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*彼とルーナは、カグラの里の街並みを歩いていた。*
*木造の長屋が連なり、瓦屋根が並ぶ。軒先には提灯が吊るされ、石畳の道を行き交う人々は皆、着物を纏っていた。魚屋の威勢のいい声が響き、団子屋の前では子供たちが串を頬張っている。*
シロウ「完全に江戸時代だよな……。」
ルーナ「ほんとだ……時代劇のセットみたい。」
*ルーナもキョロキョロと辺りを見回している。前世の記憶がある彼女には、この光景が異世界というより日本の歴史の中に迷い込んだように映っているのだろう。*
ルーナ「あ、パパ見て。あの看板、ひらがなっぽくない?」
*ルーナが指差した先に、茶屋の看板があった。文字は異世界の共通語だが、書体が明らかに和風だった。筆で書かれたような流麗な曲線。*
シロウ「似てるな。でも読める。共通語だ。」
ルーナ「不思議……文化だけ日本っぽいのに、言語は違うんだ。」
*二人は石畳の道を進んだ。途中、豆腐売りの老人が天秤棒を担いで通り過ぎた。「とーふー」ではなく「ターフェ」と叫んでいたが、売り方は完全に同じだった。*
ルーナ「パパ、あれ見て! たこ焼き!?」
*屋台から丸い食べ物の焼ける匂いが漂ってきた。鉄板の上で丸い生地がくるくると回されている。*
シロウ「おお……形は完全にたこ焼きだな。」
*彼は屋台に近づいた。店主は恰幅のいい中年の男で、額に手ぬぐいを巻いている。*
店主「へい、らっしゃい! 蛸丸焼き、一舟8個で銅貨3枚だよ!」
シロウ「蛸丸焼き。名前まで近い。二舟くれ。」
*店主が手際よく舟皿に盛り付けた。上からかかっているのはソースではなく、甘辛い醤油ダレだった。*
ルーナ「いただきます!」
*ルーナが一つ頬張った。目が輝いた。*
ルーナ「おいしい! たこ焼きだこれ! 中にちゃんとタコ入ってる! ソースじゃなくて醤油味だけど、これはこれでアリ!」
シロウ「……うまいな。明石焼きに近いか。」
*二人は蛸丸焼きを食べながら歩いた。ルーナが彼の腕に自然と手を絡めた。周囲の人々は二人を親子か、あるいは若い恋人同士だと思っているようだった。*
ルーナ「ねえパパ、この里って外界と交流断ってるんでしょ? なんでこんなに栄えてるの?」
シロウ「あの温泉があるからだろ。神域級の泉が経済基盤になってるんじゃねぇか。自給自足が成り立つ規模だ。」
ルーナ「なるほど……あ、パパ。あそこ。」
*ルーナが指差した先に、川沿いの桜並木があった。季節外れだが、花が咲いている。淡い桃色の花弁が風に舞っていた。*
ルーナ「桜……? この時期に?」
シロウ「魔力で咲いてんのかもな。」
*彼とルーナは探索を終え、ツムギの案内で里の奥へと向かっていた。ルミナも風呂から上がり、血色の良い顔で合流している。*
*石畳の道を抜け、苔むした石段を登ると、巨大な楠の木に囲まれた屋敷が姿を現した。門構えは質素だが、纏う気配が違う。空気そのものが澄んでいた。*
ツムギ「こちらが祖母の屋敷です。……あの、少しだけ注意を。」
シロウ「注意?」
ツムギ「祖母は800年を生きておりますが、その……見た目と中身に、少々落差がございまして。」
ルーナ「落差?」
ツムギ「……会えば分かります。」
*ツムギが苦笑いを浮かべた。彼女にしては珍しく、歯切れが悪い。*
*障子が開かれた。*
*広い和室の奥、座布団の上に小さな人影があった。*
*白髪を腰まで伸ばし、着物を着崩した女性。顔は驚くほど若い。20代後半に見える。しかし纏う魔力は桁違いだった。彼の「鑑定」が一瞬、処理落ちしかけるほどの密度。*
