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《R-15》異世界転移でスローライフを?  作者: THE・HENJIN・RlDER
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*──翌朝。*


バァンッ!!


*寝室の扉が蹴り開けられた。*


レイラ「妾の許可なく火山に突っ込んだと聞いたぞ!! 正気か貴様!!」


オルクス「陛下ぁぁぁ!! 博物館の警備員から緊急報告が来ました!! 突然2メートルの正体不明の巨大宝石が展示されていると!! 誰の許可で!! 資産台帳にも記載がありません!!」


*彼は布団を頭から被った。*


シロウ「……あと5分。」


レイラ「5分ではない! 起きろ!」


*布団を引き剥がされた。レイラの琥珀色の目が至近距離で睨みつけている。怒っているが、その奥に安堵の色がある。心配していたのだろう。*


オルクス「陛下、あの宝石の鑑定書を至急作成する必要があります。それと、火山周辺の鉱脈の権利関係も……帝国北部のブランシュタット男爵家が鉱山の採掘権を主張してくる可能性が……。」


シロウ「……あー。」


*彼は上体を起こし、寝ぼけた目を擦った。*


シロウ「まず落ち着け。順番に話す。」


レイラ「落ち着いておるわ! 貴様が勝手に死地に飛び込む度に妾がどれだけ……!」


シロウ「はいはい、悪かった。でも火山の噴火、多分俺のせいだったんだよ。」


レイラ「……は?」


オルクス「……は?」


*二人の声が綺麗にハモった。彼は頭を掻きながら、深淵の根源体がエネルギーを吸収していた仮説を説明した。*


レイラ「……つまり貴様がネメシスを解放した事で、数百年分の火山活動が一気に再開したと?」


シロウ「……そういうことになる。」


*沈黙が落ちた。レイラが深くため息をついた。*


レイラ「……で、その責任を取るために火山に飛び込んで住民を救助し、ついでに鉱脈を丸ごと持ち帰ったと。」


シロウ「ついでじゃない。本来の目的は宝石の方だ。救助は……まあ、成り行きで。」


オルクス「それで、その鉱脈の総資産額は……。」


シロウ「始原のダイヤを除いて黒金貨200から300枚分。始原のダイヤは値段がつかない。博物館に飾った。」


*オルクスの顔が一瞬フリーズした。そして手帳を取り出し、猛烈な速度で書き始めた。*


オルクス「黒金貨200から300……資産台帳の更新、鑑定書の発行、展示物の保険、警備の強化……。陛下、本日中に財務室にお越しください。絶対にです。」


シロウ「……分かったよ。」


レイラ「妾からも言っておく。次に勝手な真似をしたら、妾が直々に貴様を縛り上げるからな!」


ーー


*彼は欠伸をしながら財務室の扉を開けた。昼を少し過ぎた時間。本来なら魔王が欠伸しながら現れる時間ではない。*


シロウ「ふぁー……お前らも魔王使い荒いよなぁ。」


*財務室の職員たちが一斉にこちらを見た。いつもは帳簿と睨み合っている連中が、全員の手が止まっている。異様な空気だった。*


*部屋の中央、大きなテーブルの上に宝石の鑑定書が山のように積まれていた。オルクスが血走った目でこちらを見ている。徹夜したのだろう、目の下に隈ができていた。*


オルクス「陛下……遅いです。午前中とお約束したはずですが。」


シロウ「昼頃って言っただろ。」


オルクス「言ってません。」


シロウ「……まあいいだろ。で、何から話す?」


*彼は椅子にどかっと座り、テーブルの上の書類をちらりと見た。*


オルクス「まず博物館の件です。始原のダイヤモンドの鑑定を宮廷鑑定士に依頼しましたが、全員が『鑑定不能』と匙を投げました。あまりの純度に鑑定スキルが弾かれるそうです。」


シロウ「だろうな。俺の神眼でも『測定不能』だった。」


オルクス「展示するにしても、保険をかけられません。値段がつかないものに保険は……。」


シロウ「保険なんかいらねえよ。あれ盗める奴がいたら逆に褒めてやる。重さだけで何トンあると思ってんだ。」


*オルクスが額を押さえた。そしてペンを取り、本題に入った。*


オルクス「では本題です。採掘された宝石原石の総数746個。概算資産額は黒金貨230枚前後。これらの処分方針をお聞かせください。」


シロウ「殆どは日本で換金する。」


*財務室が静まり返った。職員たちが顔を見合わせている。「日本」という単語の意味が分からないからだ。オルクスだけが、シロウが時折「別の場所」で取引をしていることを薄々察していた。*


オルクス「……例の、陛下の『独自ルート』ですか。」


シロウ「ああ。換金した金で酒を大量に仕入れる。その為に向こうで会社を作る予定だ。」


オルクス「会社……というのは、商会のようなものですか?」


シロウ「まあそんなもんだ。安定した酒の供給ルートを確立すれば、ドワーフどもの鉄道工事も加速する。酒が報酬だからな、あいつら。」


*オルクスがペンを走らせながら、眉間に皺を寄せた。*


オルクス「つまり宝石を国庫に入れるのではなく、陛下の個人資産として運用すると?」


シロウ「国庫には前に入れた分がまだ余ってるだろ。今回のは鉄道の酒代に充てる。国家事業の経費みたいなもんだ。」


オルクス「……経費、ですか。黒金貨230枚の経費。」


*オルクスのペンが止まった。彼はゆっくりと顔を上げ、疲れ切った目でシロウを見た。*


オルクス「陛下。一つだけお聞きしてよろしいですか。」


シロウ「ん?」


オルクス「……この国の財政規模を、陛下はご存知ですか?」


シロウ「知らん。最初は俺のポケットマネーだったんだぞ?」


*オルクスのペンがポキッと折れた。*


オルクス「……ポケットマネー。黒金貨数万枚が。ポケットマネー。」


*財務室の職員たちが石のように固まっている。黒金貨数万枚といえば、日本円で数百億円だ。それをポケットマネーと言い切る魔王に、誰も言葉が出ない。*


シロウ「この国の建国資金も、インフラ整備も、全部俺の貯金から出してる。お前が管理するようになってからは国庫として回ってるけどな。」


オルクス「……存じております。存じておりますが、改めて聞くと胃が痛いのです。」


*オルクスが折れたペンを捨て、新しいペンを取り出した。深呼吸を一つ。財務官の顔に戻る。*


オルクス「……では整理します。今回の宝石原石746個は国庫には入れず、陛下の個人資産として『独自ルート』で換金。その資金で酒の安定供給のための……商会を設立する、と。」


シロウ「そうだ。帳簿上は『鉄道事業関連費・酒類調達』とでも書いとけ。」


オルクス「黒金貨230枚分の酒類調達……。」


*オルクスの目が遠くなった。彼の後ろで若い職員が小声で囁いている。*


職員A「……黒金貨230枚って、この国の年間歳入の何割だ?」


職員B「……聞くな。精神に悪い。」


オルクス「陛下。一つだけ条件があります。」


シロウ「なんだ?」


オルクス「換金と会社設立の収支報告書だけは提出してください。どんな大雑把でも構いません。数字さえあれば帳簿に落とせます。数字が無いと私が死にます。」


シロウ「分かった分かった。書くよ。」


オルクス「……本当ですか? 前回もそう仰って、白紙の報告書が届いたのですが。」


シロウ「あれは忘れてただけだ。」


オルクス「忘れないでください。お願いします。この通りです。」


*オルクスが深々と頭を下げた。財務室の職員全員が同時に頭を下げた。全員の目が「頼むから報告書を出してくれ」と訴えている。*


シロウ「……分かったって。今回はちゃんと書く。日本で会社作ったら登記簿も持ってくるから。」


オルクス「とうきぼ?」


シロウ「向こうの……商会の証明書みたいなもんだ。」


オルクス「なるほど。では本日の議題は以上です。……あと陛下。」


シロウ「ん?」


オルクス「火山の件で、ブランシュタット男爵家から感謝状と面会の申し入れが来ております。当主のヴェルナー殿が、命を救ってくれた『ギメイ』なる人物を探しているようです。」


*彼の手が止まった。*


シロウ「……もう嗅ぎつけたのか。早いな。」


オルクス「レンツォの町で相当な噂になっているようです。『転移魔法で住民を救い、回復薬を撒き散らす謎のローブの男』と。どうされますか?」


シロウ「一旦放置でいいだろう。って事で。俺はちょっと会社を作ってくるからよ。」


*彼は財務室の扉を背にして次元転移を発動した。オルクスが「報告書!報告書だけは!」と叫んでいたが、光に包まれた瞬間にその声は消えた。*


ーー


*──日本。東京。*


*渋谷のスクランブル交差点の裏路地に着地した。普段着のまま。異世界の魔王が、ジーンズとパーカーで東京の雑踏に紛れ込む。違和感は全く無い。見た目はただの疲れたおっさんだ。白髪が数本混じった黒髪が、それに拍車をかけている。*


