301
301
*約半年が過ぎた。季節は巡り、アストライア魔導皇国は穏やかな日々を過ごしていた。*
*ルクスは生後半年を迎え、銀髪に金色の瞳という、ルミナの面影を強く受け継いだ美しい赤子に成長していた。そして、ルーナは毎日のようにルクスに張り付いていた。*
ルーナ「ルクスー! お姉ちゃんだよー! 今日はアルファベットのCからだよー!」
*ルクスが小さな手を伸ばして、ルーナの銀髪を掴んだ。*
ルクス「あうー」
ルーナ「天才! ルクスは天才! "あ"って言った! 日本語の第一歩!」
*完全なるブラコンだった。始祖竜ユキが「きゅい……」と寂しそうにルーナの足元で丸くなっている。*
---
*その日の午後。城門に見慣れた顔が3つ、戻ってきた。*
*カイとリオンが並んで歩いている。半年前とは明らかに空気が違う。リオンがカイの肩に腕を回し、カイもそれを嫌がっていない。親友というより、もはや悪友の雰囲気だった。*
リオン「いやー、帰ってきたっすねー。やっぱアストライアの空気は違うわ」
カイ「……まあ、悪くない任務だった」
リオン「"悪くない"じゃねーだろ。お前あの時、吸血鬼の首魁にブチ切れて山ごと消し飛ばしたくせに」
カイ「あれは向こうがルナに手を出したからだ。正当防衛だ」
リオン「山ごと正当防衛する奴がいるかよ」
*その後ろから、ルナが無表情で歩いている。いつも通りだ。ただ、よく見ると服に返り血のような染みがうっすら残っていた。*
*そして――その3人の更に後ろに、見慣れない少女が一人。*
*年は16、17歳ほど。シャーロットに似た気品のある顔立ちに、深紅の髪が腰まで流れている。緊張した面持ちで、しかし背筋はぴんと伸ばしていた。*
*彼は玉座の間で3人の帰還報告を受けていた。カイが任務の成功を報告し、吸血鬼の首魁討伐と蛮族侵攻の阻止が完了したことを告げた。そして――*
カイ「……それと、父さん。一つ、報告というか……」
リオン「いや、俺から言うわ。……陛下、メッセニア王国の第二王女、リーゼロッテ・フォン・メッセニア殿下が、正式な国書を携えてお越しです」
*深紅の髪の少女が一歩前に出て、優雅に礼をした。*
リーゼロッテ「お初にお目にかかります、アストライア魔導皇国の魔王陛下。メッセニア王国第二王女、リーゼロッテ・フォン・メッセニアと申します」
*少女が顔を上げ、真っ直ぐ彼を見た。*
リーゼロッテ「母……女王シャーロットの名代として参りました。このたびの吸血鬼討伐の成功報酬、並びに……リオン様を、我が国の婿として迎えたいとの正式な申し入れをお伝えに」
*リオンが気まずそうに視線を逸らした。*
シロウ「……ん? え、ごめん、今なんてった?」
*彼は玉座に座ったまま、リオンを見た。リオンは気まずそうに頭を掻いている。*
シロウ「……え? リオン何したの? やらかしたの?」
リオン「やらかしてねーっすよ! 何で俺がやらかした前提なんすか!」
カイ「……いや、やらかしたと言えばやらかした」
リオン「カイお前味方だろ!?」
カイ「事実だろ。お前が吸血鬼の首魁からリーゼロッテ殿下を助けた時、"俺の後ろに隠れてろ"って言ったんだ。あれが全ての始まり」
リオン「いや、あれは状況的にそう言うしかなかったっていうか……」
カイ「その後、蛮族の侵攻を阻止した時も、殿下を背中に庇って"絶対守る"って言ってたよな」
リオン「あれも状況がっ!」
カイ「極めつけに、勝利の宴で殿下が"リオン様は私の騎士です"って宣言した時、お前は否定しなかった」
リオン「あの場で否定したら外交問題になるだろ! 相手王族だぞ!」
*リーゼロッテが頬を赤らめながらも、凛とした声で口を開いた。*
リーゼロッテ「魔王陛下。弁明させてください。リオン様は何もやらかしてはおりません。私が一方的に……お慕いしているだけです」
*リオンが「殿下、その言い方だと余計に……」と額を押さえた。*
