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*――――翌朝。*
*鳥の声と共に朝日がエルドランの街を照らし始めた。窓から差し込む橙色の光が、部屋をゆっくりと染めていく。*
*彼が目を覚ますと、視界に黒い毛玉があった。*
*黒猫の姿に戻ったネメシスが、彼の胸の上で丸くなって眠っていた。小さな寝息が聞こえる。尻尾が彼の首に巻きついていた。*
ギメイ(シロウ)「……」
*彼は天井を見つめた。動くと起きそうだ。*
*窓の外では、朝市の準備をする商人たちの声が聞こえ始めていた。今日はこの街を発ち、魔導皇国へ向かう予定だ。だが、今はまだ――。*
*黒猫がむにゃりと身じろぎし、小さな肉球が彼の顎を押した。*
ネメシス「……んぅ……」
*完全に熟睡していた。数万年ぶりの、安心した眠りだったのかもしれない。*
ギメイ(シロウ)「やっぱりこうなったか……まあいいか。」
*彼は胸の上で丸くなっている黒猫をそっと両手で抱き上げた。ネメシスは微かに「にゃう」と鳴いたが、起きる気配はない。小さな肉球が彼の腕にぎゅっとしがみついた。*
*荷物を異空間収納にしまい、黒猫を片腕に抱えたまま階段を降りる。1階の食堂では朝食の準備が始まっていた。パンの焼ける匂いが漂っている。*
ギメイ(シロウ)「世話になったな。」
*彼はカウンターに部屋の鍵を置いた。昨夜のおばちゃんが受け取りながら、彼の腕の中の黒猫を見てにこりと笑った。*
おばちゃん「あら、連れの子は? 代わりに猫抱いてるじゃないか」
ギメイ(シロウ)「ああ、先に出発しましたよ。この猫は……まあ、拾ったんです」
おばちゃん「ふふ、優しいねぇ。はい、これ持ってきな。朝ごはん代わりだよ」
*おばちゃんが紙袋を差し出した。中にはパンと干し肉、それと昨夜の娘が作ったらしい不格好なクッキーが入っていた。*
おばちゃん「孫がね、尻尾のおねえちゃんにって。また来たら渡してやっとくれ」
ギメイ(シロウ)「……ありがとう。必ず渡しますよ。」
*彼は紙袋を受け取り、宿を出た。朝のエルドランは昨夜とは違い、活気に溢れていた。朝市の露店が並び、冒険者たちが装備を整えて歩いている。*
*腕の中の黒猫が朝日を浴びて、ぴくりと耳を動かした。薄く目を開ける。*
ネメシス「……ん……まぶしい……」
ギメイ(シロウ)「おはよう。ほら、見ろ。」
*彼が足を止めた。街の東門から、朝日が昇っていた。橙色の光が空を染め、雲の縁が金色に輝いている。朝市の喧騒、鳥の声、風に乗る花の匂い。*
*黒猫の目が大きく見開かれた。*
ネメシス「……これが……朝、か」
*小さな声だった。金色の目に、朝日の光が溢れている。*
ネメシス「……綺麗だ」
ギメイ(シロウ)「約束通りだろ。夜空より良いもの見せてやるって言っただろ。」
*黒猫の尻尾がゆらゆらと揺れた。彼の腕にぎゅっと爪が食い込んだが、痛くはなかった。*
ギメイ(シロウ)「さて、飯食ったら出発するか。西に向かう。俺の国まで空飛ぶ絨毯で半日ってとこだ。」
ネメシス「……空を、飛ぶのか?」
ギメイ(シロウ)「ああ。空の上から景色見放題だぞ。」
*黒猫の尻尾が、ぶんぶんと勢いよく振れた。本人は気づいていない。*
ギメイ(シロウ)「帰りは転移でもいいが……それだとつまらんからな。」
*彼は路地に入り、人目がないことを確認してから異空間収納から空飛ぶ絨毯を取り出した。ふわりと地面に浮かぶ絨毯に腰を下ろし、片腕に黒猫を抱えたまま浮上する。*
*エルドランの街並みが眼下に小さくなっていく。朝市の喧騒、冒険者たちの行き交う大通り、ガルド山脈の稜線。全てが箱庭のように見えた。*
ネメシス「……っ」
*黒猫が彼の腕の中で身を強張らせた。風が毛並みを逆立てる。*
ギメイ(シロウ)「怖いか?」
ネメシス「怖くない。……ただ、広い」
*それは正直な感想だったのだろう。数万年、暗闇の繭の中にいた存在にとって、遮るもののない空は途方もなく広い。*
ギメイ(シロウ)「まずは中央大陸の王都リンドブルムに寄る。そこから西に向かって俺の国だ。」
*絨毯は西へ向かって加速した。眼下にエルドランの森林地帯が広がり、やがて平原へと変わっていく。朝日を背に受けて、雲の合間を縫うように飛ぶ。*
*しばらくすると、黒猫の強張りが解けた。ネメシスは彼の腕から顔を出し、風に目を細めながら眼下を見つめている。*
ネメシス「……あの光るものは何だ」
ギメイ(シロウ)「川だよ。太陽の光が反射してる。」
ネメシス「あの緑の塊は」
ギメイ(シロウ)「森だな。あっちの茶色いのが農地。麦畑だ。」
ネメシス「……あの動いている小さなものは」
ギメイ(シロウ)「馬車だろうな。商人か旅人か。」
*ネメシスの質問は止まらなかった。見るもの全てが初めてなのだ。黒猫の尻尾がぶんぶん振れている。目はきらきらと輝き、小さな耳がせわしなくあちこちに向いていた。*
ギメイ(シロウ)「ほら、あれ見ろ。」
*彼が前方を指差した。地平線の向こうに、巨大な白い城壁が見え始めていた。その中心にそびえる王城の尖塔が、朝日を受けて金色に輝いている。城壁の周囲には広大な街並みが広がり、街道を無数の人や馬車が行き交っているのが上空からでも見えた。*
ギメイ(シロウ)「中央大陸の王都、リンドブルム。この大陸で一番でかい街だ。」
ネメシス「……これを、人間が作ったのか」
ギメイ(シロウ)「ああ。数百年かけてな。」
ネメシス「……数百年か。我にとっては瞬きの間だが……これだけのものを作るには十分らしいな」
*黒猫の声に、微かな感嘆が混じっていた。*
ギメイ(シロウ)「少し降りて飯でも食うか。あそこの市場は色んなもんが揃ってるぞ。おばちゃんのクッキーもあるしな。」