シロウ「……久しぶりの東京だな。」


*ポケットに手を突っ込んで歩き出す。まず必要なのは会社設立のための準備だ。日本で法人を作るには、登記、資本金、事業内容の届出、銀行口座の開設。面倒な手続きが山ほどある。*


シロウ(酒の輸入販売会社か。酒類販売免許も取らないといけないな。あと通関の手続き……いや、俺の場合は異空間収納で直接持ち込むから通関もクソもないんだが。)


*表向きは正規のルートで酒を仕入れたことにしなければならない。税務署に突っ込まれたら面倒だ。*


シロウ(まずは司法書士か。会社の登記を頼む。)


*彼はスマホを取り出した。日本用に維持している端末だ。連絡先から「佐藤法務事務所」を探し、電話をかけた。*


シロウ「もしもし、佐藤さん? お久しぶりです、西木です。……ええ、また仕事をお願いしたくて。会社を一つ作りたいんですが。」


*電話口で佐藤が驚いた声を上げた。前回は数億円の宝石売却の仲介だった。今度は会社設立。この「西木」という男がどこから金を持ってくるのか、佐藤は一切聞かないことにしている。聞かない方が身のためだと本能的に悟っているからだ。*


佐藤『西木さん! お久しぶりです! 会社設立ですか。業種は?』


シロウ「酒類の輸入販売です。あと、できれば酒類販売業免許の取得も一緒にお願いしたい。」


佐藤『輸入販売……。資本金はどのくらいをお考えで?』


シロウ「とりあえず1,000万で。」


佐藤『承知しました。会社名はお決まりですか?』


*彼は少し考えた。*


シロウ「アストライア商会」


佐藤『アストライア……綺麗な名前ですね。ギリシャ神話の?』


シロウ「まあ、そんなとこです。」


シロウ(国名そのままだけどな。日本人には分からんだろ。)


佐藤『では書類を準備しますので、明日にでも事務所にお越しいただけますか? 印鑑と身分証をお持ちください。』


シロウ「了解です。明日の午前中に伺います。」


*電話を切り、彼は通りを歩きながら次の段取りを考えた。*


シロウ(会社設立に1週間。酒類販売免許の取得に2ヶ月……いや、審査が早ければ1ヶ月か。その間に宝石を換金して資本金と運転資金を確保する。佐藤さん経由で宝石商にも繋いでもらうか。)


*彼は駅前のビジネスホテルにチェックインし、シャワーを浴びた。*


*彼は事務所に向かう途中、コンビニに立ち寄った。ファミリーマートの自動ドアをくぐり、ホットスナックのコーナーへ直行する。*


シロウ「ファミチキ1つと……缶コーラ。」


店員「150円と140円で、290円になります。」


*ポケットから財布を取り出し、小銭で支払った。異世界では黒金貨を湯水のように使う男が、290円を小銭で払っている。ある意味この世界での彼が一番庶民的だ。*


*ファミチキを齧りながら、新宿方面へ歩く。佐藤法務事務所は新宿三丁目のビルの4階にある。*


シロウ(スーツ着てこいとか言われたらどうしよう。まあいいか、金払う側だし。)


*彼の格好はジーンズに白いパーカー、スニーカー。どう見ても会社を設立しに来た人間の服装ではない。ファミチキの油が指に付いたのをジーンズで拭いた。レイラが見たら殴られるだろう。*


*ビルのエレベーターに乗り、4階で降りる。「佐藤法務事務所」のプレートがかかったガラス扉を開けた。*


佐藤「西木さん、お待ちしておりました。……あ、今日もカジュアルですね。」


シロウ「スーツ嫌いなんで。」


佐藤「ははは、西木さんらしい。どうぞお座りください。」


*佐藤は50代の小柄な男で、丸眼鏡の奥の目は穏やかだが、仕事は早い。テーブルの上には既に書類が整然と並べられていた。*


佐藤「では早速ですが、昨日お電話いただいた内容を元に書類を準備しました。確認をお願いします。」


*彼はコーラを一口飲み、書類に目を通した。*


佐藤「会社名『株式会社アストライア商会』、事業内容は酒類の輸入販売、資本金1,000万円。代表取締役は西木士郎さん。本店所在地は……こちらのバーチャルオフィスでよろしいですか?」


シロウ「ああ、それでいい。常駐するわけじゃないし。」


佐藤「了解です。それから酒類販売業免許ですが、一般酒類小売業免許と輸入酒類卸売業免許の2つを申請する形になります。審査期間はおよそ2ヶ月です。」


シロウ「2ヶ月か……。まあ仕方ないな。」


佐藤「仕入先の証明書類が必要になりますが、海外の蒸溜所との取引実績はございますか?」


シロウ「山崎蒸溜所で43本買った実績がある。あと……ケンタッキー州とスコットランドでも何本か。」


佐藤「それは素晴らしい。領収書があれば審査がスムーズです。」


*彼はポケットから折り畳んだ領収書を取り出した。山崎蒸溜所で9,000万円分を購入した際のものだ。佐藤の目が一瞬見開いた。9,000万という数字を見ても、この司法書士は何も聞かない。プロだ。*


佐藤「……はい、十分ですね。では印鑑をこちらにお願いします。」


*彼は持参した実印を押し、身分証明書のコピーを渡した。日本での戸籍と住民票は、以前作っておいたものだ。どうやって作ったかは聞かない方がいい。*


佐藤「登記申請は本日中に提出します。1週間ほどで登記完了の見込みが完了致します。」


シロウ「他に必要な物とかありますか?」


佐藤「そうですね……。いくつか確認事項がございます。」


*佐藤が書類の束から一枚を引き抜き、テーブルに広げた。チェックリストだ。*


佐藤「まず、法人用の銀行口座開設です。登記完了後に口座を開設しますが、最近は審査が厳しくなっておりまして。事業計画書の提出を求められる場合があります。」


シロウ「事業計画書か。」


佐藤「ご安心ください。こちらで雛形を用意しますので、西木さんには仕入先と販売先の概要だけ教えていただければ。」


シロウ「仕入先はスコットランドとケンタッキー、あと国内の蒸溜所。販売先は……飲食店向けの卸と、ゆくゆくはネット通販も考えてる。」


*佐藤がメモを走らせた。*


佐藤「なるほど。では次に、酒類販売免許の申請に必要な書類ですが……。」


*佐藤が指を折りながら列挙する。*


佐藤「住民票、登記簿謄本、事業計画書、仕入先との取引証明、販売場所の賃貸借契約書、そして納税証明書です。西木さん、確定申告はされていますか?」


シロウ「……。」


佐藤「……されていませんね?」


シロウ「宝石の売却益は申告した。去年の分だけ。」


佐藤「去年の分だけ。」


シロウ「それ以前は……まあ、色々あって。」


*佐藤が丸眼鏡を外し、レンズを拭いた。これは彼が「面倒な案件だ」と感じた時の癖だ。*


佐藤「西木さん。税務上の問題がある場合、免許審査で引っかかる可能性があります。まず税理士をご紹介しますので、過去の申告を整理しましょう。」


シロウ「頼む。」


佐藤「あと、もう一点。輸入酒類卸売業免許の場合、海外の蒸溜所との正式な取引契約書が必要です。個人で購入した領収書だけでは弱い。代理店契約、もしくは独占販売権の契約書があれば理想的ですが……。」


シロウ(正規の契約書か……。山崎は個人購入だったし、スコットランドもケンタッキーも直接買い付けただけだ。代理店契約なんて結んでない。)


シロウ「それは……これから交渉する。」


佐藤「では免許申請は契約書が揃ってからにしましょう。登記と口座開設を先に進めて、並行して仕入先との契約交渉。これが一番スムーズな流れです。」


*佐藤がスケジュール表を書き出した。*


佐藤「整理しますと──


1. 本日:登記申請提出

2. 1週間後:登記完了、法人口座開設手続き

3. 2週間後:税理士と過去の申告整理

4. 並行して:仕入先との正式契約交渉

5. 契約書揃い次第:酒類販売免許申請

6. 申請から約2ヶ月:免許取得


──最短で3ヶ月、といったところでしょうか。」


シロウ「3ヶ月か……。」


*彼はコーラの缶を傾けた。残りを一気に飲み干す。*


シロウ(3ヶ月は長いな。ドワーフどもの酒が切れたら工事が止まる。とりあえず手持ちの在庫で繋ぐしかないか。)


