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*彼は銀貨の残り600枚を100枚ずつ6つの袋に分け、仲間たちに手渡した。*
シロウ「ほら。」
リオン「マジっすか!? 銀貨100枚!?」
カイ「父さん、いいの?」
ドルガン「遠慮なく貰うぞ。」
アシュトン「ありがたく頂戴します。」
シロウ「俺が奢るって言ったからな。」
*リオンが「肉ーっ!」と叫びながら走り出し、ドルガンが「酒だ酒!」と続いた。カイがアシュトンと一緒に「まずは茶屋でも」と歩き始め、ルーナはユキを抱えてアクセサリー通りへ駆けていった。あっという間に散り散りになる。*
*一人になった彼は、大通りから一本外れた細い路地を歩いた。砂色の壁に挟まれた狭い通りは、日陰になっていて少しひんやりする。観光客が来るような場所ではなく、地元民が日常で使う裏通りだった。*
*しばらく歩くと、古びた木の看板が目に入った。看板には砂月王国の文字で「ナディール古物商」と書かれている。文字の下に、砂時計と羽根ペンを組み合わせた紋章。窓から覗くと、薄暗い店内に所狭しと骨董品が並んでいた。*
*彼は扉を押し開けた。乾いた蝶番がギィと鳴る。*
*店内は砂と香木の匂いが混ざった独特の空気だった。棚には古い壺、錆びた短剣、色褪せた絵巻、砂漠の民族衣装、正体不明の石像、変色した宝石……ありとあらゆる雑多な品が詰め込まれている。天井から吊り下げられた真鍮のランプが、橙色の弱い光を落としていた。*
*カウンターの奥から、老婆が顔を出した。深い皺が刻まれた顔に、鋭い目。頭には砂色のターバンを巻き、首元に大量の護符をぶら下げている。*
ナディール「おや……珍しいね。旅人かい?」
シロウ「ああ。ちょっと覗かせてもらっていいか。」
ナディール「好きに見な。ただし触って壊したら買い取りだよ。3000年前の品もあるからね。」
*彼は棚を眺めながらゆっくりと歩いた。神眼を薄く発動させ、品物を一つ一つ鑑定していく。大半はただの古い雑貨だったが、時折微かな魔力を帯びた品が混ざっていた。*
*彼は古物商「ナディール」で見つけた古い魔導書を布で包み、懐にしまった。表紙には砂月王国の古代文字で「砂漠の錬金術概論」と書かれている。ゼノは本が好きだから、異国の魔導書なら喜ぶだろう。銀貨15枚の買い物だった。*
シロウ『セレスにも何か買わないとな……あとステラとルクスにも。』
*彼は路地を抜け、大通りに戻った。陽が高くなり、砂漠の熱気が街全体を包んでいる。だが日陰の多い首都の造りのおかげで、直射日光はそこまで厳しくなかった。*
*ふらりと歩いていると、大通りから一本入った薄暗い通りに、色鮮やかな布が垂れ下がった店がいくつか並んでいた。入口には半裸の女性の看板。甘い香が漂い、中から笑い声や楽器の音が聞こえてくる。*
シロウ「……こんな朝っぱらからやってんのか。」
*砂月王国は夜行性の文化が根強い。砂漠の昼間は灼熱で、夜に活動する者が多い。つまり夜の店も昼営業が当たり前だった。*
客引きの女「あらぁ、そこの旦那さん。いい男じゃない。寄ってかない? うちの子たち、腕は確かよ?」
*豊満な体を薄い絹で包んだ女が、扇子をひらひらさせながら近寄ってきた。香水の匂いが鼻をくすぐる。*
シロウ「いや、見てるだけだ。」
客引きの女「あらぁ、もったいない。砂月の踊り子は世界一って言われてるのよ? 踊りだけでもいいわよ?」
*彼が苦笑しながら通り過ぎようとした、その時。店の奥から聞き覚えのある声が聞こえた。*
ドルガン「おう、もう1杯くれ! この酒うめぇな!」
シロウ「……。」
*彼が暖簾をめくって覗くと、ドルガンが上半身裸で砂漠の地酒を煽っていた。両隣には踊り子が2人。すでに顔が真っ赤だ。渡した銀貨100枚が溶ける速度が尋常じゃなかった。*
