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*彼は身体強化を施し、大学の正門を駆け抜けた。その脚は馬よりも速く、地面を蹴る度に砂埃が舞い上がる。ユキは上空を旋回しながら、鷹よりも素早く風を切っていた。*
*大学の敷地を出ると、彼はそのまま空へ飛び立った。ユキが嬉しそうにきゅいきゅい鳴きながら並走する。眼下に広がる中央大陸の景色が流れていく。*
*南へ向かうこと数十分。山岳地帯が見えてきた。険しい岩肌が連なり、雪を被った峰がいくつも聳え立っている。彼とユキは山の上を越えていった。*
*そして山脈を越えた瞬間、景色が一変した。*
シロウ「この辺は初めてだな……」
*眼下に広がっていたのは、見たことのない国だった。城壁に囲まれた大きな都市がいくつも点在し、石造りの立派な建物が並んでいる。街道は整備され、荷馬車が行き交っていた。*
*だが、よく見ると違和感があった。*
*街道の脇に、鎖で繋がれた人間の列が歩いていた。護衛の兵士が鞭を持ち、列を急かしている。奴隷の行列だ。それも一つや二つではない。あちこちに同じような光景が見えた。*
シロウ「……南大陸か」
*彼は鑑定を発動した。神眼の視界が広がり、眼下の都市の情報が流れ込んでくる。*
*――レグナール連邦共和国。人口約1,000万。統治形態は寡頭制。主要産業は鉱業と奴隷売買。人間種族のみで構成された国家。*
シロウ「完全な人間国家で、奴隷が主力か。服装の露出度が高いな……気温のせいか」
*確かに街を歩く人々の服装は薄着だった。男は上半身裸に近い者もおり、女性も胸元や脚を大胆に露出した衣服を身につけていた。気温は25度から27度ほど。過ごしやすいが、それにしても開放的だ。*
ユキ「きゅい……」
*ユキが低く鳴いた。鎖に繋がれた奴隷の列を見て、尻尾が下がっている。不快なものを感じ取ったらしい。*
シロウ「ああ……あんまり気持ちのいい光景じゃないな」
*彼は上空に留まったまま、都市の全体像を観察した。城壁の内側には大きな闘技場のような建物が見える。その周囲に奴隷市場らしき施設がいくつも建ち並んでいた。*
シロウ「一度奴隷になると家族ごと一生か……」
*彼は腕を組み、眼下の国を見下ろした。ここは夜天のアストライア魔導皇国の影響圏外だ。中央大陸とは山脈で隔てられた、全く別の世界だった。*
シロウ「この辺で飛ぶのは辞めておこう。雲の上に行こうか」
*彼とユキは高度を上げ、雲の上へ出た。眼下の国は厚い雲に隠れ、地上からは二つの影は完全に見えなくなった。*
シロウ「ちょっとこの星一周してみようか? ユキも来るだろ?」
ユキ「きゅいっ!」
*ユキは返事もそこそこに、翼を大きく羽ばたかせて先に飛び出した。戦闘機のような加速で雲を引き裂き、あっという間に豆粒ほどの大きさになる。*
シロウ「速っ……待てって!」
*彼も全力で追いかけた。二つの影が成層圏に近い高度を、凄まじい速度で駆け抜けていく。*
---
*南大陸を抜け、中央大陸の上空を通過した。眼下にアストライア魔導皇国の国土が一瞬見えた。世界樹の緑色の輝きが雲の隙間から覗いている。我が家だ。*
*そのまま北上し、北大陸へ。属国となった旧帝国の領土が広がり、さらに北方諸国の凍てついた大地が続く。氷原と雪山がどこまでも連なっていた。*
*北方諸国を越えると――景色が一変した。*
シロウ「……ここから先は、地図にない場所だな」
*彼の知る世界地図はここで途切れている。裏側の大陸。誰も記録していない未知の領域だ。*
*まず広がったのは、途方もなく巨大な砂漠だった。赤茶けた砂が地平線の果てまで続き、所々に奇妙な形の岩柱が聳えている。砂漠の中に、廃墟のようなものがいくつか見えた。古代文明の遺跡だろうか。*
*砂漠を越えると、今度は大海原が広がった。深い藍色の海に、大小様々な島が点在している。島の一つには港町らしきものが見え、帆船が何隻も停泊していた。*
シロウ「船だ。人が住んでるな」
*彼は神眼を発動した。情報が流れ込んでくる。*
*主要産業は漁業と交易。住んでいる種族は人間と、見たことのない鱗を持つ亜人種。*
シロウ「鱗を持つ亜人……竜人とは違うな。海棲の亜人か?」
ユキ「きゅい?」
ーー
*彼とユキは星を一周し、南大陸の上空へ戻ってきた。雲の上を悠々と飛んでいた、その時だった。*
*ドンッ!*
*下方から複数の魔法弾が撃ち上がってきた。火球、雷撃、風の刃。明らかに対空迎撃だった。*
シロウ「……っと」