佐藤「それから西木さん。」


シロウ「まだあるのか。」


佐藤「資本金の1,000万円ですが、いつ頃ご入金いただけますか? 登記申請時に払込証明書が必要になりまして。」


シロウ「今日中に振り込む。口座番号教えてくれ。」


佐藤「こちらです。」


*佐藤が名刺の裏に口座情報を書いて渡した。彼はそれをポケットに突っ込んだ。*


シロウ「じゃあ、振り込んだら連絡入れる。税理士の紹介も頼むぞ。」


佐藤「承知しました。税理士は明後日にアポを取っておきます。それと西木さん──」


シロウ「なんだ。」


佐藤「……くれぐれも、領収書は全部取っておいてくださいね。」


シロウ「……善処する。」


佐藤「善処、ではなく。」


シロウ「分かった分かった。」


*事務所を出て、彼はエレベーターの中で溜息をついた。*


シロウ(異世界でオルクスに報告書出せって言われて、日本で佐藤さんに領収書取っとけって言われて……。どこの世界でも事務仕事からは逃げられねえな。)


*まずは宝石の換金だ。*


*彼は銀座の一角にある、世界的に有名な宝石ブランド「ハリー・ウィンストン」の銀座本店の前に立っていた。ガラス張りのエントランスには、白い大理石の床と、柔らかなシャンデリアの光が見える。*


*自動ドアをくぐった瞬間、店内の空気が変わった。*


*ジーンズにパーカー、スニーカー。明らかに場違いな格好の男が入ってきたことで、受付のスタッフが一瞬だけ眉を動かした。すぐにプロの笑顔に戻ったが、目の奥には「冷やかしか?」という色が見える。*


スタッフ「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか?」


シロウ「宝石の買取をやってると聞いたんだが。」


*スタッフの笑顔が僅かに硬くなった。買取。この店は売る方が本業だ。だが世界的ブランドとして、希少な原石や名品の買い付けも行っている。*


スタッフ「買取でございますか。失礼ですが、お品物をお持ちでしょうか?」


シロウ「ああ。」


*彼はパーカーのポケットに手を突っ込んだ。異空間収納から、布に包まれた宝石を一つ取り出す。テーブルの上に置き、布を開いた。*


*拳大のルビーの原石だった。*


*血のように深い赤色が、シャンデリアの光を受けて内側から燃えるように輝いた。*


スタッフ「……っ」


*スタッフの目が見開かれた。プロとしての冷静さが一瞬吹き飛んだのが分かる。彼女は唾を飲み込み、震える声で言った。*


スタッフ「少々……お待ちいただけますか。鑑定士を呼んで参ります。」


シロウ「ああ、頼む。」


*スタッフが早足で奥へ消えた。残された彼は、ショーケースの中に並ぶダイヤモンドのネックレスをぼんやり眺めた。*


シロウ(レイラにはルビーのネックレスを贈ったし、ルミナにも何か買っていくか……。いや、それより先に換金だ。)


*3分ほどで、白髪交じりの初老の男が現れた。スーツに蝶ネクタイ、胸元には社章。鑑定士だ。名札には「主任鑑定士 藤堂誠一郎」と書かれている。*


藤堂「お待たせいたしました。藤堂と申します。拝見してもよろしいでしょうか。」


シロウ「どうぞ。」


*藤堂がルーペを取り出し、ルビーの原石を手に取った。角度を変えながら、じっくりと観察する。その手が微かに震えているのが見えた。*


藤堂「……これは。」


シロウ「どうだ?」


藤堂「……ピジョンブラッド。しかもこのサイズで、インクルージョンがほぼ見当たらない。カットすれば間違いなく世界最高クラスの……。失礼ですが、これはどちらで?」


シロウ「知人から譲り受けた。出所は明かせない。」


*藤堂の目が鋭くなった。だが原石の品質が彼の職業的好奇心を上回った。*


藤堂「……他にもお持ちですか?」


シロウ「ああ。まだある。」


*彼はポケットから、今度はサファイアの原石を取り出した。続けてエメラルド。ルビー。*


*彼がパーカーのポケットから次々とダイヤモンドの原石を取り出していく。一つ、二つ、三つ……。テーブルの上が宝石で埋まり始めた頃、藤堂の手が震えながら上がった。*


藤堂「お、お待ちください……!」


シロウ「ん?」


藤堂「……少々、お待ちください。」


*藤堂が額の汗をハンカチで拭った。テーブルの上には、ルビー3個、サファイア2個、エメラルド2個、そしてダイヤモンドの原石が8個。合計15個の原石が、シャンデリアの光を受けて異様な輝きを放っている。*


*店内の他のスタッフが、遠くからこちらを凝視していた。客のふりをして近づこうとしている者もいる。*


藤堂「西木さま……。大変失礼ですが、まだおありですか?」


シロウ「ああ、まだまだある。」


藤堂「……。」


*藤堂の顔色が変わった。鑑定士としての興奮と、商人としての冷や汗が入り混じった表情だ。*


藤堂「申し訳ございません。この量と品質ですと、私の一存ではお値段をお出しすることができません。上席の者を呼ばせていただきたいのですが……。」


シロウ「構わんよ。」


藤堂「それと、場所を移させていただけますか。こちらでは……その、衆目がございますので。」


*藤堂が奥の応接室を指した。確かに、テーブルの上に数十億円相当の宝石が転がっている光景は、他の客にも店員にも刺激が強すぎる。*


シロウ「ああ、悪いな。」


*彼は原石をひょいひょいとポケットに戻した。異空間収納に放り込んでいるだけだが、傍から見るとパーカーのポケットに拳大の宝石が次々と消えていく奇妙な光景だ。藤堂は見なかったことにした。*


*奥の応接室に通された。革張りのソファ、マホガニーのテーブル、壁には絵画。明らかにVIP用の部屋だ。ジーンズにパーカーの男がここに座っている違和感が凄まじい。*


*5分ほどで、藤堂がもう一人の男を連れて戻ってきた。60代ほどの痩せた男で、仕立ての良いスーツを着ている。目つきが鋭い。*


藤堂「西木さま、こちらが当店の取締役兼統括鑑定士の黒崎でございます。」


黒崎「黒崎と申します。藤堂から話は聞いております。早速ですが、拝見させていただいてもよろしいでしょうか。」


シロウ「どうぞ。」


*彼は再びポケットから原石を取り出し始めた。一つずつテーブルに並べていく。黒崎は腕を組んだまま、微動だにせず原石を見つめていた。*


*15個全てが並んだ。*


黒崎「……これで全てですか?」


シロウ「いや、これは一部だ。全部で700個くらいある。」


*黒崎の腕が解けた。組んでいた腕が、力なく膝の上に落ちた。*


黒崎「……700。」


シロウ「まあ、全部ここで売るつもりはないが。とりあえず手元にある分だけ見てもらって、値段次第で継続取引したい。」


*黒崎が藤堂と目を合わせた。二人の間で無言の会話が交わされる。*


シロウ「さばけそうか?時間はかかっても構わんが……。」


*黒崎が腕を組み直し、しばらく沈黙した。藤堂がその横で落ち着かない様子でルーペを弄んでいる。*


黒崎「……率直に申し上げます。」


シロウ「ああ。」


黒崎「このテーブルの上にある15点だけでも、概算で30億円は下りません。特にこのピジョンブラッドのルビー……。カットと研磨次第ではオークションで単体10億を超える可能性があります。」


*藤堂が小さく息を呑んだ。黒崎は構わず続けた。*


黒崎「ですが、問題がいくつかございます。」


シロウ「聞こう。」


黒崎「まず出所証明です。これだけの量と品質の原石を一個人が所有しているというのは、業界的に言えば異常です。盗品でないことを証明する書類……鉱山の採掘許可証、もしくは正規の取引ルートの証明が必要になります。」


シロウ「……。」


黒崎「次に、市場への影響です。仮に700点を一度に市場に流せば、宝石の相場が崩壊します。特にダイヤモンドは供給量が価格に直結しますので……。当店としても、一括買取は不可能です。」


シロウ「分割なら?」


黒崎「月に5点から10点程度であれば、当店の買取枠で対応できます。ただし、それでも全量をさばくには……。」


*黒崎が指を折って計算した。*


黒崎「……5年以上かかります。」


シロウ「5年か。」


*彼はソファの背もたれに体を預け、天井を見上げた。5年は長い。だが相場を崩すわけにもいかない。*


黒崎「もう一つ提案がございます。」


シロウ「なんだ。」


黒崎「当店だけでなく、複数の買取ルートを並行して使う方法です。サザビーズやクリスティーズといったオークションハウス、スイスやベルギーの宝石商。ルートを分散すれば、年間50点から80点は流せるでしょう。それでも全量に10年近くかかりますが。」


