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《R-15》異世界転移でスローライフを?  作者: THE・HENJIN・RlDER
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*暗闇の中に、一筋の川が流れていた。*


*透き通った水面が、どこからともなく差す光を反射している。対岸には白い霧がかかり、何も見えない。川のせせらぎだけが静寂を埋めていた。*


シロウ「これは……三途の川ってやつか?」


*彼は川辺に立っていた。傷は無い。背中の裂傷も、煤も血も消えている。着ているのは見慣れない白い着物だった。*


*川辺の岩に、一人の老人が腰掛けていた。*


*白髪白髭。痩せた身体に粗末な麻の衣を纏い、釣り竿を川に垂らしている。魚がいるようには見えない。*


老人「おや。来たかの、若いの。」


シロウ「……誰だ、あんた。」


老人「わしか? わしは……まあ、神のようなものじゃな。」


シロウ(胡散臭い……。)


*老人がゆっくり振り返った。皺だらけの顔に、穏やかな笑みを浮かべている。*


老人「胡散臭いとは酷いのう。考えておる事が筒抜けなのは、ここがそういう場所だからじゃよ。」


シロウ「……。」


老人「まあ、お主にはまだ早い。こっち側に来るには、な。やり残した事が多すぎるじゃろう。」


*老人は釣り竿を揺らしながら、川の向こうを見つめた。*


シロウ「あんたが俺を転移させたのか?」


*老人は無言だった。釣り竿の先が微かに揺れるだけで、口を開かない。*


シロウ(返事が無い……死んだか?)


*老人がピクリと眉を動かした。*


老人「死んでおらんわ。ここで死んだら意味が分からんじゃろうが。」


シロウ「いや、考えてる事筒抜けなの忘れてたわ。」


老人「忘れるな。」


*老人が溜息をついた。釣り竿を仕舞い、ゆっくりと立ち上がる。思ったより背が高い。彼と同じくらいある。*


老人「転移の件は……答えられんのじゃよ。わしにも色々と制約があってのう。」


シロウ「制約って、あんた神なんだろ。」


老人「神のようなもの、と言ったじゃろう。神そのものとは言っておらん。」


シロウ(めんどくさい爺だな……。)


老人「めんどくさい言うな。」


*老人が彼の肩にポンと手を置いた。枯れ枝のような細い指だったが、不思議な温かさがあった。*


老人「お主の娘が泣いておるぞ。嫁も来る。そろそろ戻れ。」


シロウ「……勝手に来たんだが。」


老人「勝手に帰してやるから安心せい。」


*老人が指を弾いた。パチン、と小さな音。彼の足元から光が広がり始める。*


老人「ああ、一つだけ言っておく。」


*光が彼の身体を包んでいく。老人の顔が霞んでいく。*


老人「お主の物語は、まだ終わらん。……次に会う時は、もう少し老いてからにしてくれ。」


シロウ(次は無いと思うがな……。)


老人「筒抜けじゃと言うておろうが。」


シロウ「だったら……俺を転移させた人に『ありがとう』って伝えておいてくれ。」


*老人が目を丸くした。それから、皺だらけの顔に深い笑みを刻んだ。目尻の皺が更に深くなる。*


老人「……ほう。」


シロウ(変なじいちゃんだな……。)