*魔法弾は彼の常時展開している結界にぶつかり、全て無効化された。水滴が岩に当たるようなものだ。傷一つつかない。*
*だが意図は明確だった。牽制、あるいは撃墜しようとしている。*
シロウ「ユキ、早く帰ろう」
ユキ「きゅいっ」
*彼はユキを抱き寄せ、一気に高度を上げた。雲を突き抜け、南大陸から離脱する。背後でまだ何発か魔法が飛んできたが、もう届かない距離だった。*
*二つの影は山脈を越え、中央大陸へ戻っていった。*
---
*地上では、南大陸の国境守備隊が空を見上げていた。*
守備兵A「……逃げたか」
守備兵B「あれは何だった? 竜……か? それと、人間が一人」
守備兵A「山脈の向こうへ飛んでいった。北側だ」
*報告を受けた将校が、顎に手を当てた。*
将校「山脈の向こう側に、まだ見ぬ人間がいる……か」
*将校の目が細まった。その口元にはゆっくりと笑みが浮かんでいた。*
将校「……上に報告しろ。元老院が興味を示すだろう。山脈の北側に、未開拓の人間の領土がある可能性がある」
守備兵A「は、しかし……あの竜、相当な大きさでした。危険では?」
将校「竜の一匹や二匹、我が国の軍なら問題ない。それよりも重要なのは、あの山脈の先にある"資源"だ」
*将校が「資源」と言った時、その目は奴隷の行列を見る時と同じ色をしていた。*
将校「新しい"商品"が手に入るかもしれんな」
---
*彼とユキは夕暮れの中央大陸を飛び、アカデメイア総合大学の上空に戻ってきた。*
シロウ「ただいま」
*広場にふわりと着地すると、ユキがぱたぱたと翼を畳んだ。一日中飛び回って、さすがに疲れたのか、彼の腕の中でうとうとし始めた。*
シロウ「お疲れさん。今日は楽しかったな」
ユキ「きゅ……い……」
*ユキの目がとろんと閉じかけている。彼はユキを優しく抱え直した。*
シロウ「……それにしても、あの南大陸。こっちに来る気満々だったな」
*彼の脳裏に、地上から撃ち上がってきた魔法弾と、奴隷の行列が蘇った。あの国は確実に山脈の北側を狙ってくるだろう。*
シロウ「まあ、来たら来たで――」
*彼は肩をすくめた。それよりも今は、レイラとの夕飯の約束がある。*
*彼がレイラと合流したのは、食堂の近くの廊下だった。レイラの後ろに、また身なりのいい男子学生がついてきている。*
シロウ「あ、レイラ。またナンパされてたの?」
レイラ「妾が好きでされておるわけではないわ。虫が湧くのじゃ」
*後ろの男子学生が前に出てきた。金髪を撫でつけた、いかにも王族然とした青年だった。胸には貴族の紋章が光っている。*
王族学生「貴様が魔王か。レイラ殿にふさわしいのはこの俺だ。辺境の成り上がりが調子に――」
*男が拳を振り上げた瞬間、レイラの蹴りが腹に突き刺さった。*
王族学生「がっ……!」
*さらにレイラの肘が背中に落ち、膝が脇腹に入り、最後に足払いで地面に叩きつけられた。一連の動作は2秒もかからなかった。*
レイラ「妾の夫に手を出すな。次はないぞ」
*レイラがさらに顔面を踏みつけようとした。*
シロウ「顔はやめてあげてねー」
*彼は呑気に果実ジュースをストローで啜りながら言った。*
レイラ「ちっ」
*レイラが舌打ちし、足を下ろした。代わりに腹をもう一発蹴った。王族学生が蛙のような声を出して丸まった。*
王族学生「ぐ……お、覚えて……」
レイラ「覚えておけ。妾の名はレイラ・アストライア。夜天のアストライア魔導皇国の皇妃じゃ。お主の国がどこであろうと、妾の夫に手を出せば国ごと消し飛ばすぞ」
*王族学生の顔から血の気が引いた。アストライア魔導皇国の皇妃。その名は大陸中に轟いている。聖王国を単独で廃墟に変えた女傑の名だ。*
*王族学生は這うようにして逃げていった。*
レイラ「ふん」
*レイラが髪をかき上げ、彼の隣に並んだ。ユキが彼の肩の上で、きゅいっと小さく鳴いた。*
シロウ「お疲れ。ジュース飲む?」
レイラ「……貰う」
*レイラが彼のジュースのストローに口をつけた。間接キスを気にする様子もなく、むしろ当然のように啜っている。*
レイラ「……甘い」
シロウ「マンゴーだって」
レイラ「悪くない」
*レイラがストローから口を離し、ちらりと彼を見上げた。*
レイラ「それで、今日はユキと何をしておったのじゃ。随分長い散歩じゃったな」
シロウ「ああ、実はな――星を一周してきた」
レイラ「は?」
シロウ「大きな砂漠や海も広がってたなぁ……いつか行ってみたいもんだ」
レイラ「待て待て待て。星を一周とはどういう意味じゃ。お主、半日でこの星を一周したと言っておるのか?」
シロウ「まあ、ユキが速くてさ。ついていくのが大変だったよ」