シロウ(10年……。まあ急いで全部換金する必要もないか。当面の運転資金さえ確保できればいい。)


シロウ「じゃあこうしよう。まずこの15点を買い取ってくれ。それと、オークションハウスへの出品も手配してほしい。手数料は払う。」


黒崎「……承知しました。ただし、出所証明の件は避けて通れません。何かご用意いただけますか?」


シロウ「知人の鉱山主から譲渡された。譲渡証明書なら用意できる。」


*用意できる。というか、作る。異世界の鉱山主の署名など誰にも確認しようがない。*


黒崎「……それで結構です。では本日は仮査定ということで、正式な買取価格は鑑定完了後にご連絡いたします。3日ほどお時間をいただけますか。」


シロウ「ああ、頼む。連絡先はこれだ。」


*彼はスマホの番号を書いたメモを渡した。黒崎がそれを受け取り、丁寧に名刺入れにしまった。*


黒崎「西木さま。最後に一つだけ。」


シロウ「ん?」


黒崎「……今後もお付き合いいただけるのであれば、当店としてもVIP対応をさせていただきます。専任の担当者をお付けしますので。」


シロウ「ああ、よろしく頼む。」


シロウ「支払いは……口座振込の方がいいか?」


*彼は個人用の口座情報を頭の中で確認した。以前、宝石売却用に作った個人口座だ。法人口座はまだ存在しない。登記完了後に開設する予定だから当然だ。*


黒崎「はい、高額取引ですので口座振込が最も安全です。現金でのお支払いは、この金額ですと税務上も問題が生じますので。」


シロウ「了解。じゃあこれで。」


*彼はスマホのメモ帳に口座情報を打ち込み、画面を黒崎に見せた。*


黒崎「……みずほ銀行、銀座支店。承知いたしました。」


*黒崎がメモを取り、名刺入れから自分の名刺を取り出してテーブルに置いた。裏には直通の携帯番号が手書きで記されている。*


黒崎「こちらが私の直通番号です。今後のお取引は全て私が窓口を務めさせていただきます。鑑定結果は3日以内にご連絡いたしますが……。」


*黒崎が一度言葉を切り、テーブルの上に並んだ15個の原石を見つめた。*


黒崎「……正直に申し上げます。仮査定の段階ですが、この15点だけで30億から40億の間になると見ております。特にこのピジョンブラッドは、私が40年この業界にいて見た中で最高の品質です。」


シロウ「そうか。」


*彼の反応は淡泊だった。30億と聞いても眉一つ動かさない。黒崎はその反応を見て、この男が本物の大口だと確信したようだ。*


黒崎「それと西木さま。オークションハウスへの出品ですが、サザビーズのジュネーブオークションが3ヶ月後にございます。出品の手配をこちらで承りましょうか?」


シロウ「頼む。ルビーとダイヤモンドを2、3点出したい。」


黒崎「承知しました。サザビーズ側の鑑定と出品手続きに1ヶ月ほどかかりますが、落札額の手数料は買い手側負担ですので、西木さまのお支払いは出品手数料のみです。」


シロウ「分かった。」


*彼はソファから立ち上がり、ポケットに手を突っ込んだ。テーブルの上の15個の原石はそのまま置いていく。鑑定のためだ。*


黒崎「お預かりした原石は、当店の金庫にて厳重に保管いたします。預かり証をお渡ししますので、こちらにサインをお願いします。」


*藤堂が預かり証を差し出し、彼はペンでさらさらとサインした。「西木士郎」の文字が並ぶ。*


黒崎「ありがとうございます。3日後にご連絡いたします。」


シロウ「ああ、よろしく。」


*応接室を出ると、店内のスタッフ全員が深々とお辞儀をしていた。入店時の冷やかしを見るような視線は完全に消えている。ジーンズにパーカーの男は、今やこの店の最重要顧客になっていた。*


*銀座の通りに出て、彼はスマホを確認した。時刻は午後2時。*


シロウ(15点で30億から40億か。全部さばけば……いや、計算するのも馬鹿らしいな。とりあえず当面の運転資金は確保できる。)


*彼は通りを歩きながら、次の段取りを考えた。*


*彼はタピオカミルクティーのストローを咥えながら、銀座の通りをぶらぶらと歩いた。もちもちした食感を噛みながら、頭の中でチェックリストを整理する。*


シロウ「えーっと……会社登記は佐藤さんに任せた。資本金1,000万は振り込み済み。宝石15点はハリー・ウィンストンに預けて鑑定待ち。あとは……。」


*彼はスマホのメモ帳を開き、指で項目を書き出した。*


シロウ「税理士との面談が明後日。過去の確定申告の整理。酒類販売免許の申請に必要な仕入先との正式契約書……。これが一番面倒だな。スコットランドかケンタッキーの蒸溜所と契約を結ばないといけない。」


*タピオカを一粒噛み潰し、考え込む。*


シロウ「正規の輸入ルートを作るなら、実際に蒸溜所に行って交渉するのが早い。山崎蒸溜所は国内だから楽だが、海外は……。いや、転移で行けばいいか。現地で直接交渉すれば……。」


*ふと、彼の目が通り沿いの酒屋のショーウィンドウに止まった。スコッチウイスキーの瓶が並んでいる。マッカラン、グレンフィディック、ラフロイグ。*


シロウ「……待てよ。」


*彼はタピオカミルクティーのカップを持ったまま、酒屋に入った。棚を眺め、店員に声をかける。*


シロウ「すみません。スコッチの蒸溜所と直接取引してる日本の代理店って、どこが大手ですか?」


店員「そうですねえ……サントリーさん、アサヒさん、あとはMHD(モエ ヘネシー ディアジオ)さんが大手ですね。個人で蒸溜所と直接契約するのは珍しいですけど、小規模なインポーターさんもいくつかありますよ。」


*店員が業界誌を一冊見せてくれた。彼はスマホで数ページ撮影し、礼を言って店を出た。*


シロウ「既存の代理店を通すか、蒸溜所と直接契約するか。代理店を通すと中間マージンが乗るが、手続きは楽だ。直接契約なら利益率は高いが、交渉と書類が面倒になる……。」


*彼は銀座四丁目の交差点で立ち止まり、タピオカの最後の一粒を吸い上げた。


*彼は空になったカップをゴミ箱に投げ入れ、頭を掻いた。*


*銀座四丁目の交差点で、彼は天を仰いで叫んだ。通行人が何事かと振り返る。ジーンズにパーカーの男が、両手で頭を抱えて絶叫している。完全に不審者だ。*


シロウ「買う専門なら酒類販売免許いらねえじゃねえか……! 輸入して自分で使うだけなら個人輸入と同じだろ……!」


*彼は慌ててスマホを取り出し、佐藤の番号に電話をかけた。コール2回で繋がった。*


佐藤『はい、佐藤法務事務所です。』


シロウ「佐藤さん! 俺です、西木です! すみません、事業内容変更で……!」


佐藤『あ、西木さん。どうされました?』


シロウ「酒の販売はしない! 買うだけ! 自社消費……いや、福利厚生? とにかく酒を大量に買って、自分のところで使うだけなんだ! 売らない!」


佐藤『……。』


シロウ「聞いてるか?」


佐藤『聞いております。つまり、酒類販売免許は不要ということですか?』


シロウ「そう! それ! 買う専門!」


*電話の向こうで佐藤が深呼吸する音が聞こえた。*


佐藤『西木さん。それでしたら、事業内容を「飲食料品の輸入及び購買代行業」に変更すれば、酒類販売免許の申請自体が不要になります。個人輸入の延長として法人名義で仕入れるだけですから。』


シロウ「マジか。」


佐藤『マジです。昨日私が2時間かけて作った酒類販売免許の申請書類一式は全て無駄になりますが。』


シロウ「……すまん。」


佐藤『いえ。慣れております。』


*佐藤の声に疲労が滲んでいた。だがプロだ。すぐに切り替えた。*


佐藤『事業内容の変更は登記申請の段階で修正できますので、本日中に対応します。これで必要な手続きは大幅に減りますね。整理しますと──


1. 会社登記(事業内容修正済み):1週間で完了

2. 法人口座開設:登記完了後すぐ

3. 税理士との面談:明後日予定通り

4. 仕入先との契約書:販売目的でなくても、大口取引なら必要


──酒類販売免許の申請と審査2ヶ月が丸ごと消えましたので、最短2週間で会社が動き出せます。』


シロウ「2週間! それでいい! 最高だ佐藤さん!」


佐藤『ありがとうございます。では修正作業に入りますので、また何か変更がございましたら……できれば早めにご連絡ください。』


シロウ「了解! 悪かった!」


*電話を切り、彼はその場でガッツポーズをした。通行人が更に距離を取った。*


シロウ(よし。これで3ヶ月が2週間に短縮された。あとは蒸溜所との大口取引の契約書だけだ。山崎に直接行くか……。いや、まずはネットで海外の蒸溜所にメールを送っておこう。スコットランドとケンタッキー。法人名義で大量購入したいって。)


