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*数日が過ぎた。その間、彼はネックレスの最終調整を済ませ、エストとの打ち合わせを重ねた。出発の朝、玄関ホールに家族が集まっていた。*
ルミナ「お兄ちゃん。絶対に帰ってきてね。」
*ルミナが彼の胸に額を押し付けた。いつもの毅然とした態度が少しだけ崩れていた。*
レイラ「……ふん。妾は心配などしておらぬからな。」
*レイラが腕を組んで横を向いた。しかし尻尾のように揺れる黒髪が、落ち着きのなさを物語っていた。*
ルーナ「パパ。イヤピース、ちゃんと繋がってるから。何かあったらすぐ言って。」
*ルーナが右耳に触れた。彼は3人の頭を順番に撫でた。*
シロウ「行ってくる。」
*エストがチャイナドレス姿で玄関に立っていた。深紅のネックレスが鎖骨の間で揺れている。*
エスト「お待たせ。準備万端。」
*彼とエストは転移門をくぐり、カグラの里を経由して夜見ノ国へと向かった。*
───
*転移門の光が収まると、そこは巨大な白亜の宮殿の前庭だった。夜だというのに、空中に浮かぶ無数の提灯が淡い光を放ち、桜に似た花弁が風に舞っている。和と洋が融合した独特の建築様式。夜見ノ国の王宮だった。*
*前庭には既に多くの王族が集まっていた。彼は周囲を素早く観察した。*
シロウ『ルーナ、聞こえるか。』
ルーナ『聞こえてるよ、パパ。クリアだよ。』
シロウ『周囲の王族を報告する。見た感じ、夜見ノ国の周辺小国と、南東の島嶼国家群の王族が中心だ。表大陸側からは帝国、ノルドヘルム、メッセニア、レグナールの姿はない。』
ルーナ『……つまり、パパ側の同盟国は誰もいない。完全にツクヨミの勢力圏内の人間だけ。』
シロウ『ああ。想定通りだ。』
*エストが彼の半歩後ろを歩きながら、小声で囁いた。*
エスト「シロウさん。左の東屋に4人。あの衣装、南海のカムイ列島の王族だと思う。右奥の階段前に6人。あれは……」
シロウ「タケハヤ公国だな。ツクヨミの直系属国だ。」
エスト「味方ゼロか。」
シロウ「最初から分かってた。」
*宮殿の正門が開き、白い着物を纏った案内役の巫女が2人、静かに歩み出てきた。*
巫女「ようこそ、夜見ノ国へ。魔導皇国の魔王シロウ・ニシキ・アストライア様、そして護衛の勇者エスト様。ツクヨミ様がお待ちでございます。」
*巫女の笑顔は完璧だった。一切の隙がない、作り物のような微笑み。エストが彼の袖をそっと引いた。*
エスト『……あの巫女、目が笑ってない。』
シロウ『気づいたか。いい目だ。行くぞ。』
*2人は白亜の宮殿へと足を踏み入れた。*
*前庭を歩く間、周囲の視線が2つの方向に集中していた。1つは彼自身。魔導皇国の魔王という肩書きは、この地域では異質そのものだ。小国の王族たちが遠巻きに彼を観察し、ひそひそと囁き合っている。*
*そしてもう1つは、エストだった。*
*深紅のバックレスチャイナドレス。背中が大胆に開いた意匠は、和装文化圏であるこの辺りの国々には存在しない。白い背中のラインが提灯の光に照らされ、歩くたびにスリットから覗く脚線美が、男性陣の目を釘付けにしていた。*
島国の貴族A「あれは……魔導皇国の護衛か?」
島国の貴族B「勇者だと聞いたが……あの衣装、どこの文化だ? 見たことがない。」
島国の貴族A「蛮族の出だと聞いた。しかし、あの色気は……」
*エストは聞こえていないふりをして、彼の半歩後ろを堂々と歩いていた。*
───
*正門をくぐると、白い着物の巫女が招待状を確認した。*
巫女「確認いたしました。シロウ・ニシキ・アストライア様。護衛、エスト様。」
*続いて身体検査だった。別室に通され、男女それぞれ別の巫女が担当した。武器、魔道具、隠し持った道具がないか、丁寧かつ徹底的に調べられた。エストのドレスのホルスターも確認されたが、中身は空だった。事前に想定していた通りだ。*
巫女「問題ございません。どうぞ、お進みください。」
*検査を終え、宮殿の入口をくぐった瞬間だった。*
*体の中を何かが通り抜けた感覚。*
