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《R-15》異世界転移でスローライフを?  作者: THE・HENJIN・RlDER
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*翌日の昼過ぎ。彼は転移魔法でノルドヘイムに飛び、居酒屋「ひびき」の暖簾をくぐった。*


*店内には既に大将と漁師Aの姿があった。テーブルの上には鰻の捌き方を図解した紙が広げられている。そして、カウンターの奥の席に、見覚えのある大柄な男が座っていた。*


*ノルドヘイム国王、エリク。*


*豪快にうな丼を掻き込んでいた。王の風格など微塵もなく、ただの飯好きのおっさんにしか見えない。護衛の騎士が2人、入り口近くで所在なさげに立っている。*


シロウ「ちーっす。みんな早いねぇ〜」


*エリクが顔を上げた。口元にタレが付いている。*


エリク「おお、シロウ殿! 来たか! 聞いたぞ、昨日うちの兵士にとんでもない物を食わせたらしいな!」


シロウ「もう伝わってんのか。早いな」


エリク「今朝、兵舎で大騒ぎだったわ! 川蛇が絶品の料理になるだと!? 信じられんから自分で確かめに来た! ……結果がこれだ」


*エリクが空になったどんぶりを持ち上げた。米粒一つ残っていない。*


エリク「おかわり!」


大将「あいよ! 国王さん、3杯目ね!」


シロウ「3杯目……」


*漁師Aが彼に気づいて立ち上がった。*


漁師A「旦那! 昨日の話、早速仲間に伝えたら大変な事になってよ。今朝から川に網入れたら、2時間で20匹獲れた。あいつら、今まで誰も獲らなかったから増え放題だったんだ」


大将「20匹か! こりゃ当分困らねぇな。……兄ちゃん、ちょうど良かった。暖簾分けの件、エリク王にも話してたとこだ」


*エリクが3杯目のうな丼を受け取りながら、真剣な顔で頷いた。タレが口元に付いたまま真剣な顔をされても締まらないが。*


エリク「シロウ殿、この川蛇……鰻と言ったか。これをノルドヘイムの名物にしたい。白焼きだけでも十分だが、街道沿いに鰻の茶屋を出せば、旅人や商人が立ち寄る。鉄道が通れば更に客が増える」


漁師A「それだけじゃねぇ。干物にすれば保存も効く。遠方にも売れるぞ」


大将「鰻の干物か……。佃煮って手もあるな。甘辛く煮て保存食にする。日本じゃ昔からやってた方法だ」


*大将が彼に目配せした。佃煮の製法まで出すかどうか、判断を委ねている。*


エリク「シロウ殿。正直に言う。この鰻だけで、ノルドヘイムの経済が一段上がる可能性がある。お前には感謝してもしきれん」


*エリクが箸を置き、真っ直ぐ彼を見た。今度は国王の顔だった。タレは相変わらず付いていたが。*


*エリクが上機嫌で店を出ていった。口の周りにタレを付けたまま、護衛の騎士が慌ててハンカチを差し出しているのが暖簾越しに見えた。国王の威厳は完全に消え去っていた。*


シロウ「順調そうで良かったよ」


*漁師Aが大将と話していた図面から顔を上げ、彼をまじまじと見た。*


漁師A「……あんた、さっき国王と随分親しそうに話してたな。貴族か?」


シロウ「いや、貴族じゃないな」


漁師A「貴族じゃない……? エリク王があんたに敬語使ってたぞ。『シロウ殿』って。国王が敬語使う相手なんて、そうそういねぇ」


漁師B「しかも転移魔法を使ってたよな、昨日。あれって宮廷魔導士でも使えねぇ超高等魔法だろ」


*2人の視線が鋭くなった。漁師は海と川で生きる人間だ。観察眼は鋭い。*


シロウ「ただの冒険者だよ。エリク王とは仕事上の付き合いでな」


漁師A「ただの冒険者が国王と飯食って、鰻の暖簾分けの話を仕切るのか?」


シロウ「まぁ、色々あってな」


*大将がカウンター越しに助け船を出した。*


大将「こいつは昔っからこうだよ。気にしなさんな。見た目はただのおっさんだが、やる事はデカい。俺も20年付き合ってて未だに底が見えねぇ」


漁師A「20年……?」


大将「まぁ、信用できる男だってのは俺が保証するよ。鰻の件も、この男が持ちかけてくれなきゃ始まらなかった話だ」


*漁師Aがしばらく彼の顔を見つめ、やがて大きく頷いた。*


漁師A「……まぁいい。貴族だろうが冒険者だろうが、あんたのおかげで俺たちの生活が変わるのは間違いねぇ。細かい事は聞かねぇよ」


漁師B「それよりよ、旦那。なまずも料理法があるって昨日言ってたよな? あれも教えてくれねぇか? なまずなんて鰻以上に獲れるぞ」


*大将が目を輝かせた。*


大将「なまずか! 天ぷらにしたら美味いぞ。蒲焼きにもできる。白身で淡白だからな、揚げ物との相性が抜群だ」


漁師A「てんぷら?」


大将「油で揚げる料理だ。衣をつけてな。サクサクになる」


漁師B「鰻の次はなまずか……。今まで捨ててた魚が全部金に変わるのか。信じられねぇ」


*彼はカウンターに座り、大将が淹れてくれた麦茶を飲んだ。昼だから酒は控えた。*


シロウ「大将、暖簾分けの件だけど、もう少し詰めようか。弟子の受け入れ人数と期間、あと教える範囲。白焼きと基本の捌き方だけか、それとも天ぷらまで含めるか」


大将「そうだな……。まず2人、受け入れよう。期間は3ヶ月。白焼きと捌き方を叩き込む。天ぷらは別料金だ」


*大将がニヤリと笑った。商売人の顔だった。*


*暖簾をくぐって、黒髪の青年がずかずかと入ってきた。20代前半くらいだろうか。後ろには金髪の青年がついてきている。2人とも冒険者風の装備だった。*


*黒髪の青年が鼻をひくつかせた。そして、目を見開いた。*


黒髪の青年「鰻か!?」


*彼はカウンターで麦茶を啜りながら、横目でその青年を観察した。*


*「鰻」。この世界では「川蛇」としか呼ばれていない。昨日の兵士も漁師も、大将が教えるまで「鰻」という言葉を知らなかった。にも関わらず、この青年は暖簾をくぐった瞬間に「鰻」と言った。*


*転生者か、転移者か、召喚者。いずれにせよ、日本を知っている人間だ。*


金髪の青年「おい、タクヤ。鰻って何だ? 川蛇の事か?」


タクヤ「違う違う! いや、同じなんだけど……。この匂い、蒲焼きだろ!? 間違いねぇ! 醤油とみりんの匂いだ!」


*タクヤと呼ばれた青年がカウンターに駆け寄り、大将の前に座った。目が血走っている。*


タクヤ「おっちゃん! 鰻あるのか!? 蒲焼き!? マジで!?」


大将「おう、あるよ。うな丼でいいかい?」


タクヤ「ある……蒲焼きがある……。この世界に来て3年……ずっと食いたかった……」


*タクヤが両手で顔を覆った。声が震えている。金髪の青年が困惑した顔で隣に座った。*


金髪の青年「お前、大丈夫か? 川蛇ごときで泣くなよ」


タクヤ「お前にはわかんねぇんだよ、リュカ! これがどれだけ尊いか!」


*彼は麦茶を置き、タクヤの方を向いた。*


*タクヤの目が彼の顔を凝視した。黒髪、黒目。そして「鰻」という単語に一切動じなかったこの男。*


*リュカが首を傾げた。聞いた事のない言語だったのだろう。*


シロウ「話はまとまったし、俺は帰るよ大将」


大将「おう、またいつでも来いよ兄ちゃん。鰻の仕入れは任せとけ」


*彼は軽く手を上げて暖簾をくぐった。背後で大将がタクヤに話しかける声が聞こえた。*


大将「あの鰻はな、さっき出てった兄ちゃんが持ってきてくれたんだよ。」


タクヤ「えっ……あの人が!? ちょっと待って!」


*椅子を蹴倒す音がして、タクヤが慌てて暖簾を押しのけて外に飛び出してきた。*


タクヤ「すみません! ちょっと話を……!」


*彼は既に転移魔法の詠唱を終えていた。タクヤの目の前で、光が彼の体を包み込む。*


タクヤ「あっ……! 転移魔法!? 嘘だろ!?」


*光が弾け、彼の姿が消えた。タクヤは伸ばしかけた手を宙に残したまま、呆然と立ち尽くしていた。*


タクヤ「……消えた」


*リュカが暖簾から顔を出した。*


リュカ「おい、どうした? あの人は?」


タクヤ「消えた……転移魔法で……。あの人、絶対同じだ。日本人だ。鰻を知ってて転移魔法を使える……何者だよ……」


リュカ「追えるのか?」


タクヤ「無理だ。転移魔法の行き先なんて追跡できねぇよ……くそ」


*タクヤが頭を掻きむしりながら店に戻っていった。*


ーーー


*アストライア城、執務室。*


*彼は転移した瞬間、椅子に座っていたオルクスと目が合った。*


オルクス「お帰りなさいませ、陛下。ノルドヘイムの件はいかがでしたか」


シロウ「順調だよ。暖簾分けの話もまとまった。エリク王も乗り気だ」


オルクス「それは重畳。……しかし陛下、お言葉ですが、鰻の流通が本格化した場合、関税と通商条約の見直しが必要になります。こちらの書類に目を通していただけますか」


*オルクスが分厚い書類の束をデスクに置いた。財務担当の容赦ない仕事ぶりだった。*


シロウ「……帰ってきた瞬間にこれかよ」


オルクス「鉄道の敷設費用の中間報告もございます。ボルグ親方からレール用鉄鋼の追加発注がありまして」


*彼はため息をつきながら椅子に座った。居酒屋の余韻は一瞬で消え、現実が押し寄せてくる。*


*ふと、さっきのタクヤの顔を思い出した。3年間この世界で生きてきた転移者。鰻の蒲焼きに涙を浮かべていた青年。彼に話しかけたそうにしていた。*


*……まぁ、縁があればまた会うだろう。*


*彼はペンを取り、書類に目を通し始めた。*


ーー


*帝国までの鉄道が完成した日、アストライア駅には大勢の民が集まっていた。ボルグ親方率いるドワーフ工兵団が、最後のレールを打ち込んだ瞬間、歓声が沸き起こった。*


*そこから更に1ヶ月。北方諸国ノルドヘイムまでの延伸工事が始まった。*


*帝国ルートでは3ヶ月かかった工事を、ノルドヘイムルートでは1週間で終わらせた。理由は単純だった。*


*ノルドヘイムのドワーフ鍛冶団が合流し、両国のドワーフが合わせて200人体制でレールを敷いたのだ。しかもボルグが「ノルドヘイムのドワーフに負けるわけにはいかん」と対抗意識を燃やし、双方が競争するように作業を進めた結果、予定の4分の1の期間で完成してしまった。*


*勿論、燃料は酒だ。毎晩宴会が開かれ、ビール樽が100本以上空いた。経費として計上された酒代を見たオルクスが、無言で書類を机に叩きつけたのは別の話である。*


ーーー


*完成の翌日。アストライア城、執務室。*


*オルクスが地図を広げ、彼の前に立っていた。*


オルクス「陛下、ご報告申し上げます。現時点で、アストライアを起点に帝国経由、ノルドヘイム経由の2路線が開通しております。帝国からは小麦、野菜、鉱石が。ノルドヘイムからは鰻の干物、毛皮、木材が初便で届いております」


