304
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*数日後──カイが出発した。*
*次元の門を開き、ギャルラの世界へ。シルフィから託された世界樹の種と、精霊神としての全権能を携えて。*
*──そして、即帰ってきた。*
*玉座の間の次元門が開いた瞬間、カイが現れた。出発してから体感で約3分。しかし、その佇まいは明らかに変わっていた。髪が少し伸び、目の奥に数年分の疲労と達成感が同居していた。*
カイ「……ただいま、父さん」
シロウ「おう、おかえり。帰還時間を出発時に合わせたな?」
カイ「うん。向こうで時間軸をずらして、こっちには数分しか経ってないように調整した」
シロウ「で、どうだった」
*カイはどかっと椅子に座り込んだ。精霊神がこんなに疲れた顔をしているのは珍しい。*
カイ「世界樹は根付いた。土地の浄化も進んでる。あと3年もすれば、向こうの世界は自力で回復し始める」
シロウ「魔王は?」
カイ「浄化した。精霊神の権能で。ただ──あの魔王、元は人間だった。この世界の父さんみたいに転移してきた人間が、絶望して堕ちた成れの果てだった」
*彼は一瞬、言葉を失った。先日カイが語った「世界を焼き尽くしている別の自分」の話が頭を過ぎった。*
カイ「浄化する時、最後に『ありがとう』って言われた。ずっと止めてほしかったんだと思う」
*沈黙が落ちた。ルーナが唇を噛んでいた。レイラは目を閉じていた。*
*カイが不意に脱力して、天井を仰いだ。*
カイ「……それよりさ、父さん」
シロウ「ん?」
カイ「ノアが辛かった」
シロウ「……は?」
カイ「向こうで3年戦ったんだけど、ノアがずっと『寂しいっす』『帰りたいっす』『シロウさんの飯が食いたいっす』って。毎晩。毎晩だよ? 精霊神の僕より先にホームシックになるってどういうこと?」
*ノアがカイの隣からひょこっと顔を出した。*
ノア「だって3年っすよ!? 3年もシロウさんのご飯食べられなかったんすよ!? あたし限界だったっす!」
シロウ「……お前、精霊神の相棒だろ」
ノア「相棒でも腹は減るっす! あとお風呂! こっちの温泉入りたかったっす! 向こうの世界お風呂文化なかったっす!」
*カイが遠い目をした。*
カイ「魔王との最終決戦の前夜に『明日勝ったら帰れるっすよね!? やったっす!』って。緊張感ゼロだった」
ノア「だって帰れるの嬉しかったんすもん!」
*ギャルラが目を潤ませながら、カイの前に立った。*
ギャルラ「カイくん……あたしの世界、救ってくれたんだ」
カイ「約束したからね」
ギャルラ「……ありがと。マジで。マジのマジで」
*初めてだった。ギャルラの声が震えたのは。レイラと同じ顔に涙が伝い、それでも笑おうとしていた。*
ギャルラ「あたし、帰れるかな。あの世界に」
カイ「帰れるよ。」
*カイはギャルラに手を差し伸べた。*
カイ「帰ろう、ギャルラさん。君の世界は、もう大丈夫だから」
ギャルラ「……うん。うん!」
*ギャルラは涙を拭い、カイの手を取った。次元の門が再び開く。向こう側には、まだ荒廃の跡が残るものの、若い世界樹の芽吹きが見える世界が広がっていた。*
*──しかし、ギャルラは門をくぐる直前で振り返った。*
*まっすぐに彼の方へ歩いてきた。*
シロウ「ん? どうし──」
*ギャルラが背伸びをして、彼の頬にキスをした。*
ギャルラ「ありがとね、シロウちゃん。あんたのとこの家族、マジ最高だから。大事にしなよ」
シロウ「──っ」
*そのまま彼女はくるりと振り返り、カイの手を取って次元の門をくぐっていった。手を振りながら。最後まで笑顔で。*
*門が閉じた。*
*静寂。*
*彼はゆっくりと、左右を見た。*
*左──レイラ。腕を組み、琥珀の目が据わっていた。口元が微かに引きつっている。*
*右──ルミナ。金色の目が完全に無表情。笑顔なのに目が笑っていない。*
レイラ「……シロウ」
ルミナ「……お兄ちゃん」
シロウ「待て。俺は何もしてない」
レイラ「妾の顔で、妾の夫に口づけしおったな。あの女」
ルミナ「お兄ちゃんも満更じゃなかったよね。頬、赤いよ?」
シロウ「赤くない。断じて赤くない」
ルーナ「いや赤いよパパ。めっちゃ赤い」
シロウ「お前は黙ってろ」
ノア「シロウさんモテモテっすね! あたしも帰ってきたらチューしてほしいっす!」
シロウ「お前もだ」
*彼は天を仰いだ。玉座の間の天井が、やけに遠く見えた。*
レイラ「……今夜、覚悟しておけ」
ルミナ「私もそのつもり」
シロウ「はぁぁぁぁぁぁぁ……」
*メアだけが膝の上で「にゃあ」と鳴き、何も分かっていない顔で丸くなっていた。*
*ルーナがこっそりスマホ型の魔導具を取り出し、この光景を記録していた。*