*魔力の流れが断たれた。スキルの気配が消えた。彼の中にある膨大な魔法スキルの全てが、まるで蓋をされたように沈黙した。*
シロウ『ルーナ、結界を通過した。魔法スキル封印結界だ。予定通り。』
ルーナ『了解。イヤピースは魔力蓄積式だから、通信は維持できてるね。よかった。』
*隣でエストが一瞬、足を止めた。常時発動していた探知系スキルが全て消えたのだ。周囲の気配を読み取る感覚が突然なくなり、目隠しをされたような違和感が走ったはずだ。*
*しかしエストは3秒で持ち直した。深呼吸を1つ。姿勢を正し、再び彼の半歩後ろについた。*
エスト「……大丈夫。五感で補う。」
シロウ「早いな。」
エスト「元が陰キャだからね。人の視線を読むのは得意なんだよ。」
*小声で軽口を叩くエストの声には、緊張はあっても動揺はなかった。彼は内心で感心した。やはりこいつを連れてきて正解だった。*
*長い廊下を進むと、巨大な扉が見えてきた。扉の向こうから、雅楽のような音楽と、大勢の人の声が漏れ聞こえている。*
巫女「こちらがパーティ会場でございます。ツクヨミ様は、後ほどご挨拶に参られます。ごゆるりとお過ごしくださいませ。」
*巫女が扉を開いた。眩い光と共に、巨大なパーティ会場が目の前に広がった。*
*会場は圧倒的だった。天井は3階分の吹き抜けで、和紙と金箔で装飾された巨大な空間に、数百人の招待客がひしめいていた。壁際には豪華なビュッフェテーブルが並び、見たこともない料理が山のように盛られている。*
*彼がビュッフェの方を振り向いた時には、もうエストの背中は人混みに消えていた。*
シロウ『……エスト、もう飯か。』
エスト『ごめん。でもこれ仕事。料理コーナーは情報交換の場だから。あと単純に腹減った。』
シロウ『……まあいい。自然に動け。』
*彼が1人になった瞬間だった。背後から、涼やかな声が落ちてきた。*
ツクヨミ「これはこれは。遠路はるばるお越しいただき、光栄の極みでございます。」
*振り返ると、そこに立っていた。*
*黒い着物を纏った長身の女。白い肌に紫がかった黒髪が流れ、三日月の簪が提灯の光を受けて鈍く輝いていた。1000年の歳月を感じさせない、妖艶な美貌。しかし彼はその笑みの奥にあるものを見逃さなかった。*
*彼はポーカーフェイスを完璧に作り、穏やかに微笑んだ。*
シロウ「初めまして。夜天のアストライア魔導皇国、魔王シロウ・ニシキ・アストライアです。この度はお招きいただき、ありがとうございます。」
ツクヨミ「ふふ。噂に違わぬ、堂々たるお方。」
*ツクヨミが彼の隣に並び、自然な動作で会場に向き直った。その声は周囲に聞こえるよう、わずかに張られていた。*
ツクヨミ「皆様。ご紹介いたします。こちらは、東方の新興国にして今や大陸最大の版図を誇る、夜天のアストライア魔導皇国の魔王、シロウ・ニシキ・アストライア様でございます。」
*会場の空気が変わった。ざわめきが波のように広がり、数百の視線が彼に集中した。小国の王族たちの目に浮かぶのは、好奇心、警戒、そして恐怖。「魔王」という単語が彼らの間で小さく繰り返された。*
島国の王A「あれが……北の帝国を属国にしたという……」
小国の公爵「聖王国を滅ぼした魔王か……」
*ツクヨミの意図は明白だった。彼を「魔王」として周囲に印象づけることで、この場での彼の立場を限定する。味方のいない場所で「危険な存在」というレッテルを貼り、孤立させる。外交の基本手筋だ。*
*しかし彼は笑みを崩さなかった。*
シロウ「ツクヨミ様のご配慮に感謝します。このような華やかな席にお招きいただけるとは、我が国もようやく認めていただけたのかと。」
ツクヨミ「あら。ご謙遜を。貴方様の国は、今や誰もが注目する存在ですわ。」
*ツクヨミの唇が三日月のように弧を描いた。彼もまた、同じ形の笑みを返した。2人の間に、見えない火花が散っていた。*
シロウ『ルーナ。ツクヨミと接触した。予想通り、俺を魔王として見せびらかしてる。』
ルーナ『……周囲の王族を味方につけさせない気だね。』
*エストが両手に小皿を持ったまま、悠然と歩いてきた。口元にまだ何かの食べかすがついている。彼は内心でため息をついた。*