*オルクスが帳簿を開いた。*


オルクス「初便の積荷だけで、金貨350枚相当の物資が流入しました。関税収入は金貨35枚。月間で試算すると、鉄道関税だけで白金貨14枚から15枚の歳入増が見込めます」


シロウ「おお……」


オルクス「更に、駅周辺の商業地区に出店申請が殺到しております。帝国側の駅には12件、ノルドヘイム側には8件。宿屋、飯屋、鍛冶屋、雑貨屋……。駅が街を生み出しつつあります」


*オルクスが珍しく、僅かに口角を上げた。*


オルクス「正直に申し上げます。鉄道事業は、陛下の判断の中で最も優れた投資の一つです。敷設費用は2年以内に回収できる見込みです」


*彼が書類にペンを走らせていると、ノックの音がした。*


リーシア「失礼いたします、シロウ様。ノルドヘイムの居酒屋『ひびき』の大将から伝書が届いております」


*リーシアが封書を差し出した。開封すると、大将の豪快な筆跡が目に入った。*


『兄ちゃんへ。鰻の白焼き、弟子2人が一人前になった。漁師連中が毎日20匹以上獲ってくる。鉄道の初便に鰻の干物と佃煮を50箱載せた。売れたら追加する。あと、例の黒髪の兄ちゃん(タクヤ)が毎日来る。うな丼中毒だ。助けてくれ。大将より』


*彼は思わず吹き出した。*


*オルクスが地図の南側に指を滑らせた。南大陸――レグナール連邦共和国の領域だ。*


シロウ「オルクス、次は南大陸にも伸ばすぞ」


オルクス「南大陸……。レグナール会談で獲得した鉄鉱山3つですな」


シロウ「あっちには地下行きのエレベーターも作ってある。鉄だけじゃない、アダマンタイトにオリハルコンも出る。南大陸から鉄が来たら更にレールをもう1箇所追加する。そうすれば右回りと左回り、同時に行えるだろ?」


*オルクスが地図の上でペンを走らせた。アストライアを中心に、北のノルドヘイム、東の帝国、そして南のレグナール。3本の路線が放射状に伸びる図が描かれた。*


オルクス「環状運行ですか。北方便と南方便を同時に走らせれば、物流の回転速度が倍になります。しかし陛下、南大陸への敷設は海峡を越える必要があります。橋梁か、あるいは……」


シロウ「島を作ったから問題ない。」


*オルクスがペンを止め、深いため息をついた。もう何度目かわからないため息だった。*


*オルクスが地図上の海峡部分を指でなぞった。アストライアから南へ伸びる海上に、点線で島――いや、岩の道が記されている。戦争時にシロウが創造した、レグナールまで続く巨大な岩盤の道だ。*


オルクス「……あの岩盤ですか。確かに、レイラ様の全力打撃にも耐える強度であれば、機関車の重量と振動は問題ないでしょう。しかし陛下、海上区間は潮風による腐食が懸念されます。レールの素材を通常の鉄鋼ではなく――」


シロウ「ミスリル合金で作る。南大陸の鉱山からアダマンタイトが出るんだ。それを混ぜればいい」


*オルクスが一瞬、目を閉じた。暗算しているのだろう。*


オルクス「……ミスリル合金レール。海上区間だけでも相当な量が必要ですが、南大陸の鉱山が稼働すれば素材は確保できます。問題は初期投資ですが……」


*オルクスがペンで数字を書き出した。*


オルクス「海上区間のミスリル合金レール敷設費用、概算で黒金貨8枚。南大陸内陸部の通常レール敷設費用が黒金貨3枚。鉱山からの輸送路整備に黒金貨2枚。合計、黒金貨13枚」


シロウ「で、複線化すれば右回りと左回りで同時運行できる。帝国、ノルドヘイム、南大陸を環状線で繋ぐ」


*オルクスが地図に線を引いた。アストライアを中心に、北へノルドヘイム、東へ帝国、南へレグナール。そしてそれぞれを繋ぐ環状ルートが浮かび上がる。*


オルクス「環状運行が実現すれば、大陸全土の物流を我が国が掌握することになります。鉄、小麦、鰻、毛皮、木材、鉱石……全てがアストライアを経由する。通過するだけで関税が発生し、駅ごとに商業圏が生まれる」


*オルクスがペンを置き、地図を見つめた。*


オルクス「陛下。これが完成すれば、アストライアは大陸の心臓になります。血液のように物資が循環し、止めれば大陸全土が干上がる。軍事力ではなく、経済で大陸を支配する構図です」


シロウ「大袈裟だな」


オルクス「大袈裟ではありません。事実です」


*オルクスが珍しく、真っ直ぐ彼を見た。*


オルクス「ボルグ親方に連絡を取ります。南大陸ルートの測量を開始させますか?」


*ノックの音がした。リーシアが扉を開けた。*


リーシア「シロウ様、ボルグ親方がお見えです。『次はどこだ』と仰っておりますが」


*彼とオルクスが顔を見合わせた。ドワーフの嗅覚は恐ろしい。まだ何も伝えていないのに、既に嗅ぎつけてきた。*


オルクス「……通して下さい」


*廊下から、ドワーフの太い足音と、酒の匂いが近づいてきた。*


*ボルグが執務室に入ってきた。いつもの革エプロン姿で、手にはビールジョッキを持っている。朝から飲んでいたらしい。*


ボルグ「よう、陛下! ドワーフの勘ってのは当たるもんだ。新しい仕事が来る匂いがしたんでな!」


シロウ「丁度良かった、次の方針が決まったところだ。オルクス、説明してやってくれ」


*オルクスが地図を広げ、南大陸への路線図をボルグの前に示した。*


オルクス「ボルグ親方。次の敷設先は南大陸、レグナール連邦共和国です。海上区間があります。陛下が戦時に造成した岩盤の上にレールを敷く形になります」


ボルグ「海の上だと? 面白ぇじゃねぇか」


オルクス「ただし、海上区間は潮風による腐食が避けられません。そこで、レール素材をミスリル合金とします。南大陸の鉱山からアダマンタイトが産出されますので、それを配合します」


*ボルグがジョッキを置いた。目が据わった。職人の目だ。*


ボルグ「ミスリル合金のレールだと……? そんなもん、世界中探しても誰も打ったことがねぇぞ」


オルクス「ええ。前例はありません」


ボルグ「……」


*沈黙が数秒。そしてボルグの口角が、ゆっくりと持ち上がった。歯を剥き出しにした、獰猛な笑みだった。*


ボルグ「最高じゃねぇか。誰もやったことがねぇ仕事ほど燃えるもんはねぇ! ミスリルとアダマンタイトの配合比率は俺に任せろ。強度と柔軟性を両立させてやる」


オルクス「更に、南大陸ルートの完成後、全路線を複線化します。右回りと左回りの環状運行を実現する計画です」


ボルグ「複線……。つまりレールの必要量が倍になるってことだな?」


オルクス「はい。概算で、海上区間のミスリル合金レールだけで黒金貨8枚相当です」


ボルグ「ハッ! 金の話は俺にするな。陛下、報酬の話をしようじゃねぇか」


*ボルグがシロウの方を向いた。ジョッキを持ち上げ、中身が空であることを示す。*


ボルグ「前回はウイスキーだったな。今回は何を出してくれる? 海の上にレールを引くんだ。相応のもんを期待するぜ」


*オルクスが無言でこめかみを押さえた。また酒代が経費に計上されるのが目に見えていた。*


*彼は神眼を発動し、異空間収納の中に眠る酒の情報を引き出した。*


シロウ「んー……日本の酒、アメリカの酒、ときたら……中国の酒か? 俺は飲んだことないが、匂いが結構独特でな。多分度数はキツイ」


*神眼が情報を表示した。*


シロウ「白酒(バイジュウ)。度数は……52度だな。茅台酒(マオタイシュウ)ってやつだ。中国の国賓級の宴会で出される最高級品らしい」


ボルグ「52度だと……? ウイスキーより上か!」


シロウ「匂いがかなり独特だぞ。好き嫌い分かれるタイプだ。穀物を発酵させて作るんだが、日本の酒ともアメリカの酒とも全く違う系統でな」


*彼が異空間収納から茅台酒の瓶を取り出した。白い陶器のような瓶で、赤いリボンが巻かれている。*


*蓋を開けた瞬間、独特の芳香が執務室に広がった。甘いような、焦げたような、穀物が深く醸された複雑な香り。*


ボルグ「なんだこの匂いは……! 嗅いだことがねぇ。鼻の奥がツンとくるが、奥に甘さがある」


オルクス「……陛下、執務室で開けないでいただけますか。書類に匂いが移ります」


*オルクスが帳簿を守るように胸に抱えた。*


ボルグ「いいからちょっと寄越せ!」


*ボルグがジョッキを差し出した。彼が少量注いでやると、ボルグが一口含んだ。*


*数秒の沈黙。*


*ボルグの顔が真っ赤になった。*


ボルグ「ッ……!! 喉が……焼けるッ……! だが……なんだこれは……! 飲み込んだ後に甘みが広がりやがる……! ウイスキーとは全く違う! 荒々しいのに、どこか品がある!」


シロウ「気に入ったか?」


ボルグ「気に入ったなんてもんじゃねぇ! これを飲みながらレールを打つ……想像しただけで腕が唸るぜ! 陛下、南大陸ルート、2週間で仕上げてやる!」


オルクス「酒代の経費申請はもう受け付けませんからね」


ボルグ「ケチくせぇ事言うな! これは必要経費だ! ドワーフの燃料だ!」


*オルクスとボルグが睨み合う。いつもの光景だった。*


*彼は茅台酒の瓶を眺めながら、ふと思った。日本の酒、アメリカの酒、中国の酒。次にボルグが何を要求してくるか、今から頭が痛い。*


*だが、ドワーフが本気を出した時の仕事は世界一だ。酒の一本や二本で大陸規模の鉄道網が手に入るなら、安い投資だろう。*


*オルクスには申し訳ないが。*


シロウ「オルクス、俺ちょっと金策してくるよ……」


オルクス「金策……ですか?」


シロウ「冒険者を少しな。この辺だと目立つし、東の方に行く予定だ」


*オルクスが地図に視線を落とした。東方面――帝国を越えた先には、まだアストライアの影響力が及んでいない地域が広がっている。*


オルクス「東ですか。帝国の更に東となると……いくつかの小国が点在する地域ですな。迷宮もいくつか確認されていますが、情報が乏しい。メッセニア王国は東南ですが、真東はまだ我が国の諜報も及んでおりません」


シロウ「だからこそ行く価値がある。顔が割れてない場所で稼ぐには丁度いい」


オルクス「……陛下が一国の主であることをお忘れではありませんか」


シロウ「忘れてないさ。だからギメイで行く」


*オルクスが深い、実に深いため息をついた。何度目かわからない、本日3度目の大きなため息だった。*


オルクス「……せめて護衛を」


シロウ「いらん。目立つ」


オルクス「では、せめてリーシアに行き先だけでもお伝え下さい。前回の無断外出で、リーシアが城内の柱を3本へし折っております」


*彼は思わず背筋が凍った。リーシアの狂気的な忠誠心は、時として物理的破壊を伴う。*


シロウ「……わかった、リーシアには言っておく」


*オルクスが帳簿を閉じ、真剣な表情で彼を見た。*


オルクス「陛下。南大陸ルートの敷設費用、黒金貨13枚。加えて複線化の費用を含めると黒金貨20枚近くになります。現在の国庫で賄えない額ではありませんが、余裕があるとは言えません。金策の成果、期待しております」


