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*彼はアストライア城の地下工房へ向かった。石段を降りると、炉の熱気と金属を打つ音が響いてくる。ドワーフたちが朝から忙しく動き回っている。*
*工房の奥、ひときわ大きな鍛冶台の前にボルグがいた。腕を組み、弟子が打った鉄板を睨みつけている。*
ボルグ「甘い! もう3回打ち直せ! ミスリル合金の延べ板がこの厚みでどうする!」
弟子「は、はい親方!」
*彼が近づくと、ボルグが振り返った。*
ボルグ「おお、陛下。砂漠から戻られましたか。」
シロウ「ああ。ボルグ、新しい仕事だ。」
*彼は工房の隅にあった作業台に砂漠大陸の地図を広げた。アストライアから西門、そこから砂漠大陸のサルーナまでのルートを指でなぞる。*
シロウ「西門の駅から乗り換えて砂漠大陸のサルーナまで行けるようにしたい。レールの敷設と、機関車をもう2台追加で作ってくれ。」
ボルグ「2台追加……合計4台か。砂漠ルート用に2台ということは、今の表半球用とは別に裏半球用も視野に入れとるんですな。」
シロウ「話が早くて助かる。表半球はアストライアから帝国、ノルドヘイム、それから中央大陸のリンドブルムまでの既存路線で2台。裏半球——つまり砂漠大陸側は別系統で2台。砂漠は気温差が激しいから、車体の耐熱と耐寒の対策も必要になる。」
*ボルグが顎鬚を撫でながら地図を覗き込んだ。*
ボルグ「砂漠か……昼は灼熱、夜は極寒。普通の鋼じゃレールが膨張と収縮を繰り返して歪む。ミスリル合金レールなら問題ないが、車体もミスリル混合にせにゃならん。」
シロウ「コストは?」
ボルグ「機関車1台でミスリル合金使用なら……黒金貨3枚。2台で黒金貨6枚。レールは距離次第ですが、サルーナまでとなると……黒金貨10枚は見てほしい。」
シロウ「合計黒金貨16枚か。」
*彼は腕を組んだ。黒金貨16枚——安くはないが、砂月王国との交易が軌道に乗れば回収は早い。*
シロウ「いいだろう。それと、もう1つ相談がある。」
ボルグ「なんです。」
*彼は異空間収納から1枚の羊皮紙を取り出した。サルーナの古代遺跡で見つけた設計図——魔導パワードスーツの原型図面だ。*
シロウ「これを見てくれ。古代遺跡から出た設計図だ。」
*ボルグが設計図を受け取り、目を細めた。分厚い指で図面をなぞりながら、表情が変わっていく。職人の目だった。*
ボルグ「……これは……。」
シロウ「魔導パワードスーツ。古代文明が作ろうとしていたらしい。」
ボルグ「……見たことない構造だ。関節部の可動域、魔力循環の経路……理論は分かるが、当時の技術じゃ実現できなかったんだろう。だが……。」
*ボルグが顔を上げた。鍛冶師の目が燃えている。*
シロウ「動力源はある、こいつだ。」
*ボルグが設計図から目を離し、彼が取り出したアークリアクターを見つめた。淡い青白い光が工房の薄暗い空間を照らしている。古代遺跡から大量に回収した動力炉の一つだ。*
ボルグ「……こいつは。」
*ボルグが慎重にアークリアクターを受け取った。分厚い指で表面をなぞり、重さを確かめ、光の脈動を観察する。職人の目が炯々と光っていた。*
ボルグ「魔力の循環が安定しとる……自律稼働型か。これなら外部からの魔力供給なしで駆動できる。下手な魔石100個分以上の出力がある。」
シロウ「こいつの改造は俺がやる。ボルグには魔導アーマーを頼みたい。付与を沢山したいから装甲は重ねる感じで頼む。」