シロウ「……ルナ、実際どうだったの」
*ルナが無表情のまま、淡々と口を開いた。*
ルナ「リオンは殿下を3回助けました。殿下は2回目から頬を赤くしていました。3回目にはリオンの腕にしがみついて離れませんでした。リオンは"やめろ、腕が動かねえ"と言いつつ振り払いませんでした。以上です」
リオン「報告が詳細すぎんだよ! お前暗殺者だろ! 諜報能力をそっちに使うな!」
*ルナが無表情のまま首を傾げた。*
ルナ「……事実を報告しただけですが」
*彼は玉座の肘掛けに頬杖をついた。目の前のリーゼロッテを鑑定する。16歳。ステータスは一般的な王族レベル。だが、固有スキル『紅蓮の意志』という珍しいものを持っている。精神耐性が異常に高い。吸血鬼に囚われていた間も、心を折られなかった理由はこれか。*
*シャーロットの娘だけある。芯が強い。*
シロウ「……リオン」
リオン「は、はいっす」
シロウ「お前、この子のことどう思ってんの。正直に」
*リオンの顔が固まった。リーゼロッテが真っ直ぐリオンを見ている。カイが腕を組んで「ほら、言えよ」という顔をしている。ルナは無表情のまま、なぜか懐から手帳を取り出して記録の準備を始めていた。*
リオン「……その」
シロウ「うん」
リオン「嫌いじゃ、ないっす」
*リーゼロッテの表情がぱあっと明るくなった。*
リオン「でも! でもっすよ! 俺は八輝将っすよ!? メッセニアの婿になったら任務どうすんすか!」
*リオンの顔が一瞬で青ざめた。*
シロウ「情報漏洩防止のため打首……ってのは冗談で」
リオン「冗談に聞こえなかったんすけど!? 今一瞬本気の目してたっすよね!?」
シロウ「リオンがいないと困るんだが……誰が八輝将をまとめんだよ」
*リオンが口を開きかけたが、言葉が出ない。実際、八輝将の現場指揮と取りまとめは、事実上リオンが担っていた。最弱と言われながらも、5部隊の連携調整、任務配分、報告書の管理、ルナの暴走抑制。全てリオンがやっている。*
カイ「……正直、リオンがいなくなると俺も困る。あいつがいないと部隊間の連絡がぐちゃぐちゃになる」
ルナ「リオンがいなくなると、私の手綱を握る人がいなくなります。結果、暗殺件数が増えます」
リオン「それは自分で制御しろよ!」
*リーゼロッテが真剣な表情で一歩前に出た。*
リーゼロッテ「魔王陛下。誤解のないよう申し上げます。母の提案は、リオン様をメッセニアに引き抜くというものではございません」
シロウ「……というと?」
リーゼロッテ「私がアストライアに嫁ぐ形です。リオン様はこの国に残ったまま、メッセニアとの架け橋となっていただきたい、と」
*彼の眉が僅かに上がった。シャーロット、なかなか考えている。リオンという戦力をアストライアから奪うのではなく、娘を送り込んでアストライアとの繋がりを強固にする。外交としては悪くない手だ。*
リオン「いや、だからっすね、俺はまだ結婚とかそういう段階じゃ……」
リーゼロッテ「段階は私が合わせます」
リオン「即答!?」
リーゼロッテ「半年間、リオン様の戦う姿を見てきました。弱いと言われながらも、仲間のために立ち続ける姿を。カイ様やルナ様と命を預け合う姿を。……私の心は、もう決まっています」
*リーゼロッテの声は震えていなかった。固有スキル『紅蓮の意志』の持ち主らしい、揺るがぬ覚悟がそこにあった。*
リオン「……」
*リオンが珍しく黙った。茶化すことも、やさぐれることもなく、ただリーゼロッテの顔を見ていた。*
カイ「……父さん。現地でのリオンは、本当にかっこよかったよ。俺が保証する」
*カイが静かに言った。半年間を共に過ごした親友としての、偽りのない言葉だった。*
ルナ「……101回目の復活、現地でも達成しました。リオンは5回死にましたが、5回とも殿下を庇ってのことでした」
リオン「ルナ、余計なこと言うなって……」