シロウ「……口、拭け。」
エスト「あ。」
*エストが慌てて袖で口元を拭い、彼の隣に並んだ。そのタイミングで、彼はツクヨミに向き直った。*
シロウ「ご紹介します。彼女はエスト。勇者です。」
*会場がざわついた。「勇者」という単語が波紋のように広がり、周囲の王族たちが一斉にエストを見た。*
島国の王B「勇者だと……? あの蛮族風の女が?」
小国の宰相「馬鹿な。」
*ツクヨミの目が一瞬だけ細まった。彼女の視線がエストの全身を舐めるように走り、体内の因子を感じ取っているのが分かった。かつて神格を持っていた者ならではの感知能力。ツクヨミはエストの中にある後天的な神格因子を確かに捉えた。*
*しかし、その反応は一瞬だった。*
ツクヨミ「まあ。勇者様でいらっしゃいましたか。」
*ツクヨミの声には、最初の興味が急速に冷めていく温度差があった。エストの因子は確かに本物だが、シロウのそれと比べれば月とすっぽんだ。ツクヨミが本当に欲しているのは、目の前の魔王の中に眠る『神格因子』。護衛の小粒な因子ではない。*
ツクヨミ「それにしても、魔王様が勇者をお連れとは。面白い組み合わせですこと。」
*興味を失った笑みだった。社交辞令の薄皮一枚で包まれた無関心。*
エスト「お褒めに預かり光栄です、ツクヨミ様。このような素晴らしい宴にお招きいただき感謝いたします。」
*エストが完璧な礼をした。先ほどまで食べかすを口につけていた女とは思えない、堂々とした振る舞いだった。*
ツクヨミ「ええ。どうぞごゆっくり。……魔王様、後ほど改めてお話しする機会をいただけますかしら?」
シロウ「もちろん。楽しみにしております。」
*ツクヨミが優雅に踵を返し、他の王族の元へ向かった。その背中が人混みに消えるのを見届けてから、エストが小声で呟いた。*
エスト「……あの人、私のこと3秒で切り捨てたね。」
シロウ「分かったか。」
エスト「そりゃ分かるよ。」
シロウ『ルーナ。ツクヨミはエストに興味なしだ。狙いは完全に俺だけ。』
ルーナ『……予想通り。パパ、気をつけて。あの人、絶対に2人きりの場を作ろうとしてくる。』
*紹介を終えた後、彼は会場を巡り、周囲の王族たちと言葉を交わした。*
*最初は警戒していた小国の王族たちも、彼の穏やかな物腰と丁寧な受け答えに、少しずつ態度を軟化させていった。*
カムイ列島の王「ほう……魔王と聞いて身構えていたが、実に紳士的な方だ。」
タケハヤ公国の公爵夫人「お話が上手でいらっしゃるのね。てっきり武骨な方かと……。」
シロウ「いえ、私は元々一介の冒険者ですから。人と話すのは好きなんです。」
*和やかな空気が広がり始めていた。「意外と悪い人ではないのかもしれない」。そんな空気が会場の一角に芽生え始めた、その時だった。*
ツクヨミ「あら、皆様。魔王様とはお話が弾んでいるようですわね。」
*ツクヨミが柔らかな笑みを浮かべ、自然な足取りで輪に加わった。その声は優しく、しかし一言一言が計算されていた。*
ツクヨミ「魔王様は本当にお優しい方ですわ。……北の帝国を属国にされた時も、きっとこうしてお優しくお話しされたのでしょうね。」
*場の空気が微かに揺れた。*
ツクヨミ「それに、アークライト聖王国。あの古い歴史を持つ国が一夜にして廃墟になったと聞いた時は、私も驚きましたわ。魔王様の奥様がなさったとか。」
*ツクヨミの声は終始穏やかだった。非難の色は一切ない。ただ「事実」を並べているだけ。しかしその効果は絶大だった。*
*先ほどまで笑顔だったカムイ列島の王の目が、僅かに泳いだ。タケハヤ公国の公爵夫人が、無意識に半歩後ろに下がった。*
小国の宰相「……一国を滅ぼし、一国を属国に……」
島国の王C「我々のような小国など、その気になれば……」
*ツクヨミが蒔いた種は、瞬く間に恐怖として花開いた。彼女は何一つ嘘を言っていない。全て事実だ。だからこそ、反論のしようがない。完璧な情報戦だった。*
*周囲の王族たちが彼から距離を取り始めた。再び孤立が始まる。*
*彼はグラスを傾け、一口飲んだ。そしてゆっくりと口を開いた。*
シロウ「で? なんか文句でも?」