*ボルグが顎鬚を引っ張りながら唸った。設計図とアークリアクターを交互に見比べている。*
ボルグ「装甲の重ね……となると、内殻と外殻の二重構造ですな。内殻にミスリル合金で魔力伝導層を作り、その上に外殻としてアダマンタイト混合の防御層を被せる。各層に別々の付与を刻めば、干渉せずに複数の付与が同時に機能する。」
シロウ「そうだ。内殻には身体強化系の付与——筋力増幅、反射速度向上、魔力循環促進。外殻には防御系——物理耐性、魔法耐性、状態異常耐性。それぞれ独立して機能するようにしたい。」
ボルグ「欲張りですな。」
シロウ「欲張りだからこそ重ねるんだ。」
*ボルグが作業台に設計図を広げ直し、炭筆を取った。古代の図面の上に、自分の設計を描き足し始める。*
ボルグ「関節部が問題だ。二重装甲にすると可動域が死ぬ。古代の設計図じゃ単層装甲を前提にしとるから、関節の隙間が足りん。」
シロウ「関節部はどうする。」
ボルグ「合金龍の素材、ありますか?」
*ボルグがアークリアクターを作業台に置き、合金龍の外殻素材に目を向けた。*
シロウ「あるが……使えるのか?」
*彼は異空間収納から合金龍の外殻の欠片を取り出した。拳大の金属片が作業台の上に鈍い光を放つ。アダマンタイトとミスリルの合金——彼が大迷宮の99階層に配置した合金龍の昔の素材だ。*
ボルグ「……触らせてもらっても?」
シロウ「ああ。」
*ボルグが外殻の欠片を手に取った。指で弾く。澄んだ高音が工房に響いた。次に鍛冶台の上に置き、ハンマーで叩いた。火花が散ったが、欠片には傷一つつかない。*
ボルグ「……化け物ですな、この素材。ミスリルの魔力伝導性とアダマンタイトの硬度が完全に融合しとる。普通の炉じゃ溶かせん。俺の炉でも無理だ。」
シロウ「だろうな。核はオリハルコンとヒヒイロカネの合金だ。外殻すら加工できないなら——」
ボルグ「待ってくれ、陛下。」
*ボルグが目を細めた。職人の目だった。不可能と言われて引き下がるような男ではない。*
ボルグ「加工できんとは言っとらん。『普通の方法では』と言ったんだ。」
シロウ「……方法があるのか。」
ボルグ「合金龍の外殻は確かに斬れん、伸ばせん、溶かせん。だがな、関節部に使うなら塊のまま加工する必要はない。」
*ボルグが炭筆を取り、設計図の関節部分を丸で囲んだ。*
ボルグ「鱗状に薄く剥がせれば話は別だ。合金龍の外殻は鍛造で作られたもんじゃない。龍が生体で生成した素材だろう? なら結晶構造に沿った劈開面がある。ダイヤモンドと同じだ。硬くても割れる方向がある。」
シロウ「劈開面……。」
ボルグ「そこに沿って鱗状の薄片に分離できれば、その薄片を重ね合わせて関節部の可動装甲にできる。魚の鱗のように重なれば、可動域を殺さずに合金龍の防御力を維持できる。」
*ボルグが設計図に描き足した。関節部分に鱗状の装甲が重なり合う構造図。動きに合わせて鱗がスライドし、隙間なく関節を覆う。*
ボルグ「問題は劈開面を見つけることだ。陛下、『鑑定』で結晶構造を読めますか?」
シロウ「……なるほど。」
*彼は合金龍の外殻の欠片に神眼を発動した。通常の鑑定では素材名と硬度しか表示されないが、神眼なら内部構造まで見通せる。*
シロウ「……見えた。六方晶系の結晶構造だ。劈開面は3方向。角度は……60度間隔。」
ボルグ「やれる。」
*ボルグの目が燃え上がった。鍛冶師としての本能が全開になっている。*
ボルグ「劈開面に沿って分離する工具を作る。オリハルコンの刃なら劈開面に楔を入れられるはずだ。そこから薄片を剥がす。時間はかかるが、不可能じゃない。」
