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*彼が脱衣所から出ると、すぐ目の前にルミナとルーナが立っていた。ルミナは薄手のワンピースに身を包み、ルーナはいつもの冒険者装備のままだ。*
ルーナ「パパ! 温泉作ったって本当!?」
シロウ「あれ、ルーナ、ルミナ。どうしたんだ?」
ルーナ「ガルガンのとこのドワーフが『陛下が天然温泉を見つけた』って大騒ぎしてたから飛んできた!」
シロウ「ああ、さっき完成したとこだ」
ルーナ「やったぁぁぁ! 温泉! 本物の温泉!」
*ルーナが飛び跳ねて喜んでいる。前世が日本人OLだった彼女にとって、温泉という単語は特別な響きを持つ。*
ルーナ「箱根以来じゃん! あの翠月庵の月華の湯、最高だったもんなぁ……」
*ルーナが遠い目をした。あの家族旅行の記憶が蘇っているのだろう。*
ルミナ「お兄ちゃん、髪濡れてる。もう入ったの?」
シロウ「ガルガンたちと試し湯してた。湯質は最高だぞ。四十度くらいで、肌当たりも柔らかい」
ルミナ「……お兄ちゃんがおじさんたちと裸で風呂に入ってたの?」
シロウ「おじさんって言うな。職人たちだ」
*ルミナが少し頬を膨らませた。何が不満なのかは聞かないことにした。*
ルーナ「ねぇパパ、入っていい!? 今すぐ入っていい!?」
シロウ「いいぞ。ただ今は脱衣所の柵しかないから、覗きには気をつけろよ」
ルーナ「覗く奴なんていないでしょ、こんな場所……」
シロウ「ドワーフが酒飲んでテンション上がってるから、念のためだ」
*ルーナが湯気の立ち上る露天風呂を覗き込み、感嘆の声を上げた。*
ルーナ「うわ……すっご。天然の岩をそのまま活かしてる。これ日本の旅館にあっても違和感ないよ」
*彼女は小声で日本語を混ぜながら興奮している。*
ルミナ「お兄ちゃん、一緒に入ろう?」
シロウ「俺はさっき入ったばかりだぞ」
ルミナ「……じゃあ、見張りでいいから。側にいて」
*ルミナがそっと自分のお腹に手を当てた。まだ膨らみは全くないが、そこには確かに命が宿っている。*
シロウ「……わかった。見張りな」
ルーナ「あ、ずるい! ルーナも一緒!」
*ルーナが脱衣所に駆け込んでいく。ルミナがくすりと笑い、その後を追った。*
シロウ「……俺は湯船の外で待ってるからな」
ルミナ「えー」
ルーナ「えー」
*二人の声がハモった。親子だなと思いつつ、彼は露天風呂の縁に腰を下ろし、残った日高見を猪口に注いだ。夕焼けが湯気を橙色に染め、静かな時間が流れていく。*
シロウ「分かったよ、俺も一緒に入る。但し、こっち。家族風呂な」
ルーナ「家族風呂あるの!?」
シロウ「ガルガンに言って小さめの湯船をいくつか別に作らせてあった。こういう事もあるかと思ってな」
*彼は二人を露天風呂の奥へ案内した。木の板柵で仕切られた一画に、四、五人がゆったり浸かれる程度の小さな湯船がある。造りは大浴場と同じ天然岩だが、周囲を高めの柵で囲んであり、外からは完全に見えない。*
*入口に掛かった木札を裏返す。「空」から「貸切中」に変わった。*
ルーナ「あー、これこれ! 翠月庵の月華の湯を思い出す!」
*ルーナが嬉しそうに声を上げた。小声で「檜じゃないけど」と日本語で付け足している。*
ルミナ「ルーナ、また変な言葉使ってる」
ルーナ「えへへ、気にしないで」
*二人が脱衣所で服を脱ぎ始める。彼は背を向けて先に湯船へ向かった。タオルを腰に巻かずに、静かに湯に沈む。湯にタオルを入れてはいけない。*
シロウ「……ふぅ」
