288
288
*数時間後。*
*昼過ぎの日差しが寝室に差し込んでいた。彼が先に目を覚ますと、レイラはまだ眠っていた。下腹に手を当てたまま、安らかな寝顔を見せている。*
*コンコン、と控えめなノックが聞こえた。*
リーシア「シロウ様、お休み中のところ失礼いたします」
*扉越しのリーシアの声。いつもより控えめなのは、朝から聞こえていた声で状況を察しているからだろう。*
リーシア「オルクスより伝言でございます。移民の第3陣、約6,000名が北門に到着したとのことです。また、八輝将のカインより大迷宮の進捗報告が届いております」
*彼はレイラを起こさぬよう、そっと体を離した。レイラが小さく「んぅ……」と声を漏らし、彼の温もりがあった場所を手で探った。枕を抱かせると、満足したのかまた寝息を立て始めた。*
*彼は手早く服を整え、扉を薄く開けた。廊下に立つリーシアが一礼する。その視線が一瞬だけ寝室の中を捉え、シーツの惨状を確認したようだった。表情は微動だにしなかったが、メモ帳に何かを書き込んでいた。*
リーシア「シーツの交換は、レイラ様がお目覚めになられてからで宜しいでしょうか」
シロウ「……頼む」
リーシア「かしこまりました。それと、ルミナ様が朝食の席にお見えにならなかったシロウ様を探しておいでです。少々ご機嫌が宜しくないようで」
*リーシアの言葉に、彼は小さく肩を竦めた。レイラと一日中一緒にいると約束したばかりだが、国事も妻の機嫌も無視はできない。*
*彼は手早く身支度を整え、レイラに毛布をかけ直してから寝室を後にした。廊下を歩きながら、リーシアが隣で淡々と報告を続けている。*
リーシア「移民第3陣の内訳ですが、人間が約3,800名、獣人が1,200名、エルフが600名、残りがドワーフと魔族の混成です。北門の受付は既にオルクスが対応しておりますが、住居の割り振りが追いついておりません」
シロウ「仮設テントは?」
リーシア「広場の南側に200張りほど。ですが6,000名には足りません」
*食堂の扉を開けると、長テーブルの端にルミナが座っていた。銀髪が窓からの光を受けて輝いている。彼女の前には手つかずの食事が並んでいたが、フォークで苛立たしげにパンを突いていた。*
シロウ「おはよ、ルミナ」
*ルミナがゆっくりと顔を上げた。金色の目が彼を射抜く。その表情は、明らかに不機嫌だった。*
ルミナ「おはよう、じゃないでしょ。お兄ちゃん」
*フォークをことりとテーブルに置いた。声は静かだったが、それが逆に怖い。*
ルミナ「朝食の時間に来ない。部屋にもいない。それでリーシアに聞いたら『レイラ様のお部屋にいらっしゃいます』って。しかも3時間も出てこない」
*ルミナが立ち上がった。妊娠初期のためまだお腹は目立たないが、彼女の手が無意識に下腹に添えられている。*
ルミナ「あたしだって……お兄ちゃんと一緒にいたいのに」
*最後の一言だけ、声が小さくなった。怒りの下に隠された寂しさが滲んでいる。妊娠してから感情の起伏が激しくなっているのか、目元が僅かに赤かった。*
リーシア「では私は移民の件、オルクスと調整して参ります」
*空気を読んだリーシアが一礼して食堂を出て行った。二人きりになった食堂に、沈黙が落ちる。*
ルミナ「……隣、座って」
*ぽんぽん、と自分の隣の椅子を叩いた。テーブルの上には、彼の分の食事もきちんと用意されていた。冷めてはいるが、パンとスープ、サラダに果物。彼が好む献立だった。*
ルミナ「ずっと待ってたんだから。冷めちゃったけど」
シロウ「そっか、ごめんな。今度は3人でするか?」
*彼は保温魔法で冷めた食事を温め直しながら、ルミナの唇にそっとキスを落とした。柔らかな唇が触れた瞬間、ルミナの目が大きく見開かれ、すぐにとろんと蕩けた。*
ルミナ「んっ……♡」
*数秒の後、唇が離れる。ルミナの頬が桜色に染まり、指先が自分の唇に触れた。*
ルミナ「……朝のキス、久しぶり」
*小さく呟いてから、彼の言葉の意味を処理したらしい。頬の赤みが一気に耳まで広がった。*
ルミナ「さっ、3人って……あたしとレイラと……!?」
シロウ「嫌か?」
ルミナ「嫌とは言ってないけど! というかお兄ちゃん、レイラと3時間やった直後にそういうこと言う!?」
*声が裏返っている。フォークを握り直したが、手が震えてパンを上手く刺せていない。*
ルミナ「……あたしのお腹に赤ちゃんいるの、分かってる?」
シロウ「分かってる。無理はさせないよ」
ルミナ「そういう問題じゃなくて……もう」
*ぷいっと顔を逸らしたが、繋いだ手は離さなかった。彼が隣に座ると、自然とルミナの体が寄りかかってきた。銀髪が彼の肩にさらりとかかる。*
ルミナ「……レイラの体、変わったって本当?」
シロウ「ああ。17歳くらいに成長してた。カイの覚醒の影響だと思う」