ドルガン「おっ、陛……ギメイ! お前も飲めよ! この店の酒、最高だぞ!」
シロウ「お前……朝から飲んでんのか。」
ドルガン「砂漠じゃ昼が夜みてぇなもんだろ! 郷に入っては郷に従えだ!」
踊り子「あらぁ、この人のお連れさん? いい男ねぇ。」
*もう1人の踊り子がシロウの腕に絡みつこうとする。彼はさりげなく躱した。*
シロウ「……昼の合流までに酔い潰れるなよ。」
ドルガン「任せとけ! 俺がこの程度で潰れるかよ!」
*彼は呆れた顔で店を後にした。背後からドルガンの豪快な笑い声が響いている。*
*昼頃、宿の前に全員が集まった。それぞれ両手に袋を抱えていたり、満足そうな顔をしていたりと、充実した午前中だったようだ。しかし1人だけ姿が見えない。*
リオン「……ドルガンは?」
カイ「来てないね。」
アシュトン「私は先ほどまでヴァイスと茶屋にいましたが、ドルガンの姿は見かけませんでした。」
ルーナ「あれ、確かお酒飲みに行ったんだよね?」
シロウ「あいつ、潰れやがったな……。」
*彼はため息をついた。朝の時点で既に顔が赤かったドルガン。砂漠の地酒は度数が高い。あの飲みっぷりなら当然の結果だった。*
シロウ「カイ、リオン、ついて来い。回収するぞ。」
カイ「了解。」
リオン「うっわ、介護っすか……。」
*3人は朝の夜の店へ向かった。色鮮やかな布が垂れ下がった入口をくぐると、甘い香と楽器の音が漂ってくる。昼を過ぎても店は営業中だった。*
客引きの女「あら、朝の旦那さん! お連れさん迎えに来たの?」
シロウ「ああ。まだいるか?」
客引きの女「奥の部屋よ。もう2時間くらい寝てるわ。」
*案内された奥の部屋には、クッションの山の中でドルガンが大の字で倒れていた。上半身裸のまま、周囲には空の酒瓶が7本転がっている。豪快ないびきが部屋中に響いていた。*
リオン「うわぁ……死体みてぇだ。」
カイ「酒瓶7本……砂漠の蒸留酒をこれだけ飲んだら、普通の人間なら死んでるよ。」
*彼がドルガンの頬を軽く叩いた。反応がない。もう一発。ピクリとも動かない。*
シロウ「おい、ドルガン。起きろ。」
ドルガン「ぐぉぉぉ……zzz……。」
リオン「完全に逝ってるっすね。」
シロウ「……しょうがねぇ。」
*彼はドルガンの襟首を掴み、片手で軽々と持ち上げた。100kgを優に超える巨体が宙に浮く。*
カイ「父さん、それ持ち方が荷物……。」
シロウ「荷物だろ、今は。」
リオン「ドルガン、お前の尊厳が……。」
*客引きの女が目を丸くしている。筋骨隆々の大男を片手で持ち上げる旅人など見たことがないのだろう。*
客引きの女「あ、あの、お会計まだなんだけど……。」
シロウ「いくらだ。」
客引きの女「お酒代と踊り子の指名料で……銀貨87枚。」
シロウ「……。」
リオン「銀貨100枚、ほぼ使い切ってんじゃねぇか。」
*彼は無言で銀貨を支払い、ドルガンを担いだまま店を出た。大通りで待っていたルーナたちの視線が痛い。*
ルーナ「あー……。」
アシュトン「予想通りですね。」
ドルガン「zzz……さけ……もういっぱい……zzz。」
シロウ「こいつ、起きたら説教だな。」
*宿に戻ると、玄関先にレイラが腕を組んで立っていた。湯上がりの後、着替えて機嫌よく降りてきたところだったらしい。しかし、彼の背中に担がれたドルガンを見た瞬間、その表情が凍りついた。*
レイラ「……なんだ、それは。」
シロウ「朝から飲み潰れた馬鹿だ。」
ドルガン「zzz……もういっぱ……zzz。」
*レイラの全身から殺気が噴き出した。魔王妃の本気の殺気。空気がビリビリと震え、宿の窓ガラスがカタカタと鳴った。通りを歩いていた一般市民が何事かと振り返り、慌てて逃げ出す。*