リーゼロッテ「5回も……私のために……」
*リーゼロッテの目が潤んだ。しかし涙は流さない。代わりに、背筋をさらに伸ばした。*
リーゼロッテ「魔王陛下。お返事は急ぎません。ですが、私の覚悟だけはお伝えしたく存じます」
*彼の言葉に、部屋の空気が一瞬止まった。*
リオン「……え、いいんすか? マジで?」
シロウ「ふむ……逆に嫁にくると……。それなら打首……じゃなくてツッコミ担当が居なくなることは無いな。よし、おけ。許可する。あとは二人で話し合って決めてくれ」
リオン「打首がナチュラルに出てくるの怖いんすけど!?」
*リーゼロッテの顔が一瞬で輝いた。深紅の髪が揺れ、深く、深く頭を下げた。*
リーゼロッテ「ありがとうございます、魔王陛下! 必ずやアストライアとメッセニアの架け橋として……」
シロウ「堅苦しいのはいいよ。うちは割と緩いから」
リーゼロッテ「は、はい!」
*リオンが頭を掻きながら、リーゼロッテを横目で見た。耳が赤い。*
リオン「……殿下、あのさ」
リーゼロッテ「リーゼで構いません、リオン様」
リオン「だからその"様"ってのもやめてくれって半年間言い続けて……」
リーゼロッテ「では、リオン」
*リオンの顔がさらに赤くなった。カイが隣でにやにやしている。*
カイ「よかったな、リオン」
リオン「うるせえ」
ルナ「……記録。リオン、耳まで赤くなる。好感度MAX確認」
リオン「ルナ! 手帳しまえ!」
*玉座の間に笑い声が響いた。彼は頬杖をつきながら、賑やかな光景を眺めていた。*
*そこへ、廊下からぱたぱたと足音が近づいてきた。*
ルーナ「パパ! カイ兄帰ってきたって本当!?」
*ルーナが飛び込んできた。腕にはルクスを抱えている。*
ルクス「あうー!」
カイ「ルーナ、ルクス! ……でかくなったな、ルクス」
*カイがルクスの頬を指で突くと、ルクスが小さな手でカイの指を掴んだ。その瞬間、カイの表情がふっと緩んだ。*
ルーナ「ルクス、カイ兄だよ。"カ・イ・に・い"。はい、言ってみて」
ルクス「きゃう!」
ルーナ「惜しい! 天才!」
*彼はその光景を見ながら、静かに息をついた。半年前に送り出した息子が、親友と、もしかしたら嫁になるかもしれない女を連れて帰ってきた。悪くない。*
*リーゼロッテがルクスを見て目を丸くした。*
リーゼロッテ「まあ……なんて可愛らしい。この子が……」
ルーナ「私の弟のルクスだよ! 世界一可愛い! 触るなら手を洗ってからね!」
リーゼロッテ「は、はい……」
*リーゼロッテがルーナの勢いに押されている。リオンが「すまん、うちの姫はブラコンなんだ」と小声で謝っていた。*
シロウ「ルーナ……冒険者はいいのか?」
*ルーナが彼の方を振り向いた。ルクスを抱いたまま、胸を張って答える。*
ルーナ「いいの! 今の私のメインクエストは"ルクスを世界一の弟に育てる"だから! ギルドのクエストより優先度高い!」
シロウ「見事なブラコンだな……」
ルーナ「ブラコンじゃないし! 姉としての義務だし! 前世でも弟欲しかったんだから!」
*ルクスがルーナの胸元でにこにこと笑っている。姉に抱かれるのが心地よいのか、小さな手でルーナの服を掴んで離さない。*
ルーナ「ほら見て! ルクス、私のこと離したくないんだよ! これは姉冥利に尽きる!」
*足元でユキが「きゅい……きゅい……」と寂しそうに鳴いている。完全に放置されていた。*
シロウ「ユキが泣いてるぞ」
ルーナ「あ、ユキ! ごめんごめん、ユキも可愛いよ! でもルクスが今は……」
ユキ「きゅいー!」
*ユキがルーナの足に体を擦りつけた。始祖竜の成体が、まるで捨てられた子犬のようだった。*
カイ「……ルーナ、半年でだいぶ変わったな。前は冒険者として独立するって息巻いてたのに」
ルーナ「カイ兄こそ、リオンとめっちゃ仲良くなってるじゃん。出発前はあんなにぎこちなかったのに」
カイ「……命を預け合えば、嫌でも距離は縮まる」
