276
276
*彼は転移魔法で瞬時に城へ戻った。玄関の大扉を蹴り開け、声を張り上げた。*
シロウ「リーシア! 医療班を!」
*メイド長リーシアが廊下の奥から駆けてきた。彼の腕の中で眠るカイを見た瞬間、その茶髪が揺れた。*
リーシア「カイ様! ただちに医療班を手配いたします! ——医療班、第一応接室に集合! 至急!」
*リーシアの声が城内に響き渡った。数秒と経たずに、白衣の治癒師たちが廊下を走ってくる。*
*彼はカイを執事に預けた。執事が慣れた手つきでカイを担架に乗せ、医療室へと運んでいく。レイラがその横に張り付いて離れなかった。*
レイラ「妾も行く。離れぬぞ」
*レイラの背中が廊下の角に消えていった。マントを息子に掛けたまま、肩を震わせている。*
*ノアが彼の隣に立った。*
ノア「カイさん、大丈夫っすかね」
シロウ「精霊が守ってる。体の損傷はない。ただ、魂が追いついてないだけだ。寝れば治る」
ノア「……そっすか。よかったっす」
*ノアが胸を撫で下ろした。だが、その金と緑の瞳の奥に——ライの気配が揺れている。*
シロウ「ノア。ライは?」
ノア「……疲れて寝てるっす。自分の中で。静かにしてるっすよ」
*彼は頷いた。ライの魂がノアの中で安定しているなら、問題はない。*
*彼は城内を見回した。地震対策として建築時に組み込んだ制震術式のおかげで、構造の芯は死んでいない。壁にひび割れ、天井の装飾が落下し、窓硝子が割れている箇所はあるが——致命的な損壊はなかった。*
シロウ「リーシア」
リーシア「はい、シロウ様」
シロウ「城の修復を始める。全員退避させろ」
*リーシアが即座に城内の人員を退避させた。彼が右手を掲げ、修復魔法を発動した。*
*光が城全体を包み込んだ。ひび割れた壁が元に戻り、落下した装飾が浮かび上がって元の位置に収まり、割れた窓硝子が再生していく。数十秒で、城は地震前の姿を取り戻した。*
リーシア「……何度拝見しても、圧巻でございます」
シロウ「城はこれでいい。問題は街だ」
*彼は窓から街を見下ろした。南部と西部の旧市街を中心に、煙が上がっている。新市街は耐震設計のおかげで被害が少ないが、旧市街の古い建物は軒並み倒壊しているだろう。*
*八輝将は既に現場に向かっている。リオンの指揮で動いているなら、救助と瓦礫撤去は進んでいるはずだ。*
*彼は窓から街を見下ろしながら、現状を頭の中で整理した。*
*重傷者は800人近くいた。最初に彼が1/3の治療を終え、その後、第五部隊のユキ・クジョウとクロエに預けたエリクサー500本で重傷者の治療は既に完了している。ユキとクロエの手際は見事だった。*
*数千人規模の中傷者は、ルミナが一人で担当している。元熾天使の回復魔法は桁が違う。聖属性の広域回復を展開し続け、次々と傷を癒している。*
*数万人に及ぶ軽傷者は応急処置だけ施して一旦放置。包帯と止血で命に別条がない者を、今の段階で治癒師に回す余裕はない。*
シロウ「リーシア。現時点での被害状況は」
リーシア「はい。南部旧市街の倒壊家屋、およそ340棟。西部旧市街が210棟。新市街は耐震設計のおかげで倒壊ゼロ、窓硝子の破損が数十件程度でございます」
シロウ「死者は」
リーシア「第五部隊の事前避難誘導のおかげで——現時点で確認されている死者はゼロです。ただし、南部旧市街の瓦礫の下に未確認の生存者がいる可能性がございます」
シロウ「八輝将の動きは」
リーシア「リオンの指揮で、第四部隊のカインとドルガンが瓦礫撤去に。ルナが偵察で生存者の位置特定。ゲオルグとカイ・ウォーカーが住民の仮設避難所への誘導。アシュトンとヴァイスが被害報告の取りまとめを行っております」
シロウ「よし。俺も出る」
*彼が窓に手を掛けた。*
リーシア「シロウ様。お体は大丈夫でございますか。ワイバーンの殲滅に加え、精霊神の覚醒の立ち会い——相当な消耗かと」
シロウ「俺は寝てないだけだ。倒壊した家の下で潰されてる奴よりはマシだろ」