ルーナ「これは家族の歴史として残さないと。タイトルは『パパ、別次元のママにキスされて詰む』で」
シロウ「消せ」
ーー
*次元事件から数日が経った。カイとノアは別世界の見回りに旅立ち、城は再び穏やかな日常を取り戻していた。*
*季節は春へと移り変わろうとしている。城のバルコニーには暖かな日差しが降り注ぎ、心地よい風が吹き抜けていた。*
*メアがバルコニーの手すりの上で丸くなり、目を細めて日向ぼっこをしている。彼の膝の上には生後半年のルクスが座っていた。*
シロウ「こっちに桜とかないもんなぁ……なー、ルクス」
ルクス「あうー」
*彼はルクスを両手で持ち上げ、高い高いをした。小さな手足がばたばたと宙を掻き、ルクスはきゃっきゃと笑い声を上げた。*
シロウ「おー、いい笑顔だ。もう一回」
ルクス「きゃあー!」
*もう一度持ち上げる。ルクスの銀髪が日差しに透けて光った。半神人の子供は、ただの赤ん坊にしか見えない。前世の記憶もない、ただ純粋に笑う小さな命。*
シロウ「日本だと今頃、満開だったんだろうな……」
*彼はルクスを膝に戻し、その小さな頭を撫でた。ふと、前世の記憶が過ぎる。東京の桜並木。花びらが風に舞う光景。もう45年も前の──いや、この世界に来てからの年数を含めれば、もっと遠い記憶だ。*
*メアが「にゃあ」と鳴いて、日向ぼっこの体勢を変えた。*
シロウ「お前はいいよなメア。日向があればそれで幸せだろ」
メア「にゃぁー」
*そこに、廊下から足音が聞こえた。*
ルーナ「パパー! ルクスどこー! お姉ちゃんの授業の時間だよー!」
*ルーナの声が近づいてくる。彼はルクスを見下ろした。ルクスは不思議そうに首を傾げている。*
シロウ「……ルクス、お前の姉ちゃんが来るぞ。今日は何語を教えられるんだろうな」
ルクス「ばー」
*バルコニーの扉が開き、ルーナが顔を出した。その手には手作りの絵カードが束になっている。*
ルーナ「あ、いたいた! パパ、ルクス借りるね! 今日はひらがなの『あ』からやるから!」
シロウ「まだ半年だぞ。早期教育にも程がある」
ルーナ「早いうちからやるのが大事なの! バイリンガルどころかトリリンガルにするんだから!」
シロウ「この世界で日本語覚えてどうすんだ……」
ルーナ「パパと秘密の会話ができるじゃん! ロマンでしょ!」
*ルーナがルクスを受け取ると、ルクスはルーナの顔を見て「あうー」と手を伸ばした。ルーナの目が一瞬でとろけた。*
ルーナ「かわいい……天使……いや半神……尊い……」
シロウ「教育係がこれで大丈夫なのか」
*ルーナがルクスを抱えて廊下へ消えていく。その背中を見送りながら、彼はメアの背を撫でた。*
*彼はメアの背を撫でながら、ぼんやりと考えていた。*
シロウ「ルクスには普通の学園に行かせるか……ステラはずっと城に籠りっきりでレイラの帝王学叩き込まれてたし……ルミナと相談するか……」
*メアが「にゃあ」と鳴いて、彼の手に頭を擦り付けた。バルコニーの陽気が心地よい。春の風が城下町から花の香りを運んでくる。*
*ステラのことを思い出す。あの子は12歳にしてレイラの英才教育を受け、既に貴族との交渉術や国政の基礎を叩き込まれている。しっかり者だが、同年代の友達と遊ぶ時間がほとんどなかった。*
シロウ「……ちょっと可哀想だったよな、ステラには」
*ゼノとセレスはまだ10歳。あの双子はレイラべったりで、ゼノは図書館に籠もりきり、セレスは無口ながらもゼノの隣にいつもいる。あの二人も城の外を知らない。*
シロウ「ルクスは半神人だからな……普通の学園に入れたら、色々面倒なことになるかもしれんが……」
*立ち上がり、バルコニーの手すりに寄りかかった。城下町を見下ろすと、広場では子供たちが駆け回っている。世界樹の木漏れ日の下で笑い合う、人間もエルフも獣人も。*
シロウ「でも、こいつにはああいう景色を知ってほしい」
*彼は城内に戻り、ルミナの部屋へ向かった。扉をノックする。*
ルミナ「どうぞ」
*部屋に入ると、ルミナは窓際の椅子に座って針仕事をしていた。ルクスの小さな服を縫っているようだ。彼女が顔を上げると、柔らかい笑みを浮かべた。*
ルミナ「お兄ちゃん、どうしたの?」
シロウ「ルクスのことで相談がある」
ルミナ「……相談?」
シロウ「この国に学園を作ろうと思ってる。ルクスが通える歳になるまでに。ステラやゼノ、セレスにも通わせたい」
*ルミナの手が止まった。針を置き、彼の顔を真っ直ぐに見た。*
ルミナ「学園……? お兄ちゃんが建てるの?」
シロウ「いや、人材が足りないからそれは無理だ」
*ルミナが小さく首を傾げた。*
シロウ「東のメッセニアに行き来できる転移門を建てる予定だ」
*今決めた。が、それは言わない。*