レイラ「……妾を置いて行きおって」
*レイラが小さく唇を尖らせた。だがそれ以上は追及してこなかった。彼は南大陸で攻撃された件は黙っておくことにした。余計な心配をかけたくない。*
シロウ「そんなことより夕飯にしよう、頼んでおいたよ。特別王族コースだってさ。ユキの分もあるけど……眠そうだな……」
*彼の腕の中で、ユキがとろんとした目をしていた。一日中飛び回った疲れが出たらしく、小さな体がゆっくりと脱力していく。*
ユキ「きゅ……い……」
*ユキの目が完全に閉じた。すうすうと寝息が聞こえる。小さな翼がぴくぴくと動いている。夢の中でも飛んでいるのだろうか。*
レイラ「完全に寝おったな」
シロウ「疲れたんだろ。よく頑張ったよ」
*彼はユキを優しく抱え直し、レイラと並んで食堂へ向かった。夕方の食堂は昼ほど混んでいない。奥の個室に案内されると、テーブルには豪華な料理が並んでいた。*
*前菜のカルパッチョ、コンソメスープ、香草焼きの魚、メインの骨付きラムのロースト、デザートのフルーツタルト。王族コースの名に恥じない品々だった。*
レイラ「ほう……悪くないな」
*レイラの目がラムのローストに釘付けになっている。尻尾があったら振っているであろう表情だった。*
シロウ「ユキの分はどうするかな。冷めないように保温魔法かけとくか」
*彼はユキ用の皿に保温の魔法陣を刻み、テーブルの隅に置いた。ユキは椅子の上で丸くなり、完全に熟睡している。*
レイラ「……妾たちだけじゃな」
シロウ「ん?」
レイラ「二人きりの夕餉など久しぶりじゃと言っておるのじゃ。……別に嬉しくはないがな」
*レイラがぷいっと顔を逸らしながら、ワイングラスを手に取った。だが彼に一番近い席に座り直していた。*
シロウ「はいはい。嬉しくないのに耳が赤いぞ」
レイラ「う、うるさいわ! 早く食うぞ!」
*レイラがラムのローストに勢いよくナイフを入れた。彼は笑いながらワインを注いでやった。個室の窓から、夕焼けに染まる大学のキャンパスが見えた。*
ーー
*彼が訓練場に到着した時、既に数十人の学生が整列して待っていた。教官席にはルミナの姿もある。腕を組み、氷のような目で学生たちを睨んでいた。*
*彼はのんびりと訓練場の門をくぐった。*
シロウ「ごめーん、すっかり忘れてた〜」
*訓練場が一瞬静まり返った。*
学生A「……臨時講師が遅刻……」
学生B「しかも忘れてたって……」
ルミナ「お兄ちゃん。15分遅刻」
*ルミナの声は冷たかった。だが怒っているのではなく、呆れている。*
シロウ「いやぁ、今日ユキとどこ行こうかなって考えてたらさ」
ルミナ「……講義より遊びの計画を優先しないで」
*遠くの木陰で、メアとユキが戯れている。メアがユキの尻尾にじゃれつき、ユキがきゅいきゅい鳴きながらくるくる回っていた。完全にマイペースな二匹だった。*
*学生たちの視線が彼に集中している。SSランク冒険者の実践戦闘魔法論。大学中から聴講希望が殺到し、訓練場には正規の受講生以外にも野次馬が鈴なりになっていた。*
シロウ「えーっと、じゃあ始めようか。実践戦闘魔法論、第一回」
*彼はポケットに手を突っ込んだまま、学生たちの前に立った。*
シロウ「まず聞くけど、この中で実戦経験ある人ー」
*数人が恐る恐る手を挙げた。迷宮の低層階に潜った程度の経験者が大半だった。*
シロウ「じゃあ質問を変えよう。殺されかけたことある人ー」
*誰も手を挙げなかった。*
シロウ「だよね。じゃあ今日はそこからやろうか」
*彼がにっこり笑った。だがその笑顔を見た学生たちの背筋に、本能的な寒気が走った。*
シロウ「まず全員、俺に向かって全力で魔法を撃って。遠慮なく。殺すつもりで」
学生C「え……全員で、ですか?」
シロウ「うん。全員で。一斉に。本気で」
*学生たちが顔を見合わせた。数十人の魔法を一人で受けるという意味だ。*
レオナルド「……本気でいいんだな」
*レオナルドが前に出た。その目には昨日の屈辱が燃えている。彼に一矢報いる機会だと思ったのだろう。*
シロウ「うん、本気でいいよ。レオナルドくんも張り切ってるね」
*彼はポケットから手を出さず、訓練場の中央に立った。風が吹き抜ける。*
シロウ「じゃあ、どうぞ」
*数十人の学生が一斉に魔法を放った。火球、氷槍、雷撃、風刃、土弾。色とりどりの魔法が訓練場を埋め尽くし、彼に殺到する。*
*レオナルドの火球が一際大きかった。皇族としての魔力量は確かに高い。だが――*
*全ての魔法が彼の自動防御結界にぶつかり、パリンと音を立てて弾け散った。彼はポケットに手を突っ込んだまま、微動だにしていない。*