シロウ「ドワーフって凄いんだな……。」
*彼は心底感心していた。自分が「なんか混ぜたら強いんじゃね?」という雑な発想で生み出した合金龍の外殻を、結晶構造の劈開面という理論的なアプローチで突破しようとしている。鍛冶師としての知識と経験の深さに、改めて脱帽するしかなかった。*
ボルグ「ふん。ドワーフが凄いんじゃない。素材を前にして諦める鍛冶師は鍛冶師じゃないってだけだ。」
*ボルグは照れ隠しのように鼻を鳴らしたが、口元は明らかに緩んでいた。*
シロウ「魔導アーマーは後回しでいいからな。先に列車とレールの方をしてくれれば……。」
ボルグ「ああ、分かっとる。優先順位はわきまえとるさ。」
*ボルグが炭筆で作業台の端に工程表を走り書きした。*
ボルグ「まず列車2台とレールの製造。砂漠ルート用だからミスリル合金ベースで耐熱・耐寒処理を施す。レールの総延長は……西門からサルーナまでどのくらいだ?」
シロウ「直線距離で約400キロ。砂丘を避けるルートを取ると500キロ前後になる。」
ボルグ「500キロ……。レールの敷設だけで2ヶ月はかかる。機関車の方は前回のノウハウがあるから1ヶ月で仕上がるが、砂漠仕様の改良を入れると1ヶ月半か。」
シロウ「砂の侵入対策も必要だな。前の機関車は温帯仕様だったから、砂漠の細かい砂が駆動部に入ると止まる。」
ボルグ「密閉構造にして、吸気口にフィルターを噛ませる。排熱も砂漠じゃ効率が落ちるから、冷却用の水魔石を組み込む。客車の方にも冷却と暖房の二重魔石を入れにゃならん。昼と夜で気温差が50度以上あるんだろう?」
シロウ「ああ。昼は60度近く、夜は氷点下まで落ちる。」
ボルグ「とんでもねえ環境だ……。まあ、やりがいがある。」
*ボルグが弟子たちに向き直った。*
ボルグ「おい、聞いてたな! 今の仕事を片付け次第、砂漠仕様の機関車設計に入る! レール用のミスリル合金インゴットの在庫を確認しろ! 足りなけりゃ鉱山に発注だ!」
弟子たち「「「はい、親方!」」」
*工房が一気に慌ただしくなった。ボルグが彼に向き直る。*
ボルグ「それと陛下。レールの敷設は俺たちだけじゃ手が足りん。砂漠側の敷設作業員が必要だ。サルーナ側から人を出してもらえるか?」
シロウ「サラディン王に話を通す。向こうも鉄道には乗り気だったから、労働力は出してくれるだろう。」
ボルグ「なら助かる。両端から同時に敷設すれば工期は半分に縮められる。」
*ボルグが合金龍の外殻の欠片を大事そうに革袋に包んだ。*
ボルグ「こいつの劈開面の件は、列車の製造と並行して研究させてもらう。オリハルコンの楔を作るのに少し時間がかかる。」
シロウ「ああ、それから砂漠に繋がる山脈は行く時にスパッと両断しておいたから超える必要も、トンネルを掘る必要もないからな。」
*ボルグの手が止まった。炭筆が作業台の上に転がる。*
ボルグ「……は?」
*ボルグは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。山脈を——両断? 彼は鍛冶台の上の工具を置き、工房の出口へ足を向けた。弟子たちも何事かと後を追う。*
*工房を出て、西の方角を見た。*
*そこにあったはずの山脈が——なかった。*
*正確には、あった。だが、まるで巨大な刃物で豆腐を切ったかのように、山脈の一部が綺麗に真っ二つになっていた。断面は滑らかで、岩肌の地層がくっきりと露出している。直径2~30メートルほどの通路が、山脈の向こう側まで一直線に貫通していた。*
