺はさらに一歩近づいた。
「聞こえなかったのか。金を出せ。」
その時、男が動いた。
思っていたより、はるかに速かった。
暗闇から拳が飛んできた。反応できなかった。体が後ろに吹き飛び、石畳の上に叩きつけられた。
痛い。とてつもなく痛い。
立ち上がろうとした。口の端から血が流れた。仮面が一部破れ、片目が露わになった。
男が近づいてくる。重い足音。街灯の光が、男の顔を照らし出した。頬に長い傷跡のある、中年の男だった。
「最近のガキは、なかなか度胸があるじゃねえか。俺様から強盗しようとはな。」
低い、見下すような声だった。
男は足を上げ、俺の腹を踏みつけた。体が折れ曲がり、激しく咳き込んだ。
「お前、自分を何だと思ってる? クモ野郎か?」
もう一発、蹴りが飛んできた。今度は脇腹だった。肋骨が折れた気がした。
「馬鹿が。」
それだけ言うと、男は背を向けて歩き去っていった。
俺は、冷たい石畳の上に倒れたままだった。全身が痛い。仮面はぼろぼろに破れ、口元からは血がにじんでいた。
頭の中は、たった一つの思いでいっぱいだった。
俺は、まだ、弱すぎる。
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目を覚ますと、俺は小さな部屋のベッドに寝かされていた。隣には、酒を片手に、いつものように気楽な顔をしたダリウスが座っていた。
「おう、起きたか。」
俺は黙って彼を見た。
「お前、半殺しにされてたぞ。」彼は酒を一口飲んで言った。「俺が背負って帰ってきたんだ。」
「俺……失敗しました。」
「ああ、見事な失敗だったな。でも、別にいいだろ。初めての強盗で、ボコボコにされるくらい、よくあることだ。」
俺は黙っていた。
「それに、運も悪かったな。あいつ、ただ者じゃなかった。相手が普通の市民だったら、成功してた。でも、お前は自分より何倍も強い奴に当たっちまった。」
俺は、それでも黙っていた。
ダリウスはグラスを置き、鋭い目で俺を見た。
「今日の教訓だ。相手を外見で判断するな。そして、相手の実力もわからないのに、自信過剰になるな。」
俺は天井を見上げた。痛み。屈辱。そして、情けないほどの敗北感。
だが、ひとつ、わかったことがある。
自分は、まだ甘すぎる。
少し強くなったくらいで、何でもできると思っていた。でも、現実はそんなに甘くない。
「わかりました。」俺はかすれた声で言った。「よく、わかりました。」
「よし。」ダリウスは酒を手に取り、もう一口飲んだ。「じゃあ、今日は寝ろ。明日から、また修行だ。」
俺は目を閉じた。全身が痛む。それでも、心の中に、新たな決意が生まれていた。
もっと強くなる。
二度と、こんな負け方はしない。