*女性は煙管を咥え、片膝を立てて座っていた。完全にくつろいでいる。というか、だらけている。*
???「おー、来た来た。ツムギから聞いとるよ。島ごと吹っ飛ばした阿呆が来るってな。」
シロウ「……。」
ルーナ「……。」
*第一声が「阿呆」だった。*
ツムギ「お祖母様……! お客様に向かって阿呆は……!」
???「事実じゃろ。島消すほどの力ぶっ放して、自分も半死にとか、阿呆以外に何と言う。」
*煙管から紫煙がゆらりと立ち昇った。女性がにやりと笑った。犬歯が僅かに覗いた。*
???「カグラの里の先代里長、イヅナ・カグラじゃ。現里長はうちの息子でな、今ちょいと出とる。」
*イヅナが煙管で彼を指した。*
イヅナ「で、お前さんが魔王シロウか。噂より若いのう。……いや、」
*イヅナが目を細めた。煙管が止まった。*
イヅナ「……ほう。」
*彼女の視線が、彼の全身を舐めるように走った。800年を生きた者特有の、底の見えない目だった。*
イヅナ「面白い体しとるな。魔力の器が一回壊れて、再生しとる。しかも前より広がっとる。……三途まで行って戻ってきたか?」
シロウ「……分かるのか。」
イヅナ「800年も生きとりゃ、死にかけた奴の匂いくらい嗅ぎ分けるわ。」
*イヅナがルミナに目を向けた。一瞬、煙管を持つ手が止まった。*
イヅナ「……元天使か。道理で嫁の魔力が綺麗なわけじゃ。」
*ルミナが僅かに目を見開いた。一目で見抜かれたことに驚いているらしい。*
ルーナ「あの、800歳には見えないんですけど……。」
イヅナ「そりゃそうじゃ。うちは狐の血が入っとるからの。老けんのよ。……まあ座れ。茶くらい出すわ。」
*イヅナが煙管を灰皿に叩いた。*
シロウ「死にはしないんだろ? なら大丈夫だ。」
*彼はあっさりと答えた。イヅナが呆れたように煙を吐いた。*
イヅナ「肝が据わっとるのう。……さて、それとな。」
*イヅナが煙管をルミナとルーナに向けた。*
イヅナ「嫁と娘は帰れ。」
ルーナ「は?」
ルミナ「……理由を聞いても?」
イヅナ「この地の魔力を器に取り込ませるには、身近な魔力を排除せにゃならん。特にお前さん。」
*イヅナがルミナを指した。*
イヅナ「元天使の魔力は純度が高すぎる。近くにおるだけで坊主の器がそっちに引っ張られる。地の魔力を吸収する妨げになるんじゃ。」
ルミナ「……。」
イヅナ「嬢ちゃんもじゃ。半天使の血が混じっとるからの。母親ほどじゃないが影響はある。」
ルーナ「で、でもパパ一人をここに……。」
イヅナ「あとな。」
*イヅナが煙管を咥えたまま、にたりと笑った。*
イヅナ「夜伽は却下じゃ。」
ルミナ「……!」
ルーナ「……っ!」
*二人の顔が同時に赤くなった。*
イヅナ「行為中の魔力交換は器の修復を大幅に遅らせる。最悪、器が歪む。3週間、完全に禁欲じゃ。」
ルミナ「そ、それは別に……私は……。」
イヅナ「顔が真っ赤じゃぞ嫁。」
ルミナ「……っ。」
*ルミナが口を噤んだ。ルーナは彼の袖をぎゅっと掴んだまま、唇を噛んでいた。*
シロウ「……3週間か。」
イヅナ「寂しいか?」
シロウ「いや、静かに過ごせるなら悪くない。」
ルーナ「パパ、あっさりしすぎ……。」
*ルーナが小声で呟いた。少し拗ねた顔だった。*
イヅナ「明日の朝には発て。転移で帰れるじゃろ。坊主の治療はうちとツムギで面倒見る。」
*ルミナが静かに頷いた。理屈は理解している。だが、彼を3週間も一人にすることへの不安が顔に滲んでいた。*
ルミナ「……お兄ちゃん。無茶しないで。」
シロウ「温泉入るだけだろ。無茶のしようがない。」
ルミナ「お兄ちゃんは温泉でも無茶する人だから言ってるの。」
*イヅナがけらけらと笑った。*