リオン「俺が5回死んだからな。精霊神の力なかったら本当に終わってたわ。カイに感謝っす」
*リーゼロッテがルクスを興味深そうに覗き込んだ。*
リーゼロッテ「この子が光の加護を持つと噂の……」
ルーナ「触るなら手洗った?」
リーゼロッテ「ま、まだです……」
ルーナ「じゃあダメ。衛生管理は大事。弟を守るのは姉の務め」
リオン「……陛下、うちの姫に婚約者が怯えてるんすけど」
シロウ「知らん。お前がなんとかしろ」
リオン「俺っすか!?」
*リーゼロッテがルーナに深々と頭を下げた。*
リーゼロッテ「手を洗って参ります。それから改めて、抱かせていただいてもよろしいでしょうか」
ルーナ「……うん、礼儀正しい人は好き。合格」
*リーゼロッテがほっとした顔で廊下に向かった。リオンが「何の合格だよ」と呟いている。*
*彼は玉座に深く腰掛け、賑やかな光景を眺めながら小さく笑った。家族が増える。それは悪くないことだ。*
ーー
*数日が経った。アストライアには珍しく雨が続いていた。*
*ルーナは相変わらずルクスに付きっきりだった。今日はアルファベットがJまで進んだらしい。ルクスは「あうー」しか言わないが、ルーナは「発音が良くなってる!」と大喜びしていた。ルミナはそんな2人を微笑ましそうに眺め、レイラは「妾の孫……ではない、息子だ」と何度も自分に言い聞かせていた。*
---
*そしてその日。彼は執務室で書類を処理していた。膝の上には、小さな子猫が丸くなって眠っている。*
*数日前の雨の日。城下町への視察帰りに、路地裏の木箱の下で震えていた子猫を見つけた。白い毛並みに、片耳だけ灰色の模様が入っている。ガリガリに痩せて、目も開かないほど弱っていた。*
*彼は迷わず拾い上げた。城に連れ帰り、温かいミルクを与え、タオルで包んで暖めた。翌日には目を開き、3日目にはよちよちと歩き出し、1週間経った今では彼の膝の上が定位置になっていた。*
*子猫が小さな寝息を立てている。ふわふわの白い毛が呼吸に合わせて上下する。*
シロウ「……可愛いな、お前」
*彼が指で子猫の顎の下を撫でると、子猫が目を閉じたまま「にゃぁ……」と甘えた声を出した。小さな前足が彼の指に触れ、ぎゅっと抱きしめるように丸まる。*
シロウ「はは、離さないのか」
*ペンを置いて、もう片方の手で背中を撫でる。ゴロゴロと喉を鳴らす音が響いた。*
*執務室の扉がノックされた。*
リーシア「陛下、お茶をお持ちしました」
*リーシアがティーセットを載せたトレイを持って入ってきた。彼の膝の上の子猫を見て、一瞬だけ表情が緩んだ。本当に一瞬だけだ。*
リーシア「……本日もそちらに」
シロウ「ああ。こいつ、俺の膝の上でしか寝ないんだよ」
リーシア「名前はまだ決めていないのですか」
シロウ「うーん……」
*彼が子猫を見下ろした。白い毛並み。片耳の灰色の模様。雨の日に拾った小さな命。*
シロウ「……メア、にしようかな。雨の日に拾ったし」
*子猫が「にゃ」と鳴いた。まるで返事をしたように。*
リーシア「……気に入ったようですね」
シロウ「だな。よし、お前は今日からメアだ」
*メアが彼の膝の上でくるりと体勢を変え、へそ天で腹を見せた。完全に信頼しきっている。*
*リーシアがお茶を置き、ふと口を開いた。*
リーシア「陛下。ルミナ様が先ほど、"お兄ちゃんが最近猫ばかり構ってる"と仰っておりました」
シロウ「……嫉妬してんの? 猫に?」
リーシア「お伝えしただけでございます」
*リーシアが一礼して退室した。彼はメアの腹を撫でながら、小さくため息をついた。*
シロウ「……ルミナが猫に嫉妬するとは思わなかったぞ、メア」
メア「にゃー」
*昼食の時間。彼は食堂の自分の席に座り、テーブルの上にメアの専用の小さな器を置いた。温めたミルクを注いでやると、メアがとてとてとテーブルの上を歩いてきて、器に顔を突っ込んだ。*