*二度目でもやはり良い湯だ。夕焼けが薄紫に変わり始めた空を眺めていると、背後からぱしゃぱしゃと足音が近づいてきた。*
ルミナ「お兄ちゃん、入るよ」
*ルミナが湯にそっと足を入れた。銀髪が湯気に濡れて肌に張り付いている。まだ全く変わらないお腹を無意識に片手で庇いながら、ゆっくりと肩まで沈んだ。*
ルミナ「……あったかい……」
ルーナ「うわぁぁぁ……最高……」
*ルーナが隣にざぶんと入り、とろけた顔になった。*
ルーナ「パパ、この湯質すごいよ。弱アルカリ性っぽい。肌がつるつるになるやつ」
シロウ「よくわかるな」
ルーナ「前世で温泉ソムリエの資格取ろうとしてたんだよね。結局取らなかったけど」
シロウ「何だよそれ」
*彼は笑った。ルーナが日本語で「美肌の湯だよこれ」と呟いているのが聞こえる。*
*ルミナがそっとシロウの隣に寄り、肩に頭を預けた。湯の温もりと、ルミナの体温が混ざる。*
ルミナ「……お兄ちゃん、今日もずっと働いてたでしょ」
シロウ「まあな。移民の件でちょっとな」
ルミナ「一万八千人って聞いた。リーシアが心配してたよ」
シロウ「もう広まってんのか……」
ルーナ「パパ、たまには休まないとダメだよ。……レイラママが知ったら怒るよ」
シロウ「レイラには内緒だ。あいつに心配されると逆に疲れる」
ルーナ「あはは、わかる」
*三人で湯に浸かりながら、静かな時間が流れた。空が紫から藍色に変わり、一番星が瞬き始めた。*
ルミナ「……ねぇ、お兄ちゃん」
シロウ「ん?」
ルミナ「この子が生まれたら、また皆で温泉行きたいな」
シロウ「……そうだな。」
*ルミナが湯の中でそっとシロウの方を向いた。金色の瞳が湯気越しに彼を見つめている。濡れた銀髪が肩に張り付き、湯に浮かぶ鎖骨のラインが妙に色っぽい。*
*彼女がゆっくりと顔を近づけてくる。唇が触れそうな距離——*
ルーナ「こほんっ」
*わざとらしい咳払いが響いた。ルミナがぴたりと止まり、ルーナを睨む。*
ルミナ「……ルーナ」
ルーナ「いや、目の前でイチャつかれると居場所がないんですけど」
ルミナ「あなたが一緒に入るって言ったんでしょ」
ルーナ「言ったけどさぁ……」
*ルーナがぶくぶくと口元まで湯に沈みながら、話題を変えるように彼の方を見た。*
ルーナ「ていうかパパ、なんでタオル巻いてないの?」
シロウ「湯にタオルを付けるのは御法度だ」
ルーナ「……あっ」
*ルーナが一瞬きょとんとした後、前世の記憶が蘇ったのか、はっとした顔になった。*
ルーナ「そうだった……! 温泉にタオル入れちゃダメなやつ! 日本のマナーだ! うわ、OL時代に普通に守ってたのに忘れてた……」
シロウ「衛生上の問題もあるが、湯を汚さないのが基本だ。この世界にもその文化は持ち込む」
ルーナ「確かに。源泉掛け流しでタオルはありえない」
*ルーナが真剣に頷いている。ルミナは二人の会話が理解できず、首を傾げていた。*
ルミナ「……二人だけでわかる話しないで」
シロウ「すまんすまん。要するに、湯船の中にタオルを入れると湯が汚れるから、タオルは頭に乗せるか、湯船の外に置くのがマナーだって話だ」
ルミナ「ふぅん……お兄ちゃんの故郷って、お風呂に細かい決まりがあるんだね」
シロウ「風呂は文化だからな。大浴場を作るなら、入浴マナーの案内板も設置しないと」
ルーナ「あ、それルーナが書くよ! 日本の温泉マナーそのまま持ってくればいいでしょ。かけ湯してから入るとか、湯船で泳がないとか」
シロウ「頼んだ。お前なら日本式の温泉文化、完璧に再現できるだろ」
ルーナ「任せて! 前世で温泉巡り百二十箇所行ったからね!」