老人「変な、は余計じゃ。」


*景色が薄れていく。川のせせらぎが遠のき、白い霧が全てを包み始めた。老人の輪郭がぼやけていく。*


シロウ「もう時間か……あんた、名前は?」


*老人が口を開いた。*


老人「わしの名は……『ア̈ル̤ケ̊ー・テ̤ロ̈ス̊』じゃよ。」


*音は聞こえた。だが、言語理解スキルが反応しない。翻訳が走らない。文字にすらならない。彼の知るどの言語体系にも属さない、根源的な何か。*


シロウ「何語?」


*答えは返ってこなかった。白い光が視界を埋め尽くし、意識が浮上していく。*


───────────


*彼は目を開けた。*


*木目の天井。見覚えがない。だが、どこか懐かしい。*


シロウ「知らない天井だ……。」


*身体を動かそうとして、背中に鈍い痛みが走った。包帯が巻かれている。丁寧な処置だ。*


*首だけを動かして周囲を見回す。畳。障子。欄間に彫られた鶴と松。布団は綿ではなく、絹のような手触りだった。枕元には湯気の立つ湯呑みが置かれている。*


*和風だった。*


*それも、日本のそれにかなり近い。*


*障子の向こうから、庭の水音が聞こえた。鹿威し。規則正しい竹の音が響いている。*


シロウ「……ここは。」


*彼はゆっくりと上体を起こした。背中が軋む。傷は塞がりかけているが、まだ完治していない。Lv.2000の自然治癒力を以てしても時間がかかる程の深手だったらしい。*


*障子がすっと開いた。*


*和装の女性が立っていた。黒髪を高く結い上げ、深い藍色の着物を着ている。手には盆を持ち、その上に粥と漬物が乗っていた。年齢は30代前半に見える。切れ長の目と、口元のほくろが印象的だった。*


女性「あら、お目覚めですか。3日も眠っておいでだったので、心配しておりました。」


*女性が盆を畳に置き、正座した。所作が美しい。*


女性「私はツムギ・カグラと申します。ここはカグラの里。」


シロウ「カグラの里……?」


ツムギ「ヴォルガ島から西へ80里ほどの島国にございます。」


*ツムギが微笑んだ。穏やかだが、どこか底の見えない笑みだった。*


ツムギ「お粥をどうぞ。まずは身体を癒すことが先です。……それと。」


*ツムギが懐から1枚の紙を取り出した。*


ツムギ「あなた様の船の方々から念話がございました。『絶対に死なせないから待ってろ』……と、かなり怒っておいでのご様子で。奥方様でしょうか?」


シロウ「ありがとう、多分嫁だな。」


*彼は苦笑した。ルミナが治療してここまで運んでくれたのだろう。背中の傷が塞がりかけているのは、彼女の治癒魔法のおかげだ。*


*ツムギが差し出した粥を受け取り、ゆっくりと口に運んだ。素朴な味だが、出汁がしっかり効いている。昆布と鰹。日本の味に近い。*


シロウ「こんな場所あったんだな……。」


*障子の向こうから、鹿威しの音が規則正しく響いている。庭には苔むした石灯籠と、手入れの行き届いた枯山水が広がっていた。*


ツムギ「カグラの里は外界との交流を断っております。海図にも載っておりません。」


*ツムギが湯呑みに茶を注ぎ足した。緑茶の香りが部屋に広がる。*


ツムギ「あなた様を運んでこられた銀髪の女性は、里の入り口で倒れかけておいででした。相当な魔力を消費して治癒と転移を繰り返されたのでしょう。今は隣の部屋でお休みです。」