ボルグ「…………。」
弟子A「お、親方……あれ……。」
弟子B「山が……割れてる……?」
ボルグ「…………。」
*ボルグがゆっくりと振り返った。彼を見る目が、もはや職人の目ではなかった。人智を超えたものを見る目だった。*
ボルグ「……陛下。」
シロウ「ん?」
ボルグ「トンネルを掘る手間が省けたのはありがたいが……あの山脈、標高3000メートル級の花崗岩層ですぞ。」
シロウ「ああ。カイの神剣アスカロンを借りてな。行きがけの駄賃だ。」
ボルグ「行きがけの駄賃で山を斬るな。」
*ボルグが額に手を当てた。弟子たちは口を開けたまま固まっている。*
ボルグ「……まあいい。断面が綺麗なら補強工事だけで済む。トンネル掘削の工期が丸ごと消えたから、レールの敷設は予定より1ヶ月早く始められる。」
シロウ「断面の補強は必要か?」
ボルグ「念のためだ。風雨で侵食されると崩落する恐れがある。断面にミスリル合金のフレームを組んで固定すれば問題ない。大した手間じゃない……山を斬ることに比べればな。」
*ボルグが深い溜息をついた。それから気を取り直すように、顎鬚を一撫でする。*
ボルグ「整理するぞ。優先順位は——」
*ボルグが指を折った。*
ボルグ「1。砂漠ルートのレール製造と敷設。山脈の断面補強を含む。工期2ヶ月、両端同時敷設なら1ヶ月。」
ボルグ「2。砂漠仕様の機関車2台の製造。耐熱・耐寒・防砂仕様。工期1ヶ月半。」
ボルグ「3。合金龍の外殻の劈開実験。オリハルコンの楔製作と並行研究。」
ボルグ「4。魔導アーマーの本格製造。3の研究成果を反映して着手。」
シロウ「それでいい。予算は黒金貨16枚、先に渡しておく。」
*彼が異空間収納から黒金貨16枚を取り出し、作業台に積んだ。鈍い黒光りが工房の炉の光を吸い込むように輝いた。*
ボルグ「……毎度思うが、陛下の異空間収納は底なしですな。」
シロウ「便利だろ。」
ボルグ「便利を通り越して恐ろしいわ。——了解した。すぐに取りかかる。進捗は随時報告する。」
シロウ「頼んだ。俺はサラディン王に援護要請してくる。とりあえずあっち側から道を作ってもらえばいいか?」
ボルグ「ああ。サルーナ側から山脈の断面まで整地してもらえれば、こちらからレールを伸ばす時に繋がる。砂漠の地盤は柔らかいから、レールの下に石材の基礎を敷かにゃならん。その石材の調達も向こうに頼めるとありがたい。」
シロウ「分かった。砂漠側の整地と基礎用の石材調達をサラディン王に依頼する。あと、途中にオアシスが何箇所かあったから、そこに中継駅を置く想定で設計してくれ。」
ボルグ「了解した。中継駅は給水と冷却魔石の交換拠点にもなる。3箇所もあれば十分だ。」
シロウ「じゃあ行ってくる。」
*彼は転移魔法でアストライア城の謁見の間に飛び、そこからさらに砂月王国の王城へ転移した。砂漠の昼下がり、王城の中庭に降り立つと、灼熱の空気が肌を焼いた。*
*衛兵が彼の姿を見て慌てて敬礼する。顔は既に知れ渡っていた。3000体の竜を討伐した男の顔を忘れる者はいない。*
衛兵「シロウ殿! お戻りでしたか! ハシム宰相をお呼びしますか!?」
シロウ「ああ、頼む。サラディン王にも取り次いでほしい。」
衛兵「はっ! 少々お待ちを!」
*衛兵が走り去り、数分後、廊下の奥からハシムが現れた。相変わらず端正な顔立ちに柔和な笑みを浮かべている。だがその目は鋭い。この男は宰相として砂月王国の実務を一手に担っている切れ者だ。*