ネメシス「……あの小さな人間が作ったやつか」
ギメイ(シロウ)「ああ。尻尾のおねえちゃんにってな。」
ギメイ(シロウ)『リンドブルムの王様に線路の件で許可貰わなきゃいけなかったんだ。ノルドヘイムとは合意済みだけど、中央大陸を横断するなら当然ここも通る。』
ネメシス『……線路とは何だ。』
ギメイ(シロウ)『鉄の道を敷いて、その上を巨大な箱が走るんだよ。大量の人や物を運べる。』
ネメシス『……人間は変なものを考えるな。』
*彼は変装を解いた。黒髪に黒い瞳、少し白髪が混じった40代半ばの男――シロウ・ニシキ・アストライア。夜天のアストライア魔導皇国の魔王にして、SSランク冒険者。*
*王城の正門前に立つと、案の定、衛兵が槍を交差させて道を塞いだ。*
シロウ「お疲れ、王様っている?」
衛兵A「何者だ。王城に用があるなら正規の手続きを――」
*衛兵が彼の顔を見て、次に胸元に下がった冒険者カードに目が行った。SSランクの紋章。そして名前。*
衛兵A「……っ!? ア、アストライアの……!」
衛兵B「し、しばらくお待ちください! すぐに取り次ぎます!」
*一人が慌てて城内に駆け込んでいった。もう一人は直立不動で敬礼したまま固まっている。*
ネメシス『……随分と慌てているな。貴様はそんなに偉いのか。』
シロウ『一応、一国の王だからな。ここの王様とは昔からの付き合いだ。アポなしで来るのは悪いと思ったんだが。』
*数分後、城の大扉が開き、仕立ての良い服を着た文官が小走りで出てきた。額に汗を浮かべている。*
文官「お、お待たせいたしました! アストライアの魔王陛下とお見受けいたします! 陛下は謁見の間でお待ちです。どうぞ、こちらへ!」
シロウ「悪いね、急に来ちゃって。」
文官「いえいえ、とんでもございません! 陛下も大変お喜びで……!」
*文官に案内され、城内へと足を踏み入れた。リンドブルムの王城は白い大理石で造られた壮麗な建築で、高い天井にはステンドグラスから色とりどりの光が差し込んでいる。*
ネメシス『……派手な巣だな。』
シロウ『巣って言うな。城だ。』
*腕の中の黒猫がきょろきょろと城内を見回している。金色の目にステンドグラスの光が映り込み、小さな尻尾がゆらゆらと揺れていた。*
*やがて、謁見の間の大扉が開いた。玉座に座る壮年の男が、彼を見て立ち上がった。*
リンドブルム国王「おお、シロウ殿! まさか貴殿が直接来られるとは! 連絡もなしに来るのは相変わらずだな!」
シロウ「はは、悪い悪い。近くまで来たもんでな。ちょっと相談したいことがあってさ。」
*彼は異空間収納から精巧な立体模型を取り出し、謁見の間の床に置いた。ボルグ親方が作った機関車の縮小模型だ。レールの上を走る鉄の車体、客車、貨物車。全てが精密に再現されている。*
シロウ「実は今、機関車ってのを走らせててな。こういうやつ。」
*国王は玉座から降り、模型の前に膝をついた。大臣たちも集まってきて、物珍しそうに覗き込んでいる。*
シロウ「帝国と北方諸国までは設置済みなんだが、ここの了承を得て無いなと思ってな。今のところ、アストライアから帝国までは2時間、北方諸国までは2時間半で到着する。」
*謁見の間が静まり返った。*
リンドブルム国王「……2時間だと?」
大臣A「ば、馬鹿な……帝国までは馬車で3週間はかかるぞ!」
大臣B「北方諸国に至っては1ヶ月近く……それが2時間半?」
*国王が模型を食い入るように見つめた。指でレールをなぞり、車輪の仕組みを確認している。戦場で鍛えた目が、この技術の持つ意味を正確に理解していた。*
リンドブルム国王「……シロウ殿。これが本当なら、物流が根本から変わるぞ。食料、資材、兵站……全てだ。」
シロウ「ああ。だから勝手にやるわけにはいかなくてな。中央大陸を横断するとなると、当然リンドブルムの領内を通る。」
*国王が腕を組んで考え込んだ。隣に控えていた宰相らしき老人が一歩前に出た。*
宰相ヴァルター「失礼ですが、魔王陛下。いくつか確認させていただきたい。線路の敷設にかかる費用の負担は? 領内を通過する際の通行権は? そして……軍事利用の可能性についても。」
ネメシス『……あの老いた人間、なかなか鋭いな。』
シロウ『宰相ってのはそういう生き物だ。』
シロウ「費用は全額うち持ちだ。敷設工事もアストライアの技術者が行う。通行権については、リンドブルム領内の駅にはリンドブルムの管理権を置く形でどうだ。軍事利用に関しては……相互防衛条約の範囲内に限定する。一方的な軍事輸送には使わない。」
*国王と宰相が視線を交わした。*
リンドブルム国王「……つまり、我が国は金を出さずに鉄道網の恩恵を受けられると?」
シロウ「リンドブルムの麦はうちでも需要がある。」
*国王が模型の機関車を手に取り、しげしげと眺めた。そしてふっと笑った。*
*謁見の間に彼の声が響いた。*
シロウ「その代わりと言ってはなんだが、ここに駅――中継地点を作るなら宿泊施設、露店なんかの運営は全部任せる。機関車や線路の整備はアストライアで行うから心配すんな。」
*宰相ヴァルターが目を細めた。そろばんを弾くような表情だ。*
宰相ヴァルター「つまり……駅周辺の商業利権は我が国に、と。」
シロウ「ああ。帝国と北方諸国を結ぶ路線がリンドブルムを通るってことは、乗り換えや休憩で大量の人間がここに降りるってことだ。商人、冒険者、旅人……全員がリンドブルムで金を落とす。」
*大臣たちがざわめいた。その意味を理解するのに時間はかからなかった。*
大臣A「帝国と北方諸国の間を行き来する全ての人間が、我が国を経由する……!」
