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*翌朝。*
*彼が目を覚ますと、寝室の結界はまだ健在だった。だが、結界の外側から明らかに殺気が漂っている。*
*結界越しに、ドアの向こうからコンコンコンコンコンコンコンコンと規則的なノック音が響いていた。規則的すぎる。機械的ですらある。*
レイラ「シロウ。起きておるのは分かっておる。」
*声は静かだった。静かすぎた。*
レイラ「妾の結界破壊が通じぬとは大したものだ。褒めてやる。だが……。」
*ドアの隙間から、薄い冷気が漏れ出した。*
レイラ「説明はしてもらうぞ? 温泉街の西側に、妾の探知すら弾く結界が張られておる。中から麦酒の匂いがした。」
シロウ「……。」
*彼は布団を頭まで被った。*
レイラ「聞こえておるぞ。布団を被る音がした。」
*耳が良すぎる。*
*彼は覚悟を決めて結界を解除し、ドアを開けた。廊下に立っていたレイラは、腕を組み、片足でトントンと床を叩いていた。その隣にはルミナがいた。ルミナの笑顔が怖い。*
ルミナ「おはよう、お兄ちゃん。昨夜は随分とぐっすりだったようだね?」
シロウ「おはよう。あのな、説明するから落ち着いて……。」
レイラ「落ち着いておる。これ以上なく落ち着いておる。」
*落ち着いていない。絶対に落ち着いていない。*
シロウ「……分かった。見せる。現地で説明する。ついて来い。」
*彼は2人を連れて温泉街の西側へ向かった。朝の温泉街は湯気が立ち上り、穏やかな空気に包まれている。しかし彼の背後に立つ2人からは穏やかさの欠片もなかった。*
*「酒の泉 - 溺れるなかれ -」の前に着いた。彼が結界を解除すると、中の全容が露わになった。*
*石畳の広場。パーゴラの屋根。魔石ランタン。L字カウンターに並ぶ銀色のサーバー5台。木製テーブルとドワーフ用の石製ベンチ。そして入口横の看板。*
「酒に飲まれて暴れたら殴る。魔王より」
*レイラとルミナが、無言で看板を見上げた。*
レイラ「……。」
ルミナ「……。」
シロウ「温泉街の集客強化と、鉄道利用者向けの飲食事業だ。国庫は使ってない。全部法人口座から出した。オルクスにも報告済みだ。」
*早口で畳み掛けた。先手を打つ。攻撃は最大の防御だ。*
レイラ「……それで? 妾に黙っていた理由は?」
シロウ「サプライズだ。」
レイラ「サプライズ?」
シロウ「完成してから見せた方が面白いだろ。」
*レイラがカウンターに歩み寄り、サーバーのタップを指先で触れた。冷たい金属の感触。彼女はしばらく無言で店内を見回していた。*
レイラ「……妾に隠し事をするな、と何度言えば分かる。」
シロウ「すまん。」
レイラ「……ふん。だが、まぁ……悪くはない。」
*ルミナがカウンターの裏に回り、冷蔵庫を開けた。*
シロウ「開店は今夜からだから…食うなよ?」
*つまみ食いをしようとするレイラ…転移で城に飛ばした。*
*レイラが転移魔法で城に飛ばされた。数秒の沈黙。そして……。*
*バチンッ、と空間が裂けた。レイラが自力で転移して戻ってきた。髪が逆立っている。*
レイラ「……今、妾を飛ばしたな?」
シロウ「つまみ食いしようとしたお前が悪い。」
レイラ「妾は味見をしてやろうとしただけだ! 品質管理だ!」
シロウ「品質管理は俺がやる。」
レイラ「ぐっ……。」
*レイラが悔しそうに唇を噛んだ。その横でルミナが冷蔵庫の中を覗き込んでいた。*
ルミナ「お兄ちゃん、これ何? 緑色の……豆?」
シロウ「枝豆。帝国から仕入れた。塩茹でしてある。ビールに合うんだ。……触るな。」
ルミナ「触ってないよ。見てるだけ。」
*見てるだけの手が、枝豆の袋に伸びていた。彼はルミナの手首を掴んだ。*
シロウ「嘘つけ。」
ルミナ「えへへ。」
*悪びれない笑顔。この妻達、揃いも揃って食い意地が張っている。*
レイラ「……で、今夜開店と言ったな。客はどうする。」
シロウ「温泉街の利用客と、鉄道の乗務員、あと鍛冶場のドワーフ連中。最初は小規模でいい。口コミで広がる。」
レイラ「価格は。」
シロウ「ビール1杯銅貨5枚。つまみは銅貨2枚から。温泉の帰りにふらっと寄れる価格帯にした。」
レイラ「……銅貨5枚。安いな。」
シロウ「薄利多売だ。温泉と合わせて滞在時間を伸ばすのが目的だから。」
*レイラが腕を組んで、店内をもう一度ぐるりと見回した。カウンター、サーバー、テーブル、看板。そして入口の注意書き。*
レイラ「『酒に飲まれて暴れたら殴る。魔王より』……。」
シロウ「抑止力だ。」
レイラ「妾の名前も入れろ。」
シロウ「は?」
レイラ「『酒に飲まれて暴れたら殴る。魔王とその妻より』。……その方が怖いだろう。」
*彼は一瞬考えた。確かに、レイラの名前が入った方が100倍怖い。この世界でレイラに喧嘩を売る酔っ払いはいない。*
シロウ「……採用。」
*彼が看板を書き直した。*
「酒に飲まれて暴れたら殴る。魔王とその妻より」
レイラ「ふん。よかろう。……それと。」
シロウ「ん?」