*訓練場が静まり返った。*
シロウ「結界は便利だよ〜みんなも習得しようね」
学生A「……全部弾かれた」
学生B「数十人の同時攻撃が、全部……?」
レオナルド「馬鹿な……俺の火球も掠りもしないのか……」
*彼はにこにこしながら、飛んできた魔法の残滓をひょいと手で掬った。そしてそれを空中に浮かせたまま、ぱくっと異空間収納に吸い込んだ。魔法がスポッと消えた。*
シロウ「異空間収納は個人の魔力量によって収納スペースが変わるけど、物を持ち歩かなくていいから便利だよ〜みんなも覚えようね〜」
*学生たちがぽかんと口を開けていた。ルミナが教官席で額を押さえている。*
ルミナ「……お兄ちゃん、教え方が雑すぎる」
シロウ「え、そう?」
学生C「あの……結界の張り方を教えてほしいんですけど」
学生D「異空間収納って、そんな簡単に言われても……」
シロウ「あー、じゃあ順番にやろうか。まず結界から」
*彼は片手を上げ、薄い光の膜を掌の上に展開した。*
シロウ「結界の基本は"ここを通すな"っていう意志だよ。壁を作るんじゃなくて、拒絶するイメージ。前の講義でも言ったよね、魔法の本質は意志だって」
*学生たちが一斉にメモを取り始めた。彼は掌の結界を指で突いてみせた。指が結界に弾かれる。*
シロウ「こんな感じ。最初は小さくていいから、自分の掌の上で練習してみて。拒絶の意志が強いほど、硬い結界になる」
*学生たちが恐る恐る掌を上げ、集中し始めた。だが誰一人として結界を展開できない。当然だ。結界魔法は上級魔法に分類される。*
レオナルド「くっ……集中しても何も起きない……」
学生E「意志って言われても、感覚がわからない……」
シロウ「じゃあ感覚を教えてあげるよ」
*彼がぱちんと指を鳴らした。瞬間、訓練場の全員の体に薄い殺気がかかった。SSランク冒険者の殺気。本気のものではない。だがその一端を浴びただけで、学生たちの体が凍りついた。*
学生たち「っ……!」
*本能的な恐怖が全身を支配する。死ぬ、と体が叫んでいる。その瞬間――レオナルドの掌に、微かな光の膜が揺らめいた。*
シロウ「お、レオナルドくん。出来かけてるよ」
レオナルド「え……?」
シロウ「"死にたくない"って思ったでしょ。それが拒絶の意志。結界の原型だよ」
*彼はSSランク冒険者の殺気を薄く纏いながら、学生たちの間をゆっくりと歩き始めた。*
シロウ「さぁ、張ってみようか? 大丈夫! 考えるな! 感じろ!」
*一歩近づく度に、殺気の密度が上がる。学生たちの顔が青ざめていく。呼吸が浅くなり、足が震え、歯がカチカチと鳴る者もいた。*
*だがそれは本能を呼び覚ます行為だった。「死にたくない」という根源的な拒絶。それこそが結界の種だ。*
学生A「う、うぅ……」
*彼が最前列の女子学生の前に立った。彼女は涙目で両手を前に突き出し、必死に何かを拒絶しようとしている。その掌に、微かに――本当に微かに、光の粒が揺らめいた。*
シロウ「お、いいね。あと少し」
*彼がもう一歩踏み出した。殺気が一段階上がる。*
女子学生「い、いやぁっ!」
*パリッ、と小さな音がした。彼女の掌に、指先ほどの小さな光の膜が展開された。結界だ。薄くて、風が吹けば消えるような脆い結界。だが確かに結界だった。*
シロウ「合格。上出来だよ」
*彼が殺気を解いた。女子学生がへたりと座り込み、涙を流した。*
女子学生「ひっ……ぐすっ……死ぬかと思いました……」
シロウ「死なない死なない。俺がいるから」
*彼は訓練場を見渡した。数十人のうち、掌に光の粒を出せた者が7人。うちレオナルドは拳大の結界を展開していた。流石に魔力量が違う。*
レオナルド「……これが結界か。だが、これでは攻撃一発すら防げない」
シロウ「最初はそんなもんだよ。でもレオナルドくん、センスあるね」
レオナルド「っ……褒められても嬉しくない」
*レオナルドが顔を逸らした。だがその手は結界を消さず、何度も展開と収束を繰り返していた。悔しさが練習に変わっている。いい傾向だ。*
シロウ「じゃあ次。結界を張れた人は維持する練習。張れなかった人はもう一回」
学生B「え、また殺気浴びるんですか……!?」
シロウ「うん。慣れるまで何回でもやるよ〜」
学生たち「「「えぇ……」」」
*遠くの木陰で、メアがユキの背中に乗ってきゅるきゅる鳴いている。ユキはきゅいきゅいと応えながら芝生の上を転がっていた。平和な光景だった。*
*ルミナが教官席から彼を見ていた。口元が僅かに緩んでいる。*