*小さなピンクの舌がチロチロとミルクを舐める。白い毛並みにミルクの飛沫がぽつぽつと飛ぶ。*
シロウ「ああ……癒される」
*彼は頬杖をつき、完全に溶けた表情でメアを眺めていた。魔王の威厳は欠片もない。*
*メアがミルクを飲み終え、口の周りを白くしたまま「にゃ」と鳴いた。彼が指でそっと口元を拭いてやると、ぺろりと指を舐めた。*
シロウ「お前なぁ……反則だろ、それは」
*食堂の入り口から、ルミナがルクスを抱いて入ってきた。彼の隣に座ろうとして、テーブルの上のメアを見て足が止まった。*
ルミナ「……また猫」
シロウ「メアな。名前で呼んでやれ」
ルミナ「お兄ちゃん、最近その子ばっかり。ルクスも見てほしいんだけど」
*ルミナがルクスを彼の方に差し出した。ルクスが「あうー!」と手を伸ばしている。*
*しかしその瞬間、メアがルクスに向かって「シャーッ!」と威嚇した。小さな体を精一杯膨らませて、彼の膝の上に逃げ込む。*
ルクス「あう?」
ルミナ「……この猫、お兄ちゃん以外には本当に懐かないのね」
シロウ「まあ、そのうち慣れるだろ」
*彼がメアの背中を撫でると、メアは即座にゴロゴロと喉を鳴らして丸くなった。彼にだけ見せる甘えた姿だった。*
*ルミナが隣に座り、ルクスを膝に乗せた。ルクスは不思議そうにメアを見つめている。メアは彼の膝の上から動こうとしない。*
ルミナ「……ねえ、お兄ちゃん」
シロウ「ん?」
ルミナ「私とその猫、どっちが大事?」
シロウ「……いや、比較対象おかしくないか?」
ルミナ「いいから答えて」
*ルミナの金色の目が据わっていた。笑っているが笑っていない、あの顔だ。*
*メアが彼の腹に顔を埋めて「にゃぁ」と甘えた。最悪のタイミングだった。*
ルミナ「……ふぅん」
シロウ「いや待て、ルミナ。お前は嫁だろ。猫と比べるな」
ルミナ「じゃあ今日の夜、ルクスと一緒にお風呂入ってくれる? 最近全然入ってくれないし」
シロウ「わかったわかった。入る入る」
*ルミナがようやく機嫌を直した。ルクスが「きゃう!」と嬉しそうに声を上げた。*
*メアは相変わらず彼の膝の上で丸くなっている。片耳の灰色模様がぴくぴくと動いていた。*
*彼の言葉に、ルミナがぴくりと眉を動かした。*
シロウ「こうやって見ると外見はルーナの方が姉に見えるな……」
ルミナ「……お兄ちゃん、それ褒めてるの? 貶してるの?」
シロウ「いや、事実を言っただけだが」
*ルーナが自分の体を見下ろし、それからルミナを見た。確かに、23歳のルーナと見た目19歳のルミナが並ぶと、ルーナの方が年上に見える。身長もルーナの方がわずかに高くなっていた。*
ルーナ「……あー、確かに。前世でもアラサーだったし、今世でも年上に見られる運命なのかな」
ルミナ「私は元熾天使だから、外見はあまり変わらないの。ルーナが老けてるわけじゃないわよ」
ルーナ「フォローになってないよ母さん! 老けてるわけじゃないって言い方が既に!」
*彼に抱っこされながらルクスが2人のやり取りを交互に見ながら「きゃう、きゃう」と楽しそうに笑っている。*
*彼はルクスの頭を優しく洗いながら、ふと考えた。ルミナは元熾天使。外見の老化は極めて緩やかだ。だがルーナはハーフ。寿命は一般的な人間よりずっと長いが、それでも老いる。いずれルーナが母親より老けて見える日が来る。*
ルーナ「……パパ、なんか難しい顔してる」
シロウ「いや、なんでもない」
ルーナ「嘘。パパのその顔は何か考えてる時の顔だよ。そういう微妙な表情読むの得意なんだから」
*ルーナが湯船の中で膝を抱え、彼の方を見た。*
ルーナ「……もしかして、寿命のこと考えてた?」
*彼は何も答えなかった。だが沈黙が答えだった。*
ルーナ「いいよ、そういうの。前世で32年、今世で23年。合計55年分生きてるんだから、自分の寿命くらい覚悟してるって」