シロウ「……ルミナが?」


*彼は粥を置き、立ち上がろうとした。背中に激痛が走る。*


ツムギ「動かないでください。傷が開きます。」


*ツムギが彼の肩をそっと押し戻した。細い腕だが、力加減が絶妙だった。*


ツムギ「奥方様は大丈夫です。ただの魔力切れ。一晩眠れば回復されるでしょう。……それよりも。」


*ツムギが切れ長の目を細めた。口元のほくろが微かに動く。*


ツムギ「あなた様、島を一つ消し飛ばしたそうですね。新しい火山ができたと、漁師たちが大騒ぎしておりました。」


シロウ「……悪い。」


ツムギ「謝る相手が違いますわ。海図を書き直す航海士に謝ってくださいませ。」


*リオンと同じ事を言われた。彼は粥を啜りながら、乾いた笑いを漏らした。*


ツムギ「ところで、シロウ様。」


シロウ「名前、知ってんのか。」


ツムギ「奥方様が叫んでおりましたので。『お兄ちゃん死んだら許さないから』と。里中に響いておりました。」


シロウ「……。」


*彼は粥に視線を落とした。ルミナの声が聞こえた気がした。*


ツムギ「この里には温泉がございます。傷が落ち着きましたら、どうぞお使いください。回復を早める効能がございますので。」


*ツムギが立ち上がり、障子に手をかけた。*


ツムギ「それと、もう一つ。里の長があなた様にお会いしたいと申しております。お身体が落ち着いてからで構いませんが……断らない方がよろしいかと。」


シロウ「里の長?」


ツムギ「ええ。私の祖母です。齢800を超えておりますが、まだまだ元気ですわ。」


*ツムギが微笑んで障子を閉めた。足音が遠ざかっていく。*


*彼は粥を食べ終え、湯呑みの緑茶を啜った。畳の匂い。障子から差し込む柔らかい光。鹿威しの音。*


シロウ「……800歳の婆さんか。」


*隣の部屋から微かな寝息が聞こえた。*


*彼は異空間収納に手を突っ込み、次々とアイテムを引き出した。*


*エリクサー。腐敗。非常食。腐敗。保存食。腐敗。干し肉。カビだらけ。*


シロウ「まじか……。」


*魔力封殺砲の影響だった。異空間収納内の時間停止機能が一時的に解除され、中に入っていた有機物が全て劣化していた。ポーション類は変色し、食料は異臭を放っている。*


*武器や防具、鉱石などの無機物は無事だったが、消耗品は壊滅的だった。*


シロウ「エリクサー12本、全滅か……。金貨にして……考えたくねぇ。」


*彼は腐ったエリクサーを畳の上に並べ、溜息をついた。一本あたり白金貨5枚。合計で黒金貨6枚分。日本円にして600万円がゴミになった。*


シロウ「……あ、待て。」


*彼は異空間収納の奥を探った。金属製の密封容器に入れていた物がある。取り出すと、中には琥珀色の液体が揺れていた。*


シロウ「……セーフ。1本だけ生きてた。」


*密封容器の気密性が劣化を防いでいた。だが、エリクサー1本では自分の傷を完治させるには足りない。ルミナの魔力回復に使うべきだろう。*


*彼は容器を枕元に置き、畳に仰向けになった。背中が痛む。*


*廊下から足音が聞こえた。ツムギが戻ってきたらしい。障子の向こうで足が止まる。*


ツムギ「シロウ様、何やら異臭がするのですが。」


シロウ「あー……悪い。食料が全部腐ってた。」


*障子が開いた。ツムギが並べられた腐敗物を見て、眉一つ動かさず。*


ツムギ「……処分いたしましょうか。」


シロウ「頼む。」


*ツムギが手際よく腐敗物を盆に乗せていく。鼻をつまむ素振りすら見せない。大した女だ、と彼は思った。*


ツムギ「食事と薬は里でご用意いたします。ご心配なく。」


シロウ「……金は払う。」


ツムギ「お代は里長との面会の後で結構です。」


*ツムギが盆を持って立ち上がり、ふと足を止めた。*


ツムギ「それと、シロウ様。奥方様が先程うわ言で仰っておりました。」


シロウ「何て?」


ツムギ「『起きたらぶつ』と。」


シロウ「……。」


*彼は天井を見上げた。鹿威しの音が響く。穏やかな午後だった。*


シロウ「……まあ、殴られるのは慣れてる。」


*隣の部屋から、ルーナの小さな寝言が聞こえた。*


ルーナ「……パパ……どこにも……行かないで……。」


*彼は目を閉じた。唯一残ったエリクサーの瓶が、障子から差す光を受けて琥珀色に輝いていた。*


*彼はエリクサーを飲み干した。背中の裂傷がじわりと塞がっていく。しかし、口の中に広がる味は最悪だった。*