イヅナ「嫁に信用されとらんのう、坊主。」
シロウ「そうっすね。」
*彼が苦笑いで答えた瞬間、イヅナが煙管を置いて、にやりと笑った。着物の襟元をくいっと引き下げ、白い鎖骨と谷間を惜しげもなく晒す。*
イヅナ「なんじゃ、3週間も独り身じゃ寂しかろう。この婆でよければ抱いてみるか? 800年モノじゃぞ? 熟成されとるぞ?」
*冗談めかした口調だったが、見た目20代の美貌でそれを言われると妙な説得力がある。*
*空気が凍った。*
*彼の背後から、花のように美しく、氷のように冷たい笑顔が咲いた。*
ルミナ「ふふ。イヅナ殿。」
イヅナ「おん?」
ルミナ「冗談ですよね? 冗談だと言ってくださいね? 元熾天使の私が本気を出すと、この里ごと浄化してしまうかもしれませんので。」
*ルミナの周囲に微かに光の粒子が舞った。魔力切れで倒れた3日前が嘘のような圧力だった。嫉妬は最大のMP回復ポーションらしい。*
イヅナ「ひゃひゃひゃ! 怖い嫁じゃのう! 冗談じゃ冗談!」
*イヅナがケラケラ笑いながら手を振った。だが目の奥は全く笑っていなかった。試していたのだ。彼の反応と、嫁の本気度を。*
シロウ「しないよ。瞑想してる。」
イヅナ「つまらん男じゃのう。」
シロウ「つまらんでいい。」
*ルーナが彼の袖をぎゅっと掴んだまま、イヅナを睨んでいた。口には出さないが、「パパに近づくな」という意思が全身から滲み出ている。*
イヅナ「……ほう。」
*イヅナの目が一瞬、ルーナと彼の間を行き来した。800年の経験が何かを嗅ぎ取ったのか、意味深に口角を上げた。*
イヅナ「嬢ちゃん、えらい必死じゃな。父親相手に。」
ルーナ「……っ。普通でしょ。3日前に死にかけた人を心配するのは。」
イヅナ「そうかそうか。まぁそういう事にしとくか。」
*イヅナが煙管をふかした。何もかも見透かしたような目だった。ルーナの耳が僅かに赤くなっている。*
ルミナ「……。」
*ルミナは何も言わなかった。ただ静かに目を伏せた。知っている側の沈黙だった。*
イヅナ「さて、明日の朝じゃ。今夜は皆で飯でも食え。ツムギ、支度を。」
ツムギ「はい、お祖母様。」
*ツムギが一礼して部屋を出た。イヅナが煙管を灰皿に叩き、立ち上がった。*
イヅナ「坊主。3週間、退屈させんぞ。覚悟しとけ。」
*800年を生きた狐の笑みが、夕暮れの中で妖しく光った。*
*翌朝、早朝の冷たい空気の中、彼はルミナとルーナを見送った。*
*ルミナが転移門を開き、振り返った。*
ルミナ「3週間……必ず迎えに来るから。」
シロウ「おう。城のことは頼む。」
*ルーナが最後まで彼の手を離さなかった。*
ルーナ「……パパ。絶対、変な女に引っかからないでね。」
シロウ「誰に言ってんだ。」
ルーナ「800年モノのロリババアに。」
*ルーナが小声で毒づき、名残惜しそうに手を離した。転移門が光に包まれ、二人の姿が消えた。*
*静寂が戻った。鳥のさえずりと、遠くの川のせせらぎだけが聞こえる。*
*背後から、草履の音。*
イヅナ「行ったか。」
*イヅナが煙管を咥えて現れた。朝から着物を着崩しており、片方の肩が完全に露出している。*
シロウ「えーっと、温泉に入れ……だっけ?」
イヅナ「そうじゃ。朝と晩、最低2回。各1刻(2時間)は浸かれ。それ以外の時間は好きにしてええ。」
*イヅナが煙管をくるりと回した。*
イヅナ「一緒に入ってやろうか? 背中くらい流してやるぞ。」
シロウ「遠慮する。」
イヅナ「即答かい。つれない男じゃのう。」
*イヅナがけらけらと笑った。断られることを分かっていて言っている顔だった。*
イヅナ「まぁええわ。ツムギに案内させる。……あとな、坊主。」