*ルーナがルクスの手を取り、小さな指を1本ずつ丁寧に洗いながら、軽い口調で続けた。*
ルーナ「それに、ハーフでも数百年は生きるでしょ? 前世の人生の10倍以上。十分すぎるよ」
ルミナ「……ルーナ」
ルーナ「母さんは気にしないで。私はこの家族に生まれて幸せだよ。ルクスもいるし、ユキもいるし。それに……」
*ルーナがルクスを持ち上げ、頬をすり寄せた。*
ルーナ「この子が大きくなるの見届けるまで、死ぬわけないじゃん。姉の責務だし」
ルクス「あうー!」
*ルミナが静かにルーナの頭を撫でた。23歳の娘は、外見では母より年上に見える。だがこの瞬間、紛れもなくルミナの娘だった。*
ルミナ「……ありがとう、ルーナ」
ルーナ「ちょっ、母さんやめて、泣きそうになるから! 湯気で目がしみるだけだから!」
*彼は湯船に深く沈み、天井を見上げた。湯気が渦を巻いている。*
シロウ「……ルーナ」
ルーナ「ん?」
シロウ「お前に会えてよかった」
シロウ「愛してるよ」
*彼はルクスを片腕で抱いたまま、もう片方の腕でルーナの肩を引き寄せた。ルーナの体が彼の胸に触れる。湯の中で、親子3人が寄り添った。*
ルーナ「っ……!」
*ルーナの顔が耳まで真っ赤に染まった。湯気のせいではない。明らかに赤い。目が泳ぎ、視線が彼の裸の胸元に落ちて、さらに赤くなった。*
ルーナ「ぱ、パパ……裸で抱きしめるのは……その、色々と……」
シロウ「親子だろ。何を意識してんだ」
ルーナ「いや前世の記憶があると逆に意識するんだって! 44歳のおっさんでも顔は良いし筋肉すごいし!」
シロウ「おっさん言うな」
*ルーナが彼の胸板から必死に顔を逸らしている。だが振り払おうとはしない。むしろ、小さな声で呟いた。*
ルーナ「……ありがと、パパ。私も、愛してる」
*ルクスが2人の間で「きゃうー!」と嬉しそうに声を上げた。姉と父に挟まれて、ご機嫌だった。*
ルミナ「……ずるい。私も」
*ルミナが反対側から彼の腕にしがみついた。湯の中で、家族4人が固まる。*
シロウ「おい、ルミナまで来ると身動きとれないんだが」
ルミナ「いいの。お兄ちゃんが悪い。愛してるなんて言うから」
*ルーナとルミナに両側から挟まれ、腕の中にはルクス。彼は天井を仰いで小さく笑った。*
*ルーナの男性耐性の無さは相変わらずだった。23歳、前世を含めれば55歳。それでもこの有様だ。冒険者として外に出ている時は大丈夫なのだろうか。心配の種は尽きない。*
ルーナ「……パパの心拍数速くない?」
シロウ「お前の心拍数だろ、それ」
ルーナ「うっ……」
*ルーナが顔をぷいっと逸らした。耳の先まで赤いのが丸見えだった。*
ルクス「あうー」
*ルクスが小さな手で彼の顎を触った。まるで「パパ、大丈夫?」と言うように。*
シロウ「……ああ、大丈夫だよ。パパは幸せだ」
*湯気の中、4人の穏やかな時間が流れていた。*
シロウ「父が言うことじゃないかもしれんが……ルーナはもっと男と遊べ。免疫が無さすぎる……心配になってくるぞ……」
*ルーナの顔がさらに赤くなった。湯船の中で両手をばたばたと振る。*
ルーナ「な、なに言ってんのパパ! 風呂場で言う話じゃないでしょ!」
シロウ「いや、冒険者やってて大丈夫なのかって話だよ。パーティに男がいたらまともに戦えんだろ」
ルーナ「戦える! 戦闘中は別! 前世でも仕事モードとプライベートは分けるタイプだったし!」
シロウ「じゃあなんで今こんな赤いんだ」
ルーナ「パパが裸で抱きしめるからでしょうが! 前世の感覚で言えば顔のいいおっさんに裸で抱きしめられてるんだよ! 無理に決まってるじゃん!」
シロウ「おっさん言うなって言っただろ」
*ルミナがルクスの髪を洗いながら、横目でルーナを見た。*
ルミナ「ルーナ、恋人はいないの?」
ルーナ「いないよ!」
ルミナ「……23歳で?」
ルーナ「前世合わせたら55歳だけどいないよ! 悪い!?」