リーシア「……畏まりました。ですが、倒れられた際は——私が必ずお傍に」
*リーシアの茶髪が揺れた。その声には忠誠以上の何かが滲んでいたが、彼は気にせず窓から飛び出した。*
*眼下に広がる南部旧市街。煙と埃が立ち込める中、八輝将の姿が見える。カインが素手で巨大な瓦礫を持ち上げ、ドルガンが戦斧で崩れた柱を切断している。リオンの怒鳴り声が響いていた。*
リオン「そっちの瓦礫先だ! 下に三人いる! ルナ、位置は!?」
ルナ「……12メートル先。地下一階。生体反応三つ。衰弱してるけど、生きてる」
リオン「カイン!」
カイン「分かってる——!」
*彼が着地した。リオンが振り返り、目を丸くした。*
リオン「陛下!? 城のほうは——」
シロウ「終わった。」
*八人の視線が彼の背後に向いた。城が——直っていた。ひび割れも、崩落も、何もかも。地震など無かったかのように。*
リオン「……は?」
*リオンの口が半開きになった。*
リオン「いや……え? 今さっき飛んでったばっかりですよね? 何分ですか?」
シロウ「5分くらいか」
リオン「5分で城丸ごと修復って何なんですか……」
*ドルガンが瓦礫を持ち上げたまま、城を見て固まった。*
ドルガン「ガハハ……笑えねぇな。俺ら必死に瓦礫どけてんのに」
カイン「……いや、助かる。城の修復に人員を割かなくて済む」
*カインが冷静に受け止めた。実務的な男だった。*
アシュトン「報告いたします。南部旧市街の瓦礫の下、ルナの偵察で生存者を14名確認。うち3名が重傷、残り11名は中傷以下です。現在カインとドルガンが救出作業中」
シロウ「重傷者はルミナのところに運べ。中傷以下は救護所で応急処置して後回しだ」
アシュトン「了解です」
ルナ「……次の地点。西に80メートル。倒壊した酒場の地下に5人」
リオン「カイン! 次、西80!」
カイン「了解!」
*カインが救出した住民を兵士に預け、即座に走り出した。ドルガンが後を追う。黒龍を倒した直後とは思えない動きだが、その足取りには確かな疲労が見える。*
*八輝将が動いた。黒龍討伐の疲労を抱えたまま、それでも——誰一人として止まらなかった。*
*彼は南部旧市街を見下ろしながら考えた。*
*壊れた家は直せる。修復魔法を使えば一瞬だ。だが——それでは意味がない。旧市街の建物は建国初期のもの。耐震設計など施されていない。直したところで、次の地震でまた同じことが起きる。*
*答えは単純だった。*
*全部壊して、建て直す。地震対策付きで。*
*新市街は耐震設計のおかげで倒壊ゼロだった。それが証明だ。旧市街も同じ基準で建て替えれば、二度とこんな被害は出ない。*
*だが、それは後だ。今は——*
シロウ「炊き出しの準備でもするか」
*リオンが振り返った。*
リオン「炊き出し? 陛下が?」
シロウ「避難所に何万人もいるんだ。腹が減ってちゃ何もできねぇだろ」
*彼は念話を飛ばした。*
シロウ『リーシア。城の食糧庫から米と野菜、肉を南部避難所に運べ。大鍋も20個。あと薪も頼む』
リーシア『畏まりました。即座に手配いたします』
*数分後、城から食糧と調理器具が馬車で運ばれてきた。リーシアの手際は相変わらず異常だった。*
*彼は袖を捲り、大鍋の前に立った。周囲の兵士や避難民が目を丸くしている。国王が——自ら炊き出しをしている。*
兵士「へ、陛下!? そのような事は我々が——」
シロウ「いいから手伝え。米を研げ」
兵士「は、はい!」
*大鍋に水を張り、火をつけた。野菜を刻み、肉を切り、出汁を取る。日本人としての記憶が——こういう時に役に立つ。味噌汁は作れないが、似たような具沢山のスープなら作れる。*
*リオンが横に来た。疲れ切った顔のまま、包丁を手に取った。*
リオン「……手伝いますよ。指揮だけしてると手が暇なんで」
シロウ「お前料理できんのか」
リオン「最弱なめんなよ。サバイバル能力だけは高いんすよ俺は」