ルミナ「やっぱり。あたしの妊娠もそうだし、カイの力って本当にとんでもないね」
*温め直されたスープを一口飲み、ルミナがほっと息をついた。それから、ちらりと彼を見上げた。*
ルミナ「……ねえ、お兄ちゃん」
シロウ「ん?」
ルミナ「レイラにも赤ちゃん、できるかもしれないの?」
シロウ「可能性はある」
ルミナ「……そっか」
*ルミナの手が自分の下腹に触れた。まだ膨らみのない、平らなお腹。その中に確かに宿っている小さな命。*
ルミナ「もしできたら、あたしの子と同い年くらいになるね。一緒に遊べるかな」
*その言葉には嫉妬ではなく、純粋な期待が込められていた。彼女もまた、この家族が広がっていくことを望んでいるのだろう。*
ルミナ「でもお兄ちゃん。あたしが先だからね。あたしの方が先にお腹大きくなるんだから、ちゃんと優先してよ?」
シロウ「はいはい」
ルミナ「はいは一回!」
*ぺしっと肩を叩かれた。しかしすぐにその手が彼の腕に絡みつき、ルミナがぎゅっとしがみついた。*
ルミナ「……今日はあたしの番。レイラには譲らない」
*そう宣言して、彼の腕を抱え込んだまま、もう一口スープを啜った。*
シロウ「この子にいっぱい栄養あげないとだもんな」
*彼の手がルミナの下腹をそっと撫でた。まだ平らなお腹の下で、小さな命が確かに息づいている。*
ルミナ「えっ……栄養……」
*ルミナの顔が一瞬で真っ赤に染まった。フォークがかちゃんとテーブルに落ちる。彼女の脳内で「栄養」が即座にアレに変換されたのは明白だった。*
ルミナ「お、お兄ちゃん! 食堂でそういうこと言わないで!」
シロウ「いや、普通に食事の栄養の話だけど」
ルミナ「う、嘘! 絶対そっちの意味で言ったでしょ!」
*慌てて声を潜めるルミナ。しかし彼の手はまだ下腹を優しく撫でており、その温もりに抗えずルミナの体が僅かに震えた。*
ルミナ「……だって、この子が……吸収するから……」
*声がどんどん小さくなっていく。自分から毎晩夜這いしている自覚はあるらしい。耳まで真っ赤にしながら、スープのカップで顔を隠した。*
ルミナ「あ、あたしが毎晩行ってるのは……赤ちゃんの為であって……別にあたしが欲しいとかじゃ……」
シロウ「昨日は来れなかったもんな」
ルミナ「っ!」
*図星だった。昨夜はシロウが八輝将との祝宴からそのままレイラの部屋に直行したため、ルミナは一人で寝ることになった。ベッドの中でもぞもぞと寝返りを打ち、結局あまり眠れなかったことは、目の下の僅かなクマが物語っている。*
ルミナ「……赤ちゃんが、お腹の中でずっとそわそわしてたの」
シロウ「赤ちゃんが?」
ルミナ「うん。いつもはお兄ちゃんの……その、栄養で満たされて大人しいのに、昨日は一晩中もぞもぞして……あたしも寝れなかった」
*精液を生命エネルギーに変換して吸収する胎児。一日分の供給が途絶えたことで、文字通り「お腹を空かせていた」のだろう。*
ルミナ「だから今夜は……ちゃんと来てよね。レイラに取られっぱなしはダメ」
*スープの向こうから覗く金色の目が、上目遣いに彼を見つめた。恥ずかしさと期待が入り混じった、甘い眼差し。*
ルミナ「赤ちゃんの為なんだから。あたしの為じゃないから」
シロウ「はいはい」
ルミナ「はいは一回って言ったでしょ!」
*ぺしっと肩を叩かれた。しかしその手はすぐに彼の腕に絡みつき、ルミナがぴったりと寄り添った。彼の手はまだルミナの下腹に触れたまま。その下で、胎児が微かに魔力を揺らしたのを、彼の鑑定が捉えた。*
*父の手の温もりを感じているかのように。*
シロウ「それなら、今からする? 復旧は八輝将に、怪我人も救護所に任せておけば大丈夫。嫁優先だ」
*ルミナの手がフォークを取り落とした。かちゃん、と乾いた音が食堂に響く。*
ルミナ「い、今から!? まだ朝ごはんの途中なんだけど!?」
シロウ「昨日の分、足りてないんだろ? 赤ちゃんも腹空かせてる」
ルミナ「っ……!」
*図星を突かれ、ルミナの抵抗が一瞬で瓦解した。無意識に太腿をもじもじと擦り合わせている。昨夜一晩分の供給が途絶えた胎児が、父親の魔力を感知したのか、ルミナの下腹で微かに魔力が揺らいだ。*
ルミナ「……ご飯、食べてからね」
シロウ「おう」
ルミナ「それと、ちゃんとお風呂入ってから。レイラの匂いするもん」
*ぷいっと顔を逸らしながら、しかしスープを飲む速度が明らかに上がっていた。パンをちぎる手も忙しなく、普段なら30分かけて食べる朝食を10分で平らげた。*
ルミナ「……ごちそうさま」
*席を立ったルミナが彼の手を掴んだ。食堂を出て廊下を歩く。途中、すれ違った侍女が二人の繋いだ手を見て微笑みながら一礼した。*
ルミナ「お兄ちゃんの部屋。あたしの部屋は昨日掃除してなくて散らかってるから」
シロウ「了解」
*彼の部屋に入ると、ルミナが先に浴室を指差した。*