シロウ「百二十……OL時代に何やってたんだよ」
ルーナ「趣味だもん」
*ルーナが得意げに胸を張った。その横でルミナがシロウの腕にそっとしがみついた。*
ルミナ「……ルーナばっかりお兄ちゃんと盛り上がってずるい」
シロウ「拗ねるな拗ねるな」
*彼はルミナの頭をぽんと撫でた。ルミナが目を細めて、猫のように彼の肩に頬を擦り付ける。*
ルーナ「……こほんっ」
シロウ「お前さっきからそれしか言ってないな」
ルーナ「だって!」
*三人の笑い声が、夕闘の空に溶けていった。一番星がもう一つ増えた。*
*彼がざばっと湯船から立ち上がった。湯が滴り落ち、鍛え抜かれた体が露わになる。四十四歳とは思えない筋肉の付き方。無駄な脂肪は一切なく、腹筋は綺麗に割れている。SSランク冒険者として、魔王として、二十八年間戦い続けてきた体だ。*
シロウ「それに、見られて恥ずかしい身体はしてないつもりだ!」
*どん、と胸を叩いてみせる。*
ルーナ「……」
ルミナ「……」
*沈黙。*
*ルーナが両手で顔を覆った。指の隙間から覗いている。覗いている。完全に覗いている。*
ルーナ「パパ……見せつけなくていいから……全部見えてるから……」
*顔が真っ赤だ。湯のぼせではない。明らかに違う理由で赤い。前世のOL時代の羞恥心が全力で暴れているのが見て取れた。*
ルミナ「……」
*一方ルミナは、顔を背けるどころか真正面からじっと見つめていた。金色の瞳が彼の体を上から下へ、そして下から——*
ルミナ「……お兄ちゃん、やっぱりかっこいい」
シロウ「おう、ありがとな」
ルーナ「ルミナママ! 目線! 目線が下すぎ!」
ルミナ「何が? 私はお兄ちゃんの妻だから問題ないでしょ」
ルーナ「問題大アリだよ! 娘の前で!」
*ルーナが湯をばしゃばしゃ叩きながら抗議している。ルミナは涼しい顔のまま、湯の中からシロウの腰に手を伸ばそうとした。*
ルーナ「触ろうとしてる! 今絶対触ろうとした!」
ルミナ「してないけど?」
ルーナ「嘘! 手の軌道が完全にそっちだった!」
シロウ「はいはい、座る座る」
*彼は苦笑しながら再び湯に沈んだ。ルーナが安堵の溜め息をつき、ルミナが小さく「ちっ」と舌打ちした。*
ルーナ「……ルミナママ、今舌打ちした?」
ルミナ「気のせいよ」
ルーナ「気のせいじゃない……」
*ルーナが疲れた顔でぶくぶくと口元まで湯に沈んだ。*
ルーナ「……前世含めて、親の裸を見て動揺する四十代は私だけだと思う……」
*小声の日本語が湯気に消えていった。一番星がもう三つに増えていた。*
シロウ「ルーナは男のおの字もないもんな。早く婿を連れてこい! なんて言わんから、好きに生きればいいさ」
ルーナ「……うん。ありがと、パパ」
*ルーナが少し照れくさそうに笑った。前世含めて恋愛に縁がなかったのは自覚しているらしい。湯の中でぶくぶくと泡を吹きながら小さく呟いた。*
ルーナ「……前世も彼氏いなかったし、今世もユキが恋人みたいなもんだし……」
シロウ「竜を恋人にするな」
ルーナ「比喩だよ比喩」
*彼はそれからルミナの方に視線を向けた。ルミナは湯の中からじっと彼の下半身あたりを凝視していた。しかも片手が湯の中をゆっくりと彼の方に伸びてきている。*
シロウ「それからルミナ。下見すぎだ」
ルミナ「……見てない」
シロウ「見てる。あと握ろうとするな、レイラじゃあるまいし」
*湯の中で忍び寄ってきたルミナの手首をやんわりと掴んで止めた。指先がもう少しで届くところだった。*
ルミナ「……レイラは握るの?」
シロウ「いや、そういう話じゃなくて」