ルミナ「……教え方は脳筋だけど、結果は出してるわね」
*ルミナが小さく呟いた。初回の講義で上級魔法の結界を7人に芽生えさせた。普通なら半年かかる工程だ。荒療治にも程があるが、効果は抜群だった。*
シロウ「ちょっと休憩してから異空間収納編にいこうか」
*彼が手を叩き、15分の休憩を告げた。学生たちは一斉に崩れ落ちるように座り込んだ。殺気を浴び続けた精神的疲労は相当なものだ。何人かは顔面蒼白で水を飲んでいる。*
学生A「もう死ぬかと思った……3回も……」
学生B「俺なんか5回だぞ……足がまだ震えてる……」
レオナルド「……」
*レオナルドは壁に背を預け、黙々と掌の上で結界の展開と収束を繰り返していた。拳大だった結界が、既に片手サイズにまで広がっている。才能があるのは間違いなかった。*
*彼が訓練場の端で果実ジュースを飲んでいると、ルミナが歩いてきた。銀髪が風に揺れ、教員用のローブの裾がふわりと翻る。*
シロウ「お、ルミナ。今日の講義は?」
ルミナ「午前は休み。午後からよ」
*ルミナが彼の隣に立ち、自然と腕に手を絡めてきた。周囲の学生たちがぎょっとしたが、ルミナは一切気にしていない。*
ルミナ「お兄ちゃんの講義、見てたわ」
シロウ「どうだった?」
ルミナ「……初回で結界を7人に芽生えさせるなんて、普通は半年かかるのよ。方法は完全に脳筋だけど」
シロウ「褒めてるの? 貶してるの?」
ルミナ「褒めてるの。でも泣いてる子が何人もいたわ」
シロウ「あー……それは反省してる」
ルミナ「してないでしょ」
シロウ「してないかも」
*ルミナが小さく溜息をついた。だが口元は緩んでいた。彼の腕に頬を寄せ、すりすりと甘えてくる。学生たちの前だが、お構いなしだった。*
学生C「ルミナ先生があんな顔するの初めて見た……」
学生D「魔王の前だと別人じゃないか……」
ルミナ「聞こえてるわよ」
学生C・D「「すみません!」」
*ルミナの冷たい一瞥で学生たちが縮み上がった。だが彼の腕からは離れない。*
ルミナ「ねえ、お兄ちゃん。異空間収納の講義、私も補助していい?」
シロウ「お、助かる。俺の教え方だと泣く子が増えそうだし」
ルミナ「増えるわね、確実に」
*ルミナが彼の腕をきゅっと握った。講義を一緒にやりたかっただけだろう。教員として補助するという名目をつけているだけだ。彼にはそれが分かっていた。*
シロウ「じゃあよろしく、ルミナ先生」
ルミナ「……うん」
*ルミナの声が少しだけ甘くなった。木陰ではメアがユキの翼の下に潜り込んで昼寝を始めていた。*
*休憩を終え、学生たちが再び整列した。後半の講義を聞きに、他学部の教員たちも訓練場の観覧席に集まっている。魔物学のヴィクトールや、錬金術学部の教授、さらには学長のマグナスまでもが最後列に座っていた。*
シロウ「さて、では再開します」
*彼は訓練場の中央に立ち、右手を掲げた。*
シロウ「異空間収納とは簡単に言えば『空間ポケット』かな。空間をこうやってスパーッと切って……」
*彼の指先が虚空をなぞった。すると空間に亀裂が走り、薄い光の裂け目が現れた。裂け目の向こうには暗い空間が広がっている。*
シロウ「自分の魔力を注げば……はい! 完成〜。ね? 簡単でしょ?」
*彼が手を離すと、空間の裂け目はそのまま安定し、ポケットのように口を開けていた。*
*訓練場が沈黙した。*
*完全な沈黙だった。*
#学生たちが口をぱくぱくさせ、言葉が出てこない。観覧席の教員たちも同様だった。ヴィクトールが立ち上がりかけて、また座った。マグナス学長が口を開けたまま固まっている。*
ヴィクトール「……待ってくれ。今、空間を『切った』と言ったか? 空間干渉魔法は理論上存在するが、実用化された例は歴史上一度もない。それを指一本で……」
錬金術教授「いや、それ以前の問題だ。空間に魔力を注いで安定させるという発想自体が既存の魔法理論に存在しない。我々は空間を『歪める』ことしか考えてこなかった」
ヴィクトール「『切る』と『歪める』では根本的に違う……つまり我々の理論体系そのものが……」
*教員たちが頭を抱え始めた。数百年かけて構築してきた魔法理論の前提が崩されかけている。*
*学生たちはもっと素直だった。*
学生A「……先生、全然簡単じゃないんですけど」
学生B「空間を切るってどうやるんですか……」
レオナルド「……そもそも空間を認識する方法すら分からない」
*ルミナが一歩前に出た。*
ルミナ「補足するわ。お兄ちゃん……シロウ先生のやり方は、はっきり言って常人には無理よ。だから噛み砕いて説明するわね」