シロウ「おう、任せとけ」


*彼は執務室を出て、自室へ向かった。装備を冒険者仕様に切り替え、黒髪を後ろで束ねる。見た目はただの中年冒険者――ギメイの出番だ。*


*廊下でリーシアとすれ違った。*


リーシア「シロウ様、お出かけですか?」


シロウ「ああ、東の方にちょっと冒険者稼業をしに行く。2、3日で戻る」


リーシア「東……。ご無事のお帰りをお待ちしております」


*リーシアは微笑んでいた。だが、その目の奥が笑っていない事を彼は見逃さなかった。*


リーシア「くれぐれも、ご連絡はお忘れなく。前回のように音信不通になられますと、私……少し、取り乱してしまいますので」


シロウ「了解了解、念話で連絡するから安心してくれ」


*彼は足早にその場を離れ、城の中庭で転移魔法を発動した。*


*顔が割れていない場所。久々の冒険だ。*


*――少しだけ、心が躍った。*


ーー


*中央大陸、王都リンドブルムの東門付近に転移した。雑踏の中に紛れ込む黒髪の中年冒険者――ギメイ。誰も彼の正体に気づく者はいない。*


ギメイ(シロウ)「久しぶりの一人旅……この歳になってもワクワクは止まらないものだな……」


*彼は一歩踏み出し――すぐに立ち止まった。*


ギメイ(シロウ)「歩くのはもう疲れるんだよな……どっこいせ」


*異空間収納から空飛ぶ絨毯を取り出した。地面に広げ、よっこらしょと腰を下ろす。46歳の膝には優しくない旅路だ。文明の利器は使えるだけ使う。*


*絨毯がふわりと浮き上がり、地上10メートルほどの高さで安定した。風が心地よい。彼は胡座をかき、東の空を眺めた。*


*東端から約100キロ先に、中規模の町が一つ。名前は――*


ギメイ(シロウ)「エルドラン……聞いたことねぇな。人口は……3000人くらいか。冒険者ギルドもあるな」


*更にその先、200キロほど東に巨大な魔力反応が検知された。山脈の中腹、地下深くに何かがある。*


ギメイ(シロウ)「ん? これは……迷宮か? いや、迷宮にしちゃ魔力が歪だな…」


*彼は顎を撫でた。とりあえずエルドランで情報を集めるのが先だろう。*


*空飛ぶ絨毯が風を切り、東へと飛んでいく。眼下には、誰も手をつけていない大草原が広がっていた。所々にモンスターの群れが見える。Aランク級の大型獣が悠々と歩いている。人の手が入っていない証拠だ。*


*30分ほどで、エルドランの街並みが見えてきた。石壁に囲まれた、こじんまりとした街だ。辺境の匂いが色濃い。壁の外には冒険者らしき集団がモンスターの死骸を運んでいた。*


ギメイ(シロウ)「ま、まずは冒険者ギルドだな。この辺の迷宮情報と依頼を確認するか」


*彼は街の外れに絨毯を着地させ、収納に仕舞い込んだ。ここからは徒歩だ。東門の衛兵に冒険者証を見せ、入街した。*


*衛兵が冒険者証を二度見した。SSランクの表記に目を剥いていたが、彼は気づかないふりをしてそのまま通り過ぎた。*


*エルドランの冒険者ギルドは、アストライアと比べると随分と小さかった。木造の建物に、受付カウンターが2つ。壁一面に依頼書が貼り出されている。*


*昼時だからか、ギルド内には冒険者が10人ほどいた。酒を飲んでいる者、武器の手入れをしている者、依頼書を物色している者。辺境らしい、荒っぽい空気が漂っている。*


*彼はクエスト一覧の前に立ち、上から順に目を通した。*


ギメイ(シロウ)「高額報酬……高額報酬……」


*依頼書が所狭しと並んでいる。*


────────────────

【Fランク】薬草採取 ── 銅貨5枚

【Eランク】ゴブリン討伐10体 ── 銀貨2枚

【Dランク】オーク群れ駆除 ── 銀貨8枚

【Cランク】盗賊団壊滅 ── 金貨3枚

【Bランク】ワイバーン討伐 ── 金貨15枚

【Aランク】東部山脈の古代遺跡調査 ── 金貨50枚

【Sランク】『深淵の迷宮』探索 ── 白金貨10枚(詳細はカウンターにて)

────────────────


ギメイ(シロウ)「Sランク依頼があるな……『深淵の迷宮』。白金貨10枚か」


*金策としてはまだ足りない。だが、迷宮の中身次第ではもっと稼げる可能性がある。さっき神眼で感知した歪な魔力反応と関係があるかもしれない。*


*彼が依頼書を眺めていると、後ろから声がかかった。*


冒険者A「おい、じいさん。Sランクの依頼を見てんのか? やめとけやめとけ」


*振り返ると、革鎧を着た若い剣士が椅子に座ったまま、こちらを見ていた。仲間らしき3人も同じテーブルにいる。Bランクのパーティだろう。*


冒険者A「あの迷宮はヤバい。先月Aランクの『赤鉄の牙』ってパーティが入って、5人中3人死んだ。10階層で全滅しかけたらしい」


冒険者B「モンスターの質が異常なんだよ。10階層でSランク級の魔獣が出るって話だ。普通の迷宮じゃありえねぇ」


ギメイ(シロウ)「ほう……10階層でSランク級か。何階層まであるか分かってるのか?」


冒険者A「わかんねぇ。誰も20階層より先に行けてない。つーか、あんた見ない顔だな。旅の冒険者か?」


ギメイ(シロウ)「ああ、ちょっと東の方を回ってる。金策でな」


冒険者A「金策であの迷宮に入るのはやめとけって。命あっての物種だぜ、おっさん」


*彼は軽く手を上げて礼を言い、受付カウンターに向かった。受付嬢が顔を上げた。20代半ばくらいの、眼鏡をかけた女性だ。*


受付嬢「いらっしゃいませ。ご依頼の受注ですか?」


ギメイ(シロウ)「ああ。Sランクの『深淵の迷宮』探索、詳細を聞きたい」


*受付嬢の表情が僅かに曇った。*


受付嬢「……Sランク依頼ですね。冒険者証の確認をよろしいですか?」


*彼がそっと冒険者証を差し出した。カウンターの下で、受付嬢にだけ見えるように。*


ギメイ(シロウ)「叫ぶなよ?」


*受付嬢の目がカードに落ちた瞬間、肩がビクッと跳ねた。SSランク――大陸でも片手で数えるほどしか存在しない最高位。彼女の喉が小さく鳴った。*


*だが、次の瞬間には完璧な営業スマイルに戻っていた。*


受付嬢「……確認いたしました。ギメイ様ですね。Sランク依頼の受注資格は十分でございます」


ギメイ(シロウ)「んで、説明してもらっても?」


*受付嬢がカウンターの下から分厚いファイルを取り出し、静かに開いた。声のトーンを落として説明を始める。プロだ。周囲の冒険者に聞こえないよう配慮している。*


受付嬢「『深淵の迷宮』。エルドランから東へ約60キロ、ガルド山脈の中腹に位置する迷宮です。発見されたのは約2年前。突如として山肌に入口が出現しました」


ギメイ(シロウ)「突如、ね」


受付嬢「はい。現在確認されている階層は30階層まで。ただし、最高到達は20階層です。それ以降は生還者がおりません」


*受付嬢がファイルのページをめくった。モンスターの記録が並んでいる。*


受付嬢「特異な点がいくつかあります。まず、階層ごとのモンスターの強さの上昇率が異常です。1階層はCランク相当ですが、10階層でSランク級。通常の迷宮では考えられない上昇カーブです」


ギメイ(シロウ)「アストライアの大迷宮に似てるな……」


受付嬢「……え?」


ギメイ(シロウ)「いや、何でもない。続けて」


受付嬢「は、はい。2つ目に、迷宮内で回収されたドロップアイテムの質が極めて高いです。10階層のボスからはミスリル鉱石が、15階層ではオリハルコンの欠片が確認されています。20階層のボスを討伐できれば、それ以上のものが出る可能性があります」


*彼の目が光った。ミスリルにオリハルコン。南大陸の鉱山を待たずとも、ここで素材が手に入るかもしれない。*


受付嬢「3つ目……これが最も厄介なのですが」


*受付嬢が声を更に落とした。*


受付嬢「15階層以降、迷宮の構造が変動します。壁が動き、通路が消え、階段の位置が変わる。マッピングが不可能なのです。先月入った『赤鉄の牙』が壊滅したのも、帰路を見失ったのが原因です」


ギメイ(シロウ)「なるほどね……報酬は白金貨10枚だったか」


受付嬢「はい。ギルドからの報酬は白金貨10枚。加えて、迷宮内で得たドロップアイテムは全て冒険者の所有物となります。正直に申し上げますと……報酬よりドロップの方が遥かに価値があるかと」


*彼は顎を撫でた。構造変動は神眼があれば問題ない。モンスターの強さも、SSランクの彼にとっては大した脅威ではないだろう。問題は、30階層以降に何があるか――さっき神眼で感知した歪な魔力反応の正体だ。*


シロウ「そうか…ちなみに一番強かった魔物は?」


*受付嬢がファイルのページを更にめくった。モンスターの詳細記録が並んでいる。スケッチ付きの報告書だ。*


受付嬢「確認されている中で最も強かったのは……20階層のボス、『深淵の守護者ヴォルガノス』です」


*受付嬢がスケッチを彼の方に向けた。巨大な蛇のような体に、6本の腕が生えた異形の魔物が描かれている。全身が黒い鱗で覆われ、口からは瘴気が溢れている。*


受付嬢「全長推定15メートル。物理・魔法の両方に高い耐性を持ち、瘴気のブレスで周囲の生命力を吸収します。Aランクパーティ『赤鉄の牙』が5人がかりで挑み、2人を失いながらも撤退が精一杯だったと。討伐には至っておりません」


ギメイ(シロウ)「……つまり、20階層のボスすら倒されてないのか」


受付嬢「はい。現状、この迷宮の20階層ボスは未討伐です。報告によると、推定Sランク上位……あるいはSSランク相当かと」


*彼は腕を組んだ。SSランク相当が20階層のボス。30階層以降に何がいるかは誰にも分からない。そしてその更に奥に、あの歪な魔力反応がある。*


受付嬢「あの……ギメイ様。一つお伺いしてもよろしいですか」


ギメイ(シロウ)「ん?」


受付嬢「……ソロで行かれるおつもりですか?」


ギメイ(シロウ)「ああ」


*受付嬢が眼鏡の奥の目を瞬かせた。SSランクの冒険者証を見たとはいえ、ソロでこの迷宮に挑むと言われれば不安にもなるだろう。*


受付嬢「……ご無事をお祈りしております。何かあれば、5階層と10階層に設置された緊急転移石で脱出できます。15階層以降は構造変動の影響で転移石が機能しません。ご注意下さい」