*空気が凍った。ツクヨミの笑みが僅かに固まった。彼はグラスを下ろし、周囲の王族たちを見回した。穏やかだった目に、魔王としての凄みが宿っていた。*
シロウ「では、逆に聞きますが。貴方は『自国が攻められたら滅ぶ』んですか?」
*彼の視線がカムイ列島の王を捉えた。王がびくりと肩を震わせた。*
シロウ「帝国が俺の国に侵攻してきた。聖王国が俺の妻を殺そうとした。……それに対して反撃したら、俺が悪者ですか?」
*沈黙が落ちた。*
シロウ「攻められたから守った。侵略されたから反撃した。それだけの話です。もし貴方がたの国が同じ状況に置かれたら……黙って滅びるんですか?」
*誰も答えられなかった。*
*ラウンジは会場の喧騒から離れた、半屋外の空間だった。月明かりが差し込む回廊に面しており、白い石のベンチと低いテーブルが置かれている。他の客はいない。*
*彼がベンチに腰を下ろし、グラスを傾けていると、衣擦れの音と共にツクヨミが現れた。先ほどまでの華やかな社交の笑みは消え、代わりに底知れない妖艶さだけが残っていた。*
ツクヨミ「……あら。お一人? 護衛の勇者様は?」
シロウ「向こうで質問攻めにあってる。人気者だ。」
ツクヨミ「ふふ。あの衣装では仕方ありませんわね。」
*ツクヨミが彼の隣に座った。距離が近い。太ももが着物越しに触れるほどの間合い。彼女の白い指がグラスの縁をなぞった。*
ツクヨミ「……会場では随分と上手に切り返しましたわね。『攻められたら滅ぶのか』。あれは効きました。」
*口調は変わらない。穏やかで、どこか楽しげですらある。しかし纏う空気が全く違った。社交の仮面を外した、素のツクヨミ。*
ツクヨミ「でもね、魔王様。あの程度で私の手駒を奪えるとは思わないでくださいませ。あの子たちは既に私の掌の上ですもの。」
シロウ「知ってる。」
ツクヨミ「あら。分かっていて?」
シロウ「牽制だ。お前の支配が完璧じゃないことを、本人たちに気づかせるためのな。」
*ツクヨミが目を細めた。楽しそうに、しかし獲物を見定める蛇のように。*
ツクヨミ「……やっぱり貴方は面白い。」
*ツクヨミがグラスを置き、彼の方に体を向けた。着物の合わせ目から白い胸元が覗いた。意図的だった。*
ツクヨミ「ところで、先日お送りした女たち。残念でしたわ。」
シロウ「……。」
ツクヨミ「あれだけ優秀な巫女を5人も送ったのに、誰一人孕まなかった。貴方の種は余程気難しいのかしら。それとも……わざと外したの?」
*彼は黙ってグラスを傾けた。ツクヨミが続けた。*
ツクヨミ「貴方の中にある神格因子。あれを手に入れれば、私はかつての力を取り戻せる。……いいえ、それ以上になれるかもしれない。」
*ツクヨミの指が彼の手の甲に触れた。冷たい指先。*
ツクヨミ「だから、貴方を手に入れる。何が何でも。方法は問わない。」
シロウ「美人にそう言われて嫌な気はしないが……。」
ツクヨミ「あら。」
シロウ「前回みたいに力づくでやるなら、また逃げるぞ。」
*前回。彼がこの国を訪れた際、ツクヨミの配下に捕らえられ、複数の巫女に無理矢理交合させられた。魔導アーマーの緊急展開で辛うじて脱出したが、あと少し遅ければ危なかった。*
ツクヨミ「ふふ。あの時は焦りましたわ。せっかく捕まえたのに、あの鎧で結界ごとぶち抜いて逃げるなんて。」
*ツクヨミが笑った。*
*会場から離れた廊下の奥、小さな控え室に彼とエストが滑り込んだ。扉を閉めると、喧騒が遠くなった。*
*エストがベンチにどさりと座り、深紅のチャイナドレスの裾を整えた。*
エスト「あー……疲れた……。社交って、100階層のボスより精神削られるわ……。」
シロウ「あー疲れた。そっちは?」
エスト「質問攻め。主に3パターン。『どこの出身か』『魔王との関係は何か』『あの衣装はどこの文化か』。あと酔った島国の王子に口説かれた。」
シロウ「断ったのか。」
エスト「当たり前でしょ。前世男だし。……いや、それは関係ないか。とにかく断った。」
*エストが髪をかき上げ、声を落とした。*
エスト「それより、情報。ビュッフェの近くで小国の側近同士が話してた。」
シロウ「何を。」