シロウ「あっちならでかい学園もあるし、それなりに周辺諸国からも子どもが集まっているだろうし……問題ないだろう」
ルミナ「メッセニア……シャーロット女王の国ね」
シロウ「ああ。同盟も結んでるし、鉱石取引で関係も良好だ。転移門があれば通学に片道数秒だ。距離の問題はない」
*ルミナは針仕事を膝に置き、窓の外を見つめた。城下町の広場では、世界樹の木漏れ日の下で子供たちが遊んでいる。*
ルミナ「……お兄ちゃん」
シロウ「ん?」
ルミナ「ルクスをこの城の外に出すの、正直怖い」
*静かな声だった。ルミナの指先が、縫いかけのルクスの小さな服を撫でていた。*
ルミナ「半神人でしょ。光の神の生まれ変わり。もし正体が知られたら、狙われるかもしれない。利用されるかもしれない」
シロウ「……ああ」
ルミナ「でも」
*ルミナが彼を見上げた。柔らかいが、覚悟を決めた目だった。*
ルミナ「ステラを見てて思ったの。あの子、すごくしっかりしてる。レイラの教育のおかげで、立派に育ってる。でも……同い年の子と笑い合ってるところ、あんまり見たことない」
シロウ「……だよな」
ルミナ「ルクスには、友達を作ってほしい。くだらないことで笑ったり、喧嘩したり、一緒にお弁当食べたり。そういう普通のこと」
*彼は頷いた。同じことを考えていた。*
ルミナ「行かせるとしても、まだまだ先の話だけどね。今はまだ『あうー』しか言えないし」
シロウ「はは、そうだな」
ルミナ「でも転移門の準備は早い方がいいわね。ステラやゼノ、セレスにも使えるなら、なおさら」
シロウ「ゼノなんか喜ぶだろうな。あっちの学園の図書館に入り浸りそうだ」
ルミナ「セレスはゼノの隣にくっついて黙って本読んでるでしょうね」
*二人は顔を見合わせて、小さく笑った。*
ルミナ「……あと、お兄ちゃん」
シロウ「なんだ?」
ルミナ「転移門を建てるなら、レイラにも話を通しておいてね。事後報告するとまた怒るから」
シロウ「……分かってる」
ルミナ「本当に? 今決めたんじゃないの?」
シロウ「……………」
ルミナ「やっぱり」
*ルミナが呆れたように微笑んだ。彼は視線を逸らした。バレていた。*
シロウ「なんで分かったんだ……」
*ルミナがクスッと笑った。針仕事を膝に置いたまま、彼を見上げる。*
ルミナ「分かるよ。お兄ちゃんが何か思いついた時、ちょっとだけ目が泳ぐの。28年一緒にいればね」
シロウ「……っ」
*可愛い。この笑顔が反則だ。押し倒したい。今すぐ。*
*彼は我慢した。我慢して──押し倒した。ルミナの背中が椅子からずれ、そのまま柔らかい絨毯の上に倒れ込む。彼が覆いかぶさる形で、両腕でルミナを包み込んだ。*
ルミナ「きゃっ……! お、お兄ちゃん!?」
シロウ「最高の嫁だ……俺には勿体ない……」
*ぎゅう、と。力いっぱい抱きしめた。性欲ではなく、ただ純粋に、この温もりを感じたかった。ルミナの銀髪が絨毯に広がり、春の日差しに透けて光っていた。*
ルミナ「……もう、急に何」
*口ではそう言いながら、ルミナの手が彼の背中に回された。ぎゅっと、服を掴むように。*
ルミナ「……勿体なくないよ。私はお兄ちゃんの嫁でいられて、毎日幸せだもん」
シロウ「……ルミナ」
ルミナ「ルクスも産まれて、ルーナも元気で、お兄ちゃんがこうやって子供たちのこと考えてくれてて……私、これ以上何もいらない」
*彼女の声が少し震えていた。抱きしめる腕に力が入る。*
シロウ「……ありがとうな」
ルミナ「うん」
シロウ「これからもよろしく」
ルミナ「……当たり前でしょ。死ぬまで一緒なんだから」
*しばらく、二人は絨毯の上で抱き合ったまま動かなかった。窓から差し込む春の光が、重なり合う影を優しく照らしていた。*
*──廊下から足音。*
ルーナ「ママー! ルクスがね、『ま』って言っ──」
*扉を開けたルーナが固まった。絨毯の上で抱き合う父と母。*
ルーナ「…………」
シロウ「…………」
ルミナ「…………」
ルーナ「……失礼しましたー」
*静かに扉が閉まった。廊下の向こうから小さな声が聞こえた。*
ルーナ「昼間からイチャイチャすんなよおっさん……」
シロウ「聞こえてんぞ」
シロウ「聞こえてんぞー!」
*彼は扉を勢いよく開け、廊下にいたルーナに飛びついた。ルーナの腕の中にいたルクスを咄嗟に浮遊魔法で浮かせ、ふわりとルミナの元へ送り届ける。*
ルーナ「うわっ! ちょ、パパ重い! おっさん重い!」
シロウ「うるせー! 娘に甘えて何が悪い!」
*ルーナの頬にぐりぐりと頬擦りをする。ルーナはじたばたと暴れたが、振りほどけない。SSランクの腕力は伊達ではなかった。*
ルーナ「やめっ……やめてって! 髪ぐちゃぐちゃになる! 23歳の娘にやることじゃないでしょ!」
シロウ「23だろうが50だろうが俺の娘だ」