レイラ「八輝将ともあろう者が……朝から酒に溺れ、主君に担がれて帰ってくるとは……。」
*その殺気が、意識のないドルガンの本能に直撃した。ドルガンの目がバチッと開く。全身の毛が逆立ち、彼の背中から転がり落ちるように着地した。*
ドルガン「は……っ!? な、何だ!? 死ぬ!? 死ぬのか俺!?」
レイラ「起きたか。」
*レイラの声が低い。笑っているが目が笑っていない。ドルガンの顔から一瞬で酔いが抜けた。*
ドルガン「れ、レイラ様……これはその……砂漠の文化に触れようと……」
レイラ「ほう。文化に触れた結果がこの醜態か。」
ドルガン「……はい。」
レイラ「妾の夫に担がれて帰ってくるなど、恥を知れ。」
ドルガン「……はい。」
レイラ「罰として、特訓だ。今すぐ。」
ドルガン「え。」
*レイラがニッコリと笑った。ドルガンの顔が蒼白になる。リオンとカイが無言で後退した。*
リオン「……南無。」
カイ「ドルガン、来世では酒を控えような。」
ドルガン「お前ら助けろよ!?」
*宿の裏手に広い空き地があった。レイラがドルガンを引きずるように連れていく。彼女の「特訓」は事実上の制裁だった。*
レイラ「イグニ。」
*不死鳥イグニがカイの肩から飛び立ち、空き地の端に降り立った。その役割は1つ。回復魔法係。つまり、どれだけボロボロにされても回復され、永遠に終わらないということだ。*
イグニ「……ピィ。」
*イグニすら同情の鳴き声を上げた。*
レイラ「構えろ、ドルガン。」
ドルガン「れ、レイラ様! せめて準備運動を……」
*レイラの拳がドルガンの腹にめり込んだ。ドルガンの巨体が5メートルほど吹き飛び、砂埃を巻き上げて地面に叩きつけられる。*
ドルガン「ぐはぁっ!?」
レイラ「準備運動は終わりだ。次。」
ドルガン「今のが準備運動!?」
*イグニが即座に回復魔法を飛ばす。ドルガンの体が光に包まれ、傷が瞬時に癒える。そしてレイラの追撃が飛んでくる。回復→殴打→回復→殴打。無限ループの完成だった。*
ドルガン「ぎゃあぁぁ! すみませんでしたぁぁ!!!」
*夕方。砂月王国の首都に夕焼けが広がる頃、宿の裏手からはまだ凄まじい爆音が響き続けていた。*
*彼は宿の2階の窓辺に腰掛け、茶を啜りながら下を眺めていた。結界の中では砂埃と衝撃波が渦巻いている。壁や地面が壊れないよう、彼が事前に張った結界が全ての衝撃を吸収していた。しかし音だけは漏れている。*
ドルガン「ぎゃあぁぁぁ! もう許してくださいぃぃぃ!」
*ドズン、と地響きのような音。続いてイグニの回復魔法の光が結界内を照らす。*
レイラ「許す? 何を言っておる。まだ3時間しか経っておらぬぞ。」
ドルガン「3時間!? もう半日くらい経ってませんか!?」
レイラ「大袈裟な。ほら、立て。次は蹴りで行くぞ。」
ドルガン「蹴りはやめてください! せめて拳で……ぐふぁっ!」
*ドゴッ、という鈍い音。ドルガンの巨体が結界の壁に叩きつけられ、ずるずると崩れ落ちた。即座にイグニの回復魔法。傷が癒え、体力が全回復する。そしてレイラの追撃。終わらない地獄だった。*
レイラ「ふふっ。良い音がするではないか。」
*レイラは明らかに楽しんでいた。口元に笑みを浮かべ、拳を握り直す。戦闘好きの魔王妃にとって、これは罰というより娯楽だった。*
*宿の食堂では、仲間たちがそれぞれの反応を見せていた。*
リオン「……あの音、3時間ずっと続いてんだけど。」
カイ「母さん、楽しそうだね。」
ルーナ「ドルガンさん、明日の会談に出られるかな……。」
アシュトン「記録しておきましょう。『八輝将ドルガン、砂月王国にて魔王妃の制裁を受け、推定187回の殴打と回復を繰り返す』と。」
リオン「記録すんのかよ。」