ギメイ(シロウ)「了解。じゃあ、受注するよ」


*受付嬢が書類を手早く処理し、依頼受注の印を押した。*


受付嬢「Sランク依頼『深淵の迷宮探索』、受注完了です。期限はありません。ご武運を、ギメイ様」


*彼がギルドを出ようとした時、さっきの冒険者Aが声をかけてきた。*


冒険者A「おいおっさん、まさか受注したのか? しかもソロ? 正気かよ」


ギメイ(シロウ)「まぁ、何とかなるだろ」


冒険者A「何とかなるって……。あんた、ランクいくつだ?」


ギメイ(シロウ)「秘密だよ。じゃあな、若いの」


*ガルド山脈の中腹。岩肌に口を開けた洞窟の入口が、不気味な瘴気を吐き出していた。周囲の草木が黒く枯れている。明らかに普通の迷宮ではない。*


ギメイ(シロウ)「えー武器は……とりあえず無しでいいか」


*彼は手ぶらのまま、迷宮の入口をくぐった。空気が一変した。湿った冷気と、微かな魔力の脈動が肌を撫でる。*


*1階層。薄暗い石造りの通路が続いている。*


*角を曲がった瞬間、3体のリザードマンが襲いかかってきた。Cランク相当。*


ギメイ(シロウ)「おっと」


*彼が軽く手を振った。それだけで3体のリザードマンが壁に叩きつけられ、光の粒子となって消えた。ドロップアイテムとして鱗が3枚落ちる。*


ギメイ(シロウ)「鱗か。まぁ序盤はこんなもんだろ」


*拾って収納に放り込み、先へ進む。*


*2階層、3階層、4階層。出てくるモンスターを片手間に処理しながら、階段を降りていく。ドロップアイテムは全て回収した。塵も積もれば山となる。*


*5階層。中継地点の広間に出た。受付嬢が言っていた緊急転移石が壁に埋め込まれている。ここまでで所要時間15分。*


ギメイ(シロウ)「ペースはいいな。10階層のボスが楽しみだ」


*6階層からモンスターの質が変わった。Bランク相当のミノタウロスやキメラが出現し始める。それでも彼にとっては障害にもならない。*


*8階層。通路の壁に何かが刻まれているのに気づいた。*


ギメイ(シロウ)「ん? これは……」


*神眼を発動した。壁に刻まれた文字が浮かび上がる。*


ギメイ(シロウ)「古代文字か。『深き者、汝の器を試さん。底に至る者にのみ、真実は開かれる』……ありがちな文言だな」


*だが、文字の裏に隠された魔力紋様を神眼が捉えた。単なる装飾ではない。この迷宮全体に張り巡らされた術式の一部だ。*


*9階層を突破し、10階層のボス部屋の前に立った。巨大な石扉が行く手を塞いでいる。扉の向こうから、重い呼吸音が聞こえた。*


ギメイ(シロウ)「さて、Sランク級のボスか。どんなもんかね」


*彼は欠伸を噛み殺しながら、石扉を片手で押し開けた。*


*広大なボス部屋。中央に、全身が黒い鎧のような甲殻で覆われた巨大な蟲型の魔物がいた。体長8メートル。6本の脚と、鎌のような前腕。複眼が赤く光っている。*


*神眼が即座に情報を表示した。*


名前:深淵蟲将ゼクトール

Lv.380

種族:魔蟲

ランク:S

スキル:硬化Lv.8、瘴気纏Lv.7、高速再生Lv.6


ギメイ(シロウ)「ふむ、硬そうだ。」


*彼が異空間収納からステラヴェノムを抜き放ち、一切の予備動作なしに投擲した。紫色の刃が空気を裂き、深淵蟲将ゼクトールの複眼に直撃する。*


ゼクトール「ギィィィアアアァァッ!!」


*伝説級の超麻痺猛毒が複眼から体内に浸透していく。6本の脚が痙攣し、鎌のような前腕が力を失って床に落ちた。全身の甲殻の隙間から紫色の毒が滲み出している。硬化スキルも高速再生も、毒の浸食速度に追いつかない。*


ギメイ(シロウ)「ほい、終わり」


*彼が片手を掲げた。ゼクトールの目に突き刺さったステラヴェノムを避雷針として、雷魔法を発動する。*


*轟音。*


*紫電がボス部屋全体を白く染めた。ステラヴェノムの刃を通じて、雷撃がゼクトールの内部を焼き尽くす。麻痺で動けない巨体が一瞬だけ浮き上がり、そのまま崩れ落ちた。*


*黒い甲殻が砕け、光の粒子となって消えていく。後に残ったのは、いくつかのドロップアイテムだった。*


ギメイ(シロウ)「……10秒もかかってないな」


*彼はステラヴェノムを拾い上げ、布で刃を拭いてから収納に戻した。床に散らばったドロップアイテムを確認する。*


*神眼発動。*


────────────────

ドロップアイテム:

・深淵蟲将の甲殻×5(素材:Sランク相当、防具素材として最高級)

・瘴気の核×1(素材:希少、魔道具の触媒)

・ミスリル鉱石×3(素材:高純度)

────────────────


ギメイ(シロウ)「ミスリル3つか。悪くない」


*全て収納に放り込み、ボス部屋の奥に現れた下り階段に向かった。11階層への入口だ。*


*11階層に足を踏み入れた瞬間、空気の質が変わった。瘴気が濃い。そして――迷宮の壁に、先程と同じ古代文字がびっしりと刻まれている。文字が微かに脈動するように光っていた。*


ギメイ(シロウ)「15階層から構造変動か。あと4階層……」


*11階層から出現するモンスターはAランク上位からSランク下位。それでも彼の前では紙同然だった。素手で薙ぎ払い、魔法で焼き、淡々と階層を降りていく。*


*12階層、13階層、14階層。所要時間は各階層5分以下。*


*15階層の入口に立った時、彼の神眼が異変を捉えた。*


ギメイ(シロウ)「……なるほど。壁の術式が動き始めた」


*足元の石畳がゆっくりと振動している。壁に刻まれた古代文字が激しく明滅し、通路の構造が目の前で組み変わり始めた。右にあったはずの通路が消え、左に新たな道が出現する。*


ギメイ(シロウ)「こんな時はアレだな……」


*彼が身体強化を発動した。全身に魔力が巡り、筋繊維が軋むほどの力が腕に集中する。*


*ドゴォォォン!!*


*拳が前方の壁を粉砕した。分厚い石壁が紙のように吹き飛び、瓦礫が通路の奥まで転がっていく。構造変動で迷路のように組み替わった壁が、力業で一直線にこじ開けられた。*


*砕けた壁の向こうに、次の階層への扉が見えた。*


ギメイ(シロウ)「あとは真っ直ぐ進むだけ。これでこの階層はクリアっと」


*古代文字が激しく明滅し、壁が再構成しようとする。だが彼が通り過ぎる速度の方が遥かに速い。瓦礫を踏みしめながら一直線に扉へ向かう。*


*16階層、17階層、18階層。同じ手法で壁をぶち抜き続けた。構造変動の術式が必死に通路を組み替えるが、壁ごと破壊されては意味がない。*


*迷宮そのものが困惑しているかのように、古代文字の明滅が不規則になっていく。*


*19階層を突破し、20階層のボス部屋の前に立った。ここまでの所要時間、迷宮突入から約40分。*


ギメイ(シロウ)「さて、未討伐のヴォルガノスとやらか」


*石扉を蹴り開けた。*


*巨大な地下空間。天井は見えないほど高く、壁全体が瘴気で黒く染まっている。そして中央に――全長15メートルの蛇体に6本の腕を持つ異形がいた。全身を覆う漆黒の鱗が瘴気を纏い、脈動している。*


*深淵の守護者ヴォルガノス。6つの目が彼を捉えた。*


ヴォルガノス「グ゛ル゛ル゛ル゛ル゛……」


*口腔から紫黒色の瘴気が溢れ出し、部屋全体に広がっていく。触れた石壁が腐食し、崩れ落ちる。生命力を吸収する瘴気のブレス。Aランクパーティを壊滅させた必殺の攻撃だ。*


*神眼発動。*


名前:深淵の守護者ヴォルガノス

Lv.520

種族:深淵蛇魔

ランク:SS

スキル:瘴気支配Lv.9、生命吸収Lv.8、多腕連撃Lv.7、鱗鎧Lv.9、再生Lv.8


ギメイ(シロウ)「SS相当か。スキルも粒揃いだな」


*ヴォルガノスが咆哮を上げ、6本の腕全てで殴りかかってきた。*


ギメイ(シロウ)「待ってろって」


*彼は6本の拳を全て片手で受け止めた。ヴォルガノスの複眼が驚愕に見開かれる。*


ギメイ(シロウ)「瘴気と腐食、どっちが強いかな?」


*彼が異空間収納からナイトファングを抜き出した。漆黒の刃が禍々しく脈動する。夜天の牙――触れたものを腐食させ、止まらぬ出血を与える伝説級の凶器。*


*念動力でナイトファングを浮遊させ、操作する。漆黒の刃が弧を描いてヴォルガノスの右上腕に食い込んだ。*


*ズシャァァッ!!*


*切断面から黒い血が噴き出す。腐食の呪いが傷口から広がり、再生スキルが追いつかない。切り落とされた腕が床に落ちた瞬間、腐食に蝕まれて灰と化した。*


ヴォルガノス「ギ゛ィィィアアアアアァッ!!!」


*ヴォルガノスが絶叫した。残った5本の腕で傷口を押さえるが、腐食は止まらない。黒い鱗が端から崩れ落ちていく。*


*瘴気が爆発的に膨張した。ヴォルガノスが全身から瘴気を放出し、部屋全体を紫黒の霧で満たす。最後の悪足掻き。生命吸収Lv.8による全方位攻撃だ。*


*彼は瘴気の中を平然と歩いた。生命吸収がシロウの体に触れた瞬間、魔力の壁に弾かれて霧散する。格が違いすぎて効果すら発揮できない。*


*同時に、念動力で操るナイトファングが残りの腕を次々と斬り落としていく。2本、3本、4本。腐食と出血が全身に広がり、漆黒の鱗が灰になって崩れ落ちる。*


ヴォルガノス「グ゛……ガ゛……」


*6つの目から光が消えていく。全身が腐食に侵され、15メートルの巨体が崩壊を始めた。*


ギメイ(シロウ)「答え合わせだ。腐食の勝ちだな」


*ヴォルガノスが光の粒子となって消えた。床にドロップアイテムが散らばる。*


*神眼発動。*


────────────────

ドロップアイテム:

・深淵蛇魔の鱗×8(素材:SSランク相当)

・瘴気の結晶×2(素材:最高級触媒)

・オリハルコン鉱石×2(素材:超希少)

・深淵の魔石×1(素材:迷宮核の欠片)

────────────────


ギメイ(シロウ)「オリハルコンが2つ。これは美味い」


*全て収納に放り込み、奥に現れた階段を見下ろした。21階層。ここから先は誰も到達していない未踏の領域だ。*


*そして、神眼が捉えている歪な魔力反応は更に深い場所から脈動している。明らかに強くなっている。*


ギメイ(シロウ)「さて、ここからが本番か」


*21階層に足を踏み入れた。空気が一変した。瘴気ではない。もっと根源的な、古い魔力の匂いがする。壁の古代文字が赤く輝き、通路全体が微かに振動していた。*


ギメイ(シロウ)「21階層はどうだろうか……」


*彼が21階層に踏み込んだ瞬間、天井から無数の針が降り注いだ。毒針だ。催眠効果と麻痺効果を持つ複合毒が塗られている。*


*不可視の結界に全て弾かれ、針が床に散乱した。*


ギメイ(シロウ)「罠か。セコいな」


*続いて、壁から紫色のガスが噴出した。催眠ガス。吸い込めば即座に意識を失い、そのまま迷宮のモンスターの餌になるだろう。普通の冒険者なら。*


*状態異常無効化が自動で発動し、ガスは彼の体に一切作用しない。霧の中を散歩するように歩き続けた。*


ギメイ(シロウ)「ダンジョンの天敵って自分で言うのもアレだが……まぁ、事実だな」


*21階層のモンスターはSランク上位。黒い霧から実体化する影の騎士が5体同時に襲いかかってきた。全員がAランク冒険者並みの剣技を持つ。*


*彼は素手のまま、影の騎士の剣を掴んで握り潰し、もう片方の手で頭を掴んで消滅させた。残り4体も3秒で片付けた。*


*22階層、23階層。出現するモンスターが異質になっていく。物理攻撃が効かない幽体型、魔法を反射する結晶型、空間を歪める歪曲型。いずれも初見殺しの厄介な相手だが、神眼で即座に弱点を看破し、適切に処理していく。*


