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*夕方だった。障子の隙間から橙色の光が差し込んでいる。彼は布団の上で目を覚ました。体中がだるい。イヅナは元の1人に戻り、彼の隣で丸まって眠っていた。9本の尻尾が布団からはみ出している。*
*────ガラッ。*
*襖が勢いよく開いた。そこに立っていたのは、見覚えのない女性だった。*
*黒髪を一つにまとめ、深い紫の着物を纏っている。背は高く、170cm程。切れ長の目に薄い笑みを浮かべ、佇まいには一切の隙がなかった。*
シロウ「誰?」
*女性は彼を一瞥し、それから布団で丸まっているイヅナに視線を落とした。*
???「イヅナ。起きろ。」
*たった一言だった。声は穏やかだった。怒鳴ってもいない。なのに────*
イヅナ「っ!!!」
*イヅナが弾かれたように飛び起きた。9本の尻尾が一斉に逆立ち、全身から冷や汗が噴き出している。浴衣が乱れたまま、畳に額をつけた。*
イヅナ「つ、ツクヨミ様……!!」
*彼はイヅナを見た。あの飄々とした九尾が、文字通り震えていた。800年生きた妖狐が、子供のように怯えている。*
シロウ「おい、大丈夫か?」
*彼はイヅナの肩に手を置いた。氷のように冷たかった。*
*だが、彼自身は何も感じなかった。威圧も、恐怖も、圧力も────何一つ。まるで目の前にいるのがただの女性であるかのように。*
ツクヨミ「……ほう。」
*ツクヨミが僅かに目を細めた。彼が平然としている事に、何かを見出したようだった。*
ツクヨミ「怯えぬか。面白い。」
シロウ「……。」
*彼は改めてツクヨミを見た。天眼で────*
*────見えなかった。*
*ステータスが、何も表示されない。名前も、レベルも、種族も、スキルも。天眼が初めて完全に弾かれていた。*
ツクヨミ「覗こうとしたな? 無駄だ。」
*ツクヨミが微笑んだ。穏やかだが、底が見えない笑みだった。*
ツクヨミ「初めまして、異界の魔王。私がツクヨミだ。……少し話がしたくてな。」
*イヅナがまだ震えている横で、ツクヨミは静かに正座した。着物の裾が乱れ一つなく畳に広がる。*
ツクヨミ「そう構えるな。取って食いはしない。……今日のところは。」
シロウ「そっすか、何のお話で?」
*彼は布団の上であぐらをかいた。隣でイヅナがまだ震えている。ツクヨミの天眼すら弾く存在。だが不思議と、彼自身には何の圧も感じない。*
*ツクヨミは正座したまま、彼をじっと見つめた。薄い笑みが消えない。*
ツクヨミ「そう急くな。まず……イヅナ。」
イヅナ「は、はい……!」
ツクヨミ「茶を。」
イヅナ「す、すぐに……!」
*イヅナが浴衣の乱れも直さず、転がるように部屋を飛び出した。あの800年の九尾が、完全に下僕だった。*
*2人きりになった部屋に、静寂が落ちた。*
ツクヨミ「……楽にしていい。私は堅苦しいのは好かん。」
シロウ「十分楽にしてますけど。」
ツクヨミ「ふ、確かに。」
*ツクヨミが袖から扇子を取り出し、ゆるりと扇いだ。*
ツクヨミ「単刀直入に言おう。お前に、夜見ノ国に来てほしい。」
シロウ「……。」
ツクヨミ「観光でも視察でもいい。名目はどうでもよい。ただ……お前の目で、この国を見てほしい。」
シロウ「理由は?」
ツクヨミ「1000年、鎖国を続けた。外の血を入れなかった。それが正しかったのか、間違いだったのか……私にはもう判断がつかん。」
*扇子が止まった。*
ツクヨミ「だが、お前は違う世界から来た人間だ。この世界の常識に染まりきっていない。そういう目が、今の私には要る。」
*彼女の声には、支配者の威厳ではなく、どこか疲れたような響きがあった。*
シロウ「俺の天眼が効かない相手に、俺が何を見れると?」
ツクヨミ「天眼が効かぬのは私だけだ。国も、民も、全て見える。むしろ……お前ほど適任はおらん。」