*彼は近くのカフェに入り、コーラを注文してノートパソコンを開いた。異空間収納から取り出したそれは、日本で買った普通のノートPCだ。*


*カフェの隅の席で、彼はコーラを啜りながらキーボードを叩いていた。神眼のオートモードが画面上の英語を瞬時に翻訳し、彼が指示した内容を自動で入力していく。傍から見れば、異常な速度でタイピングする怪しいおっさんだ。*


シロウ「スコットランドの蒸溜所は……グレンリベット、マッカラン、ラフロイグ。ケンタッキーはメーカーズマーク、ワイルドターキー、バッファロートレース。あとジャックダニエルはテネシーか。まあいい、全部送っとけ。」


*神眼が自動で各蒸溜所の公式サイトから法人向け問い合わせフォームを検出し、英文のメールを作成していく。内容は「日本の法人として大口購入を希望。年間取引量は要相談。まずはサンプル発注から」という、ごく真っ当なビジネスメールだ。*


シロウ「送信先は12件か。返事が来たところから交渉すればいい。」


*カタカタとエンターキーを叩き、12通のメールを一気に送信した。彼はコーラを一口飲み、次の作業に取りかかった。*


シロウ「領収書は残しとけって言ってたな……あとはオルクスへの報告書……は神眼に書いてもらうとして……。」


*彼は異空間収納から紙束を取り出した。今日までの領収書だ。佐藤法務事務所への着手金、ハリー・ウィンストンでの預かり証、ホテルの宿泊費、タピオカミルクティー290円、ファミチキ150円、コーラ140円。全部ごちゃ混ぜにポケットに突っ込んであったのを、テーブルの上に広げた。*


シロウ「……汚ねえな。」


*くしゃくしゃの領収書を一枚ずつ伸ばしながら、神眼に読み取らせる。神眼が自動で日付順に分類し、異世界の通貨に換算した報告書を脳内に生成してくれた。*


シロウ「オルクスへの報告書……。『日本での事業活動報告。会社設立費用:金貨100枚相当。宝石鑑定依頼:15点預託。換金見込み額:黒金貨30枚相当。酒類仕入先:12件に打診中。以上。』……短いな。まあいいか。」


*彼は神眼にその内容を異世界の公用語で清書させ、羊皮紙に書き写した。オルクスが「数字さえあれば」と言っていたのを思い出し、一応数字は入れた。*


シロウ「あとは……3日後に宝石の鑑定結果が出る。それまでは暇だな。」


*彼はコーラの缶を傾け、残りを飲み干した。カフェの窓の外には東京の雑踏が流れている。*


シロウ「……暇な時にしかできないことをするか。」


*彼はスマホを取り出し、検索窓に「東京 酒屋 レア ウイスキー 在庫あり」と打ち込んだ。どうせ待ち時間だ。手持ちの在庫を増やしておいて損はない。ドワーフどもの酒が切れたら鉄道工事が止まる。*


*業務スーパーの自動ドアをくぐると、冷房の効いた広い店内が広がっていた。彼はカートを引っ張り、まず冷凍庫コーナーへ直行した。*


シロウ「アイスか……ステラはバニラが好きだったな。ゼノとセレスは……チョコだったか? レイラはストロベリー。ルミナは抹茶。レイは全部。」


*冷凍庫の扉を開け、業務用の大容量アイスを物色する。2リットルの業務用バニラ、チョコ、ストロベリー、抹茶をカートに放り込んだ。さらに箱入りのアイスバーも3箱。*


シロウ「Lで買ってやるって約束したからな……。これでいいだろ。溶ける前に異空間収納に入れれば問題ない。」


*続いて酒コーナーへ向かった。業務スーパーの酒コーナーは安い。彼は棚を眺めながら、中国酒のエリアに足を止めた。*


シロウ「前に白酒(バイジュウ)飲ませたら『喉が焼ける! もう一杯!』って叫んでたな……。あとボルグも気に入ってた。」


*白酒を6本、紹興酒を4本カートに入れた。ふと隣の棚に目が止まる。消毒用エタノール……だ。*


シロウ「……アルコール消毒だよな。」


*彼は消毒液を手に取り、しばらく眺めた。*


シロウ「ドワーフどもに飲ませたらどうなるんだ……。いや、飲みはしないだろ……多分。味見って言って一口飲んだら止まらなくなる未来が見えるが……。」


*結局3本カートに入れた。好奇心には勝てなかった。*


シロウ「あとは……。」


*彼はカートを押しながら食品コーナーを回った。業務用の冷凍たこ焼き、冷凍餃子、冷凍唐揚げ。全部大袋だ。*


シロウ「レイの奴、前に日本で食ったたこ焼きまた食べたいって言ってたな。」


*冷凍たこ焼きを3袋。冷凍餃子を5袋。冷凍唐揚げを4袋。カートが山盛りになっていく。*


シロウ「ルクスにはベビー用のおやつでも……いや、まだ早いか。1歳だし。」


*ベビーせんべいを1袋だけカートに入れた。*


シロウ「……あ。」


*彼の目が調味料コーナーで止まった。業務用のマヨネーズ、ケチャップ、ソース。そしてその奥に、業務用の醤油と味噌。*


シロウ「醤油切れかけてたな、城のキッチン。味噌も補充しとくか。」


*1リットルの醤油を4本、合わせ味噌を3パック。カートが限界に近づいていた。*


*レジに向かうと、店員が山盛りのカートを見て目を丸くした。*


店員「……飲食店の方ですか?」


シロウ「まあ、似たようなもんです。」


*会計は合計で3万8,000円ほどだった。彼は現金で支払い、レジ袋を受け取ると、駐車場の死角で全てを異空間収納に放り込んだ。*


シロウ「よし。あとは鑑定結果を待つだけだな。」


シロウ「鑑定結果は明後日だし、今日は一旦帰るか。明日また来て、メール来てるか確認すればいいか。」

「ああ、忙しいや。」


*彼は次元転移で城の廊下に着地した。両手にはレジ袋……は既に異空間収納に入れてある。手ぶらだ。まずはキッチンの冷凍庫にアイスを入れなければ。異空間収納の中は時間が止まっているとはいえ、出した瞬間から溶け始める。*


シロウ「急がないと……。」


*早足でキッチンへ向かう途中、廊下の角を曲がったところで二つの影とぶつかりそうになった。*


レイ「あっ! シロー!」


ルーナ「父さん!? 今帰ってきたの?」


*レイが満面の笑みで飛びついてきた。黒髪のミディアムヘアが揺れる。その隣でルーナが銀髪をかき上げながら、怪訝そうな顔をしている。*


レイ「シロー、どこ行ってたの? 朝からいなかったよ? ボク探したんだから♪」


シロウ「ちょっと日本に用事があってな。」


ルーナ「日本……? また何か買い付けですか?」


シロウ「会社作ってきた。あと宝石売りに行って、酒の仕入先にメール送って……。まあ色々だ。」


ルーナ「会社!?」


*ルーナの目が見開かれた。転生者の彼女には「会社」の意味が正確に分かる。異世界の魔王が日本で法人登記をしているという事実に、脳の処理が追いついていない様子だ。*


ルーナ「ちょ、ちょ、ちょっと待って!株式会社? え、合同会社? 登記は? 資本金は?」


シロウ「株式会社アストライア商会。資本金1,000万。登記は来週完了予定。」


ルーナ「国名そのまんまじゃん!! バレるんじゃないの!?」


シロウ「日本人には分からんだろ。」


ルーナ「それはそうだけど……!」


*ルーナが頭を抱えている横で、レイが首を傾げていた。*


レイ「カイシャ? トウキ? シロー、何の話?」


シロウ「レイには難しい話だ。それより、お前らちょうどいいところに来た。手伝え。」


レイ「手伝う? 何を?」


シロウ「アイスをキッチンの冷凍庫に入れるのを手伝え。大量にある。」


*レイの目が一瞬で輝いた。*


レイ「アイス!? アイス買ってきたの!? シロー大好き♪」


*レイが再び飛びついてきた。彼の腕にしがみつき、尻尾でもあれば千切れるほど振っているであろう勢いだ。*


シロウ「食うのは後だ。まず冷凍庫に入れるぞ。溶ける。」


*三人でキッチンに向かい、彼が異空間収納からアイスを次々と取り出していく。2リットルの業務用バニラ、チョコ、ストロベリー、抹茶。箱入りアイスバー3箱。レイの目がどんどん大きくなっていく。*