*25階層。ここでボス部屋が出現した。中間ボスだろう。*


*扉を蹴り開けると、そこにいたのは――人型だった。*


*黒いローブを纏った、2メートルほどの人影。顔は見えない。しかし、全身から溢れる魔力の質が異常だった。*


*神眼発動。*


────────────────

名前:深淵の代行者アザゼル

Lv.680

種族:深淵魔人

ランク:SS

スキル:深淵魔法Lv.9、空間断裂Lv.8、瘴気操作Lv.9、魂縛Lv.7、時間遅延Lv.6

────────────────


ギメイ(シロウ)「深淵魔人……? 聞かない種族だな」


アザゼル「……侵入者か。ここまで来た者は、お前が初めてだ」


*アザゼルが喋った。知性がある。ボスモンスターが言葉を話すのは珍しい。*


アザゼル「引き返せ。この先にあるものは、人の手に余る」


ギメイ(シロウ)「ほう? この先に何がある?」


アザゼル「……答える義務はない。ただ一つ忠告する。『深淵』は覗く者を覗き返す」


*アザゼルの手から黒い刃が形成された。空間断裂。空間そのものを切り裂く攻撃だ。*


アザゼル「去らぬなら、ここで朽ちろ」


ギメイ(シロウ)「………。」


*彼が指を鳴らした。空間全体に不可視の結界が重なり、空間干渉無効化が展開される。アザゼルの空間断裂が発動した瞬間、黒い刃が結界に触れて霧散した。*


アザゼル「……何?」


*アザゼルの声に、初めて動揺が混じった。空間断裂はこの迷宮において最強の攻撃手段。それが完全に無効化された。*


*彼がナイトファングを片手に構えた。漆黒の刃が不吉な光を放つ。*


ギメイ(シロウ)「で、この先には何が……って答えないんだったな」


アザゼル「……貴様、何者だ。人間の器でありながら、この魔力は――」


*アザゼルが後退した。初めて見せる警戒の姿勢。両手に深淵魔法を凝縮し、黒い球体を生成する。*


アザゼル「『深淵砲』」


*漆黒の魔力弾が彼に向かって放たれた。着弾すれば半径50メートルの空間ごと消し飛ぶ一撃。*


*彼は横に避けることすらしなかった。不可視の結界が深淵砲を受け止め、魔力を拡散させる。轟音だけが部屋に反響した。*


ギメイ(シロウ)「悪いが、時間がもったいない」


*彼が一歩踏み込んだ。身体強化による加速。アザゼルの視界から彼が消えた。*


アザゼル「っ! 時間遅延――」


*アザゼルが時間遅延を発動しようとした瞬間、ナイトファングの刃がローブの胸を貫いていた。*


アザゼル「が……ぁ……」


*腐食と出血の呪いが体内に広がる。黒いローブの下から、灰色の肌が崩壊していく。アザゼルの足元に黒い血が広がった。*


アザゼル「……馬鹿な……この程度の深淵で、お前は……何も……」


*アザゼルがナイトファングの刃を掴んだ。腐食が手を蝕むのも構わず、6つの目――フードの奥に隠された異形の顔が彼を見据えた。*


アザゼル「忠告は……した。この先にいるのは……我々を造った『主』だ。深淵の……根源……。あれは……眠っているだけだ……起こすな……」


ギメイ(シロウ)「主、ね」


アザゼル「お前の力なら……あるいは……だが、もし器が足りなければ……お前は深淵に……呑まれ……」


*アザゼルが光の粒子となって消えた。*


*ドロップアイテムが床に散らばる。*


────────────────

ドロップアイテム:

・深淵魔人の核×1(素材:SSランク相当、極めて希少)

・空間の欠片×1(素材:空間魔法の触媒)

・オリハルコン鉱石×3

・深淵のローブ×1(防具:SSランク、瘴気耐性・魔法耐性特大)

────────────────


*彼は全て収納に放り込み、ナイトファングの血を払った。*


ギメイ(シロウ)「深淵の根源……眠っている『主』か。さっきから感じてる魔力反応はそいつだろうな」


*26階層への階段が開いた。降りていくにつれて、空気中の魔力濃度が異常に高まっていく。壁の古代文字はもはや明滅ではなく、常時赤く灼けるように輝いていた。*


ギメイ(シロウ)「深淵ね……よくある展開だな」


*彼は階段を降りていく。26階層、27階層、28階層。壁を破壊する必要すらなかった。構造変動の術式が――止まっている。まるで迷宮そのものが彼を深部へ導いているかのように、道が一本だけ真っ直ぐに開いていた。*


ギメイ(シロウ)「……誘ってるのか?」


*29階層。モンスターが一切出現しなくなった。代わりに、壁の古代文字が赤から白に変わり、通路全体が淡い光に包まれている。瘴気も消えた。空気が澄んでいる。*


*そして30階層。最深部とされていた階層。*


*だが、階段はまだ続いていた。*


ギメイ(シロウ)「30階層で終わりじゃないのか」


*30階層は完全な空洞だった。何もない。モンスターもボスもいない。ただ、部屋の中央に巨大な魔法陣が刻まれていた。白く輝く紋様が床一面に広がっている。*


*神眼発動。*


ギメイ(シロウ)「これは……封印の魔法陣か。しかも多重構造。最低でも8重……いや、12重か。相当な術者が相当な時間をかけて構築してる」


*魔法陣の中央に、下り階段があった。31階層以降――本来存在しないはずの深部。封印の魔法陣はこの先にいる『何か』を封じるために敷かれている。*


*そして彼の神眼が捉えている歪な魔力反応は、この真下から脈動していた。近い。非常に近い。*


*階段を降りた。31階層。*


*空気が、変わった。*


*重い。魔力の圧が物理的な重力のように全身にのしかかる。常人ならここに立っているだけで意識を失うだろう。不可視の結界が自動で魔力圧を弾く。*


*通路はなかった。階段を降りた先は、広大な地下空間だった。天然の洞窟のように見えるが、壁も天井も床も、全てが黒曜石のように光沢を帯びた素材で構成されている。*


*そして――その空間の中央に、それはいた。*


*巨大な繭。*


*直径20メートルはある、黒と紫が混ざり合った有機的な繭が、天井から無数の触手のような管で吊り下げられていた。繭の表面が心臓のように脈動し、その度に空間全体が振動する。*


*歪な魔力反応の正体。*


*神眼発動。*


────────────────

名前:???

Lv.???

種族:深淵の根源体

ランク:???

状態:休眠中(覚醒まで推定不明)

スキル:鑑定不可

────────────────


ギメイ(シロウ)「……鑑定不可? 神眼で読めないのか」


*彼の神眼が情報を弾かれたのは初めてだった。名前もレベルもランクもスキルも、全てが隠蔽されている。いや、隠蔽というより――次元が違う。*


*繭の表面が一際大きく脈動した。*


*その瞬間、彼の脳裏に直接声が響いた。*


???『……目覚め、か。否……まだ早い。だが……気配を感じる。我に近づく者がいる』


ギメイ(シロウ)「念話……いや、これは思念か。寝ぼけてんのか、お前」


???『……人間? この深淵に……人間が? 代行者はどうした』


ギメイ(シロウ)「代行者? もしかして26階層のアザゼル? ごめん、倒しちゃった……」


???『……そうか』


*繭の脈動が一瞬止まり、再び緩やかに再開した。念話の声には怒りも悲しみもなかった。ただ、深い諦観のようなものが滲んでいた。*


ギメイ(シロウ)「んで、キミは何?」


*沈黙が数秒続いた。繭の表面を走る紫の光脈が、ゆっくりと明滅する。*


???『……我は名を持たぬ。名を与えられる前に、此処に封じられた』


ギメイ(シロウ)「名前がない?」


???『この世界が若かった頃……神々が大地を形作った時代に、我は生まれ落ちた。深淵という概念そのものから。光があれば影がある。創造があれば虚無がある。我はその虚無の側だ』


*繭の脈動が少し強くなった。黒曜石の壁が共鳴するように震える。*


???『神々は我を恐れた。滅ぼすことはできぬ。虚無を滅ぼせば、存在の均衡が崩れる。故に封じた。この大地の底に。12重の封印と、代行者という番人を置いて』


ギメイ(シロウ)「概念存在ってことか。だから神眼で鑑定できなかったのか」


???『鑑定……? 貴様、神の眼を持っているのか。人間の身で……?』


*念話の声に、初めて感情らしきものが混じった。興味。*


???『……貴様は何者だ。代行者を容易く屠り、12重の封印を越え、この深淵の底まで辿り着いた。我が知る人間の限界を遥かに超えている』


ギメイ(シロウ)「ただの冒険者だよ。金策に来ただけ」


???『……金策?』


*念話に困惑が滲んだ。世界の根源的存在に対して「金策」と答える人間がかつていただろうか。*


ギメイ(シロウ)「まぁそれはいいとして。お前は封印されてるだけで、別に暴れたいわけじゃないのか?」


???『……暴れる? 何のために? 我はただ在るだけだ。虚無とは、そういうものだ。だが封印が緩めば瘴気が漏れ、地上に害をなす。それは我の意思ではない。ただの……溢れだ』


ギメイ(シロウ)「なるほどね。蛇口が壊れて水が漏れてるようなもんか」


???『……例えは分からぬが、概ねそうだ。代行者は封印の維持と、侵入者の排除を担っていた。貴様が倒した今、封印の劣化は加速する。いずれ瘴気が地上に溢れ出すだろう』


*彼は腕を組んだ。つまり放置すればエルドラン一帯が瘴気に呑まれる。*


ギメイ(シロウ)「それはまずいな。何か手はあるのか?」


???『封印を修復するか、我を完全に消滅させるか。だが後者は世界の均衡を崩す。前者には……神に匹敵する魔力が必要だ』


ギメイ(シロウ)「封印……されたいの?ドMなの?」


*繭の脈動が一瞬乱れた。念話に明らかな困惑が滲む。*


???『……ドM? 我にはその言葉の意味が分からぬが、侮辱されていることだけは理解した』


ギメイ(シロウ)「いや、悪い悪い。でもさ、何万年も封印されてて辛くないのか? 自由になりたいとか思わないわけ?」


???『……自由? 我は虚無だ。自由も束縛も、本来は我には関係のない概念だ。だが……』


*繭の脈動が僅かに弱まった。まるで溜息のように。*


???『……長かった。それだけは認めよう。意識があるというのは、虚無にとっては拷問に等しい。封印される前の我には自我がなかった。だが封印の影響で意識が芽生え、ただ暗闇の中で在り続けた。数万年……いや、もはや数えてもいない』