大臣B「宿泊施設だけでなく、飲食、土産物、両替所……新たな雇用が何千と生まれますぞ!」
*国王が顎に手を当て、模型の線路を指でなぞった。*
リンドブルム国王「シロウ殿。率直に聞こう。アストライア側の利は何だ。」
シロウ「運賃と鉄道使用代。あとは物流の安定だな。うちは技術と資源はあるが、食料自給率がまだ完全じゃない。リンドブルムの麦と畜産物を安定的に輸入できるなら、それだけで十分だ。」
*国王が深く頷いた。*
リンドブルム国王「互いに利がある、か。……ヴァルター、どう見る。」
宰相ヴァルター「……正直に申し上げますと、断る理由がございません。費用負担なし、商業利権は我が国、軍事利用は条約の範囲内。これを断れば、他国が我が国を迂回する路線を引くだけです。その場合、利益は全て他国に流れます。」
*老宰相が一歩前に出て、深く頭を下げた。*
宰相ヴァルター「ただし、一点だけ。駅の設置場所については、我が国の都市計画に基づき協議の場を設けていただきたい。」
シロウ「もちろんだ。うちの財務担当のオルクスと詳細を詰めてくれ。俺が勝手に場所決めるよりそっちの方が確実だろ。」
*国王が玉座から完全に降り、彼の前に歩み寄った。そして右手を差し出した。*
リンドブルム国王「――受けよう、シロウ殿。リンドブルムはアストライアの鉄道計画に全面的に協力する。」
シロウ「ありがとう。助かるよ。」
*二人が握手を交わした。大臣たちの間から安堵と興奮が混じったざわめきが広がる。*
ネメシス『……貴様、戦わずに国を動かしたな。』
シロウ『戦うだけが外交じゃないんだよ。双方が得をする提案をすれば、大抵まとまる。』
ネメシス『……我が封印されていた頃の人間は、棍棒で殴り合っていたが。随分と進化したものだ。』
シロウ『数万年も経てばな。』
*彼はリンドブルムの王城を後にし、街の大通りを歩いた。腕の中の黒猫は相変わらずきょろきょろと辺りを見回している。*
シロウ『ステラの様子でも見に行くか。大学にいるはずだ。』
ネメシス『ステラ……貴様の子か?』
シロウ『ああ、次女だ。13歳でリンドブルムの王立大学に通ってる。優秀なんだよ。』
ネメシス『13歳で大学……人間の寿命は短いと聞くが、それでも早いのではないか。』
シロウ『まあな。飛び級だ。』
*彼は大学の正門前に辿り着いた。白い石造りの荘厳な校舎が並び、広い中庭には学生たちが行き交っている。数週間前まで臨時講師として通っていた場所だ。もっとも、その時はギメイの姿だったが。*
シロウ「たしかこの辺……」
*彼は変装を解いたままだった。つまり、今は魔王シロウ・ニシキ・アストライアの姿そのものだ。正門を通り抜けようとした瞬間、門番が二度見した。*
門番「ま、魔王陛下!? 本日はご連絡を頂いておりませんが……!」
シロウ「ああ、悪いね。娘の様子見に来ただけだから、気にしないでくれ。」
門番「は、はい! どうぞお通りください!」
*門番が慌てて道を開けた。中庭を歩き始めると、すれ違う学生たちが次々と足を止めた。*
学生A「え……あれ、アストライアの魔王じゃない……?」
学生B「嘘でしょ、なんで王立大学に……」
学生C「前に臨時講師で来てた人の上司だっけ? いや、本人?」
*ざわめきが広がっていく。彼は気にせず校舎の中へ入った。*
シロウ『確か今の時間はルミナの講義があったはずだが……ステラは別の棟だったか。』
ネメシス『……貴様、ここでも有名なのだな。騒がしい。』
シロウ『しょうがないだろ、前に一回来てるからな。』
*彼が中庭を横切って東棟に向かうと、渡り廊下の向こうから見覚えのある黒髪の少女が見えた。*
*ステラだった。制服をきちんと着こなし、友達と何か真剣に話し込んでいる。入学から数ヶ月。少し背が伸びたように見えた。*
シロウ「おーい。」
*彼が手を上げた。ステラが振り向く。一瞬、きょとんとした顔になり――次の瞬間、目が大きく見開かれた。*
ステラ「パパ!? なんでここに!?」
*資料を抱えたまま駆け寄ってくる。*
シロウ「近くまで来たもんでな。元気にしてるか、ステラ。」
ステラ「元気です! でもびっくりしました……今日はお仕事じゃないんですか?」
*ステラの視線が彼の腕の中の黒猫に止まった。*
ステラ「……パパ、その猫ちゃんは?」
シロウ「最近拾った猫だ。もふもふだろ?」
*ステラが黒猫を受け取り、両腕で抱きしめた。ネメシスは突然知らない人間に抱かれて一瞬硬直したが、抵抗はしなかった。*
ステラ「わぁ、可愛い……! ふわふわですね! 名前はあるんですか?」
シロウ「ネメシスだ。」
ステラ「ネメシスちゃん……ちょっと怖い名前ですけど、こんなに可愛いのに。」
*ステラが黒猫の顎の下を撫でた。ネメシスの目が細くなり、喉がゴロゴロと鳴った。本人は無意識だろう。数万年を生きた深淵の根源体が、13歳の少女に顎を撫でられて喉を鳴らしている。*
ネメシス『……何だこれは。体が勝手に……止められぬ。』
シロウ『猫の体だからな。気持ちいいと勝手に鳴る。諦めろ。』
ネメシス『貴様の娘、手つきが巧い……くっ……。』
*ステラの友人たちも集まってきた。女子学生が3人ほど、黒猫を覗き込んでいる。*
女子学生A「ステラちゃん、お父さん来てたの!? あ、猫ちゃん可愛い!」
女子学生B「え、この方がアストライアの魔王陛下……? 思ったよりお若い……」
シロウ「おっさんだよ。ステラ、学校の方はどうだ?」
ステラ「順調です! 先月の試験は学年3位でした!」
シロウ「3位か。すごいじゃないか。」
ステラ「1位と2位がどうしても抜けなくて……でも次こそは!」
*彼女は拳を握って力強く宣言した。その仕草がレイラに似ていて、彼は少し笑った。*