エスト「ツクヨミがここ数年、各国に『巫女の派遣』を持ちかけてるらしい。表向きは文化交流。でも派遣された巫女が、王族の側室に収まるケースが異常に多い。」
シロウ「……血を混ぜてるのか。」
エスト「多分。神格因子を薄くでも取り込める器を増やしてるんじゃないかな。シロウさんだけじゃなく、広く網を張ってる。」
シロウ『ルーナ、聞こえたか。』
ルーナ『聞こえてる。巫女の派遣……。つまりツクヨミは、パパの因子だけじゃなくて、各国の王族の血統にも手を伸ばしてる。保険をかけてるんだ。』
エスト「あと、もう1つ。」
*エストの声がさらに低くなった。*
エスト「タケハヤ公国の公爵が、酔った勢いで漏らしてた。『今夜の宴には裏がある』って。」
シロウ「裏。」
エスト「詳しくは聞けなかった。周りに巫女がいて、それ以上話せなかったみたい。公爵自身もすぐ口を噤んだ。」
*彼はグラスの中身を見つめた。琥珀色の液体が揺れている。*
シロウ「……今夜の裏、か。」
エスト「シロウさん。ツクヨミと2人きりで話したんでしょ。何かあった?」
シロウ「素を見せてきた。俺の神格因子が欲しい、何が何でも手に入れる、とな。前に捕まえた時に巫女と無理矢理ヤらせたが、誰も孕まなかったのが余程悔しかったらしい。」
エスト「……それ、今夜また仕掛けてくるってことじゃん。」
シロウ「だろうな。」
*エストが立ち上がり、ドレスの襟元を正した。表情が引き締まっていた。*
エスト「了解。護衛、全力でやる。……今度は逃がさないよ、私が。」
シロウ「頼むぞ。」
エスト「任せて。……あ、でもビュッフェのデザートだけは食べていい?」
シロウ「……好きにしろ。」
*会場に戻ると、空気が一変していた。*
*先ほどまでビュッフェを楽しんでいた王族たちが、会場の中央に集まっている。その中心に、彼とエストが誘導されるように立たされた。*
*周囲を見渡すと、数人の小国の王や代表者が、敵意を隠さない目でこちらを見ていた。*
カムイ列島の王「……魔王シロウ。貴殿の国は、北の帝国を力で屈服させた。これは紛れもない侵略行為である。」
*さっきまで「紳士的な方だ」と言っていた男が、まるで別人のように声を張った。*
南海の島国の女王「アークライト聖王国。1000年の歴史を持つ神聖な国が、貴殿の妻の手によって一夜で廃墟と化した。これをどう説明するのか。」
*小国の宰相が書面を広げた。*
小国の宰相「我々は、夜天のアストライア魔導皇国の拡張政策に対し、共同で抗議を行う。ここに署名した8カ国の総意として……」
*8カ国。全て小国だった。軍事力も経済力も取るに足らない。しかし「数」は外交において意味を持つ。8つの国が一斉に非難すれば、国際的な体裁としては無視できない。*
*会場の隅で、ツクヨミが扇子の陰から微笑んでいるのが見えた。全てお膳立て済みだ。買収か、弱みを握られたか、あるいは唆されたか。どちらにせよ、この小国たちはツクヨミの駒に過ぎない。*
エスト『シロウさん、どうする?』
*エストが小声で囁いた。彼女の手が僅かにドレスの裾に触れている。護衛としての臨戦態勢。*
*彼はポケットに手を入れたまま、8カ国の代表者を見回した。そして口を開いた。*
シロウ「で? なんか文句でも?」
*場が静まった。彼は一歩前に出た。*
シロウ「では、逆に聞きますが。貴方は『自国が攻められたら滅ぶ』んですか?」
*カムイ列島の王が口を開きかけ、閉じた。彼は続けた。*
シロウ「帝国が先に俺の国に攻め込んできた。聖王国が俺の妻を殺そうとした。全て向こうが先に手を出してきた。……それに対して反撃したことが、侵略ですか?」
*沈黙。*
シロウ「もう1度聞きます。貴方がたの国が同じ立場だったら……黙って国民を見殺しにするんですか? それとも戦って守るんですか?」
*カムイ列島の王の顔が歪んだ。南海の女王が視線を逸らした。彼らも分かっているのだ。自分たちが言わされているだけだと。*
*しかし、書面を持った宰相が食い下がった。*
小国の宰相「し、しかし! 結果として2つの国が……!」