*ルーナが湯船に顔半分を沈めてぶくぶくと泡を立てた。*
ルーナ「……だって前世はブラック企業で恋愛する暇なかったし、今世はパパが基準値高すぎるし……」
シロウ「……俺のせいなのか?」
ルーナ「パパのせいだよ。顔良い、強い、優しい、国作る、魔王。こんなの基準にしたら世の男全員落第だよ」
ルミナ「……それは分かる」
シロウ「ルミナ、同意するな」
*ルーナが湯船から顔を上げ、頬を膨らませた。*
ルーナ「大体、冒険者ギルドの男なんてガサツなのばっかだし。この前パーティ組んだ剣士なんて、ダンジョンの中でゲップしてたよ? 無理」
シロウ「……それは確かに無理だな」
ルーナ「でしょ? だから今はルクスでいいの。ルクスは将来絶対イケメンになるし、姉に優しい弟になるし」
ルクス「あうー」
ルーナ「ほら! 返事した! 同意してる!」
シロウ「してないだろ」
*彼は湯船に深く沈みながら、内心で考えていた。23歳、前世込みで55歳。恋愛経験ゼロ。父親に裸で抱きしめられただけで茹でダコになる免疫の無さ。冒険者として外に出ている以上、変な男に騙されないかが本気で心配だった。*
シロウ「……ルーナ。もし好きな奴ができたら、ちゃんと連れてこい。俺が鑑定してやるから」
ルーナ「鑑定て! 彼氏候補を鑑定するの!? パパ怖すぎない!?」
シロウ「当然だろ。娘の相手だぞ」
ルーナ「……絶対ステータスに"不純な動機"とか表示されたら殺すつもりでしょ」
シロウ「殺しはしない。追放くらいだ」
ルーナ「十分怖いよ!」
*ルミナがくすくすと笑った。*
シロウ「そろそろ誕生日だし、45か。もうすぐ50か……早いなぁ……」
*彼は湯船に顎まで沈みながら、しみじみと呟いた。異世界に来てから20年以上。国を建て、家族を作り、魔王になった。それでも歳だけは平等に重ねていく。*
*ルーナがじーっと彼の方を見た。湯の中から顔を上げ、露骨に彼の体を上から下まで眺める。*
ルーナ「……パパ、それ45歳の身体じゃないよね」
シロウ「なんだよ急に」
ルーナ「前世の会社の45歳の部長、お腹出てて階段で息切れしてたよ? パパの腹筋なに? 板チョコ? 鉄板?」
シロウ「毎日鍛えてるからな。冒険者だぞ一応」
ルーナ「一応じゃないでしょSSランクは。てか腕の血管浮いてるし、前世のジムのトレーナーより仕上がってるし。これで45って詐欺だよ詐欺」
*ルーナが湯船の中で両腕を組み、ぶつぶつと言った。*
ルーナ「だから世の男が霞むんだって……こんなの毎日見て育ったら基準バグるに決まってるじゃん……」
ルミナ「ルーナ、お父さんの体をそんなにじろじろ見ないの」
ルーナ「見てない! 客観的な評価をしてるだけ!」
シロウ「どっちにしろ45は45だ。白髪も増えてきたしな」
*彼が前髪をかき上げた。確かに、こめかみの辺りに数本の白髪が混じっている。*
ルーナ「……それがまたかっこいいから腹立つんだよね」
ルミナ「分かる」
シロウ「お前ら揃って何なんだ」
*ルクスが彼の白髪に手を伸ばし、きゅっと掴んだ。*
ルクス「あう!」
シロウ「痛っ……ルクス、髪は引っ張るな」
*ルクスが嬉しそうに白髪を離さない。彼が苦笑しながらそっと指を外してやると、ルクスは不満そうに「むー」と唇を尖らせた。*
ルーナ「ルクスもパパの白髪が気になるんだね。将来パパみたいになったら世の女子が死ぬよ」
ルミナ「ルクスはもっとかっこよくなるわ。お兄ちゃんの遺伝子と私の遺伝子の最高傑作だもの」
シロウ「親バカか」
ルミナ「親バカで何が悪いの」
*彼は小さく笑い、湯船から立ち上がった。湯が滴る体に、ルーナがまた視線を逸らして赤くなった。*
シロウ「そろそろ上がるか。メアが待ってる」
ルミナ「……最後に猫の名前が出るのが納得いかない」
シロウ「嫉妬するな嫉妬するな」
*脱衣場。彼はタオルで髪を乱暴に拭きながら、隣でルクスを丁寧にタオルで包んでいるルーナを見た。ルクスはすやすやと眠っている。風呂の温かさが心地よかったのだろう。*