レイラ「今夜、妾にも1杯飲ませろ。それが隠し事をした罰だ。」
シロウ「ダメ。」
*ルーナが温泉街の路地から駆けてきた。息を切らしながら、その視線はまっすぐカウンターの銀色のサーバーに釘付けだった。*
ルーナ「……父さん。」
シロウ「おう。」
ルーナ「……あれ、ビールサーバーだよね?」
シロウ「そうだが。」
ルーナ「……日本の?」
シロウ「ニットク製の瞬冷式2口タイプだ。」
*ルーナの目が輝いた。前世の記憶を持つ彼女には、あの銀色のタップが何を意味するか痛いほど分かる。OL時代、仕事終わりに駆け込んだ居酒屋の、あの一杯目。キンキンに冷えた生ビール。泡と液体の黄金比。*
ルーナ「開店いつ。」
シロウ「今夜。」
ルーナ「……何時。」
シロウ「日が暮れてから。」
ルーナ「……予約。」
シロウ「まだ予約制じゃない。」
ルーナ「じゃあ1番乗りする。」
*ルーナの目は完全に据わっていた。ひびきで泥酔した時と同じ目だ。彼は嫌な予感がした。*
レイラ「妾にはダメと言ったくせに、娘には飲ませるのか?」
シロウ「ダメとは言ってない。開店前に飲むなと言ったんだ。今夜なら全員飲める。金を払えば。」
レイラ「金を取るのか!? 妾は妻だぞ!?」
シロウ「身内だろうと金は取る。商売だ。」
レイラ「この守銭奴が……!」
ルミナ「お兄ちゃん、家族割引は?」
シロウ「ない。」
ルミナ「……ケチ。」
シロウ「経営方針だ。」
*3人の女が同時に不満の視線を向けた。彼は動じなかった。ここで折れたら終わりだ。一度甘い顔を見せれば、在庫が3日で消える。*
ルーナ「……分かった。今夜、銅貨握りしめて来る。何杯飲めるか計算してくる。」
*ルーナが踵を返し、猛然と走り去っていった。おそらく貯金箱を引っ繰り返しに行ったのだろう。*
レイラ「……ふん。ならば妾も金を用意する。今夜、覚えておれ。」
*レイラも去っていった。残されたルミナが、にっこりと微笑んだ。*
ルミナ「お兄ちゃん。」
シロウ「なんだ。」
ルミナ「売上の監査、私がやってあげようか?」
シロウ「……何が目的だ。」
ルミナ「監査報酬として、1杯。」
シロウ「却下。オルクスに頼む。」
ルミナ「ちぇっ。」
*ルミナも去り、彼は一人残された。静かになった店内で、サーバーのタップを磨いた。*
シロウ「……今夜、絶対カオスになるな。」
*確信があった。*
ーー
*夕方。日が傾き始めた頃、温泉街の西側は異様な光景に包まれていた。*
*行列だ。しかもほぼ全員ドワーフ。ボルグが仲間内に口伝えしたのだろう。髭面の小柄な体が、ずらりと石畳の上に並んでいる。その最前列に、銀髪と黒髪の3人の女が陣取っていた。*
ルーナ「……2時間前から並んでるんだけど。」
レイラ「妾は3時間前からだ。」
ルミナ「私は2時間半前。」
*彼がカウンターの中で最終チェックをしていると、店長に任命した孤児院出身の青年――トビアスが、緊張した面持ちで隣に立っていた。17歳。痩せ型だが手先が器用で、昨日の研修でサーバーの操作を完璧に覚えた逸材だ。*
トビアス「シロウ様……あの行列、50人は超えてます。」
シロウ「大丈夫だ。お前なら出来る。手順通りやれ。」
トビアス「はい……!」
*スタッフは6名全員を初日に投入した。カウンター2名、ホール3名、地下の樽交換1名。全員が揃いの白いエプロンを付けている。*
*彼がカウンターに出て、声を張った。*
シロウ「開店だ! 1組ずつ入れ! 押すな! 走るな! ……看板読んだな!?」
*ドワーフ達の視線が入口の看板に向いた。*
「酒に飲まれて暴れたら殴る。魔王とその妻より」
*一瞬、行列が静まり返った。そして最前列のボルグが豪快に笑った。*
ボルグ「ガッハッハ! 最高の看板だ! さぁ開けろ!」
*結界が解除された瞬間、雪崩のようにドワーフ達が流れ込んできた。*
*最初に席を確保したのはルーナだった。カウンターの真ん中に座り、銅貨の山をカウンターに積んだ。数えるまでもなく、相当な額だ。*
ルーナ「生ビール。ペールエールで。」
トビアス「は、はい!」
*トビアスがタップを引いた。研修通り、グラスを45度に傾け、泡と液体の比率を7:3に……。黄金色の液体がグラスに注がれ、きめ細かい泡がふわりと立った。*
*ルーナの目が、前世の記憶と重なった。*
ルーナ「……。」
*グラスを受け取り、一口。*
ルーナ「……っ!」
*目を見開いた。そしてゆっくりと、震える声で言った。*
ルーナ「……仕事終わりの生、最高……。」
*前世のOL時代の口癖が、思わず漏れた。*
レイラ「妾にも寄越せ。スタウトとやらだ。」
*レイラがカウンターに銅貨5枚を叩きつけた。トビアスが慌ててスタウトを注ぐ。黒い液体に、クリーミーな泡。レイラが一口含み……。*
レイラ「……苦い。だが……悪くない。」
*そう言いながら、2口目を飲んでいた。*
ルミナ「私は小麦のやつ。銀河高原……? お兄ちゃん、これ日本の?」
シロウ「ああ。フルーティーで飲みやすいぞ。」
*ルミナが一口飲んで、ふわりと笑った。*