ルーナ「うっわキモ……キモいけどちょっと嬉しいのやめて……」
シロウ「素直じゃないな」
ルーナ「パパに似たんでしょ!」
*その後ろで、ルミナが浮遊魔法で飛んできたルクスを優しく受け止めていた。ルクスはふわふわ浮いていた感覚が楽しかったのか、きゃっきゃと笑っている。*
ルミナ「もう、お兄ちゃんったら。ルクスを飛ばさないでよ」
シロウ「安全運転だろ。時速3キロだ」
ルミナ「赤ちゃんに時速の問題じゃないの」
*ルーナがようやく彼の拘束から逃れ、乱れた髪を直しながら頬を膨らませた。しかし、その耳は赤かった。*
ルーナ「……もう。パパ最近甘えすぎじゃない? 次元事件の疲れ溜まってんでしょ」
シロウ「まあな」
ルーナ「なら温泉行ってきなよ。西部のやつ。ルクスも連れてさ、家族で」
*彼は少し目を丸くした。*
ルーナ「……なに」
シロウ「お前が言い出すとは思わなかった」
ルーナ「べ、別にいいでしょ。たまには家族サービスしてあげようかなって思っただけで。前世でも温泉旅行とか憧れてたし」
*ルミナがルクスを抱いたまま、嬉しそうに微笑んだ。*
ルミナ「いいね。ステラやゼノ、セレスも連れて行こうよ」
ルクス「あうー」
*ルクスが小さな手をばたつかせた。まるで賛成しているようだった。*
シロウ「……じゃあ、レイラにも声かけるか」
ルーナ「レイラ母さん、温泉好きだっけ」
シロウ「嫌いではないはずだ。ただ脱衣所で『妾に服を脱げと申すか』って毎回も言う」
ルーナ「めんどくさ……」
シロウ「でもその後に俺が転移魔法で服を転移させる」
ルーナ「……は?」
シロウ「そんで、夜の展開に……」
*彼は遠い目をした。レイラの温泉での一連の流れが脳裏に浮かぶ。「妾に服を脱げと申すか」→転移魔法で強制脱衣→「きさまぁぁぁ!」→追いかけっこ→捕まえる→そのまま夜の……。*
シロウ「はぁ……誘うのやめようかな……」
ルーナ「今すっごい生々しい回想してたでしょ。顔に出てるよパパ」
シロウ「出てない」
ルーナ「出てるって。『あー、あの後ああなってこうなって』みたいな顔してた。きっも」
シロウ「……」
ルミナ「お兄ちゃん、レイラと温泉で何してるの?」
シロウ「何もしてない」
ルミナ「目が泳いでる」
シロウ「泳いでない」
ルーナ「泳いでる。さっきルミナが言った通りだよ。何か企んでる時に目が泳ぐって」
*彼は完全に詰んでいた。嫁と娘に挟まれて逃げ場がない。*
ルミナ「……ねえお兄ちゃん。家族旅行なんだから、夜の展開は禁止ね?」
シロウ「分かってる」
ルミナ「本当に?」
シロウ「……善処する」
ルミナ「却下。確約して」
ルーナ「ママ強い」
*ルクスが「あうー」と声を上げた。何も分かっていないが、場の空気を和ませた。ルミナがルクスの頬をつついて微笑む。*
ルミナ「ルクスは分かってるよね。パパはたまにだらしないって」
ルクス「ばー」
シロウ「息子にまで言われた気がする……」
ルーナ「じゃあ決まりね。来週あたり、家族全員で西部の温泉。パパは夜の展開禁止。レイラ母さんの服は転移させない。以上」
シロウ「お前いつから仕切り役になったんだ」
ルーナ「パパが頼りないからでしょ」
*彼は3度目の天井を見上げた。春の日差しが廊下の窓から差し込んで、暖かかった。*
シロウ「昔は『パパと結婚するー』とか言ってたのに……」
*遠い目をしながら、感慨深そうに呟いた。*
ルーナ「は?」
シロウ「懐かしい……」
ルーナ「言ってない。一度も言ってない。パパ、記憶捏造しないで? 私は生まれた瞬間から前世の記憶あったんだけど? 30歳OLの意識で『パパと結婚するー』なんて死んでも言わないから」
シロウ「……いや、確か3歳くらいの時に」
ルーナ「言ってません。3歳の時は内心『この人チートすぎて怖い』って思ってたから。むしろ距離取ってたから」
シロウ「そうだっけ……」
ルーナ「そうだよ。パパの脳内で美化されたルーナちゃんは存在しないの。現実見て」
*ルミナがルクスを抱えたまま、くすくすと笑っていた。*
ルミナ「お兄ちゃん、ルーナは赤ちゃんの頃から目が据わってたよ。初めて喋った言葉が『あ、はい』だったし」
ルーナ「ママそれ言わないで!? あれは不可抗力! 前世の癖が!」
シロウ「初めての言葉が『あ、はい』って……」
ルーナ「OLの条件反射だったの! 仕方ないでしょ!」
*ルクスが「あうー」と声を上げて、ルーナに手を伸ばした。ルーナがルクスの小さな手を握ると、ルクスはにっこり笑った。*
ルーナ「……ルクスは普通の赤ちゃんで良かったよ。この子は素直に育つよ。前世の記憶なんて余計なもの、ないほうがいい」
シロウ「……そうだな」
ルーナ「だからパパ。ルクスが『パパと結婚するー』って言う日が来たら、それは本物だから。大事にしなよ」