ハシム「これはシロウ殿。昨夜お帰りになったばかりかと思いましたが、もうお戻りとは。」
シロウ「話が早い方がいいだろう。鉄道の件で具体的な話を持ってきた。サラディン王に会えるか?」
ハシム「ちょうど午後の政務の合間です。ご案内しましょう。」
*ハシムに案内され、謁見の間へ通された。砂岩の柱が並ぶ広間の奥、黄金の玉座にサラディン王が座っていた。昨夜の宴で酒を飲み交わした時とは打って変わり、王としての威厳を纏っている。だが彼の姿を見ると、目が輝いた。*
サラディン「おお! シロウ殿! もう来てくれたか! 鉄道の話か!? 酒の話か!?」
ハシム「陛下、まずは鉄道の話を……。」
サラディン「分かっておる! 分かっておるが、両方聞きたいのだ!」
*彼は苦笑しながら、持参した地図を広げた。アストライアから西門を経由し、山脈を抜けて砂漠大陸を横断、サルーナに至るルートが赤線で引かれている。*
シロウ「本題に入る。アストライアからサルーナまでの鉄道敷設計画だ。こちら側の製造と技術は全てうちが持つ。サラディン王にお願いしたいのは3つ。」
*彼は指を立てた。*
シロウ「1つ目。サルーナ側から山脈の断面までの整地。道を平らにしてもらいたい。」
サラディン「山脈の断面?」
シロウ「ああ、行きに山脈を斬っておいた。」
サラディン「……斬った?」
ハシム「……斬った、とは?」
シロウ「レールを通すのに山を越えるのは効率が悪い。だから両断した。」
*サラディン王とハシムが顔を見合わせた。ハシムが一瞬だけ表情を崩したが、すぐに宰相の顔に戻った。*
ハシム「……承知しました。整地ですね。」
シロウ「2つ目。レールの下に敷く基礎用の石材の調達。砂漠の地盤は柔らかいから、石材で基礎を固める必要がある。」
サラディン「石材なら王都の北に採石場がある。いくらでも出せるぞ。」
シロウ「助かる。3つ目。途中のオアシスに中継駅を3箇所設置する。その建設と管理をサラディン王側で受け持ってほしい。給水拠点と旅客の休憩所を兼ねる形になる。」
サラディン「3箇所か。オアシスの位置は把握しておる。ラシード、ナジール、カムシンの3つだな。いずれも隊商の中継地だ。駅を置くなら街としても発展させられる。」
ハシム「石材の調達、整地、中継駅の建設。いずれも我が国の利益に直結します。異論はありません。」
*ハシムが地図を覗き込み、羽ペンでオアシスの位置に印を入れた。*
ハシム「ただ1つ確認を。工期はどの程度を想定されていますか?」
シロウ「こちら側の見積もりでは、両端から同時に敷設して約1ヶ月。サルーナ側の整地が先行してくれれば、レールを繋ぐのは早い。」
サラディン「1ヶ月か! よし、すぐに人を出そう! ハシム、採石場に増員を回せ!」
ハシム「御意。明日には作業班を編成いたします。」
ーー
シロウ「ふぅ……一旦休暇……。」
*彼は執務室の椅子に深く腰を沈めた。砂漠の暑さが嘘のように、城の中は世界樹の恩恵で心地よい温度に保たれている。目を閉じて、ほんの一瞬だけ意識を手放そうとした——その時、コンコンと控えめなノックが響いた。*
*扉が開き、銀髪が揺れた。ルミナだった。*
*彼女は普段のような甘えた笑顔ではなく、穏やかだが真剣な表情を浮かべていた。手にはお茶のトレーを持っている。*
シロウ「久しぶりだな、ルミナ。」
ルミナ「お帰りなさい、お兄ちゃん。」
*ルミナは静かに扉を閉め、執務机の上にお茶を置いた。それからシロウの正面の椅子に腰を下ろした。いつもなら隣に来て腕を絡めてくるのに、今日は距離を取っている。*