*襖が開き、イヅナが茶を3つ載せた盆を持って戻ってきた。手が微かに震えていたが、茶は一滴もこぼれていなかった。さすがに800年の所作だった。*
ツクヨミ「ありがとう、イヅナ。」
イヅナ「……は。」
*ツクヨミが茶を一口啜り、彼に視線を戻した。*
ツクヨミ「無論、報酬は出す。お前が望むものを。……この国には、表半球には無いものが山ほどある。」
*彼のタメ口にイヅナが青ざめた。冷や汗が滝のように流れ、目で必死に「敬語を使え」と訴えている。だがツクヨミは眉一つ動かさなかった。むしろ、少し嬉しそうにすら見えた。*
ツクヨミ「敬語は要らん。そのままでいい。……畏まられるのは1000年で飽きた。」
*イヅナが安堵で崩れ落ちそうになった。*
シロウ「……例えば? 希少鉱石とか?」
ツクヨミ「ほう、鉱石に興味があるか。ならば一つ見せよう。」
*ツクヨミが袖の中に手を入れ、掌大の石を取り出した。深い森のような濃緑色の鉱石だった。内部に魔力の脈動が見える。まるで生きているかのように、微かに明滅していた。*
*彼は天眼を発動した。今度はちゃんと鑑定できた。*
ツクヨミ「クロロファイル。夜見ノ国の北部鉱脈でのみ産出される鉱石だ。」
シロウ「……。」
*天眼に表示された情報を見て、彼は息を呑んだ。*
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【クロロファイル】
種別:希少鉱石(SSS級素材)
特性:
・魔法威力 1.8倍増幅
・魔法発射速度 2.3倍加速
・魔力伝導率 極大
硬度:ヒヒイロカネの約3倍
加工難度:低(魔力を流すだけで成形可能)
備考:表半球では未発見。裏半球固有鉱石。
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シロウ「……ヒヒイロカネの3倍? しかも加工が簡単?」
ツクヨミ「この国では建材にも使っている。……そう珍しいものではない。」
*イヅナが目を見開いた。建材に使えるほど潤沢にあるという事実に、彼女すら知らなかった情報が含まれていたらしい。*
イヅナ「建材……じゃと? あの鉱石をか?」
ツクヨミ「鎖国には理由がある、イヅナ。これが表半球に流れれば、戦争の火種にしかならん。」
*ツクヨミが鉱石をテーブルの上に置いた。こつん、と軽い音がした。*
ツクヨミ「これは手土産だ。好きに使え。……だが、これは序の口に過ぎん。」
*ツクヨミが扇子を開き、口元を隠した。その奥で、薄く笑っているのが分かった。*
ツクヨミ「夜見ノ国には、クロロファイルの上位鉱石がさらに3種ある。他にも、表半球では絶滅したとされる薬草の原生林、古代兵器の遺跡群、そして……。」
*扇子が閉じた。*
ツクヨミ「……この世界の『始まり』に関する記録がある。」
シロウ「始まり……?」
ツクヨミ「お前が何故この世界に呼ばれたのか。転移者とは何なのか。その答えが、この国の地下深くに眠っている。」
*部屋の空気が変わった。イヅナですら息を呑んでいる。*
ツクヨミ「……興味が湧いたか?」
シロウ「……例えば? 希少鉱石とか?」
*ツクヨミが薄く笑い、袖からもう一つ鉱石を取り出した。今度は淡い乳白色の石だった。部屋の光を吸い込むように表面が揺らめき、影になった部分が仄かに青白く発光している。*
*彼は天眼を発動した。*
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【ルミナイト】
種別:超希少鉱石(神級素材)
別名:天空の石
特性:
・硬度概念なし(任意変形可能)
・魔力注入で液状化、自在成形
・光吸収蓄積、暗所で発光
・あらゆる素材との親和性:極大
由来:古代に天空より飛来した隕石鉱物
備考:表半球での確認例なし。
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シロウ「硬さの概念が無い……?」