*ルミナが掌を上に向け、小さな光の球を作った。*
ルミナ「異空間収納の本質は、空間を『切る』のではなく、自分の魔力で小さな『部屋』を作ること。まず掌の上に魔力を球状に集めて。結界の要領でいいわ」
学生C「あ、それなら……さっきの結界と同じ感覚……」
ルミナ「そう。結界を球状にして、中を空洞にするイメージ。それが異空間収納の第一歩よ」
*学生たちの表情が変わった。さっきの結界の練習が活きている。何人かが掌の上で魔力を球状にしようと集中し始めた。*
シロウ「お、ルミナの説明のが分かりやすいな」
ルミナ「当たり前よ。お兄ちゃんは天才すぎて説明が下手なの」
シロウ「ひどい」
ルミナ「事実よ」
*ルミナが澄ました顔で言い切った。だが彼の隣に立つ位置は変えた。*
シロウ「んー、なら空間にファスナーが着いていると考えてみな。」
*彼がパチンと指を鳴らすと、異空間収納の出入口に――金属製のファスナーが現れた。*
*実際に存在するファスナーだった。銀色の歯がぎっしりと並び、引き手まで付いている。空間の裂け目に、まるで服のポケットのようにファスナーが取り付けられていた。*
シロウ「あとは自由に開け閉めするだけ。ね? 簡単でしょ?」
*彼がファスナーの引き手を摘んで、ジーッと引いた。異空間がぱっくり開く。もう一度引くと、ジーッと閉じた。*
*訓練場が再び沈黙した。だが今度の沈黙は先程と質が違った。*
学生A「……あ」
学生B「あ、なんか分かるかも……」
レオナルド「……ファスナー、だと? 馬鹿にしているのか」
*レオナルドが眉を寄せたが、その手は無意識に掌の前で指を動かしていた。ファスナーを引くように。*
*観覧席のヴィクトールが身を乗り出した。*
ヴィクトール「……待て。これは天才的な発想だ。空間の開閉を物理的なイメージに落とし込むことで、抽象的な魔法操作を直感化している。つまり……」
錬金術教授「イメージ補助か。空間を切るという概念が理解できなくとも、ファスナーを開けるという日常動作に置き換えれば――」
ヴィクトール「魔力操作の敷居が格段に下がる……!」
*教員たちがざわめき始めた。マグナス学長がメモを猛烈に取っている。*
*ルミナが目を丸くしていた。*
ルミナ「……お兄ちゃん、今のは私でも思いつかなかった」
シロウ「でしょ?」
ルミナ「悔しいけど、認めるわ。さっきの結界の殺気といい、このファスナーといい……教え方が型破りすぎるのよ」
*ルミナが学生たちの方を向いた。*
ルミナ「みんな、やってみて。掌の前に、ファスナーがあるとイメージして。それを開けるの。中に自分の魔力で作った空間がある、と思い込んで」
*学生たちが一斉に掌を前に出した。指でファスナーを引くような動作をする。滑稽な光景だった。だが――*
学生C「あ……何か、引っかかった……!」
*一人の男子学生の指先に、微かな空間の歪みが生じた。ファスナーの歯のように、空間が噛み合っている。*
シロウ「お、いいじゃん。そのまま引いてみて」
*学生が恐る恐る指を引いた。ジ、と小さな音がして、掌サイズの空間の裂け目が開いた。中は暗い。だが確かに異空間だった。*
学生C「で、できた……! できました!」
*訓練場がどよめいた。続けて2人、3人と成功者が出始める。全員がファスナーを引く動作をしていた。*
レオナルド「くっ……」
*レオナルドが歯を食いしばりながらファスナーの動作をした。彼の魔力量は高い。空間がビリッと裂け、拳大の異空間が開いた。*
レオナルド「……こんな子供騙しの方法で、本当にできるとは」
シロウ「子供騙しでも、できたならそれが正解だよ」
*彼がにっこり笑った。レオナルドが顔を背けたが、異空間を閉じずに何度も何度も試した。*
*講義終了の鐘が鳴った。訓練場に歓声が響き渡る。*
*最終的に、結界を展開できた者が15人。異空間収納を開けた者が11人。初回の実践講義としては異常な成果だった。学生たちは興奮冷めやらぬ様子で、互いの成果を見せ合っている。*
学生A「見て見て! ファスナー開けたらりんごが入った!」
学生B「俺も! 小さいけど異空間できた! 教科書入れてみよう!」
学生C「結界と異空間収納を同じ日に覚えるなんて、信じられない……」
*学生たちの目が輝いていた。上級魔法を自分の手で発動できた喜びに、疲労も忘れてはしゃいでいる。*
*一方――観覧席の教員たちは対照的だった。*
ヴィクトール「……私が空間魔法の論文を書くのに12年かかった。12年だぞ。それが、ファスナー……」
*ヴィクトールが両膝を着き、両手を地面についた。完全に四つん這いだった。*