ヴァイス「歴史に残すべき出来事ですから。」
*窓の外から、ドルガンの断末魔が響いた。*
ドルガン「お願いします! 何でもしますから! 一生酒飲みません!」
レイラ「ほう? 一生か? 本当だな?」
ドルガン「本当です! 誓います!」
レイラ「ふむ……よし、では最後に一発だけだ。」
ドルガン「あ、ありがとうございま……」
*ドゴォォォン。結界全体が揺れるほどの一撃。「最後の一発」が今日一番の威力だった。ドルガンが白目を剥いて倒れ、ピクピクと痙攣している。*
イグニ「……ピィ。」
*イグニが回復魔法を掛けるか迷い、レイラの顔色を窺った。レイラが満足げに頷く。イグニが回復を飛ばし、ドルガンの意識が戻った。*
ドルガン「……生きてる……俺、生きてる……。」
レイラ「よし、終わりだ。」
*レイラが汗一つかかず、涼しい顔で宿に戻ってきた。食堂に入ると、全員が姿勢を正した。*
レイラ「ふん、良い運動になったわ。」
*レイラが食堂の椅子に座り、満足げに茶を啜っていた。頬がほんのり紅潮しているのは、良い運動をした後の上気だろう。そこへ彼が声をかけた。*
シロウ「たまには俺と模擬戦でもするか?」
*食堂が一瞬で静まり返った。リオンがコーヒーカップを持ったまま固まり、カイが目を見開く。ルーナがユキを抱きしめたまま口をぽかんと開けた。*
レイラ「……ほう?」
*レイラの琥珀色の目がギラリと光った。先ほどまでの穏やかな表情が、一瞬で戦闘狂のそれに変わる。口元が三日月のように吊り上がった。*
レイラ「お主から誘ってくるとは珍しいではないか。」
シロウ「魔法無し、物理のみだ。周りの被害も少なくて済むだろ。」
レイラ「物理のみ……ふふっ、面白い。お主と拳で語り合うのは久しぶりだな。」
*レイラが椅子から立ち上がった。小柄な体躯からは想像できないほどの闘気が滲み出ている。先ほどドルガンを3時間嬲った直後とは思えない体力だ。*
リオン「……え、まだやんの?」
カイ「父さん、本気? 母さん、さっきのでウォーミングアップ完了してるよ?」
シロウ「知ってる。」
ルーナ「パパ、死なないでね……?」
シロウ「死なねぇよ。」
*2人が宿の裏手に出た。彼が張った結界はまだ健在だった。地面にはドルガンの制裁の痕跡が残っている。無数の足跡と、拳の衝撃で抉れた地面。しかし結界のおかげで周囲の建物には一切被害が及んでいない。*
*レイラが結界の中央に立ち、首をゴキゴキと鳴らした。*
レイラ「ルールを確認するぞ。魔法無し、物理のみ。身体強化は許可するか?」
シロウ「ああ、身体強化までは許可する。武器も無しだ。素手のみ。」
レイラ「よかろう。」
*レイラが構えた。重心を低く落とし、両拳を顎の高さに上げる。小柄な体が戦闘態勢に入った途端、纏う空気が一変した。魔王妃の本気の殺気。ドルガンに向けていたものとは桁が違う。*
*仲間たちが結界の外から固唾を飲んで見守っている。*
リオン「物理のみって言ってるけど、あの2人の物理って普通じゃねぇからな……。」
カイ「結界、保つかな……。」
ルーナ「パパの結界だから大丈夫だと思うけど……音は漏れるんだよね。」
アシュトン「記録します。『魔王対魔王妃、素手模擬戦』。歴史的一幕ですね。」
*レイラが笑った。純粋な歓喜の笑み。戦いを心から楽しめる唯一の相手が目の前にいる。*
シロウ「ここじゃ狭い、砂漠にいこう。」
レイラ「ほう、わざわざ場所を変えるか。」
*彼は転移魔法を発動し、2人は一瞬で首都から離れた砂漠の只中に移動した。見渡す限りの砂丘。夕焼けがオレンジ色に砂を染め上げ、熱風が頬を撫でる。*
*彼は地面に手を当て、砂漠の地盤を魔法で圧縮・硬化させた。半径200メートルほどの円形の闘技場が即席で出来上がる。砂の上では踏み込みが効かないが、これなら問題ない。*