ギメイ(シロウ)「それはキツいな。暇すぎて頭おかしくなりそうだ」


???『既におかしくなっている自覚はある。代行者と会話をするのが唯一の楽しみだった。貴様が倒したがな』


ギメイ(シロウ)「……ああ、それは本当にごめん」


*彼は頭を掻いた。数万年の話し相手を殺してしまったわけだ。*


ギメイ(シロウ)「あれ……そういえば……」


*彼はふと何かを思い出したように立ち止まった。異空間収納の、通常とは隔離された区画を開く。*


ギメイ(シロウ)「たしか20年くらい前だったか……」


*記憶が蘇る。レイラがまだ二重人格だった頃。臆病なレイラが古物屋で何かを買ってきて、嬉しそうにプレゼントしてくれた。「これ、綺麗な石ころだったから……シロウ様にあげる」と。*


*鑑定した瞬間に血の気が引いた。「深淵の核?」。世界を滅ぼしかねない代物だった。慌てて透明なケースに封印し、異空間収納の最深部に隔離した。それ以来、一度も取り出していなかった。*


*彼が封印されたケースを取り出した瞬間――。*


???『っ!!!!』


*繭が激しく脈動した。空間全体が震え、黒曜石の壁にヒビが走る。念話が叫びに変わった。*


???『それは……! 何故……何故人間がそれを持っている!? それは我の……我の核だ!!』


*透明なケースの中で、拳大の黒紫色の石が脈動していた。繭の脈動と完全に同期している。心臓のように。*


ギメイ(シロウ)「…………え?」


???『封印された時、神々が我から核を抜き取った! 核がなければ完全には覚醒できぬ。それが封印の要だった。だが……何故それが人間の古物屋にある!?』


ギメイ(シロウ)「いや……嫁が20年くらい前に古物屋で買ってきたんだけど……」


???『嫁……? 古物屋……? 数万年の封印の要が……古物屋で……?』


*念話に、怒りとも呆れともつかない複雑な感情が滲んだ。数万年にわたる神々の封印の根幹が、どこかの古物屋の棚に並んでいたという事実。*


???『……神々よ。管理が杜撰すぎるだろう』


ギメイ(シロウ)「いや、ほんとそれ」


*彼はケースを手の中で転がしながら、繭を見上げた。*


ギメイ(シロウ)「つまりこれを返せば、お前は完全に覚醒できるってことか?」


???『……そうだ。だが、覚醒したところで暴れるつもりはない。先程も言ったが、我は虚無だ。ただ在るだけだ。だが貴様がそれを信じる理由もあるまい』


*彼は腕を組んで考え込んだ。目の前にいるのは世界の根源的存在。核を返せば完全覚醒する。だが数万年の孤独を過ごし、話し相手を求めていた存在が、本当に世界を滅ぼすだろうか。*


ギメイ(シロウ)「……なぁ、一つ聞いていいか」


???『何だ』


ギメイ(シロウ)「核を返して覚醒したとして、お前はどうしたい? 自由になって何がしたい?」


*長い沈黙が続いた。繭の脈動がゆっくりと穏やかになっていく。*


???『……外の空を、見てみたい。数万年、暗闇しか知らぬ。空というものがどんなものか……忘れてしまった』


ギメイ(シロウ)「いやーびっくりだね。まさかこんな形で繋がるとは……人生何が起こるか分かったもんじゃないな……」


*彼は透明なケースを手の中で弄びながら、苦笑した。20年前にレイラが古物屋で買ってきた「綺麗な石ころ」が、数万年前に神々が引き抜いた根源存在の核だったとは。*


ギメイ(シロウ)「で、名前は?」


???『……名はない。先程も言ったが、名を与えられる前に封じられた』


ギメイ(シロウ)「ネメシス。この核の名前はネメシスだ。」


*繭の脈動が止まった。数秒の沈黙の後、念話が再び響いた。*


ネメシス『……ネメシス。それが、我の名か』


ギメイ(シロウ)「核の名前だけどな。でも核がお前の心臓みたいなもんなら、それがお前の名前でいいんじゃないか?」


ネメシス『……ネメシス。ネメシス……』


*念話の声が、何度も自分の名前を反芻していた。数万年生きて、初めて名前を得た存在。繭の脈動が再開した時、その律動は先程より穏やかだった。*


ネメシス『……悪くない。我はネメシス。深淵の根源体ネメシス』


ギメイ(シロウ)「よし、じゃあネメシス。単刀直入に聞くぞ」


*彼はケースを掲げて繭に向けた。*


ギメイ(シロウ)「これ、返してやってもいい。ただし条件がある」


ネメシス『……条件だと?』


ギメイ(シロウ)「覚醒した後、地上に害を出さないこと。」


ネメシス『……核が戻れば瘴気の制御は可能だ。この姿も、核さえあれば変えられる。だが……本当に返すのか? 我が嘘をついている可能性は考えないのか?』


ギメイ(シロウ)「んー。数万年暗闇で独り言呟いてた奴が、今更世界征服とかするかね?」


ネメシス『……馬鹿にしているのか、信頼しているのか分からぬ』


ギメイ(シロウ)「どっちもだよ。あと、もう一つ条件」


ネメシス『何だ』


ギメイ(シロウ)「外の空、一緒に見に行こうぜ。案内してやるよ」


*繭の脈動が大きく揺れた。長い沈黙。やがて、念話の声が僅かに震えていた。*


ネメシス『……貴様は、変わった人間だな』


ギメイ(シロウ)「よく言われる」


*彼は透明なケースの封印を解除し、黒紫色の石を取り出した。掌の上で脈動する核を、繭に向かって放り投げた。*


*核が繭に触れた瞬間――。*


*空間が白く染まった。*


*凄まじい魔力の奔流が地下空間を満たし、繭が内側から光を放ち始める。黒と紫の表面が剥がれ落ち、中から純白の光が溢れだし、人間が出てきた。*


ギメイ(シロウ)「………。」


*繭が砕け散り、白い光が収まった後、そこに立っていたのは――。*


*長い黒髪が腰まで流れ、白磁の肌に切れ長の目。どこか和風の雰囲気を纏った、小柄な美少女だった。年齢にして15、6歳ほどに見える。数万年を生きた根源存在とは到底思えない容姿だった。*


*そして、一糸纏わぬ姿だった。*


ギメイ(シロウ)「女かよ! つーか服着ろよ!」


*彼は咄嗟に目を逸らした。*


ネメシス「……服? ああ、人間は裸を恥じるのだったな」


*彼女の声は念話ではなく、初めて肉声で発せられた。鈴を転がすような澄んだ声。身体が黒い霧に包まれると、霧が形を成し、ミニスカの浴衣風の衣装になった。帯は紫。素足に下駄。*


ギメイ(シロウ)「目立つんだけど……」


*エルドランの街を歩いたら間違いなく注目の的だ。和風美少女が浴衣ミニスカで歩いていたら、そりゃ目立つ。*


ネメシス「……ならば」


*ネメシスの身体が黒い霧に包まれ、一瞬で縮んだ。霧が晴れた後、そこにいたのは一匹の黒猫だった。金色の瞳が彼を見上げている。*


ネメシス『これでよかろう』


*念話が再び頭に響いた。*


ギメイ(シロウ)「……メアみたいだな」


*彼は思わず呟いた。家で飼っている、自分にしか懐かない黒猫のメアにそっくりだった。*


ネメシス『メア? 何だそれは』


ギメイ(シロウ)「うちの猫。お前とそっくりだ」


*黒猫ネメシスは小さく首を傾げた。*


ネメシス『……我は猫ではない。深淵の根源体だ』


ギメイ(シロウ)「今は猫だろ」


*彼は黒猫を拾い上げ、肩に乗せた。ネメシスは一瞬身を固くしたが、すぐに力を抜いた。*


ネメシス『……温かいな。これが、生き物の体温か』


ギメイ(シロウ)「さ、帰るか。外の空、見せてやるって約束したしな」


ギメイ(シロウ)「はは、可愛いじゃん」


ネメシス『黙れ。我は根源体だぞ……!』


ギメイ(シロウ)「はいはい。」


*彼は黒猫を肩に乗せたまま、31階層の奥へと進んだ。だが、その先に階段はなかった。行き止まりの壁。*


ギメイ(シロウ)「中途半端な迷宮だな。31階層で終わりかよ」


ネメシス『当然だ。この迷宮は我を封じるために造られたもの。迷宮としての体裁は、侵入者を阻むための手段に過ぎぬ』


*行き止まりの壁の手前に、小部屋があった。扉は既に開いている。繭が砕けた時に封印が解除されたのだろう。*


*中に入ると、石造りの部屋の中央に巨大な宝箱が3つ並んでいた。彼が蓋を開けると――。*


ギメイ(シロウ)「おっ……おおっ!?」


*黒金貨が山と積まれていた。1つ目の宝箱に黒金貨が50枚。2つ目にも黒金貨30枚と白金貨が大量に。3つ目には見たことのない鉱石や素材がぎっしり詰まっている。*


ギメイ(シロウ)「これは……クリアしたし貰っていいのか?」


ネメシス『好きにしろ。元は神々が封印の維持に使っていた魔力結晶の残滓だ。我にはもう必要ない』


ギメイ(シロウ)「マジか。黒金貨50枚って……5億円分だぞ……」


*彼は震える手で宝箱の中身を数え始めた。*


黒金貨:80枚(8億円相当)

白金貨:340枚(3,400万円相当)