錬金術教授「我々の空間歪曲理論は……あのファスナー一つで……」
*錬金術教授もがくりと膝を落とした。*
マグナス学長「……」
*マグナス学長だけは違った。目を爛々と輝かせ、講義が終わるや否や、凄まじい速度で訓練場に降りてきた。*
マグナス「シロウ先生! いや、シロウ殿!」
*学長が彼の前に立ちはだかった。両手で彼の手を握り、ぶんぶんと振った。*
マグナス「素晴らしい! 革命的だ! 空間魔法のイメージ補助理論、結界発動における本能刺激法――これらを是非、是非論文にさせていただきたい! アカデメイア紀要に掲載すれば、魔法学の歴史が変わる!」
シロウ「論文……?」
マグナス「共著で構いません! いや、シロウ殿の単著でも! 私が編集を担当しますから!」
*学長の勢いに彼が一歩引いた。その背中にルミナがぶつかる。*
ルミナ「学長、落ち着いて下さい。お兄ちゃんは論文なんて書いたことないわ」
マグナス「ならば口述で! 私が書き起こします!」
ヴィクトール「待ってくれ学長、空間魔法は私の専門だ。共同研究なら私も――」
錬金術教授「いや、空間の物理的イメージ化は錬金術の領分でもある。我が学部も――」
*教員たちが一斉に彼に詰め寄り始めた。膝を着いていた者たちも、研究者の本能が勝ったらしく目を血走らせている。*
シロウ「え、ちょ、ちょっと……」
ルミナ「はい、ここまで」
*ルミナが彼の前に立ち、冷たい声で教員たちを制した。*
ルミナ「論文の件は後日改めて。今日はお兄ちゃんも疲れてますので」
マグナス「し、しかし……」
ルミナ「後日、と言いました」
*ルミナの金色の目が冷たく光った。教員たちが一斉に引き下がる。元熾天使の威圧は教員たちにも効果抜群だった。*
*ルミナが彼の腕を取り、訓練所を出た。*
シロウ「午後はルミナの神聖魔法の講義聞きに行くよ。最前列で。」
*ルミナが一瞬足を止めた。彼の腕を掴んだまま、ゆっくりと振り返る。*
ルミナ「……最前列?」
シロウ「うん。最前列で聞くよ」
ルミナ「…………」
*ルミナの耳が僅かに赤くなった。彼女は前を向き直し、早足で歩き始めた。腕は離さない。むしろ力が強くなっている。*
ルミナ「……別に、来てもいいけど。お兄ちゃんが居ると学生が萎縮するから、隠匿神は使ってね」
シロウ「えー、堂々と聞きたいんだけど」
ルミナ「駄目。お兄ちゃんが最前列に座ったら、私が……」
シロウ「私が?」
ルミナ「……なんでもない」
*緊張して噛む、とは言えなかったらしい。ルミナは銀髪を揺らしながら大学の本館へと足を進めた。*
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*午後。第三講義室。*
*ルミナの『神聖魔法概論』は人気講義だった。100人収容の講義室が満席になり、立ち見の学生まで出ている。ルミナの美貌と実力、そして元熾天使という経歴が学生たちを惹きつけていた。*
*彼は隠匿神を発動し、最前列のど真ん中に座った。誰にも見えない。だがルミナには分かっている。彼女の金色の目が一瞬だけ最前列を見て、すぐに逸らした。*
ルミナ「では始めます。神聖魔法の第三回、『治癒と浄化の本質的差異』について」
*ルミナが教壇に立つと、空気が変わった。さっきまで彼の腕に甘えていた女性の面影はなく、凛とした教員の顔になっている。声は澄み渡り、講義室の隅まで通った。*
ルミナ「治癒魔法と浄化魔法は似て非なるもの。治癒は『元に戻す』こと。浄化は『取り除く』こと。この違いを理解していない者が多い」
*ルミナが右手を掲げた。掌に淡い金色の光が灯る。*
ルミナ「例えば、毒に侵された患者がいるとします。治癒魔法をかけたらどうなるか。――毒で壊れた細胞は修復されます。しかし毒そのものは体内に残る。つまり治癒だけでは根本的解決にならない」
*学生たちが一斉にペンを走らせた。ルミナの講義は理路整然としていて、無駄がない。彼の脳筋講義とは対極だった。*
ルミナ「では浄化魔法を先にかける。毒を取り除き、その後に治癒をかける。これが正しい手順です」
*ルミナが左手にもう一つの光を灯した。右手の金色と左手の白銀。二つの光が交互に輝き、講義室を幻想的に照らした。*
学生F「綺麗……」
学生G「ルミナ先生、天使みたい……」
*男子学生たちが見惚れていた。ルミナの銀髪が光に照らされ、まるで後光が差しているように見える。元熾天使だから、実際に後光なのかもしれない。*