レイ「すごい! いっぱいある! これ全部食べていいの!?」


シロウ「全部は駄目だ。みんなの分もある。」


ルーナ「……父さん、これ業務スーパーだよね?パッケージ見覚えあるんだけど…前世でよく買ってたもん。」


シロウ「分かるのか。」


ルーナ「分かるよ。このバニラ、コスパ最強なんだよね……懐かしい…」


シロウ「あんまり食べ過ぎると……腹壊すぞ?」


*レイが冷凍庫の前で名残惜しそうにしていたが、彼はそのまま冷凍庫を閉めた。*


レイ「えー……1個だけ! 1個だけダメ?」


シロウ「飯の後にしろ。」


レイ「むぅ……。」


*レイが頬を膨らませたが、彼は構わずキッチンを出た。ルーナが後ろからついてくる。*


ルーナ「父さん、どこ行くの?」


シロウ「線路の進捗を見に行く。南大陸側の工事、どこまで進んでるか確認しておきたい。」


ルーナ「あー、古代コンクリートで地盤作ってたやつ? 昨日ボルグ親方が怒鳴り声上げてたから、順調なんじゃない? あの人、怒鳴ってる時が一番ノってるし。」


シロウ「間違いない。」


*彼は城の南門から外に出て、転移で南大陸側の工事現場へ飛んだ。レイとルーナも一緒だ。*


*現場に着くと、熱気と土埃が肌を叩いた。南大陸側の広大な平原に、灰色の古代コンクリートの路盤が一直線に伸びている。その上にドワーフたちが群がり、枕木とレールの設置作業を行っていた。*


ドワーフA「よいしょっ! もう2寸右だ!」


ドワーフB「ったく、暑ぃなぁ……酒持ってこいや!」


ドワーフC「作業中に飲むなって親方に言われてんだろ!」


*汗だくのドワーフたちが怒鳴り合いながら、しかし手は一切止めずにレールを敷いていく。その手際は職人そのものだった。*


シロウ「結構進んでるな……。」


*彼が現場を眺めていると、奥から聞き覚えのあるドスの効いた声が響いてきた。*


ボルグ「おい貴様ら! そのレールの間隔が3ミリずれとるわ! やり直せ!」


ドワーフD「3ミリくらい……」


ボルグ「3ミリが命取りになるんじゃボケェ! ドワーフの名折れにしたいか!」


*ボルグ親方が腕を組んで仁王立ちしていた。日焼けした肌に汗が光っている。彼がシロウに気づき、ニカッと笑った。*


ボルグ「おう、陛下! 見に来たか!」


シロウ「進捗どうだ、ボルグ。」


ボルグ「路盤のコンクリート打設は全行程の6割完了。レール敷設は3割ってとこだ。予定より2日早い。」


シロウ「2日早い? 飛ばしてるな。」


ボルグ「当たり前だ。あの茅台酒の追加が掛かってんだからな! 野郎ども、目の色が違うわ!」


*ボルグが豪快に笑った。その背後で、ドワーフたちがレールを担ぎながら走っている。完全に酒が燃料だ。*


レイ「すごーい! 線路がずーっと続いてる!」


ルーナ「ドワーフの工期感覚おかしくない……? 普通こんな速度で敷設できないでしょ……。」


*彼が白酒の蓋を開けた瞬間、独特の芳醇な……というより強烈な発酵臭が風に乗って工事現場に広がった。*


シロウ「もしズレたら! これは川に流し捨てる事になるぞ?」


*彼はわざとらしく、開けた白酒を少しだけ近くの川に流した。透明な液体が水面に落ち、アルコールの香りが一帯に漂う。*


ドワーフたち「「「!!!」」」


*現場が一瞬で凍りついた。レールを担いでいたドワーフが振り返り、枕木を打ち込んでいたドワーフがハンマーを止め、測量していたドワーフが水平器を落とした。全員の鼻がひくひくと動いている。*


ボルグ「て、てて、てめぇ陛下!! 何してくれてんだ!!」


シロウ「ん? いや、ちょっと味が落ちてないか確認しただけだ。」


ボルグ「川に流すな!! もったいねぇだろうが!!」


*ボルグの目が血走っていた。彼の隣で若いドワーフが川の水を手で掬おうとしている。*


ドワーフE「待て! まだ薄まってねえかも……!」


ドワーフF「バカ! もう流れちまったよ!」


*現場が騒然となる中、レイとルーナは対照的な反応だった。*


レイ「うぇ……くさい……。シロー、これお酒? すっごい匂いする……。」


ルーナ「これ白酒でしょ……。前世の会社の中国人の同僚が飲んでたけど、匂いだけで酔いそうだった記憶……。」


*二人とも鼻を押さえて顔を顰めている。しかしドワーフたちは真逆だ。全員が鼻をひくつかせ、恍惚とした表情を浮かべている。*


ボルグ「陛下……。まさかそれ、前に飲ませてもらったあの酒か?」


シロウ「白酒な。今回は6本買ってきた。」


*現場の空気が変わった。ドワーフたちの目に炎が宿る。*


ボルグ「野郎ども聞いたか!! 白酒6本だ!!」


ドワーフたち「「「うおおおおお!!!」」」


シロウ「ただし。」


*彼は白酒の瓶を高く掲げた。ドワーフたちの視線が瓶に集中する。犬に餌を見せた時と同じ反応だ。*


シロウ「今日のノルマを2割増しで終わらせたら、作業後に1本開ける。ズレが1ミリでもあったら……。」


*彼はもう一度、瓶を川の方に傾けた。*


ドワーフたち「「「やめてくれえええ!!!」」」


ボルグ「2割増し上等だ!! おい貴様ら、レールの精度は0.1ミリ単位で合わせろ!! 1本でも曲がったら俺がぶん殴る!!」


*ドワーフたちが猛烈な勢いで作業に戻った。先ほどまでの倍速だ。レールを担ぐ足取りが軽い。目が完全に酒に支配されている。*


ルーナ「……ドワーフって、本当に酒で動くんだね……。」


レイ「犬みたい……。」


シロウ「犬は言い過ぎだろ。……まあ、否定はできんが。」


*夕暮れの工事現場。オレンジ色の空の下、ドワーフたちがレールの最終点検を終えて集まってきた。全員汗だくで、土埃にまみれている。だが表情は晴れやかだ。*


ボルグ「陛下! 本日のノルマ、2割増し……どころか3割増しで完了した! レールの精度も全区間0.5ミリ以内に収まっとる!」


シロウ「3割増しか。大したもんだ。」


*彼は異空間収納から白酒を1本取り出し、ボルグに手渡した。ボルグの太い指が瓶を受け取った瞬間、周囲のドワーフたちから歓声が上がった。*


ドワーフたち「「「うおおおおお!!」」」


ボルグ「よぉし! 今日は飲むぞ野郎ども!」


*ドワーフたちが我先にとコップを取り出す。中には水筒の蓋で代用する者もいた。ボルグが白酒の蓋を開けた瞬間、強烈な香りが広がり、ドワーフたちの鼻がひくついた。*


レイ「また臭い……。ボクたち帰ろ、ルーナ。」


ルーナ「うん……。もう無理……。」


*二人は鼻を押さえたまま逃げるようにその場を離れた。彼は二人の背中を見送りながら、ドワーフたちの宴会を眺めていた。*


ボルグ「がはは! たまらんな、この喉に来る感じ! 陛下、一杯どうだ!」


シロウ「いや、俺はいい。お前らで飲め。明日も作業があるんだから、ほどほどにしろよ。」


ボルグ「ほどほど? 何だそれは。聞いたことねぇな。」


シロウ「……だと思った。」


*彼は肩を竦め、工事現場を後にした。夕焼けの中、一直線に伸びるレールが光を反射してオレンジ色に輝いている。路盤6割、レール敷設3割。このペースなら予定より早く完成するだろう。*


*城に戻ると、廊下でオルクスが待ち構えていた。手には書類の束を抱えている。彼と目が合った瞬間、オルクスの目が据わった。*


オルクス「陛下。」


シロウ「……おう。」


オルクス「報告書。」


シロウ「あー……。」


*彼は異空間収納から、神眼に清書させた羊皮紙を取り出した。オルクスが受け取り、一瞬で目を通す。*


オルクス「……『日本での事業活動報告。会社設立費用:金貨100枚相当。宝石鑑定依頼:15点預託。換金見込み額:黒金貨30枚相当。酒類仕入先:12件に打診中。以上。』」