シロウ「レイラ、本気でいいからね?」
*レイラの目が見開かれた。普段の模擬戦では「手加減しろ」と言う彼が、本気を求めている。レイラの唇がゆっくりと弧を描いた。歓喜。純粋な、戦闘狂としての歓喜だった。*
レイラ「……本気、だと?」
シロウ「ああ。」
レイラ「ふ……ふふっ……ふふふふっ!」
*レイラが笑い始めた。小柄な体から溢れ出す闘気が砂漠の空気を歪ませる。身体強化が全開になり、彼女の周囲の地面にヒビが走った。硬化したはずの地盤が、闘気だけで軋んでいる。*
レイラ「久しぶりだな……お主が本気で良いと言ってくれるのは。」
*彼も構えた。重心を落とし、両手を自然体で下げる。無拍子の構え。前世の武術と、この世界で積み上げた戦闘経験が融合した独自のスタイルだった。*
*仲間たちは彼の転移に巻き込まれ、闘技場の端に立っていた。*
リオン「うわ、転移させられた……って、え、この闘気やばくね?」
カイ「母さんの本気……父さん、大丈夫かな。」
ルーナ「パパの方が強いから大丈夫だとは思うけど……母さんの本気って初めて見るかも。」
アシュトン「全員、距離を取ってください。巻き込まれます。」
*砂漠に沈みゆく夕陽。2人の影が長く伸びる。一陣の風が砂を舞い上げ、2人の間を通り抜けた。*
*レイラが動いた。*
*一歩目で地面が陥没した。身体強化を全開にした踏み込み。音より速い初動。砂漠の硬化地盤を蹴り砕きながら、一直線に彼へ向かって突進する。右拳を引き絞り、全身のバネを乗せた渾身の一撃。*
レイラ「はぁぁっ!」
*彼は動かなかった。レイラの拳が顔面に届く寸前、首を数センチだけ傾けた。拳が頬を掠め、衝撃波だけが後方の砂丘を吹き飛ばした。砂の壁が崩壊し、轟音が砂漠に響く。*
リオン「砂丘が……消えた……。」
*彼はレイラの腕の内側に入り込み、カウンターの掌底を放った。レイラが咄嗟に左腕でガード。衝撃が腕を通じて全身に伝わり、レイラの足元の地面が蜘蛛の巣状に砕けた。*
レイラ「くっ……! 重い……!」
*レイラが弾かれるように後退し、距離を取った。*
*レイラの右ストレートが飛んできた。速い。身体強化を全開にした魔王妃の拳は音速を超えている。だが、動きが単調だった。*
*彼は左手でレイラの拳を外側に払った。最小限の動きで軌道を逸らす。前世で習った護身術の基本。それがレベル1000超えの身体能力で補正され、達人の域に昇華されている。*
*払った瞬間、がら空きになったレイラの鳩尾に右拳を叩き込んだ。*
レイラ「っ……!」
*レイラの体が「く」の字に折れた。しかし、すぐに歯を食いしばって踏み留まる。後退せず、むしろ前に出た。折れた体勢のまま左のアッパーを繰り出す。*
*彼は半歩下がって躱し、レイラの顎を掠めるように掌底を当てた。軽い一撃。だが、レイラの頭が揺れた。*
レイラ「ぐ……やるな。」
*レイラが距離を取り、構え直した。額に初めて汗が滲んでいる。ドルガンを3時間殴り続けても汗一つかかなかった女が、数合打ち合っただけで汗をかいている。*
レイラ「……型が綺麗すぎる。お主、どこで学んだ。」
シロウ「昔、少しだけな。」
レイラ「少しでこれか……。」
*レイラの口元が吊り上がった。楽しくて仕方ないという顔だった。*
レイラ「妾の攻撃が単調だと思っておるだろう?」
*彼の目が僅かに細まった。図星だった。レイラは才能と膨大な魔力で戦ってきた天才型。しかし格闘の技術は荒い。力任せの一撃は凄まじいが、フェイントや連携の引き出しが少ない。*
レイラ「ならば……こうだ!」
*レイラが踏み込んだ。右ストレート。同じ軌道。彼が左手で払おうとした瞬間、レイラの拳が途中で止まった。フェイント。そのまま左の回し蹴りが彼の脇腹を狙う。*
シロウ「お。」