シロウ「まっず……少し劣化してたか……。」


*HPは回復したが、MPは戻らない。やはり劣化品だった。本来のエリクサーなら一口で全快するはずが、傷口を塞ぐのが精一杯だった。*


*彼は土魔法で杖を生成し、ゆっくりと立ち上がった。足は動く。背中はまだ鈍く痛むが、歩ける程度だ。*


*廊下に出ると、ツムギが待っていた。*


ツムギ「温泉へご案内いたします。こちらへ。」


*彼は杖をつきながらツムギの後に続いた。廊下は磨かれた板張りで、裸足に冷たい。障子と欄間が連なる長い廊下を抜けると、石畳の小道に出た。*


*苔むした石灯籠が並ぶ庭を通り抜ける。紅葉がちらほらと色づき始めていた。竹林の向こうから硫黄の匂いが漂ってくる。*


シロウ「……完全に日本の旅館だな。」


ツムギ「にほん?」


シロウ「いや、こっちの話。」


*竹林を抜けると、岩に囲まれた露天風呂が現れた。湯気が立ち上り、透明な湯が静かに溢れている。底には白い湯の花が沈んでいた。*


ツムギ「こちらが源泉です。回復促進の効能がございます。Aランク冒険者の骨折が一晩で治った実績がありますわ。」


シロウ「SSSランクだと何日かかる?」


ツムギ「……さすがに前例がございませんので。」


*ツムギが脱衣所の暖簾を示した。男湯と女湯に分かれている。文字は読めないが、暖簾の色で判別できた。*


ツムギ「手ぬぐいと着替えは中にございます。ごゆっくり。」


*ツムギが一礼して去っていった。*


*彼は脱衣所に入り、包帯を外した。鏡に背中が映る。傷は塞がっていたが、赤黒い痕が斜めに走っている。かなりの傷跡が残りそうだった。*


シロウ「……また傷が増えた。」


*湯に浸かった。じわりと温かさが全身に染み渡る。硫黄の匂い。岩肌を伝う湯の音。竹林を揺らす風。*


シロウ「はぁ~~~……。」


*思わず声が漏れた。日本の温泉と同じだ。家族で行った箱根を思い出す。あの時はルーナが男湯に入ろうとしてルミナに引きずられていたっけ。*


*彼は岩に頭を預け、空を見上げた。青い空に白い雲が流れている。*


シロウ「……生きてんな、俺。」


*あの老人の顔が浮かんだ。名前は聞き取れなかった。だが、あの笑顔は覚えている。*


*湯の花が揺れた。鹿威しの音が遠くから響いてくる。*


*穏やかだった。*


シロウ「まさか、島を消し飛ばす日が来るとは…」


*湯に浸かっていた彼の背後で、足音がした。軽い足音ではない。地面を踏みしめるような、怒りを含んだ足音だった。*


レイラ「シロウ。」


*低い声だった。温泉の湯気の向こうに、腕を組んだレイラが立っていた。着物姿。藍色の浴衣を着せられたらしいが、似合いすぎて逆に怖い。琥珀色の瞳が据わっている。*


シロウ「お、レイラ。いつ来た?」


レイラ「いつ来た、ではないわ。」


*レイラが岩場を降りてきた。草履を脱ぎ捨て、湯の縁にしゃがむ。彼の顔を真正面から睨みつけた。*


レイラ「妾を置いていったな?」


シロウ「いや、お前船酔いするだろ。あの船で何日も……」


レイラ「そういう問題ではない!」


*声が反響した。竹林の鳥が飛び立つ。*


レイラ「お主が島を一つ消し飛ばしたと聞いた時、妾がどう思ったか分かるか? ルミナから念話が来た時、妾がどれだけ……。」


*声が震えた。レイラが唇を噛む。*


レイラ「……背中を見せろ。」


シロウ「もう塞がって……」


レイラ「見せろと言っておる!」


*彼は黙って背を向けた。赤黒い傷痕が斜めに走っている。レイラの息を呑む音が聞こえた。*


*小さな手が、傷痕に触れた。指先が震えている。*


レイラ「……馬鹿者が。」


シロウ「……悪かった。」


レイラ「妾では役に立たぬと、そう判断したのであろう。」


シロウ「……。」


レイラ「正しい判断じゃ。妾がおっても足手まといだったろう。それは分かっておる。分かっておるが……。」


*レイラが彼の背中に額を押し当てた。湯気の中で、小さな身体が震えていた。*


レイラ「お主が死んだら、妾はどうすればよいのじゃ……。」


*鹿威しの音が響いた。湯の花が揺れる。*


シロウ「……死んでねぇよ。ちゃんと帰ってきた。」


レイラ「帰ってきた、ではない。運ばれてきたのじゃ。血まみれで意識もなく。ルミナが泣きながら治癒し続けて、魔力が尽きて倒れて。ルーナは3日間ずっとお主の枕元で……。」