シロウ「無理はするなよ。それと、ルミナはまだ講義中か?」
ステラ「ルミナお義母様なら西棟の大講義室だと思います。今日は上級神聖魔法理論の日ですから。」
シロウ「そうか。ちょっと顔出してくるかな。」
ステラ「あ、パパ。この子預かっていいですか? 次の講義まで少し時間あるので……」
*ステラが黒猫をぎゅっと抱きしめた。ネメシスの尻尾がぴんと立っている。*
ネメシス『おい。我を置いていくつもりか。』
シロウ『大丈夫だ、ステラは優しい子だから。大人しくしてろ。』
ネメシス『……っ…、仕方あるまい。だがあの顎の下を撫でる行為はもうやめさせろ。体が言うことを聞かぬ。』
シロウ『嫌がってるようには見えないけどな。』
シロウ「ああ、頼むわ。大人しい猫だから大丈夫だと思う。じゃ、後でな、ステラ。」
ステラ「はい! パパ、夕食は一緒に食べられますか?」
シロウ「……そうだな。時間作るよ。」
ステラ「やった!」
*ステラが嬉しそうに笑った。彼は手を振って西棟へ向かった。渡り廊下を歩きながら、ふと後ろを振り返ると、ステラが友人たちと一緒にネメシスを撫で回しているのが見えた。黒猫の尻尾がゆらゆら揺れている。*
ーー
*彼は隠匿神を発動した。気配、匂い、存在の全てが完全に消え去る。神域の隠密スキルだ。この状態ならルミナですら感知できない。*
*西棟の大講義室に入ると、丁度講義が終わったところだった。階段状の座席に100人以上の学生が座り、教壇にはルミナが立っていた。*
*銀髪のロングヘアが窓からの光を受けて輝いている。白いブラウスに紺のスカート、胸元には教員証。170cmのモデル体型に、凛とした佇まい。どこからどう見ても美人だった。*
ルミナ「――以上で今日の講義は終わりです。次回は神聖魔法の多重展開理論に入りますので、教本の7章を予習しておくように。」
*学生たちが荷物をまとめ始める。彼はルミナの背後、教壇の横の壁に背を預けて観察を続けた。*
*案の定だった。*
*講義室を出ようとするルミナに、一人の男子学生が近づいていく。身なりの良い貴族の子息だろう。胸元に家紋の刺繍がある。*
男子学生「ルミナ先生、少しよろしいですか。」
ルミナ「講義の質問なら受け付けますが。」
男子学生「いえ、その……今度の休日に、街の新しい茶房がオープンするんです。もしよろしければ、ご一緒に――」
*ルミナの目が一瞬だけ細くなった。笑っていない。口元だけが僅かに上がっている。彼はその表情をよく知っていた。あれは「興味ゼロ」の顔だ。*
ルミナ「お断りします。」
男子学生「え、あの、まだ何も――」
ルミナ「あなたの言いたいことは分かっています。答えは変わりません。私は既婚者ですので。」
*彼女が左手を軽く持ち上げた。薬指に嵌められた銀の指輪が光る。シロウが贈った結婚指輪だ。*
男子学生「い、いえ、お茶だけでも……! 先生ほどの方がこんな辺境の大学で教鞭を取られているなんて勿体ない。中央の学院なら――」
ルミナ「勿体ない?」
*空気が変わった。ルミナの声のトーンが一段下がる。*
ルミナ「私がここにいるのは、私が望んでいるからです。それ以上の理由が必要ですか?」
男子学生「あ……い、いえ……失礼しました……」
*男子学生が蒼白な顔で逃げるように去っていった。周囲の学生たちが「またか」「あの人何人目だよ」とひそひそ話している。*
女子学生A「ルミナ先生の旦那様ってどんな方なんだろう……」
女子学生B「相当すごい人じゃないと釣り合わないよね……」
*ルミナが教壇の資料を片付けながら、ふっと小さく息を吐いた。左手の指輪を親指でくるりと回す。その仕草に、ほんの少しだけ寂しさが混じっていた。*
ルミナ「……お兄ちゃん、最近忙しいのかな。」
*独り言だった。誰にも聞こえないほど小さな声。しかし、すぐ隣にいた彼にはしっかり聞こえていた。*
シロウ「隙ありッッッ!!!」
*彼は隠匿神を解除し、背後からルミナに抱きついた。変声魔法で声を低く太く変えている。片手をルミナの頭に置いて振り向かせない。*
ルミナ「っ!?」
*ルミナの体が一瞬で強張った。反射的に神聖魔法の光が手に灯る。戦闘態勢だ。*
ルミナ「誰ですか?3秒以内に離れなければ消し炭にします。」
*声が氷点下まで下がっていた。シロウ以外に向ける、あの冷たい口調だ。*
シロウ「お姉さん、俺と茶でもどうですか。」
*わざと軽薄な口調で囁いた。変声魔法のおかげで全く別人の声になっている。*
ルミナ「……1。」
*神聖魔法の光が強くなる。*
ルミナ「……2。」
*講義室の空気が震えた。教壇の資料がびりびりと揺れる。廊下にいた学生たちが異変を感じて足を止めた。*
シロウ「いやいや怖い怖い。本気で殺す気か。」
*彼は変声魔法を解いた。いつもの声に戻る。*
ルミナ「……え?」
*手の光が消えた。ルミナの体から力が抜ける。しかし頭を押さえられて振り向けない。*
ルミナ「……お兄ちゃん?」
シロウ「正解。」
*頭から手を離した。ルミナがくるりと振り返る。銀髪が弧を描いた。金色の目がシロウを捉えた瞬間、その表情が崩れた。*
ルミナ「お兄ちゃんっ!」
*ルミナが教壇の上で彼の胸に飛び込んだ。両腕がぎゅっと首に回される。さっきまで男子学生を氷点下の声で追い返していた女とは思えない甘え方だった。*
ルミナ「もう……! 本気で消し炭にするところだったんだからっ!」
シロウ「悪い悪い。つい。」
ルミナ「ついって……! 心臓止まるかと思った……」
*彼女は顔を彼の胸に押し付けたまま離れない。背中に回した腕に力がこもっている。*
ルミナ「……今日はどうしたの? 連絡もなしに。」
シロウ「リンドブルムの王様に用があってな。ついでにお前とステラの顔見に来た。」