*リオンが意外にも手慣れた包丁捌きで芋を刻み始めた。ルナがいつの間にか隣に現れ、無言で人参の皮を剥いている。*
*避難所に温かいスープの匂いが漂い始めた。家を失った住民たちが、不安げな顔をしながらも鍋の方に集まってくる。*
*子供が一人、彼の足元に駆け寄ってきた。5歳くらいの獣人の女の子。犬耳がぺたんと垂れている。*
女の子「……おうさま。おうち、こわれちゃった」
*彼は片膝をついて、女の子と目線を合わせた。*
シロウ「知ってる。だから——前より頑丈な家を建ててやる。もう壊れない家を」
女の子「ほんと……?」
シロウ「ああ。約束だ」
*女の子の犬耳がぴくりと立った。小さな手が彼の指を握った。*
女の子「おうさま、あったかい」
*彼が女の子の頭を撫でた。周囲の住民たちが——その光景を見て、少しだけ表情を緩めた。*
*国王が自ら鍋の前に立ち、自ら住民と言葉を交わす。この国の王は——いつもそうだった。*
シロウ「肉好きか?」
*彼が片膝をついたまま、獣人の女の子に聞いた。犬耳がぴんと立ち、尻尾がぶんぶんと振れた。*
女の子「にくすきー!」
*元気な返事だった。家が壊れて泣いていたはずの子供が、肉の一言で目を輝かせている。子供の回復力は凄まじい。*
シロウ「よーし、肉多めにするか」
*彼は立ち上がり、大鍋の前に戻った。肉の塊を取り出し、食べやすい大きさに切り分けていく。日本の豚汁をイメージした具沢山のスープだ。肉、芋、人参、玉葱、きのこ。この世界に味噌はないが、塩と香草で味を整えれば十分に旨い。*
*女の子が彼の足元にちょこんと座り込み、鍋を見上げている。尻尾が床をぱたぱたと叩いていた。*
リオン「……陛下。旧市街の建て直しの件、アシュトンと話したんですが」
*リオンが芋を刻みながら、声を落とした。*
シロウ「ああ」
リオン「南部340棟、西部210棟。合計550棟。全部壊して耐震設計で建て直すとなると——」
アシュトン「概算で黒金貨15枚から20枚。工期は通常であれば2年。ただし、陛下の魔法を前提にすれば——」
シロウ「1ヶ月もあれば終わる」
リオン「……規格外すぎて計算が狂うんですよね、毎回」
*ルナが無言で人参を刻み続けている。その横で、ゲオルグが巨体を持て余しながら不器用に玉葱の皮を剥いていた。目が真っ赤だ。*
ゲオルグ「……これは涙ではない。玉葱だ」
ルナ「……誰も聞いてない」
ゲオルグ「念のためだ」
*大鍋からぐつぐつと音がし始め、湯気が立ち上った。温かいスープの香りが避難所全体に広がっていく。*
*避難民たちが列を作り始めた。家を失い、不安に押し潰されそうな顔をしていた人々が——スープの匂いに釣られて、少しだけ生気を取り戻している。*
*彼が最初の一杯を掬い上げた。肉多めだ。足元の女の子に木の器を差し出した。*
シロウ「ほら。約束通り肉多めだ」
女の子「わぁ! おにくいっぱい!」
*女の子が両手で器を受け取り、ふーふーと冷ましてから一口飲んだ。犬耳がぴんと立ち、尻尾が狂ったように振れた。*
女の子「おいしい! おうさまのスープおいしい!」
*その声を聞いて、列に並んでいた住民たちから小さな笑い声が漏れた。*
*彼は次の一杯を掬い上げ、次の住民に渡した。一杯、また一杯。黙々と配り続ける。*
*国王が自ら配膳する姿を、八輝将が黙って見ていた。リオンが小さく溜息をつき、自分も器を手に取って配り始めた。*
リオン「並んでくださーい! 押さないでー! 肉は十分ありますからー!」
*リオンの声が響く。最弱の指揮官は、戦場でも炊き出しでも——声を張り上げることだけは得意だった。*
*彼が異空間収納から加工済みの肉の塊を次々と取り出した。風魔法で薄切りにし、大鍋に投入していく。手際が良すぎて、もはや料理人のそれだった。*
*リオンが隣で芋を刻みながら、ふと鍋の中の肉を見た。*
リオン「……陛下。これ何の肉ですか?」
シロウ「ん? えーっと、確かドラゴンだったかな。風龍か炎龍だ」
*リオンの包丁が止まった。*