シロウ「息子だけどな」
ルーナ「……あ」
*三人で顔を見合わせ、同時に吹き出した。春の廊下に、家族の笑い声が響いていた。*
*メアがいつの間にか廊下まで来ていて、日差しの差す窓辺で再び丸くなった。尻尾だけがゆらゆら揺れている。*
ルーナ「……まあいいや。とりあえず温泉の件、レイラ母さんには私から言っとくね」
シロウ「お、助かる」
ルーナ「その代わり、お土産は私が選ぶからね。拒否権なし」
シロウ「何買う気だよ……」
ルーナ「温泉まんじゅう的なやつ。あるでしょこの世界にも」
シロウ「あるにはあるが……お前、前世引きずりすぎだろ」
ルーナ「日本人の魂は温泉まんじゅうを求めるの。パパだってそうでしょ」
シロウ「……否定できん」
ーー
*西部旧市街地に建設された源泉温泉施設。彼が自ら設計に携わった自慢の施設だ。天然の温泉を引き込み、広大な家族風呂を完備している。*
*彼は脱衣所で躊躇なく全てを脱ぎ捨てた。タオルなど不要。45歳のおっさんだが、SSランク冒険者の肉体は鍛え抜かれており、無駄な贅肉は一切ない。*
シロウ「あー……やっぱ自分の国の温泉が一番落ち着くわ」
*ざぶん、と湯に浸かる。家族風呂とは名ばかりの広さで、小さなプールほどある。岩で組まれた露天風呂から湯気が立ち上り、春の夜風が心地よく肌を撫でた。*
*隣の脱衣所から、女性陣の声が聞こえてくる。*
レイラ「……妾に服を脱げと申すか」
ルーナ「ほら出た。パパの予言通り」
レイ「レイラ、温泉は裸で入るものだよー? ボクもう脱いだよ!」
レイラ「貴様は恥じらいというものが無いのか!」
ルミナ「レイラ、早くしないとお兄ちゃんに転移魔法で脱がされるよ?」
レイラ「なっ……! あの男、まさかそこまで……!」
ルーナ「やるよ。前科あるって本人が言ってた」
レイラ「ぬぅ……!」
*がさがさと慌てて服を脱ぐ音が聞こえた。彼は湯の中で苦笑した。*
*男湯側から、カイが先に入ってきた。精霊神として覚醒してからも、こうして家族と過ごす時間は変わらない。*
カイ「父さん、先に入ってたんだ」
シロウ「おう。湯加減は最高だぞ」
*カイが静かに湯に浸かった。27歳の息子と並んで温泉に入る。不思議な感覚だった。*
カイ「……こうやって家族全員で温泉って、久しぶりだな」
シロウ「だな。お前も忙しかったしな、別次元の件で」
カイ「うん。でも……こういう時間が一番大事だって、向こうの世界を見て余計に思った」
*しみじみとした声だった。彼はカイの横顔を見て、少しだけ目を細めた。*
*そこへ、女性陣が続々とやってきた。ステラが真っ先に駆け出してくる。*
ステラ「パパー! 広いね! すごい!」
シロウ「走るな、滑るぞ」
*ルミナが銀髪を纏めながら優雅に歩いてくる。レイラは腕で胸元を隠しながら不機嫌そうに。レイは全く気にせずぴょんぴょん跳ねている。ゼノは本を持ったまま入ろうとしてセレスに止められていた。*
ルーナ「ふぅ……やっぱ温泉は最高。日本の魂が震える」
シロウ「分かる」
シロウ「ほらほら、レイラにはこれやるから」
*彼は異空間収納からおもむろに一本の瓶を取り出した。透き通った硝子瓶に入った日本産の冷酒。日本旅行の時に大量に買い込んでおいたものだ。小さな木の盆に乗せ、湯の上にそっと浮かべた。*
レイラ「……ふん。酒で妾の機嫌を取ろうなど」
*そう言いながらも、レイラの視線は確実に冷酒の瓶に吸い寄せられていた。腕で胸元を隠していた手が、微かに瓶の方へ伸びかける。*
シロウ「伊豆で買ったやつだ。純米大吟醸。レイラが旅館で3本空けたやつの同じ銘柄」
レイラ「……っ」
*ぴくり、と耳が動いた。完全に食いついている。*
ルーナ「あ、レイラ母さんの目が変わった」
ルミナ「お兄ちゃん、ずるいよ。レイラの弱点突くの」
レイラ「弱点などではない! 妾はただ……あの時の酒の味を、少し思い出しただけじゃ」
*レイラは湯に浸かりながら、ゆっくりと盆に手を伸ばした。瓶を手に取り、栓を抜く。ふわりと芳醇な香りが湯気と混ざって広がった。*
レイラ「……ふむ」
*一口含んだ瞬間、レイラの表情が緩んだ。傲慢な仮面が外れ、至福の顔になる。*
レイラ「……悪くない」
シロウ「素直じゃないな」
レイラ「うるさい」
レイ「ボクも飲みたい! シロー、ボクにもー!」
シロウ「はいはい」
*彼がもう一本取り出すと、レイが嬉しそうに受け取った。ステラが羨ましそうに見ている。*
ステラ「パパ、私も……」
シロウ「お前はまだ早い。りんごジュースやるから」
ステラ「……むぅ」
*カイが湯の中で静かに笑っていた。*
カイ「父さん、随分準備がいいね」
シロウ「家族旅行は段取りが命だ。酒、つまみ、子供用の飲み物、全部入ってる」