ルミナ「ついで……」
*声のトーンが下がった。まずい。*
シロウ「嘘。メインだ。メインで来た。」
ルミナ「……本当?」
シロウ「本当本当。」
*ルミナがようやく顔を上げた。少しだけ頬が赤い。しかしすぐに周囲を確認し、慌てて彼から離れた。*
ルミナ「っ……こ、ここ講義室だよ。まだ学生が……」
シロウ「で、返答は?」
*ルミナが小首を傾げた。*
ルミナ「……返答?」
シロウ「お茶しない?」
*一瞬の沈黙。ルミナの顔が真っ赤に染まった。さっき男子学生を氷点下の声で追い返したばかりの台詞を、今度は夫から言われている。*
ルミナ「……っ! ずるい! 聞いてたの!?」
シロウ「最初から。あのガキのナンパもバッチリ見てた。」
ルミナ「隠匿神で……もう、最低……!」
*ルミナが彼の胸を軽く叩いた。しかし口元は隠しきれないほど緩んでいる。*
ルミナ「……お兄ちゃんの意地悪。」
シロウ「で? 返事は?」
ルミナ「……聞くまでもないでしょ。」
*ルミナが教壇の資料をさっさと片付け始めた。その手つきが明らかにいつもより早い。*
ルミナ「……少し待って。着替えてくる。」
シロウ「今のままでいいだろ。」
ルミナ「ダメ。デートなんだから。」
*彼女はそう言い切って、資料を抱えて教員室へ小走りに消えていった。振り返り際、銀髪が揺れてその奥の耳まで赤いのが見えた。*
*取り残された彼は講義室の教壇に腰掛けて待った。廊下を通りかかった学生たちが、ちらちらとこちらを見ている。*
女子学生A「ねぇ……ルミナ先生、今すっごい笑顔で教員室に走っていったんだけど……」
女子学生B「あの人でしょ、教壇にいる人。旦那さんじゃない?」
女子学生A「うわ、お似合い……」
*5分後、ルミナが戻ってきた。白いワンピースに薄手のカーディガン。髪を少しだけ整え直している。左手の薬指の指輪が、窓の光を受けて輝いていた。*
ルミナ「……お待たせ。」
シロウ「早いな。」
ルミナ「お兄ちゃんを待たせたくないから。」
*そう言って、彼の隣に立った。自然と手が伸びてきて、彼の左手に指を絡めた。*
ルミナ「……どこ行く?」
シロウ「お前に任せる。この街はお前の方が詳しいだろ。」
ルミナ「じゃあ、最近できた茶房。運河沿いの。」
シロウ「さっきのガキが言ってたとこじゃないだろうな。」
ルミナ「……違うよ。もっと良いところ知ってるの。」
*ルミナが少しだけ得意げに笑った。繋いだ手にきゅっと力がこもる。*
ルミナ「……ねぇ、お兄ちゃん。」
シロウ「ん?」
ルミナ「さっきの独り言も、聞いてた?」
シロウ「どれ?」
ルミナ「……お兄ちゃん最近忙しいのかなって……言ったの。」
シロウ「ああ。聞こえてた。」
*ルミナが繋いだ手をぎゅっと握り締めた。俯いて、銀髪が頬を隠す。*
ルミナ「……寂しかった。少しだけ。」
*彼は異空間収納から扇子を取り出し、ぱっと広げた。二人の顔を隠すように扇子を翳し、その影の中でルミナの唇にそっと口づけた。*
ルミナ「んっ……」
*ルミナの手が彼の服の裾をきゅっと掴んだ。数秒の口づけ。扇子の向こう側では、廊下を行き交う学生たちが何も気づかずに通り過ぎていく。*
シロウ「俺の愛しの天使。」
*唇が離れた。ルミナの顔が耳の先まで真っ赤に染まっていた。金色の目が潤んで、彼を見上げている。*
ルミナ「……こんなところで……馬鹿。」
*口ではそう言いながら、繋いだ手は離さない。むしろ指を深く絡めてきた。*
ルミナ「扇子なんて持ってたの。」
シロウ「こういう時のために。」
ルミナ「こういう時って何。計画犯じゃない。」
*怒ったふりをしながら、口元が完全にだらしなく緩んでいる。隠しきれていない。*
ルミナ「……もう。ずるいんだから、お兄ちゃんは。」
*ルミナが彼の腕にぴったりと寄り添った。銀髪が彼の肩にかかる。すれ違う学生たちがちらちらと視線を向けてくるが、ルミナは全く気にしていなかった。*
ルミナ「ねぇ、さっきステラにも会ったの?」
シロウ「ああ。ネメシス預けてきた。」
ルミナ「ネメシス? 猫ちゃん?」
シロウ「まあ……猫って言えば猫だな。」
ルミナ「? よく分からないけど……ステラ、猫好きだから喜んでたでしょ。」
シロウ「顎の下撫でて完全に手懐けてた。」
ルミナ「ふふ、あの子はそういうところ上手いから。」
*二人は大学の正門を抜け、運河沿いの石畳の道を歩いていた。午後の日差しが水面にきらきらと反射している。街路樹の木漏れ日がルミナの銀髪に斑模様を落としていた。*
ルミナ「こっち。」
*ルミナが彼の手を引いた。運河に面した小さな茶房。蔦が壁を覆い、テラス席が水辺にせり出している。落ち着いた雰囲気だった。*
ルミナ「ここ、先月見つけたの。一人で来てたんだけど……お兄ちゃんと来たかったなって、ずっと思ってた。」
*テラス席に並んで座った。ルミナの手が、テーブルの下で彼の手をまた探してきた。指が触れると、安心したように握り締める。*
ルミナ「……今日はいつまでいられるの?」
シロウ「夜、ステラと食事して、その後は一緒にいるよ。明日の朝帰る予定。」
*ルミナの指がぴくりと動いた。繋いだ手の力が一瞬強くなる。*
ルミナ「……朝まで?」
シロウ「ああ。」
*ルミナの唇が小さく弧を描いた。テーブルの下で彼の手を両手で包み込むように握った。*
ルミナ「……嬉しい。」
*店員が注文を取りに来た。ルミナがハーブティーを二つ頼んだ。運河を渡る風がテラス席を抜けていく。銀髪がふわりと揺れた。*
ルミナ「そういえば、ルクスね。最近『ねーね』の次に『にゃー』って覚えちゃったの。」
シロウ「にゃー?」
ルミナ「シルフィが猫の真似して遊んでたら、ルクスが真似し始めて。それからずっと『にゃーにゃー』って。レイラが『妾の息子を猫にするな』って怒ってた。」