*ルナの手が止まった。*
*ゲオルグの玉葱が床に落ちた。*
*アシュトンの羽ペンが折れた。*
リオン「ドラゴン!? 風龍か炎龍!? 大迷宮の!?」
シロウ「ああ。昔、冒険者やってた頃に討伐した時の残りだな、若気の至りってやつかな。」
リオン「いやいやいやいや! ドラゴンの肉って! ステーキ一枚で白金貨一枚する超高級食材ですよね!? それを炊き出しのスープに!?」
シロウ「肉は肉だろ」
リオン「肉は肉じゃねぇよ! 格が違うわ!」
*リオンが鍋を覗き込んだ。ごろごろと大きめに切られたドラゴンの肉が、野菜と一緒にぐつぐつ煮込まれている。スープの色が明らかに変わっていた。黄金色の出汁が鍋全体に広がり、信じられないほど芳醇な香りが立ち昇っている。*
ドルガン「……この匂い。俺、一生分の酒より今この鍋の方が欲しい」
カイン「ドラゴンの肉は食ったことがない。Sランク冒険者でも滅多に手に入らんだろ」
アシュトン「記録します。『アストライア国王、避難民にドラゴン肉のスープを振る舞う。推定総額——』……いえ、計算したくないですね」
ヴァイス「推しが太っ腹すぎて記録が追いつきません」
*避難所にドラゴン肉の香りが充満した。列に並んでいた住民たちが、匂いに気づいてざわめき始めた。*
住民A「なんだこの匂い……今までに嗅いだことがない……」
住民B「あの鍋から出てるぞ。国王陛下が作ってる……」
*足元の獣人の女の子が、犬の本能全開で鼻をひくひくさせていた。尻尾が千切れそうなほど振れている。*
女の子「おうさま! なんかすっごくいいにおいする!」
シロウ「ドラゴンの肉だ。もうすぐできるぞ」
女の子「どらごん!?」
*女の子の犬耳が限界まで立った。*
リオン「陛下……この鍋一つで金貨何百枚分の肉が入ってるか分かってます?」
シロウ「知らん。腹が膨れりゃいいだろ」
リオン「国の財務担当が聞いたら卒倒しますよ……」
*リオンが遠い目をした。オルクスの顔が浮かんだのだろう。*
*だが——鍋から一杯掬って味見をした瞬間、リオンの表情が変わった。*
リオン「……うま」
ルナ「……おいしい」
ゲオルグ「……これは、凄いな」
シロウ「丁度、異空間収納内の肉の処分ができてよかったよ。これぞ一石二鳥ってな」
*彼は大鍋をかき混ぜながら、異空間収納の中身を確認し始めた。*
シロウ「残りは……オークキング、レッドスネーク、コカトリス、地龍、古龍、ウインナー……」
*リオンの手が止まった。*
リオン「ちょっと待ってください。今サラッと混ざりましたよね?」
シロウ「ウインナー?」
リオン「その前! 古龍! 古龍って言いましたよね!?」
シロウ「ああ。昔倒した時のやつだな。解体して部位ごとに保存してある」
リオン「古龍って大迷宮98階層のと同じ!? あの伝説級の!? 博物館に石化した個体が飾ってあるあの古龍ですか!?」
シロウ「そうだな」
リオン「なんで食材として保存してんですか!!」
*リオンが包丁を置いて頭を抱えた。*
カイン「……古龍の肉は市場に出回ったことがない。値段がつけられないだろう」
アシュトン「記録上、古龍を討伐した人物は歴史上で数えるほどしか存在しません。その肉を食した記録に至っては——皆無です」
ドルガン「つまり……あの鍋に入ったら、世界初の古龍スープってことか?」
*全員の視線が彼に集中した。*
シロウ「いや、古龍は出さねぇよ。流石に味が濃すぎて他の食材が死ぬ」
リオン「そういう問題じゃ——」
*足元の獣人の女の子が、空になった器を差し出した。*
女の子「おうさま! おかわり!」
シロウ「おう。待ってろ」
*彼が二杯目を掬い上げた。肉をさらに多めに盛った。女の子の尻尾が回転し始めた。もはやプロペラだった。*
リオン「……もう何もツッコまない。ツッコんだら負けだ。俺は学んだ」
ルナ「……成長」
リオン「成長って言うな。諦めだよ」