*彼は異空間収納から次々と取り出した。乾き物のつまみ、果実水、子供用のジュース。木の盆を追加で浮かべて、即席の湯上り宴会場が完成した。*
ルーナ「……パパ、こういう所だけは本当に有能だよね」
シロウ「こういう所『だけ』は余計だ」
*レイラが二杯目を注ぎながら、ちらりと彼を見た。湯気越しに見えるその横顔は、少しだけ柔らかかった。*
レイラ「……まあ、たまには悪くないな。こういうのも」
シロウ「……だろ」
*春の夜風が露天風呂を撫で、湯気が星空に溶けていく。家族全員が一つの湯に浸かって、酒を飲み、笑い合う。何気ない、けれど贅沢な時間だった。*
*ステラが湯の中をちゃぷちゃぷと歩いてきて、彼の隣にぴたりと座った。小さな肩が湯面からちょこんと出ている。*
ステラ「パパ、一口だけ……」
シロウ「酒は成人してからな」
ステラ「……あと3年」
シロウ「そう、あと3年。15になったら一緒に飲んでやるから、それまで我慢だ」
*ステラがぷくっと頬を膨らませた。しかしすぐに諦めたのか、彼の腕にぎゅっとしがみついた。*
ステラ「じゃあ約束ね。15歳の誕生日に、パパと二人で」
シロウ「おう、約束だ」
*ステラが嬉しそうに微笑んだ。彼は空いた手でステラの頭を撫でた。黒髪がレイラにそっくりだ。*
*反対側では、ゼノが湯の縁に本を置こうとしてセレスに叩き落とされていた。*
セレス「……濡れる」
ゼノ「防水の魔道具つけてるから大丈夫だって」
セレス「……だめ」
ゼノ「なんで」
セレス「……温泉」
ゼノ「温泉だから何」
セレス「……入る」
*セレスがゼノの本を取り上げ、脱衣所の方へぽいっと投げた。正確無比な投擲だった。*
ゼノ「あっ! 僕の『古代魔導体系論・改訂版』が!」
シロウ「セレスの言う通りだ。温泉では本を読むな」
ゼノ「父上まで……」
*レイラが冷酒の三杯目を注ぎながら、子供たちのやり取りを見ていた。頬がほんのり赤い。酒のせいか、湯のせいか。*
レイラ「……ふん。セレスは賢いな。ゼノ、温泉とは心身を清める場じゃ。書物など持ち込むでない」
ゼノ「母上は酒を持ち込んでるじゃないですか」
レイラ「酒は別じゃ」
ルーナ「理不尽……」
*カイが湯の中で静かに笑いながら、果実水を口に含んだ。*
カイ「……平和だな」
シロウ「ああ」
カイ「ノアが来たがってたけど、さすがに断った。あいつが来ると収拾つかなくなるから」
シロウ「正解だ。ノアが来たら確実に混浴にしろって暴れる」
カイ「分かってる」
*レイが湯の中をすいーっと泳いできて、彼の正面に浮かんだ。にこにこ顔だ。*
レイ「シロー、気持ちいいねー♪ ボク温泉大好き♪」
シロウ「泳ぐな。温泉で泳ぐな」
レイ「えー、広いから泳ぎたくなるんだもん♪」
*ルミナが彼の反対側にそっと寄り添った。銀髪が湯面に広がって、月光に照らされて輝いている。*
ルミナ「お兄ちゃん」
シロウ「ん?」
ルミナ「……来てよかったね」
シロウ「ああ。ルーナに感謝だな」
*ルーナは少し離れた場所で、湯に肩まで浸かって目を閉じていた。完全に日本式の入浴スタイルだった。*
ルーナ「はぁ……極楽……前世の記憶があって本当によかったと思える瞬間……」
*レイラが冷酒を傾けながら、ステラの方を見てふと口を開いた。*
レイラ「……ステラよ。そなたもあと3年で成人じゃな。そろそろ見合いの一つでも考えておかねばなるまい」
*彼の耳がぴくりと動いた。*
ステラ「お見合い?」
レイラ「当然じゃ。妾の娘ぞ? 相応の家格の者でなければ話にならぬが、早めに候補を──」
シロウ「待て」
*湯がざぱんと揺れた。彼が勢いよく身を乗り出す。*
シロウ「娘はやらんぞ。欲しけりゃ俺を倒してからにしろ。SSランクの壁を越えてみせろ。話はそれからだ」
レイラ「……貴様な、いつまでも子離れできぬ父親というのは見苦しいぞ」
シロウ「知るか。ステラはまだ12だ。あと30年は早い」
ルーナ「30年って……ステラ42歳になるけど」
シロウ「42でいい」
ルーナ「よくない」
*ステラが湯の中をちゃぷちゃぷと移動して、彼の胸にぎゅっと抱きついた。小さな腕が首に回る。*
ステラ「私、お見合いなんていらない。パパが好きだもん」
シロウ「……っ!」
*可愛い。可愛すぎる。天使か。いや天使はルミナだ。じゃあ何だ。妖精か。とにかく可愛い。*
*彼はステラの頭をわしわしと撫でた。濡れた黒髪がレイラにそっくりで、胸が締め付けられるほど愛おしかった。*
シロウ「そうだよなステラ。パパが一番だよな」
ステラ「うん! パパが世界で一番強くてかっこいいの!」
シロウ「聞いたかレイラ。娘がこう言ってる」
レイラ「……貴様、娘を甘やかしすぎじゃ」
*レイラは呆れた顔をしていたが、その口元は微かに緩んでいた。*