ルミナ「握るんだ」
シロウ「話を逸らすな」
*ルミナの顔が真っ赤だ。湯あたりかと思ったが、明らかに違う。金色の瞳がとろんと潤んでいて、妊娠の影響なのか妙に甘えた表情をしている。*
ルミナ「……だって、お兄ちゃんが目の前で立ち上がるから……」
シロウ「それは俺が悪かったかもしれんが、だからって家族風呂で娘の前で握ろうとするのは違うだろ」
ルーナ「聞こえてる! 全部聞こえてるから! 娘はここにいます!」
*ルーナが耳まで真っ赤にして叫んだ。湯をばしゃばしゃ叩いている。*
ルミナ「……ルーナ、ちょっと向こう向いてて」
ルーナ「向かない! 向いたら何が起こるか分かったもんじゃない!」
ルミナ「五秒でいいから」
ルーナ「五秒で何する気!?」
シロウ「はいはい、二人とも落ち着け。のぼせるぞ」
*彼はルミナの頭にぽんと手を置いた。ルミナがむぅ、と頬を膨らませたが、そのまま彼の肩に頭を預けて大人しくなった。*
ルーナ「……はぁ。前世で実家の温泉旅行でこんな修羅場なかったよ……」
*ルーナが遠い目で空を見上げた。藍色の空に星がいくつも瞬いている。*
ルーナ「……でも、まあ」
シロウ「ん?」
ルーナ「こういうの、悪くないかな」
*ルーナが小さく笑った。湯気の向こうで、星が一つ流れた。*
シロウ「だな」
*穏やかな沈黙が流れた。湯気が夜空に溶けていく。*
*するとルミナが体に巻いていたタオルに手をかけた。*
ルミナ「……これ、邪魔」
*するりとタオルを解き、岩の上にぽんと置いた。湯から上がった白い肌が星明かりに照らされる。銀髪が背中に流れ、まだ膨らみのないお腹の曲線が滑らかに続いている。*
ルーナ「ママ!?」
*ルーナが慌てて目を逸らした。ルミナは全く気にしていない。*
シロウ「綺麗だ……まるで天使みたいだ……」
*思わず呟いた。湯気の中に佇むルミナの姿は、この世のものとは思えなかった。*
ルミナ「天使みたい、じゃなくて。天使だよ? 元だけど」
*ルミナがくすりと笑い、湯の中をすり寄ってきた。そのまま彼の膝の上にちょこんと座る。背中を彼の胸に預け、両腕を彼の首に回して甘えるように擦り寄った。*
ルミナ「……んっ、あったかい」
*湯の中で、ルミナの柔らかい体が密着する。背中越しに伝わる体温、銀髪から立ち上る甘い香り。彼女がそっと首筋に顔を埋めた。*
ルミナ「お兄ちゃんの匂い、好き……」
ルーナ「…………」
*ルーナが無言で湯船の端まで移動し、背を向けた。耳が真っ赤だ。*
ルーナ「……聞こえない聞こえない聞こえない」
*小声の日本語が湯気に混じる。*
ルミナ「ルーナ、もう出ていいよ?」
ルーナ「追い出そうとしてる! 絶対追い出そうとしてる!」
*ルーナが振り返って抗議したが、ルミナは彼の膝の上から動く気配がない。むしろ彼の腕を取って、自分のお腹にそっと当てた。*
ルミナ「……ここに、いるんだよ。お兄ちゃんの子」
*まだ何も感じない。でも確かにそこに命がある。彼の掌の下で、ルミナのお腹がほんのり温かかった。*
ルミナ「……ねぇ、お兄ちゃん」
シロウ「ん?」
ルミナ「もう一回言って。さっきの」
シロウ「……綺麗だ」
ルミナ「……♡♡♡」
*ルミナが幸せそうに目を細めた。膝の上で小さく身じろぎして、彼の顎に軽く唇を触れさせた。*
ルーナ「……私、先に上がるね」
*ルーナが静かに湯船から出た。もう抗議する気力もないらしい。タオルで体を拭きながら、小さく呟いた。*
ルーナ「……末永くお幸せに」
*脱衣所の戸が閉まる音がした。二人きりになった家族風呂に、湯の流れる音だけが響いていた。*