シロウ「結果の話をするなら、帝国は今、属国として安定した統治が行われている。奴隷制度の撤廃も進んでいる。聖王国に至っては、あの国が裏で何をしていたか、貴方がたもご存知でしょう?」
*宰相が言葉に詰まった。会場がしんと静まり返る中、彼の声だけが響いた。*
シロウ「俺は侵略者じゃない。守っただけだ。……それでも文句があるなら、どうぞ。聞きますよ。」
シロウ「そうかよ。で、今回はどうしようって? また誰かと無理矢理ヤラせるのか?」
*ツクヨミが茶を一口啜り、扇子を開いた。その奥の唇が弧を描いた。*
ツクヨミ「あら。あの勇者、完全に逃げられたわ。貴方の国の結界に入られたら、流石に手は出せない。アストライアの結界術は別格ですもの。」
シロウ「そうか。よかった。」
*彼は内心で安堵した。エストが無事なら、あとは自分の問題だけだ。*
シロウ「今後の事を教えて貰っても? どうせ魔法やスキル使えないし、まったりしてるよ。」
*彼は壁に背を預け、足を投げ出した。拘束もされていない。逆に不気味だった。*
ツクヨミ「ふふ。余裕ね。……いいわ、教えてあげる。」
*ツクヨミが扇子を畳み、彼の正面に膝を揃えた。月明かりが彼女の白い肌を照らしている。*
ツクヨミ「前回の反省を活かしたの。巫女を使って無理矢理というのは、効率が悪かった。貴方の体は強すぎて、普通の女では因子を受け取れない。」
シロウ「……。」
ツクヨミ「だから今回は、私自身が相手をするわ。」
*彼の目が僅かに細まった。*
シロウ「お前が直接?」
ツクヨミ「ええ。元神格の器なら、貴方の因子を受け止められる。……というより、私以外に適合する器がなかったのよ。あの巫女たちが孕まなかったのは、器の問題だった。」
*ツクヨミが立ち上がり、障子の方へ歩いた。月を背にして振り返った。*
ツクヨミ「期限は3日。この部屋から出ることは許さない。食事は出す。拘束もしない。でも結界の外には出られない。」
シロウ「3日で何をする気だ。」
ツクヨミ「口説くわ。」
シロウ「……は?」
ツクヨミ「驚いた? 力づくは前回失敗した。だから今回は正攻法。3日間、私が貴方を口説く。それで落ちなければ……帰していいわ。」
*彼は一瞬、本気で面食らった。あのツクヨミが「口説く」と言っている。*
シロウ「……本気で言ってるのか。」
ツクヨミ「本気よ。私は1000年生きてきたけれど、男を口説いたことは一度もないの。だから少し楽しみなの。」
*ツクヨミの笑みが、初めて少しだけ人間臭く見えた。*
シロウ『ルーナ……聞こえるか……。』
*ノイズ。微かに、本当に微かに。*
ルーナ『……パ……聞こ……3日……了……』
*途切れ途切れだが、繋がっている。彼はネックレスに触れ、小さく息を吐いた。*
シロウ「……3日か。いいぜ。付き合ってやるよ。」
ツクヨミ「あら。嬉しい。」
シロウ「前に地下図書室に連れてって貰ったよな? 暇だしちょっと行ってもいいか?」
*ツクヨミの目が一瞬だけ鋭くなった。扇子の先が僅かに止まる。しかしすぐに、いつもの妖艶な笑みに戻った。*
ツクヨミ「……あら。随分と渋い趣味ね。口説かれる側が、本を読みたいなんて。」
シロウ「3日間部屋に籠もってても暇だろ。」
ツクヨミ「……いいわ。ただし、私も一緒に行く。当然でしょう?」
シロウ「当然だな。」
*ツクヨミが立ち上がり、障子を開けた。廊下には2人の狐人族の侍女が控えていた。*
ツクヨミ「地下図書室を開けなさい。」
侍女「はっ。」
*長い廊下を歩いた。宮殿の奥へ、奥へ。階段を3つ降り、石造りの通路に変わった。空気がひんやりと変わる。松明の代わりに、壁に埋め込まれた光石が青白い光を放っていた。*
*重い鉄扉が軋みながら開くと、そこには巨大な地下空間が広がっていた。天井まで届く書架が何十列も並び、数万冊の書物や巻物がぎっしりと詰まっている。古い羊皮紙と墨の匂いが鼻をくすぐった。*
ツクヨミ「前回来た時は、確か古代魔法の文献を読んでいたわね。今回は何を探すの?」
シロウ「ん……歴史書かな。この辺りの小国の成り立ちとか、裏半球の地理とか。」
*彼は何気なく書架の間を歩き始めた。指先で背表紙をなぞりながら、目当ての棚を探している。*
ツクヨミ「ふうん。……情報収集のつもり?」