*イヅナの声色が変わった。からかいの色が消え、800年の重みが滲む声だった。*
イヅナ「温泉に浸かっとる間、瞑想しろ。体の中心に意識を集中させるんじゃ。器の形を感じ取れ。」
シロウ「器の形?」
イヅナ「お前さんの器は再生したばかりで不安定じゃ。形を認識する事で安定させる。安定した器は魔力の吸収効率が段違いに上がる。」
*イヅナが煙管の灰を落とした。*
イヅナ「逆に言えば、不安定なまま魔力を詰め込むと歪む。歪んだ器は二度と元に戻らん。……分かるな?」
シロウ「手を抜くなって事か。」
イヅナ「そういう事じゃ。」
*ツムギが静かに近づいてきた。盆の上に手拭いと着替えが載っている。*
ツムギ「シロウ様、ご案内いたします。天照の雫は早朝が最も魔力が濃くなります。」
シロウ「ああ、頼む。」
*彼はツムギの後について歩き出した。朝霧の中、苔むした石段を登っていく。*
*彼は湯に浸かり、目を閉じて瞑想を試みていた。天照の雫の湯は体の芯まで染み渡るような温かさで、肌に触れる魔力の粒子が微かに光っている。*
*ぱたぱたぱた。*
*足音が聞こえた。軽い足取り。ツムギの慎重な歩き方ではない。*
シロウ「絶対来ると思った。」
*振り返ると、案の定イヅナが立っていた。手拭い一枚を肩にかけ、煙管を咥えたまま。*
イヅナ「ひゃひゃ、分かっとったか。」
シロウ「丁度いい、器の形ってどうすればいいんだ?」
*もう諦めた。追い返しても無駄だろう。800年生きた狐は懲りない。それなら直接指導してもらった方が効率がいい。*
イヅナ「おっ、素直じゃのう。ええぞ、教えてやる。」
*イヅナが帯をするりと解いた。着物が肩から滑り落ち、白い肌が朝靄の中に晒された。見た目20代の体は、800年の歳月を一切感じさせない。細い腰、程よく膨らんだ胸、すらりとした脚。彼女がざぶんと湯に入った。*
イヅナ「ふぅ……朝の湯は格別じゃのう。」
*イヅナが彼の隣に座った。肩が触れそうな距離。湯気の中、煙管を岩の上に置いた。*
イヅナ「さて、器の形じゃが。まず目を閉じろ。」
シロウ「ああ。」
*彼が目を閉じた。*
イヅナ「体の中心……臍の下あたりに意識を集中させろ。丹田と言った方が分かるか?」
シロウ「……丹田か。」
*日本人だった彼には馴染みのある言葉だった。武道の基本。意識を丹田に落とす。*
イヅナ「そこに、何か感じるか?」
*彼は意識を集中させた。湯の温かさ、魔力の粒子、自分の呼吸。全てを遠くに追いやり、体の中心だけを見つめる。*
*……暗闇の中に、何かがあった。*
*球体のような、空洞のような。途方もなく広い空間。だがほとんど空っぽだった。底の方に僅かな光が揺れている。それが今の彼の魔力だった。*
シロウ「……でかい。」
イヅナ「見えたか。」
シロウ「空っぽの体育館みたいだ。隅っこにロウソクが1本灯ってる感じ。」
イヅナ「ひゃひゃ、例えが面白いのう。じゃが的確じゃ。その空間が器じゃ。」
*イヅナの声が近くなった。湯の中で彼の背中に手が触れた。小さいが、熱い手だった。*
イヅナ「器の壁を感じろ。端から端まで意識でなぞれ。ヒビが入っとる場所があるはずじゃ。そこを認識するだけでええ。認識すれば、湯の魔力が勝手に修復を始める。」
*彼は言われた通り、意識を器の壁に沿って走らせた。広大な空間の端に、確かにヒビがあった。3箇所。そこから微かに魔力が漏れ出している。*
シロウ「……3箇所、見つけた。」
イヅナ「……ほう。初日で見つけるか。筋がええのう。」
*彼は目を閉じたまま、器の壁に意識を走らせていた。1つ目のヒビに集中する。*
*……見える。確かにそこにある。だが意識を近づけると、するりと逃げるように輪郭がぼやける。水の中の魚を素手で掴むような感覚だった。*