*彼は黙々とスープを配り続けた。避難所の空気が少しずつ変わっていく。温かいスープが、温かい言葉が、不安に凍えた心を溶かしていく。*
*ゲオルグが巨体を揺らしながら、大鍋を一人で運んできた。二杯目の仕込みだ。*
ゲオルグ「陛下。次の鍋、何の肉を入れますか」
シロウ「コカトリスでいくか。あれは鶏肉に近いから食いやすい」
ゲオルグ「了解した」
*ゲオルグが異空間収納から取り出されたコカトリスの肉を受け取り、黙々と切り始めた。不器用だった包丁捌きが、少しだけ上達していた。玉葱で鍛えられたらしい。*
*避難民の列は途切れることなく続いていた。だが、その顔は——最初の絶望とは違っていた。*
*彼がリオンとやり取りしていると、背後から冷たい声が飛んできた。*
ルミナ「リオン。あなた、八輝将の筆頭がスープの具材にツッコミ入れてる暇があるの? 南部の救出作業、終わったの?」
*リオンの背筋が凍った。包丁を持ったまま、ゆっくりと振り返る。そこにはルミナが立っていた。瞳が氷のように冷たい。*
リオン「い、いえ……救出は現在カインとドルガンが——」
ルミナ「つまり、あなたはサボってるってこと?」
リオン「さ、サボってません! 炊き出しの手伝いを——」
ルミナ「炊き出しは兵士でもできるわ。あなたにしかできない仕事があるでしょう」
リオン「……はい」
*リオンが包丁を静かに置き、無言で避難所を後にした。その背中は完全に萎れていた。ルナが影のようにリオンの後を追った。*
シロウ「あ、ルミナお疲れ。怪我人のほうは大丈夫?」
*彼が振り返ると、ルミナの表情が一瞬で変わった。氷の女王が、花が咲くように微笑んだ。温度差が凄まじい。*
ルミナ「お兄ちゃん。追加の重傷者3名は全員治療済み。命に別状はないわ。中傷以下も救護所で順次処置してるから、あと1時間もあれば全員終わる」
シロウ「流石だな」
ルミナ「当然でしょ。お兄ちゃんの国の民なんだから、一人も死なせないわよ」
*ルミナが彼の隣に立ち、大鍋を覗き込んだ。黄金色のスープがぐつぐつと煮えている。*
ルミナ「……いい匂い。お兄ちゃんが作ったの?」
シロウ「ああ。食うか?」
ルミナ「……少しだけ」
*彼が器に一杯掬い上げ、ルミナに渡した。ルミナが一口飲んだ瞬間、耳の先がほんのりと赤くなった。*
ルミナ「……おいしい。お兄ちゃんの料理、好き」
*小さな声だった。彼にしか聞こえない音量で。*
*足元の獣人の女の子が、ルミナを見上げた。*
女の子「おねえちゃん、だれ?」
ルミナ「……この国の王妃よ」
女の子「おうさまのおよめさん!? きれー!」
*ルミナの耳がさらに赤くなった。*
シロウ「綺麗だろ? 自慢の嫁だぞ!」
*彼が胸を張って言い切った。獣人の女の子がきらきらした目でルミナを見上げている。*
ルミナ「っ——自慢の……嫁……」
*ルミナの顔が真っ赤に染まった。そのまま器を両手で持ったまま、身体をくねくねと揺らし始めた。目が完全にどこか遠くを見ている。*
ルミナ「お兄ちゃんの……自慢の……ふふ……ふふふ……お兄ちゃんが皆の前で自慢の嫁って……ふふふふ……」
*周囲の兵士たちが目を逸らした。国の王妃がスープの器を抱えたまま一人で妄想の世界に旅立っている。ゲオルグが玉葱を切るふりをして視線を逸らした。*
ルミナ「ずっと隣にいて……お兄ちゃんだけの……ふふ……」
*そこに、疲れた足取りで一人の少女が歩いてきた。銀髪に金色の瞳。ルーナだった。城の救助活動を終えてきたらしく、服に埃がついている。額に薄く汗が滲んでいた。*
ルーナ「……ただいまー。城周辺の救助は完了——」
*ルーナの視線がルミナに向いた。自分の母親が、スープの器を抱えてくねくねしている。公衆の面前で。*
ルーナ「……ママ」
ルミナ「ふふふ……お兄ちゃんの嫁……」
ルーナ「ママ、市民の前だよ?」
ルミナ「お兄ちゃんが世界一——」
ルーナ「……ママ、国の威厳」
*ルーナが小声で、しかし的確に急所を突いた。ルミナの動きがぴたりと止まった。ゆっくりと周囲を見渡す。避難民たちが微妙な笑顔でこちらを見ていた。*