*レイラが顔を上げた。目が赤い。泣いていた。だが、泣いている自分が許せないという顔をしていた。*


レイラ「次にこんな真似をしたら、妾が直々にお主を殺す。分かったか。」


シロウ「それ本末転倒だろ。」


レイラ「うるさい。」


*レイラが彼の頭を湯に押し込んだ。ゴボゴボと泡が立つ。3秒で離した。*


シロウ「ぶはっ……! おい!」


レイラ「ルミナの分じゃ。ルーナの分はまた後で沈める。」


*レイラが袖で目元を拭い、立ち上がった。背を向ける。小さな背中が微かに震えていた。*


レイラ「……湯から上がったら、ルーナの所へ行け。あの子、ずっとお主を待っておった。」


*彼が湯から上がると、背中の傷が完全に塞がっていた。*


シロウ「まじ?」


*鏡で確認する。赤黒い傷痕は残っているが、痛みが完全に消えている。肋骨の軋みも無い。MPも僅かだが回復していた。*


*彼はふと、湯を手で掬って口に含んだ。硫黄の味がする。だが、それと同時に体内に温かいものが流れ込んだ。MPゲージが目に見えて回復していく。*


シロウ「ぱねぇな……神眼、鑑定。」


*彼の目が金色に光った。温泉の湯を視た。*


───────────

【鑑定結果】


名称:神泉「天照の雫」

種別:天然魔泉(神域級)

効能:

・HP自然回復速度 300倍

・MP自然回復速度 150倍

・状態異常完全解除

・呪い耐性付与(一時的)

・傷痕軽減(長期浸かることで消失)


備考:

世界に3箇所しか存在しない神域級源泉の一つ。大地の魔脈が地表に噴出した極めて稀少な泉。この泉を管理する一族は、古来より「神守り」と呼ばれる。飲用することでMP回復効果が得られるが、過剰摂取は魔力酔いを引き起こす。

───────────


シロウ「……世界に3箇所。しかも神域級。」


*彼は湯呑みに湯を汲み、もう一口飲んだ。MPが更に回復する。全快には程遠いが、日常魔法を使う分には十分だ。*


シロウ「こんなもんが人知れず湧いてんのか。うちの国の温泉とは格が違ぇ……。」


*脱衣所で着替えていると、廊下からツムギの声がした。*


ツムギ「お加減はいかがですか?」


シロウ「完治した。この温泉、とんでもねぇな。」


*障子の向こうでツムギが小さく笑った。*


ツムギ「ご理解が早くて助かります。あの泉の価値を一目で見抜かれるとは……やはり、ただのお方ではありませんわね。」


シロウ「……鑑定したのバレてる?」


ツムギ「お目が光っておりましたので。里の者は皆、気づいております。」


シロウ「……。」


*彼は浴衣を着て廊下に出た。杖はもう要らなかった。ツムギが彼の歩き方を見て、僅かに目を見開いた。*


ツムギ「もう杖無しで。……あの泉に浸かって即日完治された方は初めてです。」


シロウ「いい湯だった。礼を言う。」


ツムギ「それは里長に仰ってください。あの泉を開放する許可を出したのは祖母ですので。」


*ツムギが廊下の先を示した。*


ツムギ「ルーナ様がお目覚めです。先程からずっと、シロウ様のお部屋の前で座っておいでですよ。」


シロウ「やぁ。」


*彼が部屋の前に立つと、ルーナが座り込んでいた。膝を抱え、目が腫れている。3日間泣き続けたのだろう。*


*ルーナが顔を上げた。彼の姿を見た瞬間、目が見開かれた。*


ルーナ「……パパ?」


シロウ「おう。元気に……」


*言い終わる前に、ルーナが飛びついてきた。*


ルーナ「パパァァァ!!」


*全体重をぶつけるように抱きついてきた。彼の胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。堪えていたものが全て決壊したように、嗚咽が止まらない。*