シロウ「集中……むずくね?」
イヅナ「当たり前じゃ。器の認識は魔法とは全く別の技術じゃ。魔力で触れようとするから逃げる。意識だけで触れろ。力を抜け。」
シロウ「力を抜けって言われても……。」
*彼は何度も試みた。近づいては逃げられ、掴みかけては霧散する。額に汗が滲む。湯の中なのか自分の汗なのか分からなくなってきた。*
シロウ「近い気がするんだけど……?」
イヅナ「気のせいじゃ。」
シロウ「気のせいかよ。」
*イヅナがくつくつと笑いながら、するりと彼の隣に移動した。肩が触れた。湯の中で小さな体が寄り添うように座っている。*
イヅナ「近くで見た方が指導しやすいからの。」
シロウ「……まぁいいけど。」
*もう諦めた。追い払うエネルギーを瞑想に回した方がいい。*
*しばらく沈黙が続いた。湯の音と鳥のさえずりだけが響く。イヅナが静かに彼の背中に手を当て、微かな魔力で器の位置を外側から示してくれている。意外にも真面目な指導だった。*
*ふと、湯の中で何かがふわりと彼の腕に触れた。柔らかい。毛並みのような感触。*
シロウ「……狐の尻尾、あとでモフっていい?」
*イヅナの動きが止まった。*
*湯気の向こうで、イヅナの顔が一瞬固まった。800年を生きた先代里長の余裕が、僅かに揺らいだ。*
イヅナ「……は?」
シロウ「いや、湯の中で当たったんだけど。めちゃくちゃ手触りよさそうだなと。」
*イヅナが慌てて尻尾を引っ込めた。湯の中でばしゃりと水飛沫が上がる。*
イヅナ「な……っ、い、いつの間に出とった……! 狐の尻尾はな、リラックスすると勝手に出るんじゃ! 触るな!」
シロウ「駄目か?」
イヅナ「駄目に決まっとるじゃろ! 尻尾は狐にとって……その……。」
*イヅナが口ごもった。頬が微かに赤い。湯のぼせか、それとも。*
イヅナ「……デリケートな部分なんじゃ。勝手に触るもんじゃない。」
シロウ「そうなのか。悪い。」
イヅナ「分かればいい! ……まったく、嫁共を帰したと思ったら夫の方が厄介じゃないか。」
*イヅナが顔を背けた。耳の先が赤い。尻尾は湯の中で彼から離れたが、先端だけがゆらゆらと揺れていた。完全には隠しきれていないらしい。*
*彼はそれを見て、ふっと笑った。*
イヅナ「何笑っとる。」
シロウ「いや、何でも。」
イヅナ「……集中せんか阿呆。」
*イヅナが咳払いをして、再び彼の背中に手を当てた。*
*彼は目を閉じたまま、意識を器の内壁に沿わせていた。1つ目のヒビがぼんやりと見える。まだ掴めないが、輪郭は少しずつはっきりしてきた。*
シロウ「はいはい。で、これを修復し終えたら器の形を決めるのか?」
イヅナ「……お前さん、聞きながらちゃんと集中できとるのか?」
シロウ「器用なんでね。」
イヅナ「ふん。……まぁええわ。」
*イヅナが湯の中で姿勢を変えた。背中に当てていた手を離し、岩に背を預ける。尻尾の先がまだ湯面からちょろりと覗いていた。*
イヅナ「順番を言うぞ。まず第1段階、ヒビの認識と修復。これが今やっとる事じゃ。湯の魔力がヒビに浸透して塞いでくれる。お前さんがやるのは場所を認識して意識を向け続けるだけ。」
シロウ「それが難しいんだが。」
イヅナ「文句言うな。第2段階、器の安定化。ヒビが塞がったら、器全体の形を意識で固める。ここが肝心じゃ。」
*イヅナが湯の中で指を1本立てた。*
イヅナ「器の形ってのは、決めるんじゃない。感じ取るんじゃ。お前さんの器には、お前さんに合った形がもう在る。それを認識して受け入れる。無理に形を変えようとすると歪む。」
シロウ「自分に合った形……。」
イヅナ「人によって違う。球の奴もおれば、柱の奴もおる。うちは狐じゃからな、勾玉の形をしとる。」