シロウ「……あいつらしいな。」
ルミナ「でもね、レイラが怒った顔見てルクスが『ママ、にゃー!』って笑うの。それでレイラも怒れなくなっちゃって。」
*ルミナがくすくすと笑った。ハーブティーが運ばれてきて、彼女はカップを両手で包んだ。湯気が立ち上る。*
ルミナ「休みの日に帰るとね、ルクスが玄関まで這ってくるの。『ママ、ママ』って。あの子、私の足にしがみついて離れないんだよ。」
シロウ「懐いてるな。」
ルミナ「当たり前でしょ。私の子だもん。」
*少しだけ得意げに胸を張る。それから、ふとカップの水面を見つめた。*
ルミナ「……週3の講義にしてもらって正解だった。ルクスと離れる時間が長いと、こっちが寂しくなっちゃうから。」
シロウ「お前、初めの頃は毎日講義入れてたもんな。」
ルミナ「あの頃はルクスがまだ寝てばかりだったから……。でも今は這い回るし、言葉覚え始めたし。成長を見逃したくないの。」
*ルミナがハーブティーを一口飲んだ。ふぅ、と息を吐いて、彼の肩にそっと頭を預けた。*
ルミナ「ステラもね、休みの日に帰ってくると必ずルクスの面倒見てくれるの。お姉ちゃんぶって絵本読んであげたりして。」
シロウ「あいつも姉か。」
ルミナ「ゼノとセレスも、ルクスのことすごく可愛がってるよ。セレスなんて無口なのに、ルクスの前だと急にお喋りになるの。」
*運河を小舟が通り過ぎた。水面の光がテラスの天井に揺らめく模様を落とす。ルミナが彼の肩に頭を預けたまま、目を細めた。*
ルミナ「……お兄ちゃん。」
シロウ「ん。」
ルミナ「今夜、ステラとの食事の後……ちゃんと私のところに来てね。」
シロウ「当たり前だろ。」
ルミナ「……溜まってるんだから。色々と。」
*最後の一言だけ、声が小さかった。耳が赤い。ハーブティーのカップで口元を隠している。*
シロウ「耳赤いぞ……あ、もしかして!」
*ルミナの肩がびくっと跳ねた。カップを持つ手が僅かに震えている。完全に図星を突かれた顔だ。*
ルミナ「っ……べ、別に何も考えてないし……」
シロウ「俺とステラが食う飯がどんなのか気になるんだろ?」
*ルミナが一瞬きょとんとした。それから、彼の顔をまじまじと見つめた。*
ルミナ「……は?」
シロウ「やっぱりな。ステラと何食べるか心配だったんだろ。安心しろ、ちゃんと栄養バランス考えた店選ぶから。」
*ルミナの表情が目まぐるしく変わった。安堵、困惑、そして「違うそうじゃない」という顔。口がぱくぱくと開閉している。*
ルミナ「……ち、違……そういうことじゃ……」
シロウ「え、違うの? じゃあ何?」
*わざととぼけた。ルミナの耳がさらに赤くなる。カップをテーブルに置いて、両手で自分の頬を押さえた。*
ルミナ「……お兄ちゃんのばか。絶対分かってるでしょ。」
シロウ「さあ? 何のことだか。」
ルミナ「っ……!」
*ルミナがテーブルの下で彼の足を軽く蹴った。しかし力はほとんど入っていない。拗ねた子供のような仕草だった。*
ルミナ「意地悪しないで。分かってて言ってるくせに。」
*彼女は俯いたまま、小さな声で呟いた。*
ルミナ「……だって、前に来た時から2ヶ月も空いたんだよ。休みの日に城に帰っても、お兄ちゃんいつも執務室で忙しそうだし……ルクスと遊んで、レイラと話して、気づいたら帰る時間で……」
*カップの縁を指でなぞりながら、ルミナが唇を尖らせた。*
ルミナ「……二人きりの時間、全然なかったじゃない。」
*運河を渡る風がルミナの銀髪を揺らした。彼女がちらりと彼を見上げる。金色の目が少しだけ潤んでいた。*
ルミナ「だから……今夜は……ちゃんと……」
*そこで言葉が途切れた。ハーブティーのカップを両手で持ち上げ、顔の半分を隠す。しかし耳の赤さは隠しようがない。*
ルミナ「……ご飯の話なんかしてないんだからね。」
シロウ「ステラ、戻ったぞ。」
*彼が大学の中庭に戻ると、ステラがベンチに座って黒猫を膝の上に乗せていた。ネメシスはぐったりと四肢を投げ出し、完全に脱力している。*
ステラ「パパ! おかえりなさい!」
*ステラが笑顔で手を振った。その膝の上で、ネメシスが微かに尻尾を揺らした。生きてはいるらしい。*
ネメシス『……貴様、遅い。』
シロウ『どうした。死にかけみたいな顔して。』
ネメシス『この娘……3時間、一度も手を止めなかった。顎、耳、腹、背、肉球……全身をくまなく……。しかも途中から友人が増えた。6人がかりだぞ。6人がかりで撫で回された。我は……深淵の根源体だぞ……。』
シロウ『お疲れさん。』
ネメシス『労いが軽い。』
*彼はベンチに近づき、ぐったりしたネメシスを持ち上げた。黒猫の体がだらんと垂れ下がる。完全に力が抜けている。*
ステラ「あ、ネメシスちゃん。すごくいい子でしたよ! 全然暴れないし、撫でるとゴロゴロ言うし。友達もみんな可愛いって!」
シロウ「そうか。ありがとな、面倒見てくれて。」
ステラ「ううん! 楽しかった! また預けてくれていいですよ!」
ネメシス『断れ。今すぐ断れ。』
シロウ『おー、そうだな。考えとく。』
ネメシス『貴様……!』
*彼はネメシスを肩に乗せた。黒猫はそのまま肩の上でぐったりと伏せている。もはや抵抗する気力もないらしい。*
シロウ「ステラ、飯行くか。何食いたい?」
ステラ「あ! 行きたいところがあるの! 南通りにできたお店なんだけど、パスタが美味しいって評判で。友達が教えてくれたの。」
シロウ「パスタか。いいな。」
ステラ「えへへ。パパと外食するの久しぶりだから、ちょっとおしゃれしてきたんだよ。」