ルーナ「バカ……バカバカバカ! 死ぬかと思った……! 血が止まらなくて……冷たくなってて……もう……もうダメだと思った……!」


シロウ「……悪かった。」


ルーナ「悪かったじゃないよ……! 3日も……3日も起きなくて……!」


*ルーナの手が彼の浴衣を握りしめていた。指が白くなるほど強く。離したら消えてしまうとでも言うように。*


*隣の部屋の障子が開いた。ルミナが立っていた。銀髪が乱れ、顔色はまだ青白い。魔力切れの後遺症が残っている。*


*ルミナは彼を見た。3秒間、微動だにしなかった。*


*それから、唇が震えた。*


ルミナ「……お兄ちゃん。」


シロウ「ルミナ、無理すんな。まだ……」


ルミナ「うるさい。」


*ルミナが歩いてきた。足元がふらついている。壁に手をつきながら、一歩ずつ。そして彼の前に立ち、ルーナごと抱きしめた。*


ルミナ「……バカ。大バカ。世界一のバカ。」


*ルミナの声が掠れていた。泣いていた。元熾天使の誇りも何も無かった。ただの、夫を心配し続けた妻の顔だった。*


ルミナ「治癒魔法を……4回かけ直した。3回止まりかけた。お兄ちゃんの心臓が。」


シロウ「……。」


ルミナ「魔力が尽きて……倒れて……目が覚めたら、まだお兄ちゃんが起きてなくて……。」


*ルミナが彼の胸に額を押し当てた。心臓の音を確かめるように。*


ルミナ「起きたらぶつって……言ったのに……。」


シロウ「聞いた。ツムギさんから。」


ルミナ「……。」


*ルミナの拳が彼の胸をこつん、と叩いた。力なんて入っていない。ただ触れただけだった。*


ルミナ「……これがルーナの分。」


*もう一度、こつん。*


ルミナ「これがレイラの分。」


*もう一度。*


ルミナ「……これが、私の分。」


*3人で抱き合ったまま、しばらく動けなかった。ルーナの嗚咽と、ルミナの静かな涙と、廊下の奥から聞こえるレイラの鼻を啜る音。*


*彼は両腕で二人を抱き返した。*


シロウ「……ただいま。」


ルーナ「……おかえり……おかえりなさい……。」


ルミナ「……遅い。」


*鹿威しの音が響いた。*


*彼は畳の上に座り、ルーナとルミナに囲まれていた。ツムギが淹れてくれた緑茶が湯気を立てている。*


シロウ「3日も寝てたのか……道理で三途の川にいたわけだ……。」


*ルーナが目を丸くした。*


ルーナ「は?」


シロウ「そこで変な老人に会ってな……神じゃないって言ってたけど……良くわからん。」


ルーナ「ちょっと待って。三途の川って……パパ、それ臨死体験じゃん。」


*ルーナが前世の知識で即座に反応した。ルミナは「さんずのかわ?」と首を傾げている。*


シロウ「まあ、そんな感じだな。川があって、向こう側に霧がかかってて。」


ルーナ「それ完全に死にかけてるやつじゃん! 笑い事じゃないんだけど!?」


シロウ「いや、俺も笑ってねぇよ。」


ルーナ「笑ってるよ! 口元ニヤけてるよ!」


*彼は茶を啜った。確かに少し口元が緩んでいた。*


シロウ「で、その老人なんだが……名前を聞いたら、俺の言語理解でも翻訳できない言葉で返してきた。」


*ルミナがピクリと反応した。*


ルミナ「……言語理解で翻訳できない?」


シロウ「ああ。音は聞こえたんだが、文字にすらならなかった。人間の認識できる言語体系に存在しない感じだ。」