ルミナ「お兄ちゃん、デレデレすぎ。顔がだらしない」
カイ「父さん……ステラが将来困るよ、それ」
シロウ「困らない。俺が守る」
ルーナ「過保護の極み……。前世のアニメで見た『娘を溺愛する魔王パパ』そのものだよ」
シロウ「何それ見たい」
ルーナ「パパの日常がそれだから」
*ゼノが湯の縁から冷静に観察していた。*
ゼノ「父上は姉上に対してだけ知能指数が著しく低下しますね」
セレス「……ばか」
シロウ「お前ら辛辣すぎないか」
*ステラが彼の胸に頬を寄せて、にこにこ笑っている。その笑顔を見て、レイラがそっと4杯目の酒を注いだ。*
レイラ「……まあよい。見合いの話はもう少し先にしてやる」
シロウ「最初から言うな」
レイラ「黙れ。妾は母として当然の心配をしただけじゃ」
*春の夜風が湯気を攫い、星空が露天風呂の上に広がっていた。*
*ステラが右腕に、ルーナが左腕にしがみつく形になった。両脇に娘を抱えた父親の図。*
シロウ「ステラは可愛いな〜」
ステラ「えへへ、パパ大好き」
シロウ「ルーナも可愛いぞ〜」
ルーナ「……は?」
*ルーナが湯の中で固まった。左腕にしがみついていた手が一瞬止まる。*
ルーナ「い、いや私は別にパパの隣に来たわけじゃなくて、ここが一番湯加減がいいポジションだっただけで」
シロウ「はいはい」
ルーナ「本当だから。前世の知識で源泉からの距離と水温の関係を計算した結果、ここが最適だっただけだから」
シロウ「計算してここなんだ」
ルーナ「……うるさい」
*ルーナの耳が真っ赤になっていた。湯のせいだけではない。*
ステラ「ルーナお姉ちゃんも素直じゃないよね」
ルーナ「ステラ、余計なこと言わないで」
ステラ「でもお姉ちゃん、パパの隣いつも取り合いしてるじゃん」
ルーナ「してないっ!」
*レイラが4杯目の酒を啜りながら鼻で笑った。*
レイラ「ふん。あの娘も素直になれぬところは貴様に似たな」
シロウ「俺のせいか」
ルミナ「お兄ちゃんに似たんだよ、間違いなく。私の遺伝子は素直なはずだから」
ルーナ「母さんも大概だと思うけど……」
*ルーナはぶつぶつ言いながらも、彼の左腕から離れなかった。むしろ少しだけ肩を寄せている。*
ルーナ「……別に。温泉で家族の隣にいるのは普通でしょ。日本の文化でしょ」
シロウ「そうだな。普通だな」
ルーナ「……うん」
*ステラが右側からにこにこ、ルーナが左側でそっぽを向きながらも寄り添っている。彼は両腕に娘を抱えたまま、春の夜空を見上げた。*
シロウ「……最高だな」
ルーナ「……まあ、悪くはない」
ステラ「最高だよ、パパ!」
*レイが向こう側から泳いできた。*
レイ「シロー! ボクも! ボクもそっち行くー!」
シロウ「お前は泳ぐなって言っただろ」
*ルミナがルクスを抱えて立ち上がった。*
ルミナ「私たちは先に上がるね。ルクスがのぼせちゃうから」
レイ「ボクもー。お腹すいたから先にご飯食べてるね、シロー♪」
*ゼノがここぞとばかりに湯から飛び出した。*
ゼノ「僕も上がります。本の続きが……」
セレス「……私も」
*セレスがゼノの後を追うように脱衣所へ消えていった。ステラもルミナに手を引かれて出ていく。*
*残ったのは彼、レイラ、ルーナ、カイの4人。*
レイラ「……ふん。せっかくじゃ、サウナとやらに行くぞ」
シロウ「おっ、いいな」
ルーナ「サウナあるの? パパ作ったの?」
シロウ「当然だ。本格的なやつだぞ。水風呂も完備してる」
ルーナ「神。前世で整いたかった夢が叶う……」
*4人でサウナ室に入った。ヒノキに似た木材で作られた室内は、じわりと熱い蒸気が充満している。彼が魔石で温度を調整し、適度な熱さに設定した。*
*レイラが腕を組み、不敵に笑った。*
レイラ「どうじゃ、我慢対決をせぬか。最後まで残った者が勝ちじゃ」
シロウ「え、我慢対決? レイラ、それお前死ぬぞ……」
レイラ「何を申す。妾を誰だと思っておる」
シロウ「小柄で体力ないエルフだと思ってる」
レイラ「殺すぞ」
カイ「母さん、サウナは体格が小さい方が不利だよ。体表面積に対する熱の──」
レイラ「黙れカイ。妾の息子なら黙って母の勝負を見届けよ」
ルーナ「レイラ母さん、酒も入ってるし本当に危ないって。アルコールとサウナの組み合わせは前世でも禁忌だったから」
レイラ「ふん、この程度の酒で妾が倒れるものか」
*5分経過。*
*彼とカイは平然としている。SSランクと精霊神にとって、この程度の熱は微風に等しい。*
*ルーナは額に汗を滲ませながらも、目を閉じて耐えている。*
ルーナ「……整う……整ってきた……前世の疲れが……30年分のOL疲れが……」
シロウ「お前の前世の疲れまだ残ってんのか」
ルーナ「魂に染みついてるの」
*一方、レイラは──*
レイラ「……ぬ」