*彼が改めてステラを見た。いつもの制服ではなく、淡い水色のブラウスに白いスカート。髪も丁寧にブラシを通してある。13歳にしては大人びた服装だが、よく似合っていた。*
シロウ「可愛いじゃないか。」
ステラ「えっ……ほ、本当?」
*ステラの頬がぱっと赤くなった。レイラそっくりの顔立ちが、照れて少しだけ崩れる。*
ステラ「……えへへ。パパにそう言ってもらえると嬉しい。」
*ステラが彼の隣に並んで歩き始めた。身長は彼の肩くらいまで伸びている。3ヶ月前より少し背が高くなった気がした。*
ステラ「ねぇパパ。ママ……ルミナお義母様とデートしてきたんでしょ?」
シロウ「なんで分かった。」
ステラ「だってパパ、ハーブティーの匂いがする。ルミナお義母様、いつもハーブティー飲んでるから。」
シロウ「……鼻いいな、ステラは…」
ステラ「レイラお母様譲りです。」
*ステラがパスタを巻く手を止めた。フォークが皿の上で静止している。*
ステラ「異世界……? 日本……?」
シロウ「ああ。この世界とは全く違う世界だ。魔法も無ければ、モンスターもいない。代わりに機械ってもんが発達してる。」
ステラ「……あ、もしかして。前にみんなで旅行に行ったところ?」
シロウ「そうそう。あれが俺の故郷だ。」
*ステラの目が大きく見開かれた。記憶が繋がったのだろう。家族全員で日本に行った時のことを思い出しているようだった。*
ステラ「あの時の……あの不思議な乗り物とか、光る看板とか……あれが全部パパの故郷の……」
シロウ「そう。あの世界で18歳まで普通の学生やってた。」
*彼はカルボナーラをくるくると巻きながら続けた。*
シロウ「ある日突然こっちの世界に飛ばされて、右も左も分からないところからのスタートだ。言葉も通じない、金も無い、知り合いもゼロ。」
ステラ「……それで、冒険者に?」
シロウ「食っていくにはそれしかなかったからな。最初はスライム倒すのにも必死だったぞ。」
ステラ「パパが? 嘘でしょ。」
シロウ「嘘じゃない。Fランクからのスタートだ。」
*ステラが信じられないという顔をしていた。当然だろう。今のSSランク冒険者にして魔導皇国の魔王が、スライムに苦戦していた時代があったなんて想像もつかないはずだ。*
ステラ「……パパ、すごいね。」
シロウ「何がだ。」
ステラ「だって、何もないところから始めて、国を作って、家族も作って……。私、パパの娘で良かったなって。」
*ステラがシーフードパスタを頬張りながら、少し照れたように笑った。*
ステラ「あのね。歴史の講義で先生に聞かれたら、こう答えていい? 『父は遠い国から来ました。それ以上は家族の秘密です』って。」
シロウ「……いい答えだな。それでいい。」
ステラ「えへへ。」
*ネメシスが彼の膝の上でようやく体を起こした。少しだけ回復したらしい。黒猫の鼻がひくひくと動いている。パスタの匂いに反応しているようだった。*
ネメシス『……腹が減った。』
シロウ『お前猫の体で何食うんだ。』
ネメシス『この体でも食事は可能だ。あの白い麺をよこせ。』
*彼はため息をついて、カルボナーラの麺を少しだけ小皿に取り分けた。テーブルの下でネメシスに差し出す。黒猫が小さな口でちゅるちゅると麺を吸い込んだ。*
ステラ「あ、ネメシスちゃんもお腹空いてたんだ。可愛い。」
ネメシス『可愛いと言うな。』
*しかし尻尾はゆらゆらと揺れていた。*
*彼がカルボナーラの残り3分の1を小皿に移してテーブルの下に差し出した。ネメシスが黒猫の小さな体で皿に顔を突っ込み、夢中で麺を吸い込んでいる。ちゅるちゅると小気味良い音が足元から聞こえてきた。*
ネメシス『……美味い。この白い汁が絡んだ麺、実に美味い。』
シロウ『カルボナーラな。チーズと卵のソースだ。』
ネメシス『もう無いのか。』
シロウ『お前に3分の1もやったんだぞ。十分だろ。』
ネメシス『……足りぬ。』
*皿を舐め回す音がテーブルの下から聞こえた。ステラがくすくすと笑っている。*
ステラ「ネメシスちゃん、よっぽどお腹空いてたんだね。パパ、もう一皿頼んであげたら?」
シロウ「猫にパスタ一皿は多いだろ。」
ステラ「でも足りなさそうだよ?」
*テーブルの下から黒猫の前足がちょいちょいと彼の膝を叩いている。催促だった。深淵の根源体が、パスタのおかわりをねだっている。*
シロウ「……はぁ。すみません、ペペロンチーノ一つ追加で。」
店員「かしこまりました。」
ネメシス『礼を言う。』
シロウ『はいはい。』
*ステラがシーフードパスタを食べながら、ふと何かを思い出したように顔を上げた。*
ステラ「そういえばパパ。さっき異世界から来たって言ってたけど、日本にはこういうパスタあるの?」
シロウ「あるぞ。むしろパスタは向こうの方が種類多いかもな。コンビニでも買える。」
ステラ「こんびに?」
シロウ「いつでも開いてる小さな店だ。飯も飲み物も日用品も何でも売ってる。」
ステラ「へぇー! あ、あの旅行の時に寄ったあれ? 光る箱からジュースが出てきたやつ!」
シロウ「自動販売機な。そうそう、あの近くにあった店。」
ステラ「あの時食べた三角のご飯、美味しかったなぁ。セレスが5個も食べたの覚えてる。」
シロウ「おにぎりか。あいつ無口なくせに食うよな。」
ステラ「ゼノはずっと本屋さんから動かなくて大変だったし。読めないのに絵だけで楽しんでたの。」
*ステラが思い出し笑いをしていた。家族旅行の記憶が楽しかったのだろう。*
*ペペロンチーノが運ばれてきた。彼がさりげなくテーブルの下に降ろすと、黒猫が再び皿に顔を突っ込んだ。にんにくの香りに尻尾がぴんと立つ。*
ネメシス『辛い。だが美味い。』
ステラ「ねぇパパ。」
シロウ「ん?」
ステラ「また家族みんなで日本に行きたいな。今度はルクスも一緒に。」