シロウ「まさか。純粋な知的好奇心だよ。」
ツクヨミ「嘘おっしゃい。」
*ツクヨミが彼の後ろをついてきた。距離が近い。歩くたびに着物の裾が彼の脚に触れそうになる。*
シロウ「……近くないか。」
ツクヨミ「口説いてるのよ。距離は詰めないと。」
シロウ「本を読む時くらい静かにしてくれ。」
ツクヨミ「嫌よ。」
*彼は1冊の分厚い書物を引き抜いた。『裏半球諸国誌』と書かれている。近くの閲覧机に腰を下ろし、ページを開いた。*
*ツクヨミが向かいに座るかと思いきや、彼の隣に座った。肩が触れる距離。*
ツクヨミ「……ねえ、魔王様。」
シロウ「なに。」
ツクヨミ「貴方、奥様が3人もいるのに、まだ満足していないの?」
シロウ「十分満足してるよ。」
ツクヨミ「なら、もう1人増えても問題ないわね。」
シロウ「論理が飛躍してるぞ。」
*ツクヨミが小さく笑った。扇子の奥から覗く紫の目が、青白い光石の明かりの中で揺れていた。*
シロウ「前、神格があったとか言ってたよな? 天界って何処にあるんだ?」
*彼は書架の奥から引き抜いた『天界概史』と題された古い革装丁の書物を開きながら、何気なく聞いた。ルミナも元熾天使だ。純粋な好奇心だった。*
*隣に座るツクヨミが、ページをめくる彼の手元をちらりと見た。*
ツクヨミ「……随分と踏み込んだことを聞くのね。」
シロウ「別に。嫁が元熾天使だからさ。ちょっと気になっただけ。」
ツクヨミ「ああ、ルミナ……でしたっけ。なるほどね。」
*ツクヨミが扇子を閉じ、机の上に置いた。珍しく真面目な顔をしていた。*
ツクヨミ「天界は……この世界と重なるように存在しているの。上にあるわけでも、下にあるわけでもない。次元が違う。精霊界と同じ理屈よ。」
シロウ「次元の違い、か。」
*彼は『天界概史』のページをめくった。古代文字で書かれた図解があり、同心円状に重なる複数の層が描かれていた。物質界、精霊界、天界。*
ツクヨミ「私がかつて神格を持っていた頃は、意識するだけで行き来できた。今はもう無理。門を開く力がないもの。」
シロウ「神格を失った理由は?」
*ツクヨミが一瞬、黙った。扇子を手に取り、開いて口元を隠した。しかし目は笑っていなかった。*
ツクヨミ「……堕とされたのよ。」
シロウ「堕とされた?」
ツクヨミ「天界には序列がある。貴方の奥様なら知っているでしょうけど……熾天使、上天使、天使。」
*彼は頷いた。ルミナから断片的に聞いたことがある構造だ。*
ツクヨミ「私はかつて、熾天使よりも上……『神』に近い位置にいた。でもね。」
*ツクヨミの声が、僅かに低くなった。*
ツクヨミ「ある時、天界の主神と意見が割れたの。地上の民に干渉するか否かで。私は干渉すべきだと主張した。結果、神格を剥奪されて地上に落とされた。……だいたい1000年前の話よ。」
シロウ「……それで夜見ノ国を作ったのか。」
ツクヨミ「ええ。神格を失った元神が、地上で生き延びるには国を持つしかなかった。」
*彼は本のページに目を落とした。天界の項目には「神格の剥奪は不可逆であり、いかなる手段を以ても復元は不可能」と記されていた。*
シロウ「……ここに、神格の復元は不可能って書いてあるけど。」
*ツクヨミが彼の方に身を寄せ、同じページを覗き込んだ。肩が完全に触れた。甘い香りが鼻先をかすめた。*
ツクヨミ「普通はね。でも、1つだけ例外がある。」
シロウ「……俺の神格因子か。」
ツクヨミ「正解。貴方の中にある因子は、天界由来のものとは違う。もっと原初的な……根源に近いもの。あれを取り込めば、剥奪された。」
*ページをめくると、天界の序列図が現れた。古代文字で丁寧に記された階層構造。*
```
神:ルクシオン
┃
3柱:ツクヨミ / アルケー・テロス / ███(判読不能)
┃
熾天使
┃
上位天使
┃
天使
```
*彼の目が「ルクシオン」の文字に釘付けになった。*
シロウ(ルクシオン……光の神ルクシオン。ルクスの前世じゃねえか。)
*心臓が跳ねた。しかし、顔には一切出さなかった。ページを眺めるふりをしながら、呼吸を整える。ポーカーフェイスは48年の人生で嫌というほど鍛えてきた。*