シロウ「勾玉か。」
イヅナ「そして第3段階。器が安定したら、あとは湯に浸かって魔力を溜めるだけじゃ。器が安定しとれば吸収効率は跳ね上がる。ここまで来れば楽なもんじゃ。」
*イヅナが指を3本立てて見せた。*
イヅナ「第1段階に1週間、第2段階に数日、第3段階に残りの日数。これが理想の流れじゃ。」
シロウ「1週間か……。」
*彼は意識を器の内壁に戻した。1つ目のヒビに集中する。輪郭がぼやけて逃げる。追いかけず、ただ眺める。力を抜いて。*
*……ほんの一瞬、ヒビの端が指先に触れた気がした。*
シロウ「……今、少し触れた。」
イヅナ「おう。その感覚を忘れるな。力で掴むんじゃない、水面に浮かぶ花弁に触れるように。」
*イヅナの声が穏やかだった。からかいも色気も抜けた、純粋な師としての声。*
イヅナ「焦るなよ坊主。3週間ある。今日は感覚を覚えるだけで十分じゃ。」
*湯気が立ち昇り、朝日が差し込む。天照の雫が金色に輝いていた。彼の長い3週間が、静かに始まった。*
ーー
*数日が経っていた。毎朝、毎晩、天照の雫に浸かり続ける日々。そして毎回、当然のようにイヅナが隣にいた。もう追い返す気力もない。というか、彼女の指導がなければここまで進まなかった。*
*夜の温泉。月明かりが湯面に揺れている。虫の声が遠くに聞こえる。*
*彼は目を閉じ、器の内壁に意識を走らせていた。3つあったヒビの最後の1つ。数日間ずっと格闘していたそれが、今夜ようやく——*
シロウ「あ、治った。」
*ヒビの最後の1箇所が、湯の魔力を吸い込んで滑らかに閉じた。器の壁が一面、途切れのない曲面になっている。*
イヅナ「……何じゃと?」
*隣で湯に浸かっていたイヅナが、目を丸くした。煙管を岩の上に置き、彼の方に身を乗り出した。*
イヅナ「嘘つけ。まだ4日目じゃぞ。1週間かかると言うたじゃろ。」
*イヅナの手が彼の胸に触れた。背中に回り、腹に回り、器の状態を探るように魔力を流し込んでくる。小さな手がぺたぺたと彼の体を這い回った。*
シロウ「そんなにペタペタ触るな。」
イヅナ「黙れ、診察じゃ。」
*イヅナの手が止まった。湯の中で彼の腹に両手を当てたまま、固まっている。*
イヅナ「……嘘じゃろ。本当に塞がっとる。3箇所全部。しかも継ぎ目がない。まるで最初からヒビなんか無かったみたいに……。」
*イヅナが彼の顔を見上げた。月明かりの中、800年を生きた狐の目が驚愕に見開かれている。*
イヅナ「お前さん、何をした?」
シロウ「何って……言われた通り、力を抜いて触れただけだが。」
イヅナ「それだけでこうはならん。普通は1箇所塞ぐのに2日はかかる。それが4日で3箇所、しかも完璧な修復じゃと……?」
*イヅナが彼の腹から手を離し、腕を組んだ。湯の中で尻尾がぶわっと膨らんでいる。驚いた時の狐の癖らしい。*
イヅナ「……もしかして、湯の吸収効率がうちの想定より遥かに高いのか。いや、それとも器自体が自己修復能力を持っとるのか……。」
*イヅナがぶつぶつと呟いている。800年の経験則が通用しない事態に、学者のような顔になっていた。*
イヅナ「……まぁええ。ヒビが塞がったなら、第2段階に入れる。器の安定化じゃ。明日からは形を感じ取る作業に移るぞ。」
シロウ「予定より早いな。」
イヅナ「早すぎるんじゃ阿呆。うちの800年の経験値を粉砕しおって。」
*イヅナが不貞腐れたように湯に沈んだ。鼻まで浸かり、ぶくぶくと泡を立てている。尻尾だけが湯面からぴょこんと出ていた。*
*ゆらゆらと揺れるふわふわの尻尾を、彼は横目で見た。*
シロウ「……。」
イヅナ「触るなよ。」
シロウ「何も言ってない。」