シロウ「どうだ。数字入ってるだろ。」


オルクス「……。」


*オルクスが深呼吸した。長い、長い深呼吸だった。*


オルクス「陛下。これは報告書ではなく、メモ書きです。収支の内訳は? 宝石15点の個別評価額は? 会社設立費用の明細は? 打診先12件の一覧は?」


シロウ「……明日出す。」


オルクス「本日中にお願いします。」


シロウ「分かった。」


*異空間収納の中で、神眼が猛烈な速度で羊皮紙にペンを走らせていく。宝石15点の個別評価額、カラット数、カット品質、インクルージョンの有無、産地推定、市場相場との比較。会社設立費用の明細は着手金、登録免許税、定款認証手数料まで。打診先12件の蒸溜所名、所在国、主要銘柄、推定年間取引可能量。全てが専門用語で埋め尽くされた、ガチの財務報告書だ。*


*数秒後、彼は異空間収納から5枚の羊皮紙を取り出し、オルクスに差し出した。*


シロウ「ほら。」


*オルクスが受け取り、最初の1枚に目を通した。その目がみるみる見開かれていく。*


オルクス「……『宝石個別評価書。第1号:ブルーサファイア、推定12.4カラット、透明度VVS1相当、加熱処理の痕跡なし、推定評価額……黒金貨2枚から3枚相当』……。」


*オルクスが2枚目、3枚目とめくっていく。その手が微かに震えていた。*


オルクス「……これは……陛下、これを本当にお一人で?」


シロウ「まあな。」


オルクス「収支の内訳も……会社設立費用の項目が全て分類されている……。打診先の一覧に推定取引量まで……。」


*オルクスが顔を上げた。先ほどまでの据わった目が、困惑に変わっていた。*


オルクス「……先ほどのメモ書きと同一人物が作成したとは思えません。」


シロウ「企業秘密だ。」


オルクス「……。」


*オルクスは数秒沈黙した後、報告書を丁寧に揃えて胸に抱えた。*


オルクス「……拝受いたしました。内容は明朝までに精査し、不明点があれば改めてお伺いします。」


シロウ「おう。」


オルクス「それと、陛下。」


シロウ「ん?」


オルクス「ヴェルナー・フォン・ブランシュタット男爵からの面会申し入れの件ですが……既に3度目の書簡が届いております。このまま放置しますと、先方の心証を損ねかねません。」


*オルクスが懐から封書を取り出した。蝋で封がされた、貴族らしい丁寧な書簡だ。*


シロウ「……3度目か。」


オルクス「はい。いずれも『命の恩人であるギメイ殿にお礼を申し上げたい』という内容です。陛下のご変装時の名前で探しておられるようですので、こちらの正体には気づいておりませんが……。」


シロウ「面倒だな……。」


オルクス「ご判断は陛下にお任せいたしますが、早めにご対応いただけると、私の胃が助かります。」


シロウ「お前の胃の話か。」


オルクス「私の胃は国の財政と同程度に重要です。」


*オルクスは一礼して去っていった。彼は封書を手の中で弄びながら、廊下に立ち尽くしていた。*


*彼は城の私室で手早く変装を済ませた。黒髪を後ろに撫でつけ、フードつきの外套を羽織る。顔立ちを少し変える変身魔法をかけ、冒険者「ギメイ」の姿になった。*


シロウ(まあ、ヴェルナー男爵か……。北東のかざんが噴火した時に助けたんだったな。鉄の棒が体に刺さって瀕死だったやつだ。)


*記憶を辿りながら転移を発動し、最寄りの冒険者ギルド……中央大陸リンドブルム支部の前に降り立った。夕刻の街は帰宅する市民と、これから夜の依頼に出る冒険者で賑わっている。*


*ギルドの扉を開けると、酒場を兼ねたホールに喧騒が広がっていた。冒険者たちが酒を煽り、依頼書を眺め、武勇伝を語り合っている。彼はフードを深く被ったまま、受付カウンターへ向かった。*


受付嬢マリア「いらっしゃいませ。あら、ギメイさん? お久しぶりですね。」


*栗色の髪を一つ結びにした受付嬢が、彼の顔を見て微笑んだ。常連の高ランク冒険者の顔は覚えているらしい。*


ギメイ(シロウ)「ああ、久しぶり。一つ聞きたいんだが、最近ヴェルナーって男爵が俺を探してるらしいんだが、何か聞いてるか?」


*マリアが一瞬考える仕草をした後、目を見開いた。*


マリア「ヴェルナー男爵……! はい、実は何度かこちらにもいらっしゃいました。『ギメイという冒険者に是非お会いしたい』と。とても礼儀正しい方でしたよ。」


ギメイ(シロウ)「やっぱり来てたか。」


マリア「ええ。最後にいらしたのは……3日前でしょうか。『もしギメイ殿が現れたら、ぜひ連絡をいただきたい』と、こちらに書簡を預けていかれました。」


*マリアがカウンターの下から封書を取り出した。蝋印で封がされた、上質な紙の書簡だ。ギルドに預けるあたり、相当必死に探しているらしい。*


ギメイ(シロウ)「……。」


*彼は封書を受け取り、その場で開封した。中には丁寧な筆跡で書かれた手紙が入っていた。*


『ギメイ殿


先日は命をお救いいただき、深く感謝しております。あの時のご恩は一生忘れません。ぜひ一度お会いして、直接お礼を申し上げたく存じます。ご都合のよろしい日時をお知らせいただければ、どこへでも参ります。


ヴェルナー・フォン・ブランシュタット』


ギメイ(シロウ)「律儀な奴だな……。」


マリア「いかがなさいますか? 男爵への返信を預かることもできますし、直接会いに行かれるなら、男爵の滞在先もお伝えできますよ。」


ギメイ(シロウ)「滞在先? こっちに泊まってんのか?」


マリア「はい。リンドブルムの『白鷹亭』に長期滞在されているそうです。ギメイさんを待つために、わざわざ領地から出てこられたみたいで……。」


シロウ「律儀だなぁ…その人の素性は?」


*マリアが少し考えるように顎に指を当てた。受付嬢として冒険者や依頼主の情報は一通り把握している。*


マリア「ヴェルナー・フォン・ブランシュタット男爵ですね。中央大陸北東部、ブランシュタット領を治める小領主です。領地は火山帯に近い山間部で、主な産業は鉱山経営と薬草の栽培だそうです。」


ギメイ(シロウ)「鉱山か。」


マリア「はい。ギルドへの依頼も過去に何件かありまして……護衛依頼や魔物討伐が中心ですね。報酬の支払いも滞ったことはなく、領民からの評判も良いと聞いています。年齢は20代半ばくらいの、温厚な紳士という印象でしたよ。」


ギメイ(シロウ)「まともな貴族か。」


マリア「ええ、少なくとも私が対応した限りでは。お付きの騎士が2名ほど一緒でしたが、彼らも礼儀正しい方々でした。それと……」


*マリアが少し声を落とした。*


マリア「男爵は、あの火山噴火の際に山に調査に向かったところ丁度噴火に巻き込まれたそうです。」


ギメイ(シロウ)「……。」


*彼は手紙をもう一度見下ろした。あの時、瓦礫の下敷きになって鉄の棒が腹を貫通していた男。簡易的な手術と回復薬で治療して、そのまま立ち去ったのを覚えている。*


シロウ(真面目な領主か……。会って損はなさそうだな。しかし、白鷹亭に長期滞在って……わざわざ領地を空けて俺を待ってるのか。申し訳ないな。)


ギメイ(シロウ)「白鷹亭だったか? 今から行けば会えるかな。」


マリア「この時間でしたら、まだいらっしゃると思いますよ。白鷹亭はギルドから東に3本目の通りを右に曲がった先です。看板に白い鷹の絵が描いてあるので、すぐ分かると思います。」


ギメイ(シロウ)「分かった。ありがとう、マリア。」


マリア「いえいえ。お役に立てて良かったです。あ、ギメイさん。」


ギメイ(シロウ)「ん?」


*マリアが少し悪戯っぽく微笑んだ。*


マリア「男爵、本当に毎日のようにいらしてたんですよ? 『今日もいなかったか……』って肩を落として帰っていく背中が……正直、ちょっと可哀想でした。優しくしてあげてくださいね?」


ギメイ(シロウ)「……善処する。」


*彼はギルドを出て、夕暮れのリンドブルムの街を歩き始めた。東に3本目の通りを右に曲がると、確かに白い鷹の看板が見えた。中規模の宿屋だ。貴族が泊まるにしては質素だが、清潔感はある。*


シロウ(わざわざ高級宿じゃなくてこういう所に泊まるあたり、見栄を張らない性格なんだろうな。)