*彼の背中には幾筋もの古傷が走っていた。腕にも、足にも。20年以上の冒険者生活が刻んだ勲章だ。細身ながらも無駄のない筋肉が、脱衣場の灯りに照らされている。*
*ルーナの視線が、彼の体を上から下へ滑り、そしてある一点で止まった。*
シロウ「ルーナ、顔が赤いぞ。どこ見てんだ?」
*ルーナがびくっと肩を跳ねさせ、慌てて目を逸らした。耳まで真っ赤だ。*
ルーナ「み、見てない! 何も見てない!」
シロウ「えっち」
ルーナ「えっちじゃないし! 不可抗力! 視界に入っただけ! 前世含めて55年間ああいうの見たことなかったから!」
シロウ「55年間?」
ルーナ「……あ」
*ルーナが口を押さえた。自爆した。完全な自爆だった。*
ルミナ「ルーナ、55年間見たことないの?」
ルーナ「母さんは黙って!」
*ルーナがルクスを抱きしめるように顔を隠した。ルクスは幸せそうに眠り続けている。姉の動揺など知ったことではない。*
ルーナ「……前世はブラック企業で恋愛どころじゃなかったし、今世はパパがいるから基準がバグってるし……」
シロウ「それは聞いた。で、結局55年間一度も?」
ルーナ「だから! その話はもういいでしょ!」
*ルーナが早足で着替え始めた。だが手が震えていて、寝巻きのボタンを2回間違えた。*
ルミナ「お兄ちゃん、あんまりからかわないであげて。ルーナ壊れるから」
シロウ「からかってないんだが……本気で心配してる」
ルーナ「心配しなくていいから! 私は一生ルクスに捧げるから!」
シロウ「それはそれで心配なんだよ」
*彼は寝巻きに袖を通しながら、ため息をついた。娘の将来が色々な意味で不安だ。*
*ルーナがようやくボタンを正しく留め終え、眠るルクスを抱いて出口に向かった。その背中に、彼は声をかけた。*
シロウ「ルーナ。おやすみ」
*ルーナが足を止めた。振り返らず、小さな声で答えた。*
ルーナ「……おやすみ、パパ」
*その声はまだ少し震えていた。ルーナが廊下に消えると、ルミナが隣で小さく笑った。*
ルミナ「……ルーナ、パパっ子だね」
シロウ「だな。困ったもんだ」
ルミナ「ふふ。でも私もお兄ちゃんっ子だから、人のこと言えないけど」
*彼が寝室の扉を開けると、クッションの上で待っていたメアが「にゃあ!」と鳴いて飛びかかってきた。小さな体が彼の胸にぶつかり、前足で必死にしがみつく。*
シロウ「おー、待ってたか。悪い悪い」
*メアが彼の首元に顔を擦りつけ、ゴロゴロと喉を鳴らした。風呂上がりの彼の匂いが気に入ったのか、くんくんと鼻を動かしている。*
シロウ「そろそろ寝るか……」
*彼はメアを抱いたままベッドに横になった。ルミナはルクスの夜泣き対応でルクスの部屋に行くと言っていた。今夜はメアと2人だ。*
*メアが彼の胸の上で丸くなり、小さな肉球が彼の鎖骨に触れた。温かい。この小さな命が、彼を信頼しきって眠りにつこうとしている。*
シロウ「……お前を拾ったのも、何かの縁かな」
メア「にゃ……」
*メアが薄目を開け、彼の顎をぺろりと舐めた。それからすぐにまぶたを閉じ、規則正しい寝息を立て始めた。*
*彼は片手でメアの背中を撫でながら、天井を見上げた。45歳。異世界に来てから20年以上。息子が生まれ、娘は成長し、国は安定している。*
*穏やかな日々だ。*
*だが、彼の「神眼」がメアを拾った時、一瞬だけ妙な反応を示していた。普通の子猫なら何も表示されないはずだった。あの時は気のせいだと思ったが──*
*メアがむにゃむにゃと寝言を言い、彼の胸に深く顔を埋めた。*
シロウ「……まあ、いいか。猫は猫だ」
*彼は目を閉じた。メアの温もりと小さな心臓の鼓動が、子守唄のように彼を眠りへと誘っていく。*
*窓の外では雨が静かに降り続いていた。アストライア魔導皇国の、穏やかな夜だった。*