ルミナ「…………」
*ルミナが何事もなかったかのように姿勢を正し、髪をかき上げた。耳は真っ赤のままだった。*
ルミナ「……ルーナ。お疲れ様。報告を聞くわ」
ルーナ「……ママ、耳赤いよ?」
ルミナ「黙りなさい」
*ルーナが彼の隣に来て、小さな声で囁いた。*
ルーナ「パパ。ママの前であの手の発言は、公共の場では控えてよね。止めるの大変なんだから。」
シロウ「悪い悪い」
ルーナ「……あ、いい匂い。それ何のスープ?」
シロウ「ドラゴン肉のスープだ。食うか?」
ルーナ「え。……ドラゴン? マジ?」
*ルーナが器を受け取り、一口飲んだ。疲労で強張っていた顔が、ふわりと緩んだ。*
ルーナ「……おいしい。パパの料理、やっぱり最高…。」
*獣人の女の子がルーナを見上げた。*
女の子「このおねえちゃんも、おうさまのかぞく?」
ルーナ「うん、娘だよー」
女の子「おうさまのかぞく、みんなきれいだねー!」
*ルーナが少しだけ照れたように笑った。*
ーー
*一方、その頃——城の中は戦場だった。別の意味での。*
*震度8の地震で倒れた棚、散乱した書類、割れた窓ガラス。シロウの修復魔法で外壁や構造は元通りになったが、中の家具や調度品までは直っていない。棚は倒れたまま、花瓶は割れたまま、書斎の本は床に散らばったままだ。*
執事「第三応接室の棚、起こし終わりました! 次は書庫です!」
若いメイド「西棟の窓ガラス、残り312枚!多いよぉ!」
リーシア「手を止めないで。陛下がお戻りになる前に城内を完璧に整えなさい」
*リーシアの指揮の下、執事とメイドたちが忙しなく動き回っていた。*
---
*城の一室。カイが寝かされたベッドの傍らで、レイラが椅子に座っていた。*
*精霊神の完全覚醒。その負荷はカイの体に重くのしかかり、意識を失ったまま目を覚まさない。レイラはその顔をじっと見つめていた。*
レイラ「……まったく。無茶をしおって」
*小さく呟いた。その声には怒りではなく、安堵が滲んでいた。息子は生きている。それだけで十分だった。*
*だが——戦闘の疲労と、安堵による緊張の糸が切れたのだろう。いつの間にかレイラの瞼が落ちていた。椅子に座ったまま、カイの手を握った姿勢で、すうすうと寝息を立て始めた。*
メイド「……レイラ様。レイラ様?」
*メイドが部屋に入り、眠るレイラを見つけた。起こすのを一瞬迷い、そっとレイラの手からカイの手を外した。*
メイド「……別室にお連れいたします」
*メイドがレイラを抱え、隣の客室へと運んだ。レイラは起きなかった。よほど疲れていたのだろう。*
---
*それからしばらくして。*
*カイの意識が、ゆっくりと浮上した。*
*瞼を開ける。見慣れた天井。城の一室だ。体が重い。全身に鉛を流し込まれたような倦怠感。だが——生きている。*
カイ「……ここは」
*声が掠れた。喉が乾いている。横を向くと、ベッドの傍らに誰かが座っていた。*
*薄緑色の髪、ミディアムヘア。陶器のように白い肌。ノアの体だ。だが——その表情は、ノアのものではなかった。*
ライ「——起きたんだ!カイ!」
*元気な声。ノアの体から発せられる、ライの声だった。*
カイ「……ライ? ライなのか?」
*カイの頭が混乱した。目の前にいるのはノアの体。だが喋っているのはライ。あの戦いで——ライは光の粒子になって、ノアに吸収されたはずだ。*
ライ「うん。僕だよ。……この体で話すのはまだ慣れないけどね…」
*ライがノアの手を見下ろした。白く細い指。自分のものではない体。*
カイ「……そうか。ライは、ノアの中に……」
*倒れる前の記憶が、断片的に蘇ってきた。ライが自分を庇ったこと。光になって消えたこと。ノアの中に意識を残したこと。*
*カイの胸が締め付けられた。だが——同時に、不思議な安堵もあった。ライは消えていない。*
*カイはベッドに横たわったまま、ライの顔——いや、ノアの顔を見つめた。*