*彼は白鷹亭の扉に手をかけた。*


*彼が白鷹亭の扉を開けると、宿屋の主人が柔和な顔で迎えた。カウンターの奥には暖炉が焚かれ、数人の客が静かに食事をしている。質素だが居心地の良い宿だ。*


ギメイ(シロウ)「男爵はいるか?」


宿屋の主人「ヴェルナー様でしたら、2階の……」


*その言葉が終わる前だった。2階からドタドタと凄まじい足音が響き、階段を駆け降りてくる影があった。途中で段を踏み外しかけ、手すりに掴まって体勢を立て直し、そのまま1階のホールに飛び出してきた。*


ヴェルナー「ギメイ殿……!? ギメイ殿ですか!?」


*金髪を後ろに束ねた青年が、息を切らして彼の前に立った。20代半ば。整った顔立ちだが、今は目を見開いて信じられないものを見るような表情をしている。服装は質素な麻のシャツにベスト。貴族らしい装飾は殆ど無い。*


ヴェルナー「本当に……本当にギメイ殿ですか? あの時の……」


ギメイ(シロウ)「ああ。ギメイだ。書簡を読んだ。遅くなって悪かったな。」


*ヴェルナーの目が潤んだ。彼はその場で深々と頭を下げた。腰が90度に折れるほどの、貴族としてはあり得ないほどの礼だ。周囲の客が何事かと振り返る。*


ヴェルナー「ありがとうございます……! お会いできて、本当に……!」


ギメイ(シロウ)「おい、頭上げろ。目立つ。」


ヴェルナー「あ、す、すみません……!」


*ヴェルナーが慌てて顔を上げた。目尻が赤い。彼の後ろから、2人の騎士が階段を降りてきた。主人の暴走を追いかけてきたらしく、困惑した顔をしている。*


騎士A「男爵閣下、落ち着いてください……!」


騎士B「こちらがギメイ殿で?」


ヴェルナー「そうだ! この方が、あの時私の命を救ってくださった方だ!」


*ヴェルナーが興奮気味に振り返って騎士たちに告げる。2人の騎士も姿勢を正し、敬礼した。*


ギメイ(シロウ)「……とりあえず、座って話さないか。立ち話もなんだし。」


ヴェルナー「は、はい! もちろんです! こちらへどうぞ!」


*ヴェルナーが慌ただしく奥のテーブルに案内した。宿屋の主人が気を利かせて、お茶と軽食を運んできた。4人がテーブルを囲む。*


*ヴェルナーが椅子に座ってようやく落ち着いたのか、深呼吸を一つした。*


ヴェルナー「改めまして……ヴェルナー・フォン・ブランシュタットと申します。あの日、火山の噴火に巻き込まれ、瓦礫の下敷きになっていたところを、ギメイ殿に助けていただきました。」


ギメイ(シロウ)「覚えてるよ。腹に鉄の棒が刺さってたな。よく生きてたもんだ。」


ヴェルナー「あの時、もう駄目だと思いました。意識が遠のく中で、誰かが私の体から鉄の棒を抜いて、傷を癒して下さり…」


ギメイ(シロウ)「ただのついでだ。気にするな。」


*彼はお茶を一口啜りながら、さらりと言い放った。*


シロウ(あの時は噴火したと聞いて、宝石の原石を取りに行ったんだよな。まさか噴火の原因が俺が深淵の迷宮から深淵の根源体を覚醒させて連れ出したせいだとは思わなかったが……。火山の力を吸収してた根源体がいなくなって、溜まったエネルギーが一気に噴き出した……と。これは墓まで持っていこう。)


*ヴェルナーは「ついで」という言葉に一瞬呆気に取られたが、すぐに苦笑した。*


ヴェルナー「ついで、ですか……。あの地獄のような状況で、瀕死の私を見つけて、腹に刺さった鉄の棒を抜いて、傷を癒して……それが『ついで』だと仰るのですか。」


ギメイ(シロウ)「たまたま近くにいたからな。誰だってやるだろ。」


ヴェルナー「いいえ。あの噴火の最中に火山に向かう人間など、普通はおりません。逃げるのが当然です。」


*ヴェルナーの声に力がこもった。テーブルの上で握られた拳が微かに震えている。*


ヴェルナー「私は領主として、あの火山の調査に向かいました。領民の安全を確認するために。それなのに、自分が真っ先に倒れて……情けない限りです。あの時ギメイ殿がいなければ、私は確実に死んでいました。」


ギメイ(シロウ)「領民のために火山に突っ込んだのか。お前も大概だな。」


ヴェルナー「は、はは……そうかもしれません。」


*ヴェルナーが照れくさそうに頭を掻いた。隣の騎士が呆れた顔で口を挟んだ。*


騎士A「閣下は昔からそうなのです。危険な場所に自ら赴かれて、我々の胃を痛めるのが趣味のような方で……。」


ヴェルナー「趣味ではないぞ、ハインツ……。」


シロウ(どこかで聞いたような話だな。オルクスの胃と同じ構造か。)


*ヴェルナーが居住まいを正し、改めて彼に向き直った。*


ヴェルナー「ギメイ殿。命を救っていただいた恩は、言葉だけでは返しきれません。つきましては……何かお礼をさせていただきたいのです。金銭でも、領地の産物でも、何でも。ギメイ殿が望むものがあれば、私にできる限りのことを致します。」


*真剣な目だった。社交辞令ではなく、本心からの申し出だと分かる。*


ギメイ(シロウ)「礼か……。」


*彼はお茶を啜りながら考えた。正直、金も物も困っていない。だが、ここで断るとこの男は永遠に追いかけてくるだろう。マリアが言っていた。毎日ギルドに通い、肩を落として帰っていく背中。これ以上待たせるのも忍びない。*


シロウ(鉱山経営と薬草栽培の領地だったな……。鉱山か。ドワーフの鉄道工事に使える鉱石があるかもしれんが……いや、それは国の予算で賄える。何か他に……。)


ギメイ(シロウ)「……いや、特にないな。」

「悪い、明日も朝早いんだ。ここで失礼。」


*彼が言い終わるか終わらないかのうちに、転移魔法が発動した。ヴェルナーの目の前から、ギメイの姿が掻き消える。*


ヴェルナー「え……。」


*ヴェルナーは手を伸ばしかけた姿勢のまま固まった。隣の騎士ハインツも、もう一人の騎士も、口を開けたまま動けない。宿屋の客たちも、今の光景を理解できずに沈黙していた。*


ヴェルナー「……消えた?」


ハインツ「転移……魔法、ですか。あれは……。」


騎士B「一瞬でしたね……詠唱も魔法陣もなく……。」


*ヴェルナーがゆっくりと伸ばした手を下ろし、空になった椅子を見つめた。テーブルの上には、半分だけ飲まれたお茶のカップが残されている。*


ヴェルナー「……すごい人だ。」


ハインツ「閣下、お礼の品も渡せておりませんが……。」


ヴェルナー「ああ……。」


*ヴェルナーは椅子に座り直し、しばらく黙っていた。やがて、静かに口を開いた。*


ヴェルナー「ハインツ。あの方は『特にない』と仰った。礼を求めない人だ。……だからこそ、何かしなければならない。」


ハインツ「と申しますと?」


ヴェルナー「冒険者ギルドの受付嬢が言っていた。ギメイ殿のランクは登録上Aだと。だが、あの転移魔法……詠唱なし、魔法陣なし。あれはAランクの力ではない。」


ハインツ「確かに……。」


ヴェルナー「ギメイ殿は実力に見合った評価を受けていない。せめて、ランクアップの推薦状を書こう。貴族からの推薦があれば、ギルドも特別審査を行うはずだ。」


*ヴェルナーは宿屋の主人にペンと紙を借り、その場で推薦状を書き始めた。丁寧な筆跡で、火山での救出劇、詠唱なしの転移魔法、そしてAランクに留まっていることへの疑問を記した。末尾にブランシュタット男爵家の印章を押す。*


ヴェルナー「明日の朝一番で、ギルドに届けよう。」


ハインツ「承知しました。しかし閣下、SSランクへの推薦となると、ギルド本部の承認が必要では……。」


ヴェルナー「Sランクへの昇格審査で構わない。まずはそこからだ。」


---


*一方、城の私室に転移した彼は、変装を解きながら大きく欠伸をした。*


シロウ「ふぁ……。眠い。とりあえず男爵には会ったし、これでオルクスの胃も少しは楽になるだろ……。」


*彼はブーツを脱ぎ、ベッドに倒れ込んだ。隣ではルミナが既に眠っている。銀髪がシーツの上に広がり、寝息が静かに聞こえた。*


シロウ(明日は日本でメールの返信確認。それと2日後に宝石の鑑定結果。線路の工事も順調。会社の登記は来週。……やることが多いな。)


*彼は天井を見つめながら、今日一日を振り返った。業務スーパー、佐藤への電話、ドワーフへの酒、オルクスへの報告書、ヴェルナー男爵。今までの魔王の一日としてはあまりに別物だった。*


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