*ステラがフォークでパスタをくるくると巻きながら、少しはにかんだ。*
ステラ「ルクスにも、あの三角のご飯食べさせてあげたい。」
シロウ「……そうだな。ルクスがもう少し大きくなったら、また行くか。」
ステラ「約束だよ?」
シロウ「ああ、約束だ。」
シロウ「もし行くならコンビニじゃなくて三ツ星の方がいいだろうな…。」
*ステラがきょとんとした顔をした。*
ステラ「コンビニはダメなの?」
シロウ「ダメって訳じゃないが……あれは病気の素だからな。癌になる人が3人に1人ってのは化学薬品や石油製品が原因だからな……。」
ステラ「がん……? せきゆ……?」
シロウ「あの世界特有の病気だ。体の中に悪い塊ができて、最悪死ぬ。で、あの世界の食い物には目に見えない毒みたいなもんが大量に入ってる。長持ちさせたり、見た目を良くしたりするために。」
*ステラがフォークを止めて、真剣な顔で聞いていた。*
ステラ「……あの三角のご飯にも?」
シロウ「あれはまだマシな方だが、弁当とかパンとかは結構やばい。向こうの人間はそれを毎日食ってる。知ってる人間は1割もいないだろうな。」
ステラ「なんで知らないの? 教えてあげればいいのに。」
シロウ「教えても信じない。それを売って儲けてる奴らが『安全です』って言い続けるからな。金の方が命より大事って世界だ。」
*ステラが少し悲しそうな顔をした。*
ステラ「……パパの故郷って、魔法は無いけど便利で、でもちょっと怖いところなんだね。」
シロウ「まあ、そうだな。便利と引き換えに色々なもん失ってる。こっちの世界の方がよっぽど飯は安全だ。」
ステラ「じゃあ、次行く時は三ツ星ってところに行くの?」
シロウ「ああ。ちゃんとした食材を使ってる店に連れてく。ルーナも向こうの世界のことは詳しいから、店選びは任せられる。」
ステラ「ルーナお姉ちゃんも日本のこと知ってるの?」
シロウ「……まあ、色々あってな。」
*前世が日本人だとは流石に説明が面倒だった。ステラは首を傾げたが、それ以上は追求しなかった。*
*テーブルの下で、ネメシスがペペロンチーノを完食していた。皿がぴかぴかに舐め上げられている。黒猫が満足げに前足で口元を拭った。*
ネメシス『……あの辛い麺、もう一皿。』
シロウ『食いすぎだ。猫の体で2皿も食ったら腹壊すぞ。』
ネメシス『我の体は深淵で構成されている。腹を壊すという概念が無い。』
シロウ『……じゃあ後で宿でやる。店で猫が3皿目食ってたら流石に怪しまれる。』
ネメシス『約束だぞ。』
*デザートが運ばれてきた。ステラがベリーのタルトを頬張り、幸せそうに目を細めている。*
ステラ「んー! 美味しい! パパも一口食べる?」
シロウ「いや、いい。お前が全部食え。」
ステラ「えー、遠慮しないで。はい、あーん。」
*ステラがフォークを差し出してきた。13歳の娘に「あーん」をされている46歳の魔王。周囲の客が微笑ましそうにこちらを見ていた。*
シロウ「……。」
ステラ「あーん!」
シロウ「……あーん。」
*甘酸っぱいベリーの味が口に広がった。美味い。ステラが満足げに笑った。*
シロウ「ふふ……」
*彼は頬杖をついて、デザートを頬張る娘の姿を眺めた。レイラ譲りの端正な顔立ちに、無邪気な笑顔。可愛くて仕方がない。*
シロウ「変な男に絡まれたらパパに言うんだぞ?」
*ステラがフォークを咥えたまま、きょとんとした。*
ステラ「変な男?」
シロウ「お前ももう13だからな。そのうちナンパとか告白とかされるぞ。」
ステラ「えー、されないよ。」
シロウ「いや、される。ルミナ見てみろ。さっきも講義室でナンパされてた。お前もルミナお義母様みたいな美人になるんだから、時間の問題だ。」
*ステラの頬がじわりと赤くなった。フォークをテーブルに置いて、両手で頬を押さえる。*
ステラ「パパ、急にそういうこと言わないでよ……」
シロウ「事実だからな。」
ステラ「もう……でも大丈夫だよ。」
シロウ「なんでだ。」
*ステラが少しだけ胸を張った。真っ直ぐに彼を見て、にっこりと笑う。*
ステラ「だって私、パパみたいな人じゃないとダメだもん。そんな人いないから安心して。」
シロウ「……。」
*不意打ちだった。彼は一瞬言葉を失い、それから視線を窓の外に逸らした。運河の水面が夕焼けに染まっている。*
シロウ「……そうか。」
ステラ「あ、パパ照れてる。」
シロウ「照れてない。」
ステラ「照れてるー。耳赤いよ? さっきのルミナお義母様と一緒。」
シロウ「……生意気になったな。」
*ステラがけらけらと笑った。テーブルの下でネメシスが満腹の腹を見せて転がっている。*
ネメシス『……貴様の血族は、揃いも揃って貴様に甘いな。』
シロウ『うるせぇ。』
ネメシス『否定しないのか。』
シロウ『……しない。』
*会計を済ませ、二人は店を出た。リンドブルムの夕暮れが街を橙色に染めている。運河沿いの道を並んで歩く。ステラが彼の腕にぎゅっとしがみついた。*
ステラ「ねぇパパ。次はいつ来てくれる?」
シロウ「そうだな……鉄道の件でまた来るから、その時に。」
ステラ「絶対だよ? 忘れたらお母様に言いつけるから。」
シロウ「それは勘弁してくれ。」
*レイラに言いつけられたら最後だ。あの嫁は容赦がない。ステラはそれを分かっていて言っている。策士だった。*
ステラ「じゃあ忘れないでね。約束。」
*ステラが小指を差し出した。彼は小さく笑って、その小指に自分の小指を絡めた。*
シロウ「約束だ。」
*彼はステラを寮まで送り届けた。「またね、パパ!」と手を振る娘に手を振り返し、夜のリンドブルムの街を歩いた。肩の上でネメシスが満腹の腹を抱えて丸くなっている。*