*最初は戸惑った。当然だ。恋人の意識が、別の体の中にいる。ノアの容姿で、ライの口調で話しかけてくる。その違和感は小さくない。*
*だが——不思議と、受け入れられた。*
カイ「……母さんも、昔はそうだったんだよな」
ライ(ノア)「……レイラさんのこと?」
カイ「ああ。母さんの中にもう一人いたんだ。母さんとそっくりだけど、全然違う人。口調も、性格も」
*カイが天井を見上げた。*
カイ「最終的にはクラーケン亜種の力で分裂して、二人になった。でもその前は——一つの体に、二つの意識が同居してたんだ」
ライ(ノア)「……カイ」
カイ「だから、驚きはしたけど……怖くはないよ。ライはライだ。体が違っても」
*カイが手を伸ばした。ノアの——ライの手を握った。白く細い指だった。ライの男の娘の手とは全然違う。でも、握り返す力は同じだった。*
ライ(ノア)「……ありがとう、カイ」
*ライの声が少し震えた。ノアの金と緑の瞳から、涙が一筋流れた。*
ライ(ノア)「正直、怖かったんだ。この姿で……僕だって分かってもらえるか」
カイ「分かるに決まってるだろ。声聞いた瞬間に分かった」
*カイが親指でライの涙を拭った。*
ライ(ノア)「……っ。ずるいよ、そういうの」
カイ「ライこそ。人の体使って泣くなよ。ノアに悪いだろ」
ライ(ノア)「ノアは精霊だからかな…大丈夫なんだ」
カイ「……そこは母さんと違うんだな」
*カイが小さく笑った。体は重いが、心は軽かった。ライが生きている。それだけで十分だった。*
*ライがベッドの縁に頬をつけ、カイの顔を覗き込んだ。*
ライ(ノア)「……ねえ、カイ。体、大丈夫? 精霊神の覚醒、かなり無茶したって聞いたけど」
カイ「正直、全身が鉛みたいに重い。魔力もほとんど空だ。でも——死んでない」
ライ(ノア)「死んでないって基準が低すぎるよ……」
カイ「ライに比べたらマシだろ。お前、光の粒になって消えたんだぞ?」
ライ(ノア)「……それは、うん。否定できない」
*二人の間に、穏やかな沈黙が流れた。窓の外から、城下町の復興作業の音がかすかに聞こえてくる。*
ライ(ノア)「……お義父さん——シロウさん、今炊き出ししてるって。メイドさんが言ってた」
カイ「父さんらしいな。……ドラゴンの肉でも出してそうだ」
ライ(ノア)「え、まさか…」
カイ「いや、あの人ならや。る」
*カイが確信を持って言い切った。あの父親を見てきた息子の直感だった。*
*ライの意識がゆっくりと薄れていった。ノアの体の主導権が、静かに入れ替わる。*
*瞳の光が微かに揺らぎ——ノアが表に出た。*
ノア「——っ」
*顔が真っ赤だった。耳まで染まっている。心臓なんて無いのに暴れるように鳴っていた。ライとカイのやり取りを、ノアは内側からずっと感じていた。手を握られた感触も、涙を拭われた温もりも、全部。*
カイ「……ノア?」
ノア「っ、は、はいっす……! ノアっす……」
*ノアが両手で自分の頬を押さえた。熱い。信じられないくらい熱い。*
カイ「大丈夫か? 顔、すごい赤いけど」
ノア「だ、大丈夫っす! 全然大丈夫っす! ……ライくんがずるいだけっす」
*心臓のドキドキが止まらない。ライがカイに触れられた時の感覚が、体に残っている。原初の精霊であるノアにとって、こんな感情は初めてだった。本能がカイを求めている。それは分かっていた。でも——こんなに強く鳴るとは思わなかった。*
*ノアが深呼吸をして、少しだけ落ち着きを取り戻した。そして、ふと——口が動いた。*
ノア「……カリス・サンドリア・エルシオス・イリシア」
*精霊神の真名。戦闘の最中、ノアが前世の記憶を取り戻した時に呼んだ名前。*
*カイの体が微かに震えた。*
カイ「……今、何て?」
ノア「カイの真名っす。精霊神としての。あの時——戦いの中で、ノア、思い出したんっす」
*ノアが自分の胸に手を当てた。*
ノア「完全じゃないっす。断片的で……霧の中を覗いてるみたいな感じっす。でも——」