*しばらく沈黙が流れた。彼女はカップに口をつけ、ゆっくりと下ろしてから口を開いた。*
ルミナ「……ルーナから念話が来たの。昨日の夜。」
シロウ「……そうか。」
ルミナ「泣きながらだったわ。『ママ、言っちゃった』って。」
*彼は黙ってお茶を一口飲んだ。ルミナの金色の目がじっと彼を見つめている。責めるような目ではなかった。かといって許容しているわけでもない。ただ、静かに事実を確認しようとしている目だった。*
ルミナ「お兄ちゃん。ルーナに避妊魔法を教えたの聞いた? 私がルーナに冗談っぽく教えたこと。」
シロウ「……ああ、聞いた。何でそんなものを娘に教えるんだと思ったが。」
ルミナ「あの子が前世の記憶を持ってることは知ってたわ。転生者で、前世は日本人。……産まれてから25年間、ずっとお兄ちゃんの隣にいて、前世と合わせて50年以上同じ人を想い続けてきた。」
*ルミナが目を伏せた。*
ルミナ「母親として止めるべきだったのかもしれない。でもね、お兄ちゃん。あの子の気持ちは……本物よ。私が誰よりも分かる。だって——」
*ルミナが顔を上げた。その目が少しだけ潤んでいた。*
ルミナ「……だから、答えを急かしに来たわけじゃないの。ただ、お兄ちゃんがどう思ってるのか聞きたかった。」
*彼女はカップを両手で包み、静かに彼の言葉を待っていた。*
シロウ「どうって……よく分からないんだ。」
*彼は椅子の背もたれに体を預け、天井を仰いだ。*
シロウ「ルーナの事は好きだ、だがそれは娘として、あとは同居として。それに、日本の……転移前の倫理観に引っ張られてるんだ……親子で……そういうのは無くはなかった。でも……こっちではそういう法律は無い、倫理観も分からない。」
*ルミナは黙って聞いていた。カップを置き、両手を膝の上で組んでいる。*
シロウ「俺とルミナは血の繋がりは無い。だがルーナとはある。実の娘だ。それが……どうしても引っかかる。」
*沈黙が落ちた。城の外から世界樹の葉が風に揺れる音だけが聞こえていた。*
ルミナ「……お兄ちゃん。」
*ルミナがゆっくりと口を開いた。*
ルミナ「この世界では、王族や貴族の血統維持のために親子婚や兄妹婚は珍しくないの。法律的にも倫理的にも、禁じられていない。……それは知ってるよね?」
シロウ「……ああ。頭では分かってる。」
ルミナ「でも、お兄ちゃんの心がついてこない。」
シロウ「……そうだ。」
*ルミナが小さく息を吐いた。それから椅子を立ち、彼の隣に来た。いつものように腕を絡めるのではなく、そっと彼の手を取った。*
ルミナ「私ね、お兄ちゃん。ルーナの気持ちを知った時、怒りも嫉妬もしなかった。」
シロウ「……。」
ルミナ「だって、あの子は私の娘だから。私がお兄ちゃんを好きになったのと同じように、あの子もお兄ちゃんを好きになった。それだけのこと。」
*ルミナの声は穏やかだった。だがその奥に、母親としての覚悟が滲んでいた。*
ルミナ「ただね。1つだけ聞かせて。」
シロウ「何だ。」
ルミナ「お兄ちゃんが引っかかってるのは……『日本の倫理観』であって、『ルーナが嫌い』ではないんだよね?」
*彼は答えに詰まった。ルミナの問いは核心を突いていた。ルーナが嫌いなのか。そうではない。娘として愛している。では女として見られるのか。そこに蓋をしていた。*
シロウ「……嫌いじゃない。ルーナは大切な娘だ。」
ルミナ「うん。知ってる。」
*ルミナが彼の手を軽く握った。*