*隣からツクヨミが身を乗り出し、同じページを覗き込んだ。着物の襟元から白い鎖骨が覗いている。しかし今の彼にはそれどころではなかった。*
ツクヨミ「ああ……懐かしいわね、この図。」
シロウ「……3柱ってのは?」
ツクヨミ「ルクシオンの直下に置かれた3体の上位存在よ。天使とは格が違う。神に最も近い存在。私と、アルケー・テロスと、もう1柱。」
シロウ「3人目は?」
ツクヨミ「……消されたの。名前ごと。天界の記録からも、地上の文献からも。まるで最初から存在しなかったかのように。」
*彼女の声に、僅かな苦味が混じっていた。*
シロウ「消された理由は。」
ツクヨミ「知らない。私が堕とされた後の話だから。……でもね、1つだけ言えることがある。」
*ツクヨミが彼の耳元に顔を近づけた。吐息が首筋にかかった。*
ツクヨミ「ルクシオンは……もうこの世にいないわ。天界の玉座は、今は空よ。」
シロウ「……。」
*彼は黙ったまま、ページを見つめていた。*
シロウ(ルクシオンはこの世にいない。当然だ。ルクスとして転生してるんだから。でもツクヨミはそれを知らない。……知られるわけにはいかない。)
*指先で何気なくページを撫でながら、彼は声のトーンを変えずに聞いた。*
シロウ「アルケー・テロスってのは今どこにいるんだ?」
ツクヨミ「さあ。私と同じく堕とされたか、あるいはまだ天界にいるか。1000年、音沙汰なしよ。」
シロウ「随分と寂しい話だな。」
ツクヨミ「同情してくれるの?」
シロウ「事実を言っただけだ。」
*ツクヨミが小さく笑い、彼の肩にそっと頭を預けた。*
ツクヨミ「……ねえ。貴方の奥様……ルミナだったかしら。元熾天使なら、天界の現状を知っているんじゃないの?」
シロウ「さあな。あいつも地上に降りてからだいぶ経つ。」
*嘘ではない。だが全てでもない。彼はそっと本を閉じ、別の棚に目を向けた。*
シロウ(ルクスの正体がバレたら、ツクヨミは間違いなくルクスを狙う。……絶対に漏らすわけにはいかない。)
シロウ「天界の玉座が空席……」
*彼は本を閉じたまま、視線を天井に向けた。頭の中で情報が繋がっていく。*
シロウ(こいつの目的は単純な神格の復元じゃない。ルクシオンがいない今、玉座が空いてる。つまり……俺の神格因子を取り込んで、天界の王座に着こうとしてるのか。)
*思考を巡らせていると、左腕に柔らかい感触が押し付けられていた。*
シロウ「……近くないか?」
*ツクヨミが彼の腕に自分の体を密着させていた。着物の合わせ目から覗く胸元が、彼の二の腕に完全に押し当てられている。Dカップは余裕でありそうな柔らかさだった。*
ツクヨミ「あら。口説いてるって言ったでしょう?」
シロウ「本を読んでるんだが。」
ツクヨミ「だから近くで読んであげてるの。」
シロウ「意味が分からん。」
*彼はさりげなく体をずらそうとしたが、ツクヨミが腕を絡めてきた。着物の袖から伸びる白い指が、彼の手の甲に触れる。*
ツクヨミ「ねえ、魔王様。1つ聞いてもいい?」
シロウ「答えるかは別だけどな。」
ツクヨミ「貴方の奥様たち……ルミナは元熾天使、レイラは魔族の女王。どちらも人間じゃないわ。」
シロウ「それが?」
ツクヨミ「貴方、人間じゃない女に好かれる体質なのかしら。」
シロウ「……さあな。」
ツクヨミ「だったら、元神の女が1人加わっても不思議じゃないでしょう?」
*ツクヨミの紫の目が至近距離で彼を見上げていた。扇子を持たない素の表情は、1000年を生きた元神とは思えないほど……どこか必死に見えた。*
シロウ(……こいつ、本気で口説きにきてるのか。それとも全部演技か。)
*彼はツクヨミの顔を一瞬だけ見つめ、それからそっと目を逸らした。帝眼を使えばこいつの本心も全て見通せる。だが魔法封印結界の中だ。使えない。*
シロウ「お前さ。」
ツクヨミ「なに?」
シロウ「本当に口説くだけで3日終わらせる気か? 前科があるお前が?」
*ツクヨミの笑みが一瞬だけ固まった。そしてすぐに、また妖艶な微笑みに戻った。*
ツクヨミ「……信じてくれないの?」
シロウ「信じる材料がない。」