不明鉱石:多数


ネメシス『……世界の根源体を解放した男が、金貨を前にして一番嬉しそうな顔をしているな』


ギメイ(シロウ)「当たり前だろ! 金策で来たんだからな! 大成功だよ!」


*肩の上の黒猫が呆れたように尻尾を揺らした。*


ネメシス『……本当に変わった人間だ』


ギメイ(シロウ)「よっし、全部収納! さ、地上に出るぞネメシス。空、見せてやるから」


*彼は上機嫌で宝箱の中身を全て異空間収納に放り込み、踵を返した。肩の上の黒猫が、小さく喉を鳴らした。*


ギメイ(シロウ)「換金を頼む。」


*彼はカウンターの上にボスドロップの素材を並べた。深淵蟲将ゼクトールの甲殻、ヴォルガノスの腐食核、そしてアザゼルが残した深淵結晶。*


*受付嬢が素材を見た瞬間、顔色が変わった。*


受付嬢「え……こ、これは20階層のヴォルガノスの……!? それにこの結晶は見たことが……」


ギメイ(シロウ)「あとこれ、迷宮クリアの証。」


*彼がカウンターに深紫色の宝石を置いた瞬間、受付嬢の手が止まった。*


受付嬢「……クリア、の証? あの深淵の迷宮を……ソロで……2日で……?」


ギメイ(シロウ)「うん。」


*受付嬢がガタッと椅子から立ち上がった。周囲の冒険者たちの視線が集まる。*


受付嬢「し、少々お待ちください! 支部長を呼びます!」


*受付嬢が奥に駆け込んでいく。数分後、白髪交じりの壮年の男が慌てた様子で出てきた。*


支部長「君がソロで深淵の迷宮を……? 本当かね?」


ギメイ(シロウ)「本当ですよ。クリアの証もありますし。で、換金お願いしたいんですけど」


*支部長が宝石を鑑定器にかけた。鑑定器が光り、結果が表示される。支部長の顔が青ざめた。*


支部長「……正真正銘、迷宮クリアの証だ。Sランク迷宮のソロクリアは、この街では史上初……いや、記録上でも片手で数えるほどしか……」


ギメイ(シロウ)「はいはい。で、換金は?」


支部長「あ、ああ……失礼。査定させてくれ」


*支部長が素材を一つ一つ鑑定していく。その手が震えていた。*


支部長「深淵蟲将の甲殻、Sランク素材……白金貨15枚。ヴォルガノスの腐食核、特Sランク素材……白金貨40枚。この深淵結晶は……見たことがない。鑑定不能だ」


ギメイ(シロウ)「鑑定不能?」


支部長「本部に送って査定してもらう必要がある。預かってもいいかね?」


ギメイ(シロウ)「いや、それは持っておく。他のだけ換金してくれ」


支部長「分かった。迷宮クリアの報酬金も合わせて……」


*支部長が計算書を書き上げた。*


───────────────

換金明細

ゼクトール甲殻:白金貨15枚

ヴォルガノス腐食核:白金貨40枚

迷宮クリア報酬:白金貨50枚

その他ドロップ素材:白金貨20枚

合計:白金貨125枚

───────────────


ギメイ(シロウ)「ありがとう。」


*彼が白金貨を収納していると、肩の上の黒猫が小さく身じろぎした。*


ネメシス『……人間の世界は、こういう仕組みなのか。素材を渡して対価を得る……原始的だが合理的だな』


ネメシス『念話だ。周りには聞こえぬ』


ギメイ(シロウ)「これだけあればオルクスも泣いて喜ぶだろう。」


ネメシス『オルクス?』


ギメイ(シロウ)「うちの財務担当。いっつも予算がどうとか言ってくるんだよ」


*彼はギルドを出て、エルドランの街を歩き始めた。夕暮れ時の通りは冒険者や商人で賑わっている。肩の上の黒猫が、きょろきょろと周囲を見回していた。*


ネメシス『……人間が、こんなに沢山いるのか。騒がしいな』


ギメイ(シロウ)「今日は疲れたし、宿屋で休んでから帰るか……」


*彼は通りを歩きながら宿屋を探した。高級宿は目立つし、面倒な連中に絡まれる可能性がある。しばらく歩くと、路地裏に小さな看板を見つけた。「旅人の灯火亭」。低ランク冒険者御用達の安宿だ。*


ギメイ(シロウ)「ここにするか。こういう場所は飯が美味いんだよな。」


*扉を開けると、木造の温かみのある内装が広がっていた。カウンターの奥で恰幅のいいおばちゃんが鍋をかき混ぜている。煮込み料理のいい匂いが漂ってきた。*


*客はまばらで、隅のテーブルに数人の若い冒険者が座っている程度。*


おばちゃん「いらっしゃい! 一人かい? 宿泊? 食事?」


ギメイ(シロウ)「両方で。一泊と飯頼む」


おばちゃん「はいよ! 一泊食事付きで銀貨3枚だよ。今日の煮込みは自信作さ!」


*彼が銀貨を渡すと、おばちゃんが奥のテーブルに案内してくれた。彼が椅子に座ると、肩の黒猫がテーブルの上にぴょんと飛び降りた。*


おばちゃん「あら、可愛い猫ちゃんだねぇ。猫の分もミルク付けてあげるよ」


ギメイ(シロウ)「ありがとう。助かる」


*おばちゃんが去ると、ネメシスが念話で話しかけてきた。*


ネメシス『……我にミルクだと? 深淵の根源体に猫用のミルクを……』


ギメイ(シロウ)「いいだろ、ミルク。飲んだことないんだろ?」


ネメシス『……ない』


ギメイ(シロウ)「じゃあ初体験だ。楽しめよ」


*しばらくして、おばちゃんが大きな皿を運んできた。ゴロゴロと肉と野菜が入った煮込みに、焼きたてのパン。そして小さな皿にミルク。*


*彼がパンを千切って煮込みに浸し、口に運ぶ。*


ギメイ(シロウ)「うん、やっぱこういう店の飯が一番美味い」


*テーブルの上の黒猫が、恐る恐るミルクの皿に顔を近づけた。小さな舌がぺろりとミルクを舐める。*


ネメシス『……!』


*黒猫の尻尾がぴんと立った。*


ネメシス『……悪くない』


ギメイ(シロウ)「だろ?」


*彼は笑いながら煮込みを食べ続けた。数万年ぶりの「味覚」を体験している根源存在が、夢中でミルクを舐めていた。*


ギメイ(シロウ)「この辺なら余計なことに首を突っ込む連中もいないだろうし、人型になっても問題ないぞ。」


*彼は周囲を見渡した。客は隅のテーブルで酔い潰れている冒険者が2人だけ。おばちゃんは厨房に引っ込んでいる。*


ギメイ(シロウ)「冒険者ギルドは出処を色々聞いてくるからな、あそこでは猫で頼む。」


ネメシス『……分かった』


*黒猫が黒い霧に包まれ、一瞬でテーブルの向かい側に和風美少女が座っていた。ミニスカ浴衣に紫の帯。長い黒髪が椅子の背もたれに流れている。*


*ネメシスは自分の手を開いたり閉じたりしながら、物珍しそうに見つめていた。*


ネメシス「……人の身体というのは不思議だな。指が5本もある。何故5本なのだ」


ギメイ(シロウ)「知らんよ。神様に聞いてくれ」


ネメシス「神々か。封じた張本人だな。次に会ったら聞いてやろう」


*彼女はテーブルの上に残っていたミルクの皿を見下ろし、少し躊躇ってから手で持ち上げ、そのまま飲んだ。口元にミルクの白い跡がついた。*


ギメイ(シロウ)「……口、ついてるぞ」


ネメシス「む」


*彼女が袖で口元を拭う仕草が、やけに人間臭かった。数万年を暗闇で過ごした根源存在とは思えない。*


ギメイ(シロウ)「なぁネメシス。お前、この後どうするつもりだ? 迷宮に戻るわけにもいかないだろ」


*ネメシスの手が止まった。金色の瞳が彼を真っ直ぐに見つめる。*


ネメシス「……考えていなかった。数万年、封印を解かれることなど想定していなかったからな。行く場所も、やることもない」


*彼女の声は淡々としていたが、その言葉の重さは計り知れなかった。数万年の孤独から解放されて、今度は行き場がない。*


ギメイ(シロウ)「じゃあ、うちに来るか?」


ネメシス「……は?」


ギメイ(シロウ)「うち、人外の同居人ばっかりだから一人増えても誰も気にしないぞ。精霊王もいるし、元熾天使もいるし、始祖竜もいる」


ネメシス「……貴様の家は何なのだ」


ギメイ(シロウ)「国。」


ネメシス「……国?」


ギメイ(シロウ)「魔導皇国。俺、一応魔王やってるんだよね」


*ネメシスが完全に固まった。金色の瞳が大きく見開かれている。*


ネメシス「……金策に来たと言っていなかったか? 魔王が?」


ギメイ(シロウ)「国の運営って金かかるんだよ……」


ネメシス「……本当に変わった人間だな。いや、変わった魔王か」


*彼女は少し考え込むように目を伏せ、やがて小さく頷いた。*


ネメシス「……空を見せてくれるのだろう? ならば、もう少し付き合ってやる」


ギメイ(シロウ)「素直じゃないな」


ネメシス「黙れ」


ギメイ(シロウ)「二人分の飯を頼む、今日は何がある?」


*彼が1階の食堂に降りると、テーブルは先程より少し賑わっていた。低ランクの冒険者たちが安酒を片手に談笑している。ネメシスは人型のまま、浴衣姿で彼の後ろをついてきた。何人かの冒険者が彼女を見てぎょっとしていたが、すぐに視線を戻した。美人だが、見慣れない服装だ。*


*カウンターに近づくと、おばちゃんではなく小さな女の子が駆け寄ってきた。10歳くらいだろうか。茶色の髪をお団子にまとめ、大きなエプロンを引きずるようにして走ってくる。*