*顔が真っ赤だった。酒の赤みに加え、サウナの熱が容赦なく小柄な体を蒸している。汗が滝のように流れていた。*
シロウ「レイラ、もう出ろ。顔色やばいぞ」
レイラ「ま、まだじゃ……妾が先に倒れるなど……認めぬ……」
カイ「母さん、無理しないで」
レイラ「う、うるさい……妾は……まだ……」
*ぐらり、とレイラの体が傾いた。*
シロウ「ほら見ろ!」
*彼が咄嗟にレイラの体を受け止めた。小さな体が腕の中にすっぽり収まる。汗だくで、心臓がどくどくと早鳴りしていた。*
シロウ「だから言っただろ、馬鹿」
シロウ「ったく……」
*彼はレイラの小さな体を横抱きにして、サウナ室の扉を蹴り開けた。汗だくのレイラが腕の中でぐったりしている。意識はあるが、目が虚ろだ。*
レイラ「ま、まだ……いけた……」
シロウ「いけてねぇよ、馬鹿」
*彼はレイラの額に落ちた黒髪をそっと払い、そのまま唇を重ねた。柔らかく、短く。汗と酒の混じった味がした。*
レイラ「んっ……な、何を……」
シロウ「冷ましてやる」
レイラ「は?」
*彼はそのままレイラを水風呂の上に運び──*
シロウ「ほら」
*ぽいっ。*
レイラ「きゃあぁぁぁぁ!?」
*ばしゃぁぁん! 盛大な水柱が上がった。レイラが水風呂の中から飛び上がるように顔を出す。*
レイラ「きっ……きさまぁぁぁ! 妾を投げおったな! 冷たい! 冷たいぞ!」
シロウ「おー、意識はっきりしたな。よかったよかった」
レイラ「よくない! 全くよくないぞ! この無礼者!」
*レイラが水風呂の縁にしがみつきながら、全身をぶるぶる震わせている。小柄な体が水に濡れて、黒髪が肌に張り付いていた。*
*サウナ室からルーナとカイが出てきた。*
ルーナ「……あー、やっぱそうなった」
カイ「母さん、大丈夫?」
レイラ「大丈夫ではない! この男が妾を投げたのじゃ!」
シロウ「倒れかけたお前が悪い」
レイラ「キスしてから投げる奴がどこにおる!」
ルーナ「え、キスしたの? 水風呂に投げる前に?」
シロウ「……」
ルーナ「パパ、そういうとこだよ。そういうとこ」
*彼は無言で手を差し出した。水風呂の中で睨みつけてくるレイラに。*
シロウ「ほら、手」
レイラ「……ふん」
*レイラはそっぽを向きながら、彼の手を掴んだ。引き上げると、小さな体がぶるっと震えた。彼はすかさず大きめのタオルをレイラの肩にかけた。*
レイラ「……最初からこうしろ、たわけが」
シロウ「負け惜しみ」
レイラ「殺すぞ」
*しかし、タオルの下でレイラの手が彼の腕をぎゅっと掴んでいた。離す気配はなかった。*
シロウ「なんだ? もう1回行くか?」
レイラ「当然じゃ! 妾が負けたままで終わると思うな!」
*予想通りの反応だった。レイラの琥珀色の瞳に闘志が燃えている。*
ルーナ「あー……私はもういいや。整ったし。カイ、先出よ」
カイ「うん。母さん、無理しないでね」
レイラ「ふん、心配無用じゃ」
*ルーナとカイが脱衣所へ消えていった。残されたのは彼とレイラの二人だけ。*
*再びサウナ室の扉を開ける。ヒノキに似た木の香りが鼻腔を満たした。彼は奥の焼け石に柄杓で水をかけた。じゅわぁぁ、と白い蒸気が一気に立ち上り、室内の湿度と熱気が跳ね上がる。*
レイラ「ぬっ……」
シロウ「これがロウリュってやつだ。日本のサウナ文化」
レイラ「き、貴様……わざと温度を上げおったな」
シロウ「当然。勝負だろ?」
*彼は平然と木のベンチに腰を下ろした。レイラがその隣に座る。小柄な体が蒸気に包まれ、すぐに肌が汗で濡れ始めた。*
*沈黙が流れた。蒸気の音だけがサウナ室に響く。*
レイラ「……」
シロウ「……」
*2分が経過した。彼はちらりとレイラを見た。汗が鎖骨を伝い、薄い胸元を流れ落ちている。黒髪が肌に張り付き、小さな肩が上下していた。頬は既に紅く染まっている。*
*──綺麗だな、と思った。*
レイラ「……何をじろじろ見ておる」
シロウ「いや。お前、やっぱ綺麗だなって」
レイラ「……っ! な、何を急に」
*レイラの頬が熱気とは別の理由で赤くなった。視線を逸らし、腕を組み直す。*
レイラ「そ、そのような甘言で妾の集中を乱そうとしても無駄じゃ」
シロウ「別にそんなつもりじゃないけど」
レイラ「嘘をつけ。貴様はいつもそうやって妾を……」
*レイラの声が少し小さくなった。蒸気の中、二人きりの空間。子供たちの目もない。*
レイラ「……ずるい男じゃ、貴様は」
シロウ「何が?」
レイラ「こういう時に、そういうことを言うのが」
*レイラがちらりと彼を見上げた。琥珀の瞳が蒸気越しに潤んでいる。汗なのか、それとも別の何かなのか。*
レイラ「……勝負は、もうよい」
シロウ「降参か?」
レイラ「違う。……もっと近う寄れ」
*小さな手が、彼の腕を引いた。*