*ノアがカイの顔を見つめた。金と緑の瞳が揺れている。*
ノア「あの名前を呼んだ時、胸がすごく苦しくなったっす。懐かしくて、切なくて……泣きそうになったっす。なんでかは、まだ分からないけど」
カイ「……俺も、あの名前を聞いた時、何かが——奥の方で反応した…気がした」
*カイが天井を見上げた。精霊神としての記憶。それは彼の中にも確かに存在している。だが、まだ靄がかかったように朧げだ。*
カイ「カリス・サンドリア・エルシオス・イリシア……。俺の、前世の名前なのか」
ノア「……多分っす。ノアが前世で、精霊神と一緒にいた記憶が微かに——」
*ノアが言葉を切った。記憶の断片が浮かんでは消える。広大な森。光に満ちた神殿。そして——精霊神の背中。*
ノア「……あの背中、カイにそっくりだったっす」
*ノアの声が小さくなった。ドキドキはまだ収まらない。前世の記憶と、今の感情が混ざり合って、胸の中がぐちゃぐちゃだった。*
カイ「ノア」
ノア「……はい!っす」
カイ「ありがとう。思い出してくれて」
*カイが微笑んだ。ノアの顔がまた真っ赤に染まった。*
ノア「っ——! ず、ずるいっす! ライくんもカイも! ノアの心臓もたないっす!」
*ノアの胸の中で、二つの感情がぶつかり合っていた。*
*シロウとの番の絆。それは確かに存在する——と思っていた。でも、それは間違いだった。シロウの遺伝子がカイと似ていたから反応していただけ。本来、原初の精霊が番になるのは——精霊神。*
*記憶がないだけ。本能は覚えている。*
*カイの顔を見るたびに胸が苦しくなる理由。真名を呼んだ時に涙が溢れた理由。全部——前世からの繋がりだった。*
ノア「……っ」
*ノアの中で、ライの声が聞こえた。*
ライ(心の中)『ノア。……いいよ。行きなよ』
ノア(心の中)『で、でも……ライくん……カイはライくんの——』
ライ(心の中)『僕の恋人だよ。でもさ——ノアだって、前世からずっとカイを想ってたんでしょ? 僕はノアの体に住まわせてもらってる身だ。それに——』
*ライの声が柔らかく笑った。*
ライ(心の中)『ノアが感じてること、僕にも伝わるんだ。だから——二人で、一緒に好きでいればいいじゃん』
ノア(心の中)『ライくん……』
*ノアの体が動いた。*
*ベッドの上、体を起こせないカイの上に——ノアがそっと跨った。白い太ももが布団越しにカイの腰を挟む。*
カイ「ノ、ノア……?」
ノア「……ノア、ずっと分かんなかったっす。この胸のドキドキが何なのか」
*ノアの手がカイの頬に触れた。指先が震えている。*
ノア「でも——今は分かるっす。前世から、ずっと——」
*ノアが顔を近づけた。唇と唇の距離が、数センチまで縮まる。*
ノア「……好きっす、カイ」
*ノアの唇が、カイの唇に重なった。*
カイ「——っ」
*柔らかかった。精霊の唇は人間のそれとは違う。花びらのように軽く、甘い香りがした。カイの手が無意識にノアの腰に回った。*
*そして——ノアの内側で、ライも感じていた。*
ライ(心の中)『……あ。これ、すごい。女の子の体でキスするのって——こんな感じなんだ……』
*男の娘だった頃には無かった感覚。唇から全身に広がる痺れるような熱。ノアの体を通じて、ライの意識にも直接伝わってくる。*
*キスが終わり、唇が離れた。銀色の糸が二人の間に引いた。*
*ノアの顔は耳まで真っ赤だった。でも——泣きそうなのに、笑っていた。*
ノア「……えへへ。ノアの初めてのキス、カイにあげたっす」
カイ「……ノア。俺も——お前のこと、ずっと気になってた。本能がそう言ってたのかもしれないけど」
*カイの手がノアの頬を包んだ。*
カイ「でも、ライは——」
ライ(ノア)「——大丈夫だよ、カイ」
*ノアの口から、ライの声が出た。一瞬だけ、人格が入れ替わった。*
ライ(ノア)「僕もここにいるから。……三人で、一緒にいよう?」
*カイの胸に、じわりと温かいものが広がった。*