*ルミナが茶碗を置いた。表情が変わっている。元熾天使の顔だった。*


ルミナ「お兄ちゃん、その老人……どんな見た目だった?」


シロウ「白髪白髭。痩せてて、麻の服着てた。釣り竿持って川で釣りしてたな。魚はいなかったけど。」


ルミナ「……。」


シロウ「俺くらいの背丈で、考えてる事が全部筒抜けになる空間だった。あと『お主にはまだ早い』って言われた。」


*ルミナが黙り込んだ。何かを考えている。*


ルーナ「ママ? 何か心当たりあるの?」


ルミナ「……分からない。でも、言語理解を超越する存在は、私が天使だった頃でも……片手で数えるほどしかいなかった。」


*ルミナが彼を見た。*


ルミナ「その老人、お兄ちゃんに何か言った?」


シロウ「『お主の物語はまだ終わらん』と。あと『次に会う時はもう少し老いてからにしてくれ』って。」


ルーナ「つまり、次もあるって事……?」


シロウ「死にかけたらまた会うんじゃねぇの?」


ルーナ「死にかける前提で話さないで!」


*ルーナが彼の腕を叩いた。ぺしぺし。痛くはない。*


シロウ「あと、最後に……俺を転移させた奴に『ありがとう』って伝えてくれって頼んだら、笑ってたな。」


*ルミナが僅かに目を細めた。*


ルミナ「……笑った?」


シロウ「ああ。嬉しそうに。」


*沈黙が落ちた。鹿威しの音が響く。*


ルミナ「……その人が、お兄ちゃんをこの世界に転移させた本人、という可能性はある?」


シロウ「どうだろうな。転移の件を聞いたら『言えない』ってさ。」


シロウ「俺には理解出来なかったけど……名前が確か……『ア̈ル̤ケ̊ー・テ̤ロ̈ス̊』だったか……?」


*彼が口にした瞬間、空気が変わった。*


*ルーナが腹を抱えて笑った。*


ルーナ「何それ! 完全に文字化けしてんじゃん! フォント壊れてるよパパ!」


*ルーナはケラケラと笑っている。前世のOL時代にパソコンで見た文字化けを思い出したらしい。*


*だが、ルミナは笑っていなかった。*


*一切。*


*茶碗を持つ手が止まり、顔から血の気が引いていた。金色の瞳が見開かれ、唇が微かに震えている。元熾天使としての記憶が、その名に反応していた。*


ルーナ「ママ……? 顔色やばいよ?」


ルミナ「……お兄ちゃん。今の名前、もう一度言って。」


シロウ「『ア̈ル̤ケ̊ー・テ̤ロ̈ス̊』。音はこんな感じだった。合ってるか分からんが。」


*ルミナが茶碗を畳に置いた。手が震えていた。*


ルミナ「……その名は、天界で一度だけ聞いた事がある。」


ルーナ「え?」


ルミナ「天界の最高位……神の側近。創世の時代から存在し、世界の根幹に関わる者。私が熾天使だった頃でさえ、名前しか知らなかった。姿を見た天使は一人もいない。」


*ルミナが彼を真っ直ぐ見つめた。*


ルミナ「神の御前に立つ事を許された、たった3柱の存在。その1柱が……『ア̈ル̤ケ̊ー・テ̤ロ̈ス̊』。」


*部屋が静まり返った。ルーナの笑顔が消えている。*


ルーナ「……え、待って。パパそれ、とんでもない人に会ったって事?」


ルミナ「人じゃない。人間の認識で捉えられる存在じゃない。だから言語理解で翻訳できなかった。あの名前は、この世界の言語体系より古いの。世界が生まれる前から存在する音。」