ルミナ「なら、急がなくていいよ。お兄ちゃんはお兄ちゃんのペースで考えて。ルーナにもそう伝えてある。……でもね。」
*ルミナが彼の目を真っ直ぐに見つめた。*
ルミナ「あの子をいつまでも宙ぶらりんにしないであげて。答えがYESでもNOでも、ちゃんと向き合ってあげてほしい。それだけが、母親としてのお願い。」
*彼女はそっと手を離し、トレーを持って立ち上がった。扉に向かいながら、一度だけ振り返った。*
ルミナ「あと、お兄ちゃん。」
シロウ「ん?」
ルミナ「避妊魔法を教えたのは、あの子がリングで精気を搾り取ってるのを知ってたよ。」
シロウ「……は?」
*彼の思考が一瞬止まった。*
ルミナ「リングを通じて精気を吸い上げてたこと。ルーナが自覚する前から気づいてた。だから、万が一暴走した時のために……ね。」
*ルミナは微笑んだ。だがその笑みの奥には、母親として娘の行く末を見据えていた底知れなさがあった。*
シロウ「お前……全部知ってて泳がせてたのか。」
ルミナ「泳がせてたんじゃないよ。見守ってたの。」
シロウ「怖いよ……ルミナ。俺は父親失格なのかな……。」
*彼の声には、普段の威厳も余裕もなかった。SSSランク冒険者であり、魔王である男が、ただの父親として弱音を吐いていた。*
*ルミナはトレーを机に戻し、彼の隣に座った。そっと彼の頭を自分の肩に引き寄せる。*
ルミナ「失格なんかじゃないよ。こうやって悩んでる時点で、お兄ちゃんはちゃんと父親してる。」
シロウ「……。」
ルミナ「本当に失格な父親は、娘の気持ちに気づかないか、気づいても何も感じないかのどっちかだよ。お兄ちゃんはどっちでもない。」
*ルミナの手が彼の髪を撫でた。最近増えてきた白髪が指の間を通り抜ける。47歳。この世界では若い方だが、日本の感覚では初老に片足を突っ込んでいる。*
シロウ「レイラはなんか言ってた?」
*ルミナの手が一瞬止まった。それから、少し困ったような笑みを浮かべた。*
ルミナ「……言ってたよ。」
シロウ「何て。」
ルミナ「『妾の娘ではないから口を出す筋合いはない。だが——あの小娘が妾の夫を奪うつもりなら、相応の覚悟を見せてもらう』って。」
シロウ「……レイラらしいな。」
ルミナ「あとね。」
シロウ「まだあるのか。」
ルミナ「『……あの子の目は本物だった。』って、小さい声でぼそっと。」
シロウ「……。」
ルミナ「聞こえてないと思ってたみたいだけど、ばっちり聞こえてた。あの人、ああ見えて認めてるんだと思う。ただ素直に言えないだけ。」
*彼は目を閉じた。レイラの不器用な優しさが脳裏に浮かぶ。傲慢で、ツンデレで、過保護で——だが、誰よりも家族を見ている女だ。*
ルミナ「それとね、レイラがもう1つ言ってたの。」
シロウ「まだあるのかよ……。」
ルミナ「『あやつが悩んでおるなら、ルミナが支えてやれ。妾は……そういうのは得意ではない』って。」
*彼は思わず小さく笑った。*
シロウ「完全にツンデレだな……。」
ルミナ「ふふ。だからこうしてここにいるの。レイラに頼まれたからじゃなくて、私がそうしたいから。でも、レイラの気持ちも一緒に届けたかった。」
*ルミナが彼の肩を軽く叩いた。*
ルミナ「お兄ちゃん。今日はもう仕事しないで。少し休んで。ルーナの答えは、ちゃんと休んでから考えればいいよ。」
シロウ「……ああ。」
*彼はルミナの肩に頭を預けたまま、目を閉じた。砂漠の灼熱も、山脈の両断も、鉄道計画も、全てが遠くなっていく。今はただ、隣にいるルミナの温もりだけが確かだった。*