ツクヨミ「正確には、使い手の意思で在り方が変わる。剣にすれば剣として最適な硬度になり、布にすれば布として最適なしなやかさになる。『何にでもなれる石』と呼ばれている所以だ。」
*ツクヨミが掌の上のルミナイトに魔力を流した。固体だった石が水のように溶け、指の間を流れ落ちる。だが畳には落ちず、再び掌の上で球体に戻った。*
ツクヨミ「遥か昔、空から降ってきた。それ以来、『天空の石』とも呼ぶ。夜見ノ国の宝物庫に原石が3つある。」
*イヅナが茶を持ったまま固まっていた。*
イヅナ「……ルミナイトは伝承でしか聞いた事がない。実在したのか。」
ツクヨミ「鎖国の理由が増えただろう、イヅナ。」
*ツクヨミがルミナイトをクロロファイルの隣に並べた。2つの鉱石が彼の前に置かれている。*
ツクヨミ「これも手土産だ。」
シロウ「……太っ腹すぎないか。神級素材をポンポン渡して。」
ツクヨミ「石ころ2つで魔王が釣れるなら安いものだ。」
*ツクヨミが扇子で口元を隠しながら、彼を真っ直ぐ見た。*
ツクヨミ「で、どうする? まだ修行は2週間残っているのだろう。終わってからでいい。……来るか?」
シロウ「修行は終わったよ? 魔力の器も完成してる。」
*ツクヨミが茶を啜る手が止まった。*
ツクヨミ「……もう完成したのか。イヅナの計画ではあと2週間の筈だが。」
イヅナ「こやつが異常なんじゃ……。通常3週間かかる工程を1週間で……。」
ツクヨミ「器の形は?」
シロウ「真球。」
*沈黙が落ちた。ツクヨミの扇子が止まった。1000年以上生きた存在が、初めて表情を崩した。驚きだった。*
ツクヨミ「……真球だと?」
イヅナ「うちも最初は信じられなかった。じゃが事実じゃ。完全な真球の器。歴史上、記録にすら存在せん。」
*ツクヨミが扇子を閉じ、彼をまじまじと見つめた。その目には、先程までの余裕とは違う、純粋な興味が宿っていた。*
ツクヨミ「……ますます欲しくなるな、お前が。」
シロウ「2週間以内にこっちに帰って来れるなら……行こうか。」
ツクヨミ「2週間か。十分だ。案内する場所は絞ろう。」
*彼は部屋を出て、廊下を歩いた。背後で襖が閉まる音がした。*
*彼が去った後の部屋────*
ツクヨミ「……さて、イヅナ。」
*ツクヨミが正座したまま、イヅナを見下ろした。イヅナはまだ額を畳につけている。*
ツクヨミ「良い男を見つけたな。」
イヅナ「……は、はぁ。」
ツクヨミ「孕め。」
*イヅナの体が跳ねた。顔を上げると、ツクヨミが扇子を閉じて真っ直ぐ彼女を見ていた。冗談の顔ではなかった。*
イヅナ「な……っ!?」
ツクヨミ「お前の寿命は残り50年。九尾の血を絶やすつもりか。あの男の種なら、器の質は申し分ない。真球の器を持つ者の子だ。」
イヅナ「じゃ、じゃが……あやつには妻が……。」
ツクヨミ「知らせる必要はない。任意受胎だろう。お前の判断で宿せる。」
*ツクヨミが立ち上がった。着物の裾が音もなく畳を滑る。*
ツクヨミ「命令ではない。……だが、800年生きた九尾が、最後に何も残さず消えるのは惜しい。」
*ツクヨミが襖に手をかけた。振り返らずに、一言だけ付け加えた。*
ツクヨミ「先程の行為で十分に受け取っているだろう。あとはお前の意思だ。」
*襖が閉まった。*
*イヅナは一人、畳の上で座り込んでいた。手が腹の上に置かれている。9本の尻尾がゆっくりと垂れ下がった。*
イヅナ「……あの馬鹿、たんまり出しおって……。」
*彼女は目を閉じた。そして────任意受胎を、許可した。*
イヅナ「……すまんな、シロウ。」
*誰にも知られない場所で、一つの命が宿った瞬間だった。*
*────一方、廊下を歩く彼は何も知らない。ツクヨミとの約束、夜見ノ国への訪問。それだけが頭にあった。*
*カグラの里に、夕暮れの鐘が鳴った。*