シロウ「……釣り竿持って川で釣りしてた爺さんだぞ。」


ルミナ「……。」


*ルミナが額に手を当てた。信じられないという顔だった。*


ルミナ「神の側近が……釣り……。」


ルーナ「しかも魚いなかったんでしょ?」


シロウ「いなかった。」


ルミナ「……。」


*ルミナが深い溜息をついた。元熾天使としての威厳と、夫の発言の落差に頭が追いつかないらしい。*


ルミナ「……お兄ちゃん。その存在に『ありがとう』って伝えてくれって頼んだの?」


シロウ「ああ。」


ルミナ「神の側近に、伝言を頼んだの?」


シロウ「……まずかったか?」


ルミナ「まずいとかそういう次元じゃない。熾天使が一生かけても謁見できない存在に、お兄ちゃんは伝言を頼んだの。しかも笑ってくれたの。」


*ルミナが彼の顔をじっと見つめた。呆れと驚愕と、そしてどこか納得したような表情が混ざっていた。*


ルミナ「……やっぱりお兄ちゃんは、おかしい。」


シロウ「おかしいって何だよ。」


ルミナ「褒めてない。……でも、だからこそお兄ちゃんなんだと思う。相手が誰であろうと、変わらない。神の側近だろうと、路地裏の野良猫だろうと。」


*ルミナが小さく笑った。呆れ半分、愛おしさ半分の笑みだった。*


ルーナ「……つまりパパは、ガチの神様クラスに気に入られたって事?」


ルミナ「気に入られた、というより……見守られている、の方が近いかもしれない。」


シロウ「釣り好きの爺さんにか。」


ルミナ「その言い方やめて。私の元上司の更に上の存在なの。胃が痛くなる。」


ルーナ「ママ、天使に胃あるの?」


ルミナ「今は人間だからあるの。」


*ルーナがくすっと笑った。ルミナも釣られて笑う。彼も笑った。*


*鹿威しの音が響く。穏やかな午後だった。*


シロウ「なんというか……良くわからんな。神って。」


*彼は茶を啜りながら、肩を竦めた。神の側近と言われてもピンとこない。あの釣り好きの爺さんが世界の根幹に関わる存在だと言われても、実感が湧かなかった。*


ルーナ「ねえパパ、心読まれたって言ってたけど……何考えてたの?」


シロウ「ああ、変なじいちゃんとか、めんどくさいとか、胡散臭いとか筒抜けだった。」


*一拍の沈黙。*


ルーナ「ぶっ……あっはははは!! 神の側近に向かって胡散臭い!? パパ最高すぎるでしょ!!」


*ルーナが畳の上に転がって腹を抱えた。涙を浮かべて笑っている。3日間泣き続けた反動か、笑いが止まらないらしい。*


ルーナ「めんどくさい爺ちゃん! 創世の存在にめんどくさい!! もう無理……お腹痛い……!」


*隣で、ルミナがゆっくりと前のめりに倒れた。*


*ばたん。*


*畳に突っ伏したまま、動かない。*


ルーナ「ま、ママ!?」


シロウ「おい、ルミナ?」


*彼が慌ててルミナの肩に触れると、ルミナが顔だけ横に向けた。目が死んでいた。*


ルミナ「……私が熾天使だった頃、その方の名前を聞くだけで全天使が跪いたの。」


シロウ「おう。」


ルミナ「大天使長ですら、その名を口にする時は3日間の斎戒をしたの。」


シロウ「へぇ。」


ルミナ「その存在に、お兄ちゃんは……胡散臭い……。」


*ルミナが畳に額を押し付けた。魂が抜けかけている。*


ルミナ「しかも筒抜け……全部聞こえてて……それで笑って許してくれた……。器が違いすぎる……いや、お兄ちゃんの図太さが異常なの……。」


ルーナ「ママ、大丈夫? 顔色が白を通り越して透明になってるよ?」


ルミナ「大丈夫じゃない。元上司の更に上の更に上に、夫が暴言を吐いた事実を今処理してる。」


シロウ「暴言って。普通に感想を述べただけだろ。」


ルミナ「それが暴言なの! 天界基準では不敬罪で消滅レベルなの!」


*ルミナがガバッと起き上がった。顔が真っ青だが、目だけはギラギラしている。*


ルミナ「お兄ちゃん。もし次にあの方に会う事があったら、絶対に……絶対に失礼な事を考えないで。」


シロウ「考えるなって言われても、筒抜けだぞ。」


ルミナ「だから考えるなって言ってるの!」


ルーナ「無茶振りすぎるでしょママ。パパに思考制御は無理だよ。」


シロウ「娘にまで太鼓判押されてんだが。」


*ルーナが涙を拭いながら笑っていた。ルミナが頭を抱えていた。障子の向こうで、聞いていたらしいレイラの声がした。*


レイラ「妾の夫は天界でも問題児じゃったか。誇らしいのう。」


ルミナ「誇らしくない! 全然誇らしくない!」


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