*彼は最前列で腕を組み、妻の講義を聞いていた。ルミナの教え方は丁寧で論理的で、学生の理解度を確認しながら進めている。自分とは全く違うアプローチだ。*
*ルミナの視線が一瞬、最前列の「誰もいない席」に向いた。*
シロウ『こっち見んな、イタズラするぞ。』
*念話がルミナの頭に響いた。ルミナの肩がピクリと動いたが、表情は一切変えなかった。金色の目が冷たく講義室を見渡し、何事もなかったかのように講義を続ける。流石だった。*
ルミナ「――では実演します。この模擬傷に対して、まず浄化、次に治癒の順序で施術を行います。よく見ていなさい」
*ルミナが教壇の上に置かれた模擬用の肉片に手を翳した。白銀の光が汚染された傷口を洗い流し、次いで金色の光が傷を塞いでいく。二段階の施術が流れるように行われた。美しかった。*
*男子学生たちが見惚れている。その中の一人――身なりの良い青年が、講義の合間を縫って手を挙げた。*
男子学生「ルミナ先生、質問があります」
ルミナ「どうぞ」
男子学生「先生の神聖魔法は非常に美しいですが……その、講義の後にお茶でもいかがかと。より詳しくお話を伺いたいのですが」
*講義室がざわついた。直球のナンパだった。男子学生は貴族の子息らしく、自信に満ちた笑みを浮かべている。周囲の男子学生が「やるな」「度胸あるな」と小声で囁き合った。*
*ルミナの表情が1ミリも変わらなかった。*
ルミナ「お断りします」
男子学生「い、いや、まだ何も――」
ルミナ「質問があると言いましたね。講義内容に関する質問でないなら、私語は慎みなさい。次」
*氷点下の声だった。男子学生の顔が凍りつく。周囲の学生たちが一斉に目を逸らした。*
男子学生「で、ですが先生、私はカルデア伯爵家の――」
ルミナ「家名で人の時間を買えると思っているなら、認識を改めなさい。――それとも、この講義から退出しますか?」
*ルミナの金色の目が細められた。教室の温度が2度ほど下がった気がした。男子学生が椅子に沈み込み、二度と口を開かなかった。*
*最前列の「誰もいない席」で、彼は口元を手で押さえていた。笑いを堪えている。*
シロウ『ルミナ、容赦ないね〜』
*念話を飛ばした。ルミナは一切反応せず、何事もなかったように教壇のノートに視線を戻した。だがその耳が、ほんの僅かに赤い。*
ルミナ「では続けます。浄化魔法の応用として、呪術解除があります。これは通常の浄化とは異なり――」
*講義は滞りなく進んでいく。ルミナの声は澄み渡り、論理は明晰で、実演は美しかった。学生たちはペンを走らせ、時折感嘆の声を上げる。*
*彼は最前列で腕を組み、妻の横顔を眺めていた。自分以外の全てに冷たく、自分にだけ甘い。このギャップがたまらなく好きだった。*
*彼が隠匿神を解き、背後からルミナを抱きしめた。廊下に彼の姿が突然現れ、通りがかった学生が目を丸くして足早に去っていく。*
シロウ「んだよ、拗ねんなって可愛いやつめ」
ルミナ「……拗ねてない」
*ルミナの声は小さかった。だが体は正直で、彼の腕の中でぎゅっと力を抜いた。背中を彼の胸に預け、彼の手に自分の手を重ねる。*
ルミナ「……あの男たち、毎回毎回しつこいの。夫がいると言っても引かないし」
シロウ「まぁルミナが綺麗だからな。仕方ないよ」
ルミナ「お兄ちゃんのせいよ。隠匿神なんか使ってないで、隣に座ってくれたら誰も近づかないのに」
シロウ「え、俺のせい?」
ルミナ「そう。お兄ちゃんのせい」
*完全に理不尽だった。だがルミナが甘えた声を出している時に正論を返すのは悪手だと、彼は長年の経験で知っていた。*
シロウ「はいはい、俺が悪い。このあとどうする? 一緒にお風呂入る?」
*ルミナが彼の腕の中でぴくりと反応した。*
ルミナ「……大学にいるのよ? お風呂なんて――」
シロウ「転移で一瞬だよ。家の温泉、行こうぜ」
ルミナ「…………」
*数秒の沈黙。ルミナが彼の手をきゅっと握った。*
ルミナ「……ステラの講義が終わるまで、時間あるし」
シロウ「それは"入る"って事でいい?」
ルミナ「……好きにして」
*ルミナが顔を逸らした。耳の先まで真っ赤だった。彼はにやりと笑い、ルミナの腰に手を回して転移魔法を発動した。*
*一瞬で、アストライア魔導皇国の西部旧市街地にある源泉温泉施設に到着する。平日の昼過ぎ、貸切状態だった。湯気が立ち込める脱衣所に二人きり。*
ルミナ「……お兄ちゃん」
シロウ「ん?」
ルミナ「今日の講義、見てくれてありがとう」
*ルミナが彼の胸に額をくっつけた。声が少しだけ震えていた。*
ルミナ「お兄ちゃんが見てると思ったら、ちょっとだけ緊張したけど……嬉しかった」