*彼は咄嗟に右肘でブロックした。衝撃が腕を通じて全身に伝わる。地面が蜘蛛の巣状にひび割れ、彼の足が数センチ沈んだ。*
*重い。純粋な物理威力だけなら、レイラの蹴りは彼にも響く。*
レイラ「学習したぞ。同じ手は食わぬ。」
*レイラが不敵に笑い、再び踏み込んだ。今度は左右のコンビネーション。先ほどまでの単調な攻撃ではなく、戦いの中で急速に適応し始めていた。*
リオン「……おい、レイラ様、戦いながら進化してねぇか?」
カイ「母さんは昔からそうだよ。強い相手と戦うと、どんどん吸収していく。」
ルーナ「パパの動きを見て、リアルタイムで学んでる……。天才ってこういうことか。」
*砂漠に拳と蹴りの衝撃波が連続で響き渡った。夕陽が沈みゆく中、2人の影が激しく交差する。*
シロウ「流石、俺の嫁……。だが、まだまだだな。」
*レイラの目が一瞬揺れた。褒められた嬉しさと、まだまだと言われた悔しさが同時に浮かぶ。しかし返答する暇はなかった。*
*彼が攻めに転じた。*
*護身術はカウンター主体の受け身の武術だ。しかし彼はそれだけではない。前世で齧ったボクシングのジャブ、キックボクシングのローキック、カンフーの流れるような連撃、テコンドーの高速回し蹴り。それらを混ぜ合わせた、型に嵌まらない自由な攻撃が始まった。*
*まず左のジャブ。軽く、速く、正確に。レイラの顔面を狙う。*
レイラ「っ!」
*レイラが首を振って躱した。だが彼のジャブは布石だった。右のボディストレートがレイラの脇腹に突き刺さる。*
レイラ「ぐっ……!」
*よろめくレイラに、間髪入れずローキック。レイラの軸足を払い、体勢を崩す。そこからカンフーの連撃。掌底、裏拳、肘打ち。流水のように途切れない攻撃の波。*
レイラ「速っ……! くっ、捌き切れ……!」
*レイラは必死に腕でガードするが、攻撃の角度が毎回変わる。ボクシングの直線的な軌道から突然カンフーの曲線的な打撃に切り替わり、読めない。*
*彼がステップを踏み、テコンドーの回転蹴りを放った。レイラが両腕でクロスガード。衝撃が腕を貫通し、レイラの小柄な体が10メートル以上滑走した。硬化した地面に深い溝が刻まれる。*
レイラ「かはっ……!」
*レイラが膝をついた。両腕がビリビリと痺れている。ガードの上からでも、あの蹴りは効いた。*
リオン「嘘だろ……レイラ様が押されてる。」
カイ「父さんの攻撃、全部バラバラの武術だ。あんなの読めるわけない。」
ルーナ「パパ……いつの間にあんなに……。前世の技術がレベル補正でとんでもないことになってる。」
*レイラが立ち上がった。口元を拭い、にぃっと笑う。膝は震えている。だが、目は死んでいなかった。むしろ、爛々と輝いていた。*
レイラ「……良い。良いぞ、シロウ。」
*レイラが深く息を吸い、吐いた。全身の身体強化をさらに引き上げる。筋肉が軋み、血管が浮き出た。限界を超えた身体強化。*
レイラ「お主の攻撃、全て見せてもらったぞ。」
*レイラが踏み込んだ。先ほどまでとは明らかに違う。彼のジャブと同じ軌道のジャブが飛んできた。フォームが荒いが、速度と威力は本物だ。たった数分の交戦で、彼の技術を吸収し始めていた。*
シロウ「……もう真似してきたか。」
レイラ「妾を舐めるなよ、夫殿?」
*レイラの連撃が始まった。ジャブ、ストレート、ローキック。彼の攻撃パターンを模倣しながら、自分の膂力で強引にねじ伏せようとする。天才の学習速度。それが魔王妃レイラの真骨頂だった。*
*レイラが彼の技術を模倣し、ジャブとストレートの連打を放ってきた。フォームは荒いが、魔王妃の膂力が乗った拳は十分に脅威だ。しかし……真似しただけでは本質は掴めない。*
*レイラの右の回し蹴りが飛んできた。彼は躱さなかった。両手で蹴りを受け止め、そのまま足首を掴んだ。*