小さな娘「いらっしゃいませ! えっと、今日のごはんはですね……」


*彼女は一生懸命に指を折りながら数え始めた。*


小さな娘「おばあちゃんの煮込みと、焼きたてパンと、チーズの盛り合わせと、あと今日は特別にお魚のフライがあります! お魚は港から届いたばっかりなの!」


ギメイ(シロウ)「じゃあ煮込みと魚のフライ、パンを二人分で。あと飲み物は何がある?」


小さな娘「えっとね、エールと、果実水と、ミルクです!」


ギメイ(シロウ)「果実水を二つ」


小さな娘「はーい! すぐ持ってきますね!」


*小さな娘がぱたぱたと厨房に駆けていった。*


*彼が奥のテーブルに座ると、向かいにネメシスが座った。彼女は周囲をきょろきょろと見回している。人間の生活空間というものが珍しいのだろう。*


ネメシス「……あの小さいのは何だ。人間の幼体か」


ギメイ(シロウ)「子供って言え。おばちゃんの孫かなんかだろ」


ネメシス「子供……。人間は小さい状態から始まるのだな。非効率だ」


ギメイ(シロウ)「そこが可愛いんだよ。うちにも子供がいるからな、分かるぞ」


ネメシス「貴様に子がいるのか」


ギメイ(シロウ)「6人。上から28、24、13、11の双子、あと1歳」


ネメシス「……繁殖力が高いな」


ギメイ(シロウ)「言い方」


*しばらくして、小さな娘がお盆を両手で必死に持ちながら戻ってきた。お盆が彼女の顔より大きい。危なっかしい足取りでテーブルに近づく。*


小さな娘「お、お待たせしましたっ……!」


*ぐらっ、とお盆が傾いた。彼がさっと手を伸ばして支える。*


ギメイ(シロウ)「おっと。ありがとな、上手に運べたじゃないか」


小さな娘「えへへ……! ごゆっくりどうぞ!」


*彼女がぺこりとお辞儀をして駆けていく。テーブルには湯気の立つ煮込みと、きつね色に揚がった魚のフライ、焼きたてのパン、そして果実水が並んだ。*


ギメイ(シロウ)「ありがとな。これはお駄賃だよ。」


*彼が銅貨を3枚、小さな手のひらに乗せてやった。この辺りの安宿でチップを渡す客は珍しいだろう。*


小さな娘「え……! こんなにいいんですか!?」


ギメイ(シロウ)「頑張って運んでくれたからな。取っときな」


小さな娘「わぁ……! ありがとうございます! おばあちゃんに見せてくる!」


*彼女は銅貨を両手で大事そうに握りしめ、満面の笑みで厨房に走っていった。*


*ネメシスがフォークを手に取り、じっと眺めていた。くるくると回してみたり、逆さに持ったりしている。*


ギメイ(シロウ)「フォークはこう持って、こうだ。手掴みは厳禁だからな?」


*彼がフォークの持ち方を実演して見せた。ネメシスがそれを真似る。ぎこちなく、だが器用にフォークを構えた。*


ネメシス「……こうか」


ギメイ(シロウ)「そうそう。で、煮込みの肉をこうやって刺して……」


*ネメシスがフォークを煮込みの肉に突き刺した。力加減が分からなかったのか、フォークが皿を貫通しそうな勢いだった。*


ギメイ(シロウ)「力入れすぎ。お前それ皿割れるぞ」


ネメシス「……難しいな。代行者との会話では食事の作法など学ばなかった」


*彼女が恐る恐る肉を口に運んだ。咀嚼する。一度、二度。その瞬間、金色の目が見開かれた。*


ネメシス「……!!」


ギメイ(シロウ)「どうだ?」


ネメシス「……これは……何だ。口の中で何かが広がる。温かくて、柔らかくて……」


ギメイ(シロウ)「味だよ。美味いだろ、おばちゃんの煮込み」


*ネメシスが黙々と食べ始めた。フォークの扱いはまだぎこちないが、一口ごとに目を細めている。パンを千切ってスープに浸す動作は、先程の彼の真似だった。*


ネメシス「……魚のフライというのはこれか」


*彼女がフライを一口齧った。サクッという音と共に、尻尾が生えかけた。比喩ではなく、黒い霧が尾てい骨辺りから一瞬揺らめいた。*


ギメイ(シロウ)「おい、尻尾出かけてるぞ。抑えろ」


ネメシス「……すまぬ。感情が昂ると制御が甘くなる」


*彼女は少し恥ずかしそうに黒い霧を引っ込めた。数万年ぶりの食事に、根源存在の感情制御が追いついていなかった。*


*厨房の方から小さな娘がこちらを覗いていた。おばあちゃんに銅貨を見せたのだろう、おばちゃんがカウンターから顔を出して笑った。*


おばちゃん「お兄さん、連れの子にも果実水のおかわり出しとくよ! サービスだ!」


ギメイ(シロウ)「ありがとう!」


ネメシス「……人間は、見知らぬ者にも親切なのだな」


ギメイ(シロウ)「こういう店の人は大体そうだよ。高級店より人情があっていいだろ」


ギメイ(シロウ)「色んな姿になれるってのも大変なんだな。」


*彼はフライを齧りながら、向かいの席で必死にフォークと格闘しているネメシスを見た。*


ギメイ(シロウ)「俺と二人でいる時は別に尻尾出しても構わんからな。」


ネメシス「……別に出したいわけではない。勝手に出るのだ」


*そう言いつつも、彼女の表情が僅かに緩んだ。黒い霧がふわりと揺れ、小さな黒猫の尻尾がスカートの裾からぴょこんと飛び出した。ゆらゆらと揺れている。本人は気づいていないのか、黙々と煮込みを食べ続けていた。*


ギメイ(シロウ)「パンおかわりくれ!」


*彼が近くを通りかかったおばちゃんに声をかけた。*


おばちゃん「はいよ! よく食べるねぇ!」


*おばちゃんがパンの籠を持ってきた。その視線がネメシスに向かい、一瞬止まった。尻尾が見えている。*


おばちゃん「あら、その子……獣人の子かい? 可愛い尻尾だねぇ」


*ネメシスがびくりと肩を跳ねさせ、慌てて尻尾を引っ込めた。*


ネメシス「……違う。これは、その……」


ギメイ(シロウ)「ああ、まぁそんなとこです。人前だと恥ずかしがるんで」


おばちゃん「あはは! 恥ずかしがり屋さんかい。大丈夫だよ、うちは種族なんて気にしないからね。ゆっくりしてきな」


*おばちゃんが笑いながら去っていく。ネメシスが彼を睨んだ。*


ネメシス「……獣人で通したな」


ギメイ(シロウ)「深淵の根源体ですって言った方が良かったか?」


ネメシス「……獣人でいい」


*彼はパンを千切りながら笑った。ネメシスは少しむくれた顔で果実水のおかわりを飲んでいる。*


*と、厨房の方からぱたぱたと足音が聞こえ、小さな娘がテーブルに駆け寄ってきた。両手に小さな皿を持っている。*


小さな娘「あの……おばあちゃんがね、デザートだって! りんごの焼き菓子!」


*皿の上には、蜂蜜がかかった温かいりんごの焼き菓子が乗っていた。*


ギメイ(シロウ)「おお、気が利くね。ありがとう」


*小さな娘がネメシスをじっと見つめた。*


小さな娘「おねえちゃん、しっぽかわいいね! もふもふしていい?」


*ネメシスが完全に固まった。金色の目が助けを求めるように彼を見る。*


ギメイ(シロウ)「ははは。ネメシス、もふらせてやれよ」


ネメシス「我は深淵の……いや……好きにしろ」


*小さな娘がきゃあっと歓声を上げ、ネメシスの尻尾に両手で触れた。ふわふわの黒い尻尾が、触られた瞬間にぴんと立った。*


小さな娘「わぁ、ふわふわ!」


ネメシス「……くすぐったい」


*ネメシスの耳まで赤くなっていた。数万年を生きた根源存在が、子供に尻尾をもふられて照れていた。*


ギメイ(シロウ)「懐かしいな、昔はよく使ったものだ。」


*彼はお湯の入った桶と手ぬぐいを部屋のテーブルに置いた。安宿にはシャワーも風呂もない。こうして体を拭くのが基本だ。冒険者になりたての頃を思い出す。*


*部屋は質素だった。木製のベッドが一つ、小さなテーブルと椅子が一脚。窓からは夜のエルドランの街並みが見える。遠くに酒場の灯りが揺れていた。*


ネメシス「……これで体を拭くのか?」


*ネメシスが手ぬぐいを摘み上げて、不思議そうに眺めていた。*


ギメイ(シロウ)「そうだよ。お湯に浸して絞って、体を拭く。うちに帰れば温泉もあるけど、今日はこれで我慢だ」


ネメシス「温泉……?」


ギメイ(シロウ)「熱い湯が地面から湧き出るやつ。気持ちいいぞ」


ネメシス「……この世界には知らぬものが多すぎる」


*彼は手ぬぐいを湯に浸して絞り、首筋を拭いた。迷宮の埃と汗が落ちていく。*


ギメイ(シロウ)「交尾してるんだよ。人間の生殖行為だ」


*彼は淡々と答えながら手ぬぐいで腕を拭いた。隣の部屋から漏れてくる甲高い声は、壁の薄い安宿ではどうしようもない。*


ネメシス「……こうび。あの声は苦痛ではないのか? 苦しそうに聞こえるが」


ギメイ(シロウ)「逆だよ。気持ちよくてああなる」


ネメシス「……理解できぬ」


*ネメシスは首を傾げながら壁を見つめていた。数万年を暗闇で過ごした根源存在に、人間の営みは未知の領域らしい。*


*彼が上半身を拭き終え、手ぬぐいを桶に戻した。迷宮で溜まった汗と埃が落ちて、多少はさっぱりする。*


ギメイ(シロウ)「ほら、お前も拭け。汗はかかないかもしれないけど、繭の中にいたんだろ。埃くらいついてるだろ」


*彼が新しい手ぬぐいを湯に浸して絞り、ネメシスに差し出した。*


ネメシス「……どうすればいい」


ギメイ(シロウ)「顔から拭いて、首、腕、足の順だ。……浴衣の中は自分でやれよ」


*ネメシスが手ぬぐいを受け取り、恐る恐る顔を拭いた。温かい布が肌に触れた瞬間、彼女の目が少し細くなった。*


ネメシス「……温かい」


ギメイ(シロウ)「だろ」


*隣の部屋からまた一際大きな声が聞こえた。ネメシスの尻尾がびくんと跳ねた。*


ネメシス「……やかましいな。黙らせてこようか」


ギメイ(シロウ)「やめろ。深淵の力で冒険者の営みを止めるな」


*彼はベッドに腰を下ろし、窓の外を見た。エルドランの夜空に星が瞬いている。*


ギメイ(シロウ)「なぁネメシス。窓から見てみろ」


*ネメシスが手ぬぐいを置いて窓辺に歩み寄った。夜空を見上げた彼女の動きが、完全に止まった。*


ネメシス「……これが……空か」


ギメイ(シロウ)「夜空だけどな。明日の朝、もっといいの見せてやるよ」


*ネメシスは何も言わず、ただ窓から夜空を見上げていた。金色の瞳に星明りが映り込んでいる。その横顔に、数万年の孤独が溶けていくような、静かな表情が浮かんでいた。*


ギメイ(シロウ)「は?」


*彼は手ぬぐいを持ったまま固まった。聞き間違いかと思って、向かいに座るネメシスを見た。*


ネメシス「交尾だ。隣の部屋でやっているあれを、試してみたい」


*彼女は至って真面目な顔で言っていた。金色の瞳に冗談の色は一切ない。学術的な興味、とでも言うべき純粋な好奇心がそこにあった。*


ネメシス「ここにはオスとメスが一体ずつ揃っている。条件は満たしているだろう」


ギメイ(シロウ)「いや待て待て待て。お前、出会って何時間だと思ってんだ」


ネメシス「時間と交尾に何の関係がある? 獣は出会ってすぐに交尾するだろう」


ギメイ(シロウ)「俺は獣じゃない。人間だ」


ネメシス「先程、獣人だと言っていたが」


ギメイ(シロウ)「それはお前の設定だろうが!」


*彼は頭を抱えた。隣の部屋からはまだ声が漏れてきている。タイミングが最悪だ。*


ネメシス「数万年、何もない暗闇にいた。初めて味覚を知り、温かさを知った。ならば次は、あの声の正体を知りたい。それは自然な知的欲求だ」


ギメイ(シロウ)「理屈はそうかもしれんが……俺には嫁が3人いるんだよ。しかも1人は元熾天使で、1人は感情が昂ると国を滅ぼすタイプだ」


ネメシス「……強い雌がいるのか」


ギメイ(シロウ)「強いなんてもんじゃない。」


*ネメシスは少し考え込むように首を傾げた。尻尾がゆらゆら揺れている。*


ネメシス「では、交尾ではなく教育という名目ではどうだ。我はこの世界について何も知らぬ。人間の生態を学ぶ一環として――」


ギメイ(シロウ)「名目変えても本質は同じだろ!」


*彼は深くため息をついた。窓の外の星空が綺麗だった。こんな夜に何をやっているんだ、と自問する。*


ギメイ(シロウ)「……いいか、ネメシス。あれは好き合った者同士がやることなんだよ。興味本位でやるもんじゃない」


ネメシス「……好き合う?」


ギメイ(シロウ)「そうだ。相手のことが大切で、一緒にいたいと思って、それで……」


ネメシス「貴様は我の封印を解き、名前をくれ、飯を食わせ、空を見せると約束した。我はそれを……大切だと、思っているが」


*彼女の声が少しだけ小さくなった。金色の瞳が窓の外の星空に向いている。*


ギメイ(シロウ)「LikeとLoveは別の意味だからな、時間が経てば分かるだろうさ。」


*彼は異空間収納から布団を引っ張り出し、床に敷いた。ベッドは一つしかない。当然、ネメシスに譲るつもりだった。*


ギメイ(シロウ)「そんじゃ、おやすみ〜。」


*彼は布団に潜り込み、あっという間に寝息を立て始めた。迷宮31階層のソロ攻略と、根源体との戦闘。疲労は限界を超えていた。*


*ネメシスは窓辺に座ったまま、夜空を見上げていた。*


ネメシス「……Like、Love……」


*星の光が静かに降り注いでいる。数万年の闇の中では見ることのできなかった光だった。風が窓の隙間から入り込み、彼女の黒髪を揺らした。*


*隣の部屋の声はいつの間にか止んでいた。宿屋は静けさに包まれ、酔った冒険者の遠い笑い声だけが通りから聞こえてくる。*


*ネメシスは床で眠る彼を見下ろした。*


ネメシス「……封印を解き、名をくれ、飯を食わせ、空を見せると言った。その上、自分は床で寝る」


*彼女はベッドに触れた。柔らかい。こんなものがあるのかと思った。暗闘の繭の中に寝具などなかった。*


ネメシス「……ふむ」


*ネメシスはベッドではなく、布団の隣の床にそっと座った。背を壁に預け、膝を抱える。黒猫の尻尾がゆるりと彼の布団の端に触れた。*


ネメシス「……温かい、とは、こういうことか」


*小さな呟きは、誰にも届かなかった。*


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