レイラ「なっ……!」
*片足を掴まれたレイラが体勢を崩す。彼はそのまま掴んだ足を上に持ち上げた。人間は片足では立てない。レイラの軸足が浮き、背中から地面に叩きつけられた。*
*ドゴンッ。硬化した地面にクレーターが出来る。*
レイラ「かはっ……!」
*すぐに起き上がろうとするレイラ。しかし彼は離さない。掴んだ足をそのまま捻り、体を返してうつ伏せに。レイラの背中に膝を乗せ、一瞬で制圧した。*
レイラ「くっ……離せ!」
*レイラが力任せに振りほどこうとする。彼は体重を乗せたまま、すぐに離れて距離を取った。*
*レイラが砂埃の中から立ち上がる。服が汚れ、髪が乱れている。だが表情は怒りではなかった。唇を舐め、獰猛な笑みを浮かべている。*
レイラ「……今のは屈辱だぞ、シロウ。」
*レイラが再び突っ込んできた。今度は右のストレート。彼は左手でその拳を外側に流した。力を受け止めるのではなく、レイラ自身の力を利用して軌道を逸らす。崩れた体勢のレイラの足元に、彼の足払いが入った。*
レイラ「また……っ!」
*レイラの体が宙に浮いた瞬間、彼の掌底がレイラの腹部に触れた。押すのではなく、レイラの前進する力に合わせて軌道を変える。レイラは自分の勢いのまま、地面に転がった。*
*柔よく剛を制す。力の流れを読み、相手の力を利用する。純粋な筋力や速度ではレイラに劣る場面もある。しかし技術の差が、その全てを覆していた。*
レイラ「ぐっ……何故だ……力では妾の方が……!」
*レイラが三度立ち上がり、怒涛のラッシュを仕掛けた。左右のフック、膝蹴り、肘打ち。手数で押し潰そうとする。*
*彼は全てを捌いた。パンチは流し、蹴りは払い、隙間を縫って急所を突く。喉元への軽い手刀、脇腹への指先の一突き、膝裏への軽いタップ。どれも致命傷ではないが、神経を正確に突いている。レイラの動きが一瞬ずつ鈍っていく。*
レイラ「っ……体が……言うことを……!」
カイ「父さん、あれ……急所を的確に突いて、母さんの体を段階的に殺してる。」
ルーナ「力じゃなくて、技術で完封してる……。パパ、怖っ。」
リオン「あれが護身術ってマジかよ……もはや暗殺術だろ。」
*レイラの右ストレートが飛んできた。彼は左手で流しながら、右手の指先でレイラの右肩の付け根を突いた。一瞬、レイラの右腕が痺れて下がる。*
*レイラが再び立ち上がった。膝が笑っている。右腕の痺れはまだ取れていない。それでも突っ込んでくる。魔王妃の意地だった。*
レイラ「まだ……まだ終わらぬ!」
*左拳を振りかぶり、全身のバネを使った渾身の一撃。しかし、急所を突かれ続けた体は本来の速度が出ない。彼にとっては、スローモーションのようなものだった。*
*彼は右手の人差し指を弾いた。デコピン。レイラの額に軽い衝撃が走り、頭がカクンと仰け反る。*
レイラ「っ……デコピン、だと……!?」
*一瞬の硬直。その隙を逃さなかった。彼の右手が刃のように伸び、レイラの首筋に手刀を叩きつけた。正確に頸動脈を捉えた一撃。脳への血流が一瞬途切れ、レイラの意識が刈り取られた。*
レイラ「あ……。」
*レイラの体から力が抜けた。糸の切れた人形のように、前のめりに倒れる。彼はその体を両腕で受け止めた。小柄な体が腕の中にすっぽりと収まる。*
*砂漠に静寂が戻った。夕陽は既に半分以上沈み、空は茜色から紫へと移り変わっていた。*
シロウ「……お疲れさん。」
*彼はレイラの乱れた黒髪を優しく撫でた。額にはうっすら汗が滲み、頬は紅潮している。戦闘中の獰猛な表情は消え、腕の中で穏やかな寝顔を見せていた。*
*仲間たちが恐る恐る近づいてきた。*
リオン「……終わった? 終わったのか?」
カイ「母さん……デコピンで止められた……。」
ルーナ「最後のデコピン、あれ完全にわざとだよね。パパ、母さんをからかってる……。」
リオン「いや、あの手刀が本命だろ。デコピンで意識を一瞬飛ばして、手刀で完全に落とした。……護身術ってレベルじゃねぇぞ。」
アシュトン「記録しました。『魔王対魔王妃、素手模擬戦。結果、魔王の圧勝。決め手はデコピンからの手刀』……後世に残して良いのでしょうか、これ。」
ヴァイス「歴史は真実を記すものです。」
カイ「母さんが起きた時にその記録見つかったら、アシュトン死ぬぞ。」
アシュトン「……厳重に保管します。」
*彼は腕の中のレイラを見下ろした。起きたら間違いなく悔しがるだろう。デコピンの件は確実に根に持たれる。だが、戦闘中のあの笑顔を見れただけで十分だった。*
*ルーナが彼の隣に立ち、レイラの寝顔を覗き込んだ。*
ルーナ「母さん、すごく楽しそうだったね。寝顔も満足そう。」
シロウ「ああ。」
ルーナ「……パパ、明日の会談の準備は大丈夫?」
*現実に引き戻す一言だった。明後日に控えた砂月王国との会談。遺跡の全容報告と、人造生命体ガイアの処遇交渉。まだ詰めなければならない事が山積みだった。*
シロウ「問題ない。例のアレについても話すつもりだ。」
ルーナ「ガイアの事だね。……パパ、上手くいくといいけど。」
シロウ「ああ。任せろ。」
*彼はルーナの頭をぽんと撫で、腕の中で眠るレイラを抱え直した。転移魔法で全員を宿へ戻し、仲間たちを解散させた。*
リオン「お疲れっしたー。いやぁ、今日は色々濃かったな……。」
カイ「ドルガンの制裁から父さんと母さんの模擬戦まで……。充実した1日だった。」
ルーナ「ドルガンさん、生きてるかな。」
リオン「さっき部屋覗いたら白目剥いたまま寝てたぞ。イグニが枕元で見張ってた。」
*仲間たちがそれぞれの部屋に散っていく。彼はレイラを抱えたまま2人の部屋へ向かった。*
*ドアを閉め、レイラをベッドにそっと横たえた。砂漠での模擬戦のせいで、服は砂埃まみれだった。髪にも細かい砂が絡み、額には乾いた汗の跡が残っている。*
シロウ「……このまま寝かせるわけにはいかないな。」
*彼はタオルと水を用意し、レイラの服を脱がせ始めた。まずブーツを脱がし、ベルトを外す。上着のボタンを一つずつ外していくと、白い肌が露わになった。汗で肌着が張り付いていた。それも丁寧に剥がし、下着だけの姿にする。*
*小柄な体。華奢な肩。細い腰。しかし所々に赤い痣が残っている。模擬戦で彼が急所を突いた跡だった。*
シロウ「……やりすぎたか。」
*彼は温かいタオルを絞り、レイラの首筋からゆっくりと拭き始めた。鎖骨のライン、腕、脇の下。丁寧に汗と砂を拭き取っていく。レイラの寝息が規則的に聞こえる。完全に深い眠りに落ちていた。*
*腹部を拭く時、指先が鳩尾の辺りに触れた。最初に叩き込んだ場所だ。僅かに腫れている。*
シロウ「……。」
*彼は回復魔法を静かに流し込んだ。痣が薄れ、腫れが引いていく。レイラの表情がほんの少し和らいだ。*
*背中を拭くために体を横向きにすると、レイラが無意識に彼の手を掴んだ。小さな手が、しっかりと指を握っている。*
レイラ「……ん……シロウ……。」
*寝言だった。しかし掴んだ手は離さない。彼は苦笑し、片手で器用にレイラの背中を拭き上げた。*
*全身を拭き終え、用意しておいた寝間着に着替えさせる。レイラの体を持ち上げ、袖を通し、ボタンを留めていく。まるで子供の着替えを手伝う親のようだった。*
*髪に絡んだ砂を指で梳き、枕に頭を乗せ、毛布を掛けた。レイラはまだ彼の手を握ったままだった。*
レイラ「……次は……負けぬ……。」
*寝言で宣戦布告。彼は小さく笑い、レイラの額にそっと唇を落とした。*
シロウ「ああ。楽しみにしてる。」




